168頁まで「である/する」という対比を表わす表現をマークしながら読み進める。そして何事かを考える際に、必要に応じてマークされた表現を駆使する。
さてその上で169頁下段の次の一節について考察する。
日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。
ここで考察に値するのはどこか?
「セメント化」に引っかかって、これを疑問として挙げた者がどのクラスにもいたが、むしろこれは大した問題ではない。「セメント化」という見慣れない比喩に惑わされているだけで、単に「固まっている」と言っているに過ぎない。
これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。
「『する』原理をたてまえとする組織」の例は?
「『である』社会のモラル」とは?
組織を「セメント化」するとは?
「組織」の例は前の章の「会社」が簡便だ。
「『である』社会のモラル」も既にマークされている表現の中から選べばいい。
会社組織における人間関係は「する」論理、すなわち「仕事の側面」だけのものであるはずなのに、「先天的」な「身分」のような「まるごとの人間関係」といった「である」論理が関係性を決める、会社の上役がプライベートにまで口を出してきたり、社長だから偉いと決めつけたり。そのような人間関係が変えられないような日本の習慣を「セメント化」と表現しているのである。
あるいは会社での評価は「業績」=「する」論理で決められるべきはずなのに、年齢=「である」論理で給料が決まっているような状態を挙げてもいい。
それよりもこの一節の問題は前半にある。
「一方/他方」は重要な対比なのだが、これが問題であることは意識されにくい。「一方で~他方で~」という一節が、既に述べられていることだ、と思えるだろうか?
どこで?
この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。
ではさらに、ここで考察すべき問題は?
問題は「日本の近代の『宿命的』な混乱」だ。
「混乱」の内容は以下に述べる「ところに発している」あれこれで、そのいくつかは本文でも既に、またこの先でも挙がっている。
それよりも問題は、なぜこの混乱は日本にとって「宿命的」なのか、だ。
わざわざ括弧が付された「宿命的」に、丸山はどのようなニュアンスを込めているのだろうか?
「混乱」の原因は以下の「猛烈な勢いで浸透する」ことと「根を張る」ことの衝突によるのだが、衝突するとなぜ混乱するのか、とさらに問うてみよう。
これを説明するのに丁度いい記述が既にある。
直前の168頁からは次の一節。
領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい
165頁からは次の一節。
制度と思考習慣とのギャップ
混乱を生じるのは、これら「落差」「くいちがい」「ギャップ」があるからである。
さらに、これらはなぜ起こるか?
168頁、上の一節に先立つ次の一節がその理由を述べている。
「する」社会と「する」論理への移行は、具体的な歴史的発展の過程では、全ての領域に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えてゆくものでもありません。
したがって「ギャップ」「落差・くいちがい」が生じ、それが「混乱」を生む。
だがこれがなぜ日本にとって「宿命的」なのか?
日本の「宿命」とは?
「『する』社会と『する』論理への移行」という言い方には見覚えがある。前の記事の「近代」とは何か? の答えだ。「近代」という概念の一つの側面を、この文章では「である」から「する」への移行として捉えているのだった。
つまりこの「混乱」は日本が近代化する過程で生じているのだと言える。
では日本における近代化はどのようにして行われたか?
ここでその一つの説明として有効なのが、教科書298頁~の夏目漱石「現代日本の開化」で述べられている考え方だ。
ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。
漱石は日本の近代化がどうだと言っているのか?
また、その考え方を利用して、丸山が言う「宿命的」な混乱はどのように説明できるか?
漱石はこの「開化」が「外発的」だったという。
「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。
だが明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。
一方、「ギャップ」「落差・くいちがい」とは「制度と思考習慣」「組織の論理と人々のモラル」の「ギャップ」のことだ。
ここまで揃えば完璧な説明までもう一歩だ。
近代化に伴う変化は、まず「制度・組織の論理」を「する」論理に基づくように変える。だが人々の「思考習慣・モラル」はまだすぐにはかわらず「である」論理をひきずっている。そこに「落差」「くいちがい」「ギャップ」がある。そうした「落差」が混乱を生む。そのようにして生じた「混乱」こそ、丸山が「宿命的」という言葉で表現している日本の近代化の特殊性だ。
「外発的」に近代化した日本は「宿命的」に「混乱」せざるをえなかったのである。
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