今年度の授業は、年が明けて10回ほどしかない。この中で「『である』ことと『する』こと」「市民のイメージ」「南の貧困/北の貧困」「『贅沢』のすすめ」を読む。
メインは「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」だが、後の二つはそれぞれと結びつけて読む。
そして最終的には「『である』~」と「南の貧困~」を結びつける。
そのために、さらに他に二つほどの文章を読みたい。
正直、かなりきつい。
まともな考察をするためには、まずテキストの情報を(表面的にではあれ)ひとまず把握するために、既に長い時間が必要になる。
そこでそれぞれは冬休みに読むことにして、それを促す課題を出した。
若干の未提出者がいるとはいえ、それらはシステムの不具合で提出できなかっただけだろうから、授業は、皆が既に上記の文章を読んでいて、それについて課題に答えるだけの考察もしてある前提で展開する。
まずは「『である』ことと『する』こと」。
今回は事前の授業準備に、「疑問点・考察したい点」を挙げよ、という課題を出しておいた。受身で授業に臨むのではなく、自分で問題意識をもっておこうというわけだ。
それらの疑問は、文章全体の主旨にかかわるものと、部分的な表現にかかわるものとがあった。
授業での読解は、これまでの評論教材でも、この「全体/部分」を行き来する形で読み進めていった。どちらかだけを先に完了することはできない。わかりにくいと感じられる「部分」を適切に理解したり説明したりするためには「全体」に対する見通しが必要だし、「全体」は「部分」の集積でできている。だから「行き来」が必要だ。これはどんな文章の読解でも鉄則である。
とはいえ、とりあえずどちらかに手をつけるしかない。まず通読した。「部分」だ。では次に「全体」を?
だが「『である』ことと『する』こと」は、この「全体」の把握がそもそも難しい。「ミロのヴィーナス」や「空白の意味」が一読しただけで、とりあえず「全体」の主旨がわかったようには、この文章は把握できない。
例えば「全体」を把握しようという思考を促すためのメソッドが「問いを立てる」である→。 この文章の主旨を掴もうとし、それがどのような問いに対する答えなのかを想定する。その問いを「~か?」の形で表現する。
だがこれが「『である』ことと『する』こと」では容易にはできない。ちょっと考えてみればわかる。「ホンモノのおカネの作り方」「ミロのヴィーナス」「ロゴスと言葉」に比べてもはるかに難しい。
ではやはり、引き続き「部分」を?
だが実は皆が疑問として挙げた「部分」の多くは、「全体」の主旨が凝縮した表現なのだ。
その意味で目の付け所として適切ではあるが、ということは「全体」の把握ができなければ、その「部分」については考察も説明も議論もできないのである。「ミロのヴィーナス」でも「ロゴスと言葉」でも、そういった「部分」の考察は最後に回したのだった。
さてどうするか?
ということで、当然のことだが、まずは全体に関わる核心的な「部分」ではなく、冒頭から読む。そして段落ごとに把握する。
このための思考が、各章一文要約である。「全体」を捉えるために、各章はなるべく短く圧縮しておく。
これを例年は授業時に行っていたが、今回は冬休みの課題とした。
そして、その範囲で考察できる部分的な「部分」を考察していく。
つまり小さい範囲での「全体→部分」を繰り返していくのである。ある意味で授業の読解の常套手段だ。
そのうえで、文章「全体」につなげていくための読解として何をすべきか?
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