ところで、保留にしていた、⑤が水曜日である可能性について検討しよう。
ここは、さりげない表現にも漱石の周到な計算が読み取れる、きわめて興味深い考察が可能な箇所である。
「二日あまり」とは、単に「二日以上」という意味なのだろうか?
「二、三日」と「二日あまり」を足して「五日」ということなのだから、⑤が水曜日だとしても、そこまでが「二日」で、その後の⑥までの「二日あまり」が実際は「三日」だとしても、計算は合う。
つまり⑤は水曜日と木曜日のどちらでも良いことになる。
先回りして結論を言えば、確かに⑤は水曜日と木曜日のどちらとは厳密には確定できない。先の「暫定的に」は結局便宜的な決定でしかない。
だがこの「二日あまり」が「二日」とか、他と同じ「二、三日」という表現でないのはなぜか、という疑問は残る。
「二日あまり」はなぜこのように表現されるのか? 「あまり」というのは何のことか?
聞いてみると、「二日」という経過の長さを強調した表現だという者がいる。
「奥さんがKに話をしてからもう二日も経ちます」というニュアンスだというのだ。
結果的にそうしたニュアンスが感じられるとも言えるが、どちらかといえばこの印象は「もう」のニュアンスからきていると言うべきだろう。
それよりも素直に「二日以上」の意味だと考えて、なぜ「以上」と言っているのかを考える。
二つの可能性がある。
一つ目は、さっきの「三日かもしれない」という意味を含んでいる場合である。奥さんがKに話したのは水曜日かもしれないのだ。といって火曜では四日ということになり、「二日あまり」という表現に含む候補としては遠すぎる。つまり「水曜日かもしれないがたぶん木曜日」というニュアンスである。
もう一つは、⑤奥さんがKに話したのが木曜の日中のことであり、一方⑥が土曜日の夕方以降だったことを意味している、という場合だ。それならば確かにその間隔は「二日以上」である。
解釈上はどちらかで納得すれば良い。
だがいずれにせよ、ここで考察すべき問題は、「二日あまり」という表現から読み取れる情報である。
「私」はどうやって⑤の日時を推定したか?
それを考える鍵は「勘定してみると」という表現である。
言うまでもなく奥さんが「二日あまり」と言ったわけではない。奥さんが「二日前にKさんに話した」と言ったのだとすれば、「私」は「勘定」することなくそのまま「二日前」と認識するのであり、そうなれば日程の方ではなく逆に曜日の方を数えることになる。
では「木曜日」か「一昨日」だろうか。
だがそれでも「勘定してみると」という持って回った言い方は必要ない。「勘定」するまでもなく「二日」であることは明白だからだ。
「勘定してみると」は、わざわざそれを数える一手間があったことを示している。
奥さんの態度の変化から推測したのだろうか?
確かに、それまで「私」に「突っつくように」催促していた態度が、④を境に変化したのは確かだ。だが、「私」がその時期を明確に意識することは難しい。「勘定」が可能な程の明確な変化として「私」がそれを木曜日と断定できたとは考えにくい。まず変化に気付いているかどうかすら怪しい。
奥さんの話には、日程を示す直截的な表現は含まれてはおらず、同時に「二日あまり」という「勘定」が可能な情報は含まれていたのだ。
こうした条件に適う文言とはどのようなものか?
具体的に、奥さんは「私」に何と言ったのか?
考えられる可能性の一つは、奥さんが伝えた話に具体的な日時を推測する手がかりが含まれていた場合である。
奥さんがKに話をしたのは、当然「私」が不在の時に違いない。「あなたがあの日、学校から帰ってくる前に…」とか「娘が習い事に行っている間に…」などと奥さんが言ったとすれば、「私」は自分が下宿に不在で、Kと奥さんだけが下宿にいた機会を具体的に思い出し、そこから本日、土曜日までの日程を「二日あまり」と「勘定」することができる。
もう一つ考えられるのは、奥さんの話の中に「三日」という言葉が含まれていた可能性である。
奥さんは談判のあった月曜日の夕食時に、すぐにでもそのことがKに公表されるものと思っていたはずだ。それが曖昧に過ぎてしまった後でも、「奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突っつくように刺激する」というのだから、奥さんはそれが直ちに公表されることを期待している。だから三日経った木曜日に思いあまってKに伝える際に「もう三日も経つのに、お友達からお聞きじゃないんですか」などと言ったのではないか。
この可能性は大いにありそうなことだし、それを「私」に話した際(⑥)にも「三日も経ったんだからもうKさんには話しているだろうと思って…」などと言ったというのは大いにありそうなことだ。そこから「私」は談判のあった月曜日から「三日」、つまり⑤が木曜であったことを特定し、さらに現在の土曜日までの経過を「二日あまり」と「勘定」したのである。
もちろん上のような想像においてさえ、厳密には奥さんの言葉からは「私」が水曜日か木曜日という曖昧な推定をするしかない情報が得られただけだったのだという可能性は否定しきれない。Kが「私」より先に帰った日は水曜と木曜の二日ともであったかもしれない。となれば「二日あまり」はあくまで「二日以上」でしかなく、先述の結論のとおりやはり「木曜か水曜」でしかない。
だが重要なことは結論ではなくこうした推論過程である。そして蓋然性からいえば「私」は木曜と特定できたか、もしくは奥さんは「三日も経った」という表現を使ったと考える方が自然である。
そして、そもそもこの一連の考察は、作者漱石があらかじめ各エピソードをカレンダー上に配置して書き進めているのではないかという想定に基づいている。
とすれば作者としては「水曜日か木曜日」のような曖昧な想定をする必要はなく、単に木曜日と想定するのが簡便なはずだ。
したがって今後は便宜上、⑤を木曜とする共通認識で話を進める。
上の考察によって明らかになることは、漱石がそれぞれのエピソードをカレンダー上に配置して書き進めているという事実だ。そうでなくてこの「勘定してみると」という表現が置かれることはありえないのだし、前項の「運命の皮肉」が意図的でないなどとは到底信じられないのだから。
なのにこうして考えてみるまでは、読者がその周到な計算に気付くことはないのである。
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