Kの口にした「覚悟」とは何か?
考えられるのは次の三つの選択肢と、それを組み合わせたバリエーションだ。
1 お嬢さんを諦める「覚悟」
2 お嬢さんに進む「覚悟」
3 自己所決する「覚悟」
事前の調査の段階では組合わせのバリエーションは、1と3しかないと考えていた。選択肢もそれで用意した。2「進む」は1「諦める」とは反対だから組み合わせることはできないし、「進」みつつ「自殺する」というのも意味がわからない。
だが回答の自由記述の中で、2と、1や3の組合わせを可能にするアイデアを提示してきた者がいた。
1と2ならば、「進むが、駄目ならば諦める覚悟」であり、2と3ならば「進むが、駄目ならば自己所決する覚悟」ということになる。なるほど「進みつつ諦める」「進みつつ自殺する」では意味を成さないが、一連の行動として時間に沿って直列するのならば可能なのだ。そしてそれらは、単に1や2や3とは明らかに違う「覚悟」ではある。
したがって、組合わせは3通り、さらにその重み付けで区別するなら、選択肢は7通り以上になる。
徒に可能性を広げるばかりでなく、収拾させていく。
三つの中で、文脈に沿った最も真っ当な解釈は1「諦める」だ。
だがこの「覚悟」は、単に「諦める」ではないと考えていい。なぜか?
これは、積極的に2や3の意味合いを主張することによって1を否定するということではない。文脈上直ちにそう意味づけられる1を、まず否定すべきなのである。
なぜか?
Kの言う「覚悟」が「お嬢さんを諦める覚悟」以外の意味を持っていると考えるべき根拠は、Kがこの言葉を口にした科白の前後に付せられた「卒然」「私がまだ何とも答えない先に……つけ加えました。」「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」などの形容である。
これらの表現は、班討論の中で既に指摘されているかもしれない。「自殺」説の根拠を考察する際、また、なぜ「進む」に解釈が変わったのかを考察する際に。
これらの形容は、Kと「私」の認識のズレを示すサインだ。「独り言のよう」「夢の中の言葉のよう」がそれを示していることは明らかだし、「卒然」や「私がまだ何とも答えない先に」は、Kと「私」の会話のタイミング、すなわち思考の流れがズレていることを示している。
したがって、Kの言う「覚悟」はこのときに「私」が想定しうる「覚悟」、すなわち「お嬢さんを諦める覚悟」そのままの意味ではないと読者は積極的に考えるべきなのだ。
これらの表現が付せられた理由を授業者は今のところ他には思いつかない。そしてこれらは何らかの意図がなく置かれた表現ではありえない。
とすれば、Kの言った「覚悟」を1「お嬢さんを諦める覚悟」とのみ受け取ることはできないのである。
これらの表現はまた、「私」が「覚悟」の意味を翌日に「お嬢さんに進む覚悟」と考え直してしまうことになる原因にもなっている。
先に、Kの「強い調子で言い切った」ことが、「私」が「覚悟」の意味を考え直す直接の契機になっていることを指摘したが、その反転を促す前提として、これらの表現に示されている違和感が「私」の中にあったのだ。
つまりこのサインは、「私」に「覚悟」の意味を考え直させると同時に、読者にも1とは違った解釈を促しているのである。
さらに、少なくとも2「進む」とのみ考えるべきでもない。
なぜか?
195頁で「進む」の解釈を思いついたときのことを述べる文中にある「もう一遍彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません」「いちずに思い込んでしまったのです」などの表現があるからだ。
これらの表現の語り手は、遺書を書いている「私」だ。
「こころ」の語り手は時に、物語の渦中にいる大学生の「私」だったり、時にそれから10年程未来の、遺書を書いている「私」だったりする。二つの視点の間を行き来しているのだ。そして遺書を書いている「私」は出来事全体を俯瞰しているから、相対的に「作者」に近いところにいる。その語り手が、翌日新たに生じた2「進む」という解釈が間違っていたと判断しているのである。これを否定して、やはり「進む覚悟」なのだと考える根拠は、読者にはない。
以上の推論は、Kの心理を推測することで、この「覚悟」が「諦める」でも「進む」でもないことを論証したのではない。読者に、「諦める」でも「進む」でもないと作者がメッセージを送っていると考えられる、と言っているのだ。
いわば小説読者としての作法を問題にしているのである。
とすれば、いくほどかにせよ、この「覚悟」には「自殺」の意味合いを読み取るしかない。それ以外の意味合いを思いつかないならば。
だがそもそも3「自殺をする覚悟」はどのような推論によって導かれた解釈なのか?
