「私」とKは「進む/退く」という言葉が意味する方向が反対であることに気付かずに会話をしているのではないか、という仮説を立てた。この仮説に沿って会話全体を見直してみよう。
二人のすれ違いは「進む/退く」において突然生じたわけではない。
その前にKが口にしたのは次の言葉である。
彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。
この「弱い」とは何か?
「お嬢さんに恋してしまい、自らの信念に迷いを生じていること」「精進の道に反する恋心を抱いてしまったこと」などと説明するのは難しくない。
この説明は間違ってはいないが不徹底である。
物事の輪郭を明確にするには、差異線によってそれをそれ以外のものから区別しなくてはならない。ここまで繰り返し用いてきた「対比」の考え方である。
だから「『弱い』とはどういうことか」ではなく、「強」かったらどうするのか? 何ができないことを「弱い」と言っているか? と考える。
これも文中に根拠を見出すことが必須である。
この一節の直前に「彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。」とある。前節の「進む」の考察からするとこの「進む」はお嬢さんの関係を「実際的の方面」に押し進めることを意味していると「私」は認識しているはずだ。
したがって、「私」からすると、Kが「強」ければお嬢さんに突き進んでしまうことになる。つまりKの言う「弱い」は、迷わずにお嬢さんに進んでいけないことを表現した言葉だと受け取られる。
これは、この翌日、「私」が「Kの果断に富んだ性格」を思い出して、彼の口にした「覚悟」を「お嬢さんに突き進む覚悟」だと解釈してしまうことと符合する。これが「私」の焦りを生じさせ、後に展開する「私」の策略を誘発する。
一方Kにとっての「強」さは当然、昔から信じてきた精進の道を迷わず歩み続けることである。すなわち、二人の考える「強い/弱い」は反対方向を指しているのである。
K 迷わず精進できない自分は「弱い」(強かったら恋心を棄てる)
私 迷わずお嬢さんに突き進めない自分は「弱い」(強かったら恋に進む)
この違いは、「強かったらどうするか」を意識的に考えることによってしか明確にはならない。この時点で既に二人の考えは反対方向にすれ違っているのだが、当の二人は気づいていない。読者も同様である。
そしてこのすれ違いはここで生じたわけですらない。会話に先立って「私」は「彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。」と読者に予断を与えてしまう。それに続く最初の言葉「どう思う」というKの問いかけを、「私」は「どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。」と解説する。
読者には、こうして提示された情報を疑う前提はない。
そしてこの情報は、全く事実に反するとも言えない。Kにとって「恋愛の淵に陥っ」ていることは確かに問題だ。
だがそのことの何が問題かと考えたとき、そのまま「恋愛」に進めないことをKが悩んでいるのだと言うか、「道」に反する現状に心を痛めているのだと言うかでは、問題の所在が違う。「恋愛」が問題だと考えてしまうのは「私」の関心に沿った誘導だ。
問題の重心が「恋」にあるのか「道」にあるのか、と考えると、既に二人の関心は反対方向にすれ違っているのである。
そして「どう思う」というKの言葉には「ただ漠然と、どう思うと言うのです。」という形容がついている。
この形容は、この言葉が解釈の多義性を生じさせる可能性について、読者の注意を喚起している。「どう思う」とは、何について「思う」のか限定されていないよ、と作者はわざわざ言っているのである。
この形容がわざわざ付されている理由はこれ以外に想定できない。
そしてもちろん、このすれ違いは、この会話の開始に伴って生じたわけではなく、四十章以前から二人の「こころ」のすれ違いは、とうに生じていた。
例えばKが恋心を自白した場面を注意してみてみよう。
私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした(181頁)。
「私」はKの話をよく聞いていないのだ!
お嬢さんへの恋心が話題であることは間違いないとしても、Kの問題の所在がどこなのかを、「私」が本当には捉えていないことをこうした描写によって、漱石はさりげなく読者に伝えている。
とすればここでKが打ち明けていたのはこの時から一貫して恋の悩みというよりも自分の信仰のゆらぎ、自らの弱さのことかもしれなかったのである。
そしてそれはお嬢さんへ進んでいけない「弱さ」のことではなく、信仰を貫けない「弱さ」のことなのである。
こうした、すれ違い続ける会話をお笑いに転換したのがお笑いコンビ「アンジャッシュ」のコントだ。
Youtubeなどでも見ることのできるアンジャッシュのコントの多くは、二人の会話がそれぞれ全く違った一貫性で続けられ、その事にお互いが気づいていないちぐはぐがおかしみを生むという構造になっている。
こうした仕掛けはアンジャッシュの発明というわけではない。
100年以上前に「こころ」を書いていた漱石が念頭に置いている可能性があるとすれば古典落語の「蒟蒻問答」かもしれない。
アンジャッシュのコントでは、そのすれ違いの生む悲劇を笑い飛ばすことが観客の正しい享受のあり方である。
さて、「こころ」においてこのすれ違いが生み出す悲劇はどこに帰結するか?
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