ここまでの授業では、テキストから得られる情報を詳細に検討することで、一般的に「エゴイズムと倫理感の葛藤を描いた小説」などと言われる「こころ」を、それとは全く別の物語として読んできた。
「エゴイズム」を主題とする「こころ」は、「私」の認識した物語としての「こころ」だ。「私」は自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやり、「倫理」感ゆえに苦しむ。
だが、上野公園の散歩における会話の分析を通して見えてくるのは、互いの言葉がまったく相手に理解されないまますれ違っている意思疎通の不全である。
その時「こころ」の主題は、近代的個人がそれぞれに自分の自意識の中で自閉している「こころ」のありようを描いている、と捉えることができる。
もうひとつ、「こころ」という小説には、それよりも身近な、何だか身につまされる、身に覚えのある、ある感覚がみなぎっている。
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)
これは第一部で「先生」が、大学生の「私」に向かって言う言葉だ。
最近の脳科学の成果は、人間の「意志」などというものが、実は錯覚なのだという仮説を提示している。
我々は脳の無自覚な働きでまず行動し、それが自分の決断だったのだというストーリーを後からでっち上げているというのだ。
百年以上前に漱石が書いていることが、まるで最新の科学の知見を先取りしているようで面白い。
とはいえこれは身に覚えのある感覚でもある。
なんで自分はそんなことをしてしまったのか?
「エゴイズム」が主題だというのは、「私」がKを裏切ってお嬢さんを自分のものにしようとあれこれ画策したことを「私」の「利己心=エゴイズム」によるものだと見なすからだ。
だが「私」の折々の選択は本当に「利己心」という言葉が示しているように「己に利する」ものであったのか。
確かに「私」はそうしようとしてもいる。
だが同時に、その選択は常に、どうにも不自由な、まるで外部から強いられたような息苦しさを感じさせる。
そうした不自由さによって「私」がむしろ自分では選択できずにいるうちに、事態はますます「私」を不自由な状況に追い込む。「私」は常に事態に遅れるように、そう選択することしかできない。
こうした蟻地獄のような悪循環は、実に巧妙な設定によって、読者にもまるで我がことのように感じられる。読者は様々な場面で「自分でも確かにそうしてしまうだろう」と感じる。
授業の最終段階では、このような不思議な「こころ」のはたらきについて考察したい。
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