2020年11月24日火曜日

こころ 31 第1の仮説

 上野公園を散歩した夜のエピソードについて次の二つの問いを立てた。


問1 このエピソードの「意味」は何か?

問2 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 問2は物語の内部で考える問題で、問1はその地平を越えたメタな問いだ。

 両者は互いに整合的であることによって、互いの正統性を支え合っている。


 さて、これらの問いに対しては、大勢を占める答えが既にある。多くの者が思いつくから、しばらく話し合いをしてみると、すぐにそれが共有される。

問1の仮説A Kが自殺しようとしていたことを示す。

問2の仮説a 「私」の眠りの深さを確かめようとした。


 Aとaは、同時に発想されている。aを抽象化したものがAであり、Aという解釈を構成する具体的な要素としてaが想定されている。

 注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、Kの自殺が決行される四十八章までを読まなくてはならない。

 同時に、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己所決=自殺の「覚悟」であるという解釈ができていなければならない。

 そもそも「覚悟」を自己所決の覚悟であると解釈することも、実際にKが自殺しなければ不可能である。上の仮説AはKの自殺という展開と昼間の「覚悟」の解釈を結んだ線上に発想されるのである。

 ではなぜこのエピソードをKの自殺と結びつけて考えるべきなのか?


 根拠は、四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。(203頁)


 ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることに疑いはない。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。


 さらに、この解釈を補強する要素がある。

 先に、小説内の全ての要素は整合的に解釈されるべきであると述べた。このエピソード全体が、それをどう解釈すべきかにわかにわからないが、同時に次の記述は、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味を「わからない」と感じさせている。

① 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という描写

② 翌朝の「近頃は熟睡できるのか」という問い

③ 翌朝の登校途中の、「私」の問いかけに対するKの否定に付された「強い調子で言い切りました」という形容


 三点とも、これらの記述から浮かぶKの心理は謎めいている。

 仮説Aはこれらを回収する。

 とりわけ②の「近頃は熟睡ができるのか」は、それこそが仮説Aの発想の元になっているはずだ。Kが「私」の眠りの深さを知りたがっているというのは、そのままaでもある。

 ①についても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。

 ③については、自殺の意図を悟られたくないということだと考えてもいいし、Kにとってそれは軽く話せる話題ではないということを示しているのだと考えてもいい。

 こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。


 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。

 もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったのではないか?

 この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。


 仮説Aは専門家・研究者の中でも定説だし、実際に授業でも多くの者の支持を集める。

 問題はこの解釈で生ずる不都合である。

 この仮説に疑問はないか?


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