2~4章(165~168頁)で、対比項目としてマークしておきたい主な表現を挙げておく。
身分・ドグマ・権威/現実的な機能と効用
to be/ to do
血族・人種・出生・家柄/行動
先天的 /具体的な貢献やサービス
「分」に安んずる/
既定の間柄 /未知の人との多様な関係
/会議の精神・赤の他人の間のモラル
儒教・縦の上下関係/ 横の関係
家柄・同族・素性に基づく/ 業績・機能集団
/特定の目的活動
君主 /会社の上役
まるごとの /仕事という側面についての
これ以外にも、既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。これ以降は、読みながら自分でその都度マークしていく。
さて、第2章で何より難物なのは、章の終わりの次の一節だ。
(「である/する」図式を想定することで)例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる
ここを「疑問/考察したい点」として挙げた者は各クラスにいた。適切な疑問だ。
この一節はきわめて抽象度が高い。実際のところ、ここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。
つまりここは、先に言及した、「全体」の論旨が集約されている「部分」なのである。
したがってここではこの部分の解釈を完全に行うことはしない。
ただ、この段階で考察できることもある。何か?
この部分の解釈の難しさは、「ある面/他の面」と「非近代/過近代」が、それぞれに集約的で抽象的であることに因っている。
難しいのはどちらか?
見慣れない「非近代/過近代」ではない。「ある面/他の面」こそ、この段階では捉えるのが難しい集約的な表現だ。したがって「面」については読み進めて全体を振り返ってから再考する。
一方「近代」については考えようがある。
「近代」というのは様々なことを考える上で、また多くの評論を読む上できわめて重要な概念だ。あらかじめある程度の知識としてもっていることも期待されるのだが、ここでは文中からそれを読み取ろう。
- 債権は行使することによって債権でありうるというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしは物事の判断の仕方を深く規定している「哲学」にまでひろげて考えられるでしょう。(164頁)
- 身分社会を打破し、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックス
- もしハムレット時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえる(165頁)
これら3箇所の「近代」に共通しているのは、簡単に言うとどのような意味合いか?
平たく言うならば、近代とは「である」から「する」に価値の重点が移動してきた時代だということだ。
とすれば「非近代」とは? 「過近代」とは?
「非近代」とはまだ「する」への移動が充分ではないということであり、「過近代」とは「する」に移動し過ぎている、ということになる。
さてそのようにいえる「ある面/他の面」とは何なのか?
これは後ほど再考する。
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