「自殺」説は優勢だが、よく考えてみると、この場面を読んでいる時点で、「私」が「お嬢さんを諦める覚悟」があるかと訊いたのに、Kが「自殺する覚悟」がある、と答える論理を想定することは、読者にはできない。この場面では、ただ「諦める」だけではなさそうだとぼんやり考え、後でKが自殺する顛末を知ってから振り返って、この「覚悟」をその前触れだと解釈するしかない。そうして「自殺の覚悟」という解釈が生まれる。
ただ、いったんそう解釈をしてしまうと、それが腑に落ちてしまい、最初からそう考えていたように錯覚してしまう。
さしあたって今はその解釈の可能性を認めた上で、問題は、「お嬢さんを諦める覚悟はあるか」という問いかけに、なぜKは「自殺する覚悟はある」などという噛み合わない応答をするのか、という点だ。
なぜか?
この問いに答えることは難しい。
というか、そもそもこれを謎だと感じないという人もいるだろう。
この謎が看過されがちなのは、「覚悟」を1「お嬢さんを諦める覚悟」でもあり、かつ3「自殺する覚悟」でもあると考えるからだ。
先に述べた通り、1と3は排他的ではないように思える。つまりKは1の意味で答えつつ、そこに3の意味を重ねていると考えるのである。ズレてはいるが断絶はしていない。こう考えた者は事前の調査では半分近くにのぼる。
だがこのように考えてはならない。なぜか?
「お嬢さんを諦める」なら、Kは死ぬ理由がなくなるはずだからである。
逆に、「自殺する」のは、自分の未練を断ち切るためなのだから、その「覚悟」を持っているということは、「諦める」ことができていないということに他ならない。
つまり「諦める」と「自殺する」は併存しない。
では、「自殺する」といった意味合いがあるとしてもそれはまだK自身にとっても曖昧なものだと考え、そのズレを許容することはできないか。
これもできない。「覚悟」という言葉の強さに釣り合わないからだ。
「覚悟」とはその決着点なり方向性なりが曖昧なまま使える言葉ではない。「諦める覚悟」でもあり、うっすらと「自殺する覚悟」でもある、などという曖昧な解釈はできない。
つまり二人の「覚悟」は完全にズレていると考えるしかない。
どちらでもあるように考えてしまうのは、文脈上整合的な「諦める」を否定しきれず、だがそれだけではなくここに「自殺」のニュアンスも読み取りたくなるからだ。
だがそのように考えることは、単によく考えていないというだけのことだ。
このズレを認めた上で、なぜズレたかを説明するために考えられたのが、例えば次のような解釈だ。
(「卒然」とは)「先生」の口にしたひとつのことばが、Kの内に何かを目ざめさせたさま。「卒然」は、不意にの意。Kは深く自身の内部を見つめ「先生」に語るよりは、自分に確かめるようにして、「覚悟ならないこともない」と付け加えたと思われる。(角川書店『日本近代文学大系 夏目漱石集Ⅳ』註釈)
Kの思考が「卒然」ズレたのだ、と考えるのである。
なるほど。何せ「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」なのだ。Kは一人の世界に入ってしまったのだ。
だがそうではない。
およそ2時限後に得られる結論からいえば、Kの思考に断絶や飛躍はない。
「こころ」は三人称小説ではなく、一人称の「遺書」という体裁をとった小説だ。
その記述は基本的に語り手である「私」の視点から捉えられている。ということは、「卒然」という表現は、Kの心理状態を推測するための手がかりとなる客観描写というより、むしろ「私」の受け止め方を表現したものなのだ。
つまり
Kは「卒然」…と言った。
のではなく、
「Kは卒然…と言った」(ように「私」は感じた)。
のだ。
こうした形容が示しているのはあくまで二人の会話の齟齬であり、それを読者に伝えるサインなのである。
Kの思考は飛躍などしておらず、論理的に連続している。
だがそのことは、考察を進めて納得するしかない。
少なくとも「覚悟」の意味を「私」が受け取っている1「諦める」の意味でのみ解釈することは本文の重要なサインを無視することになる。したがってKの言った「覚悟」にはそれと違った意味合いを見てとらなければならない。
といって3「自殺する」であると考えるならば、1の意味の上に3を重ねるような解釈をしてはならない。1と3は両立しない。
単独で1でも2でもなく、それらと3との両立もできないとすると、この「覚悟」は「自殺する覚悟」のことだと考えるしかない。他の解釈を思いつかない以上は。
ではなぜ「お嬢さんを諦める覚悟」について問われたKは「自殺する覚悟ならある」などと答えたのか?
「私」の言った「心でそれをやめる覚悟」は、「お嬢さんを諦める」にも「進む」にも解釈できたのだが、「自殺する」にも解釈できるのだろうか?
なぜKはそう解釈してしまったのか?
だがこの疑問に答えるためには、長い迂回をする必要がある。
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