夜のエピソードについて、さらに別な解釈を提示する。
この夜のエピソードは、「私」の目からはKの言動が謎めいて見えるばかりで、だからこそ「意味」をはかりかねるのだが、これをKの視点に立って読むことで、その「意味」が明らかにはできないだろうか。
まずはこう考えてみよう。
「私」に声をかけるまでKは何をしていたか?
「便所へ行った」とKは言うが、これは声をかける直前であるに過ぎない。
さらに想像するためにこう考えてみる。
「私」に声をかけるまでKは起きていたか?
Kが尿意を催して眠りから覚め、便所へ行き、そのついでに「私」に声をかけたのだと、読者は考えない。Kは宵からその時まで起きていたのだと感じられる。
なぜか? そう感じられる根拠は何か?
2点指摘できる。
- 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵のとおりまだ灯りがついているのです。
- Kはいつでも遅くまで起きている男でした。
ここでは、「Kの黒い影」ばかりが不気味な印象で読者の視線を捉えるが、ふと視線を逸らせてみればKの室内には「灯りがついている」。「灯り」は言わば「黒い影」の背景に過ぎないように見える。
「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯り」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。
わざわざ「彼の室には宵のとおりまだ灯りがついている」と言及されることの意味を考えると、にわかにそれが、そこでKが「宵」から過ごした時間を暗示しているように思えてくる。
Kは暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである。Kは何をしてそれまで起きていたのか?
さて、こうした作為的な誘導によって浮かんでくる答えがあるはずだ。
そう、Kは遺書を書いていたのである。
可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。何せ「いつでも遅くまで起きている男」なのだ。
だがこの場面で「Kは何をしていたか?」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。
この「遺書」とは何のことか?
無論、まさしくあの「手紙」のことである。物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、四十八章で読者の前に提示される遺書のことだ(204頁)。
そう考えなければ、エピソードの「意味」として成立しない。
つまり「Kが遺書を書いていた」というのが「エピソードの意味」だと言いたいわけではないのだ。
問1の仮説D Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。
これが「真相」ならば、エピソードの意味として充分な重さを持っていると納得できる。
「遺書を書いていた」だけだと、「そりゃ自殺しようとしていたんだから遺書くらい書いていてもおかしくはない」という、仮説Aから派生した想像にしか感じない。
「あの遺書がこの晩書かれていた」ならば、物語の解釈に大きな影響を与える「意味」を持ちうる。
だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、信憑性に欠ける怪しいトンデモ仮説かもしれない。まずはそう感じられる方がむしろ健全である。
こんな解釈をしている人は、文学研究者や国語教師の中には、ほとんどいないはずだ(授業者はこういう解釈に基づく文章を読んだことがないし、発言としても聞いたことがない)。
実はそもそもこの解釈は授業者が思いついたものではない。
この解釈を授業者に提示したのは、ある年の授業を受けていた生徒だ。
しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を、自殺の決行のための偵察であると解釈する仮説Aに付随して発想されたものであり、それについては、先に述べた通り、授業者は否定的なのだ。
授業中にこのような発言をした生徒に対して、Kはこの晩に自殺しようとしていたわけじゃないよ、と言いつつ、だからこそ、この晩に遺書を書いたなんて解釈はありえないよ、と言った。
さて、今年の授業でも、こちらが誘導する前からこの解釈を提示してきた者がいた。
訊いてみると、やはりKが自殺しようとしていたという解釈から、ということは遺書も書いていただろうと発想したという。
この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える世のA説を採る論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか?
おそらくそうではない。そんなことを思いついたら他人に言いたくなってしまうはずだ。
だからこの晩にKが自殺しようとしていたという解釈と、遺書も書いていたという解釈は、一般的にはまったく結びつけて発想されないのだ。
あるいはごく稀に、少数の生徒が全国のどこかでそれを発想し、黙っているか、発言して否定されているのだろうと思う。
はたして仮説Dはトンデモ解釈か?
0 件のコメント:
コメントを投稿