2020年11月10日火曜日

こころ 19 なぜ「覚悟」は反対に解釈できるのか

 「私」はKの言った「覚悟」を、当初「お嬢さんを諦める」の意味に受け取る。

 だが翌日には「お嬢さんに進む」という意味ではないかと考え直す。

 「お嬢さんを諦める覚悟」と「お嬢さんに対して進む覚悟」は全く正反対の意味だが、一つの「覚悟」という言葉が、どうしてこのような正反対の解釈を許容するのか?


 しかしこの問いの趣旨は、にわかには理解しにくいはずだ。

 例えば「やばい」という言葉を、若者は否定的にも肯定的にも使う。「あいつ〈やばい〉よ」と言った時、相手を賞賛しているのかディスっているのかはこれだけではわからない。「そりゃ〈おかしい〉な」は「笑える」にも「変だ」にも受け取れる。また「いいよ」という台詞は、文脈次第で「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にも、「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にもなる。「すごいね」は称讃にも皮肉にも使える。

 だが一方でこれらは多くの場合、文脈や口調によって、その区別ができるようになってもいる。

 それなのに、「覚悟」はある文脈で、ある口調で発せられた言葉であるにもかかわらずなぜ正反対のどちらの意味にも解釈できてしまうのか?


 これは「どうして反対に変わったのか」という問いではない。それは本文に書いてある通りだ。とはいえその論理を追うにも、若干の考察は必要だった。

 だが真に驚くべきなのは、この言葉がどのような精妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが可能になるように設定されているか、だ。ここで考察に値するのはこの点である。

 「私」は確かに「お嬢さんを諦める覚悟」はあるか? とKに問うている。にもかかわらず、それに答えたKの「覚悟」が「お嬢さんに進んでいく覚悟」かもしれないと、なぜ当の「私」自身が考えることができるのか?


 「覚悟」を口にするKの様子は「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした」と形容されている。これのせいか?

 確かにこの印象は「諦める」以外の解釈に「私」を誘導するきっかけになってはいるが、「進む」の解釈を直接導くわけではない。

 そうではなく、Kの言った「覚悟」は、確かに「お嬢さんに進む覚悟」にも解釈できるのである。まずそのことを納得しよう。

 どういう読解で?


 まず「覚悟」が置かれた文脈を確認しよう。

 Kの口にした「覚悟」は次の「私」の台詞を受けている。


「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」


 気になるのは「それ」という指示語だ。

 「それ」という指示語が指している対象が二つの正反対の候補をもつのではないか?

 「恋する」「精進する」のように。それならば「覚悟」も分岐する。

 よしよし。


 だがこれは無理だ。この文脈で「それ」に「精進する」を代入することはできない。

 もともとこの「やめる」は「もうその話はやめよう」というKの言葉を受けている。したがって「それ」とは「話すこと・話」である。

 ではどう考えるか?

 こう考えてみる。

 「心でそれをやめる(覚悟)」を「  ことをやめる」と言い換えてみる。空欄に入る適切な動詞は何か? その動詞を入れたとき、それが「諦める」と「進む」のどちらにも言い換えられることを説明する。

 「心でそれ(話)をやめる」の言い換えとして可能な動詞を考える。

 空欄に入る動詞として思いつくのは考える、悩む、迷うの三つだ。

 これらの動詞を挿入して、それが正反対の意味に分岐する論理を説明してみよう。


○「考えることをやめる」

  • 考える対象を頭から消し去る=お嬢さんのことを「諦める」(①)
  • 考えることをやめて行動に移す=お嬢さんに「進む」(②)

○「悩むことをやめる」

  • 悩みの種である①お嬢さんを「諦める」(①)
  • 悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに「進む」(②)

○「迷うことをやめる」→いずれにせよ「選択する」ことになる

  • 迷うのをやめてお嬢さんを「諦める」(①)
  • 迷うのをやめてお嬢さんに「進む」(②)

 このように、Kの言う「覚悟」は「私」にとっては、正反対のどちらの解釈も可能なのである。

 それを可能にする実に精妙な表現が、明らかに漱石によって意図的に設定されていることに、あらためて驚かされる。


 「覚悟」は確かに「諦める」にも「進む」にも解釈できる。

 だがさらに「自殺する」にも解釈できるのはなぜか?

 そして、三つ、さらにそれらを組み合わせたバリエーションも含めて、結局どれなのか?


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