Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面には「ほぼ同じ」「感じ」があるという。
考えてみればこれはとても奇妙なことのはずだ。隣室で友人が死んでいるのを夜中に発見した際に、その友人から恋心を告白されたことを第一に思い出す、などというのは。
一方で読者は、この「感じ」が何なのかを一瞬で理解している(「私」がその刹那にそれを感じ取ったように)。
ただそれを言葉にするのは容易ではない(実際に世の多くの文学者や国語教師がそうであるように)。
この奇妙さを説き明かすために、先述の通り、二つの場面の「私」の反応を比較しても意味がない。
では、Kが恋心を告白することと自殺することにはどのような共通点があるか?
どちらもKらしからぬ行動であること?
だが実は二つのKの行動を直接比較しても、この「ほぼ同じ」「感じ」は明らかにはできない。
「状況」というのは、「私」の反応だけでもKの行動だけでもない。それらを含んだ、様々な要素の組み立て・構造だ。
Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面に共通する構造とは何か?
授業でこの部分を考察すると、二つの場面とも、「私」にとって想定外の展開だったのだ、と語る生徒がいる一方で、どちらも、決定的な瞬間にいたる前に「私」は何か予感のようなものを感じている、と指摘する生徒もいる。
こうした食い違いは何を意味するか(対立する意見というのは考えるための良い契機だ)。
予感はあったのか? なかったのか?
「驚き」「衝撃」を共通要素として挙げるならば、予感はなかったというしかない。
実際に恋の自白の場面では、「私の予覚はまるでなかったのです」(「三十六」)とあからさまに言っている。恋の自白などということ自体が、Kの日頃の言動に不似合いだ。
また、Kの自殺は、勿論それを事前に知ることなぞできるはずもなく、想定外であってこそ衝撃的な展開たりうるのである。
だが一方で先に指摘した「既視感」は、自覚されない予感があったことの裏返しなのではないか?
三十六章の「私はまた何か出てくるなとすぐ感づいた」や、四十八章の「暗示を受けた人のように」などの記述は、「予覚はなかった」という言葉とは裏腹な不吉な「予感」のようなものがあったことを示してはいないだろうか?
これは何を意味しているか?
語られる「予感」とは、後から振り返った時に捏造される錯覚かも知れない。
起こった後で、その事が実際に起こる前に、自分はそれが起こることを知っていたという記憶が作られたのではないか。
なぜ、どんな時にそんなことが起こるのか?
問題は、それ起きた時の「私」の構えだ。純粋に出し抜けにそれが起きたのだとすれば、超能力者でない身に、予感など抱きようもない。
だが「私」は何の構えもなく、その瞬間を迎えたのではない。
二つの場面にいたる前提となる状況の共通性を確認しよう。
どちらも、どのような状況においてその瞬間を迎えるのか?
とはいえ「自白」の場面については、そこが教科書の収録部分のほぼ始まりなので、その前の状況は直接本文から読み取ることができず、教科書の収録部分以前の「あらすじ」の記述を参照するしかない。
それから、この場面から後の数日間の記述を参照する。
そして「自殺」の前の状況から、「自白」の前にも同じような状況があったとしたら、どのような状況であるか推測する。
両者はともに「私」が何かをKに言おうとして言い出せずにいる、という状況であることにおいて共通している。
恋の自白の場面では、Kだけでなく「私」こそがお嬢さんへの恋心をKに打ち明けようと長らく思い悩んでいるのだし、自殺の場面では、すべてをKに打ち明けて謝罪することが「私」の前に横たわる喫緊の課題だ。
こうした共通状況において、二つの場面では何が起こったか?
二つの場面(181/204頁)で共通した表現をそのまま抜き出す。
共通するのは「しまった」という「私」の第一声である。自殺の場面では「またああしまったと思いました」とあるから、これが「同じ」「感じ」を表現していることがわかる。
181頁ではこの「しまった」が、直後に「
これらは同じことを表現していると見なしていい。どちらも「しまった」の解説なのだ。つまり「先を越され」ると「もう取り返しがつかな」くなるのである。
この「しまった」は、原文では「
Kに「先を越され」て自白されたのは「失策」なのであり、Kの自殺もまた「取り返しのつかない」「失策」なのである。
それぞれの場面での「先を越された」=「もう取り返しがつかない」とは、具体的に何のことか?
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