仮説Dを最初に聞いた時、授業者が直ちに挙げた反論の根拠は次の一節だ。
(この手紙の)最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句(四十八賞 205頁)
この「文句」は内容的に、どうみても自殺の直前に書かれたものに見える。こんなことを書いてから、10日あまり経ってようやく自殺したなどという「真相」を受け入れることはできない。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない。
とすればこの手紙はやはり自殺の直前、土曜の晩に書かれたものに違いあるまい。
だが度々鋭い読解を示してきたその生徒に対する信頼が、後に授業者にこの解釈について再考を促した。
そしてある時ふと、仮説Dを否定するための根拠として挙げたこの記述こそが、そもそもその生徒に仮説Dを発想させた手がかりであり、またその妥当性を証明する最大の根拠なのだということに、突然気づいたのである。
どういうことか?
授業で仮説Dを提示すると、その仮定を受け入れるために、四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる者がいる。
だが、四十三章の時点から見た「もっと早く」とはいつのことか、などと考える必要があるのではない。
この「文句」だけが自殺した四十八賞の「土曜の晩」に書かれたものであり、それ以外の部分が四十三章で書かれたのだと言っているのだ。
発想の転換のためには、こう考える必要がある。
「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎない。「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら確定された事実ではない。あくまで「そう見える」に過ぎない。
毎度の「私」フィルターだ。
「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであった。そのことは上野公園の散歩の会話の分析でも、いやというほど思い知らされたはずだ。
ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。
だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の本文はもっと以前に書かれたものであっても構わない。
「墨の余りで書き添えたらしく見える」という形容こそ、この部分とそこまでの部分の時間的連続性を示しているように見えながら、同時に、書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられるのである。
つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。
「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか?
「事実」の具体的な様相を想像してみよう。
- それ以前の文章に比べて墨が薄い。かすれている。
- 字の大きさが前の部分と違う(大きい・小さい)。乱れている。
- この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
- 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような内容である。
- そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが口語調になっている。
「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態として、まず1が思い浮かぶ。
だがそれ以外に2~5のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。
23も視覚的イメージとして想像されてもいい。
4はある程度の分析的思考が必要である。前の部分が「必要なこと」であるのに対して、この部分はにわかには意図が伝わらない。
5については解説が必要である。
先生の遺書(「下」本文)が「西洋紙」に「印気(インキ)」で「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた」「原稿様のものであった」のに対して、Kの手紙は「巻紙」に「墨」で書かれたものであるという対照は、おそらく先生の遺書が口語体(言文一致体)であるのに対し、この手紙が文語体の「候文(そうろうぶん)」であったことを示している。
「候文」とは、文末に「候」が補助動詞として付けられる手紙独特の文体のことだ。
漱石の『吾輩は猫である』から引用する。
主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。
新年の
御慶目出度申納候 。……
いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどない。それに較べるとこの年始状は例外にも世間的である。
一寸参堂仕り度候 ども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古未曾有 の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候 ……
なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。
一方で同じく漱石の『三四郎』の中には「母に言文一致の手紙を書いた」という記述がある。つまり手紙が言文一致で書かれることは特に記述すべき事柄なのであり、裏返せば、手紙は通常「候文」で書くものなのである。
もちろん相手と手紙の性格によるのであって、残っている漱石の書簡には、候文のものも口語文のものもある。友人や年下の相手には口語文で、あらたまった相手や公的な用件ならば候文である(授業で読んだ森鷗外宛ての手紙みたいに)。
したがって、Kの性格から考えても、この遺書は「候文」で書かれたと考えられる。
そして「もっと早く…」の部分だけは言文一致体で書かれている。4のように「独り言」じみた内容を「候文」で書くはずがない。
だがこうした123「外見」や4「内容」や5「文体」による差異によって、この文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。
この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。
だから、この部分について考えるにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。
もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは必須であり、そしてそれはかなり難問でもある。この後でそれを考察する)。
だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。
これもまた、先に述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。
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