ここまでたどって、ようやく最初に考察した「覚悟」に戻る。
「もうその話はやめよう」と彼が言いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「やめてくれ」と今度は頼むように言い直しました。
ここにある「変に悲痛なところがありました」の「変に」もまた、「私」がKの心を理解していないことを示すサインである。「悲痛」なのは、「私」の言葉がKの存在をまるごと否定する死刑宣告にほかならないからだが、「私」はそのことを自覚していない。「私」が語る「変に」は、事態の深刻さがまるでわかっていない暢気さの表れである。
自らの弱さを認めているKにはそれ以上話すべきことはない。だから「もうその話はやめよう」というしかない。そしてKには「君の心でそれをやめる」が「お嬢さんのことを考えることをやめる」という意味ではなく、会話の流れにしたがっていうと「信仰の進退について悩むのをやめる」という意味に受け取られている。
私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。
「やめてくれって、僕が言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
「心でそれをやめる覚悟」とは先に見たとおり「心で『話』をやめる」すなわち「考える」ことをやめることを意味している。
ここに見られる「残酷」もまた、先の「復讐以上に残酷な意味」と同じだ。「私」がKに迫る「覚悟はあるのか?」という問いは、「お嬢さんを諦める覚悟」をKに宣言させようとしている。
「私」にとってそれこそが「残酷」なのだ。
だが「悩むのをやめ」たKに許されるのは単にお嬢さんを忘れることなどではなく(ましてお嬢さんに進むことであるはずもなく)弱い自分を自ら所決することだけである。
Kは死をもって自らけりをつける「覚悟」はあるのだ、と言ったのだ。
そうKに言わせた「私」の言葉は確かに「残酷」である。
だがその意味について、「私」はまるで自覚していない。
だからKはこのとき「卒然」何かに気づいたわけではなく、「私」が「卒然」と感じただけなのだ。しかも二人の会話はこのとき「卒然」すれ違ったわけではなく、最初からことごとくすれ違ったままだったのだ。
Kは最初から自らの信仰上の悩みについて話していたのであり、お嬢さんとの恋のことなど話してはいない。会話全体のすれ違いをたどり直してみれば、Kが言った「覚悟」が「自殺の覚悟」を意味しているという解釈は無理がないどころか、これはもうそう考えるしかないのであり、「卒然」というべき飛躍はそこにはない。
単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。これがKの真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの巧妙さにこそ、読者は驚嘆すべきである。だがこのことの凄さはじっくりと分析的に考えないと気付かない。
だからともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟でもあると同時に自己を所決する覚悟でもある」とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られる(いずれも教師用の解説書から引用)。
そうではない。これら三つの解釈はどちらでもありうるようなものではなく、排他的なものだ。
「お嬢さんを諦める覚悟」があるのならKは死を選ぶ必要はないはずである。したがって「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを所決する覚悟」は両立しない。
あるいは「明確でないにせよ何らかの形で所決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」とは呼ばない。「お嬢さんを諦める」もしくは「自己処断としての自殺」といった決着点が見据えられていなければ、「覚悟」という強い言葉が使われるはずがない。その方法や時機については漠然とした曖昧なものであったとしても、少なくとも「死」といった決着点が想定されたうえで「覚悟」という言葉が発せられていることだけは確実である。
Kの言った「覚悟」を「私」が二つの正反対の意味に解釈したのも、K自身がそれとは全く違った意味で「覚悟」と言っているのも、すべて文脈の中では整合的である。
「私」がKの心を読み損なう根本的な理由は、Kの心を推測するにあたって、自分の心を投影して、それをK自身の心であると錯覚してしまうことにある。そう考えたときに、次の一節はその意味を劇的に変える。
私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
「私」はKのことをよく見ていた、と殊更に書いてある。そしてKの「こころ」がわかっているということがこのように念入りに強調されている。
これはそのまま、その強調の絶対値のままに方向を完全に逆転して、「私」がどれほどKの「こころ」がわかっていないのかを示すアイロニーなのである。
この「要塞の地図」とは何か?
「私」がKの「こころ」の地図だと思っているものは、実は「私」自身の「こころ」の地図なのである。
「私」は自分の心を相手に投影して、その鏡像と闘っている。
結局、二人の会話を最初から最後までたどってみても、二人がそのすれ違いに気付く契機は周到に回避されていることがわかる。二人はそれぞれ異なった一貫性によって会話を続けているのである。
ミステリーではしばしば、一見して気付かれないようそれとなく投げ出された細部を手がかりに、探偵が、皆の思い込んでいるのとは別の、もう一つの真実の姿を再構成してみせる手際が鮮やかに披露される。
だが、「こころ」が実現しているのは、一人称小説の語り手が捉えているのとはまったく違った、語り手が意識し得ない事実を、当の語りの細部から浮かび上がらせるという離れ業である。
ただしそれはミステリーのように、解かれるべき謎として読者の前に差し出されているわけではないし、探偵がそれを得意気に解いてみせるのでもない。微かな違和感をたどって細部を見直しているうちに、不意にそれまで見えていたのとは違う「もう一つの真実」が、読者の前に形をなすのだ。
これがあからさまな謎であったり、あからさまな真実であったら、そもそも語り手の「私」がそれに気付かないはずはない。
といって読者にわかるはずもない真実など、小説に存在する意義はない。
漱石は驚くべき微妙なバランスで、一人称の語り手が明確には理解することのない真実を、読者に伝えようとしているのである。
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