読み比べの効用は、共通性を見ようとすることによって、細部を削ぎ落とした構造を浮かび上がらせることにある。
大きく考えよう。「山月記」の主題に直結する問題は何か? 「山月記」とは何を言っている小説なのか?
もちろんこれは既習事項でもあるが、素朴な読者として考えてみてもすぐにわかるはずだし、大方の読者には同意される。
「山月記」とは切り詰めて言えば「男が虎になったことを語る話」である。虎になった経緯や原因、現在の心境を語る物語である。すなわち問題は「李徴はなぜ虎になったのか」だ。
それに答えようと努め、そうした目で「舞姫」を眺めてみよう。
前回の二人の経歴の重ね合わせは妥当だろうか?
李徴 「官吏→詩人→官吏」
豊太郎 「官吏→通信員→官吏(?)」
「山月記」では、この展開の後に虎になる。そして虎になることこそが「山月記」の核心だ。
これを豊太郎の物語に合わせると、どこにあたるか?
上の流れに沿って言えばエリスを棄てて日本に帰ることになってしまうが、そう重ねて何が言えるだろう(もちろん言えることはある。どちらもある意味で自由の喪失である、といったような)。
それよりも、物語全体の印象を大づかみにするならば、最初の免官こそが、豊太郎にとって「虎になる」ことだと感じられるはずだ。李徴が虎になることは、経歴からすると最後の局面だとも言えるが、小説にとっては、李徴はほとんど冒頭近くで虎になっている。豊太郎が物語の序盤で免官になることを重ねることはそう考えれば無理なことではない。
つまり「舞姫」は、〈豊太郎が虎になる話〉なのだ。
こうした見立てが妥当であるかどうかは、あくまで本文に基づいて判断されるべきである。具体的にどこを読み比べるかというと、李徴が「虎」になった時のことを場面を具体的に語る場面、袁傪との
今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた。
「舞姫」からは次の箇所を引こう。
かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらん、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるがうれしさに怠らず学びし時より、官長のよき働き手を得たりと励ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。(…)今までは瑣々たる問題にも、きはめて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやく蔗を嚼む境に入りぬ。
二つの記述に似たような印象を感じないだろうか?
闇の中から李徴を呼ぶ声は、何か超自然的なものでも、外部にあるものでもないだろう。李徴自身の心の声であることは素直に感じ取れる。
とすればそれは、ドイツ留学後三年経って豊太郎に〈やうやう表に現れ〉た〈奥深く潜みたりしまことの我〉ではないのか。
声にいざなわれて闇の中に駆け出す李徴は〈なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行〉く。こうした描写には何か充実感とともに解放感のようなものが感じられる。
一方で豊太郎は学問の脇道に逸れつつ、官長に対しては、本質さえわかれば細かいことは一挙に片づくなどと尊大な態度をとる。
これらは裏返して言えば、二人にとってそれ以前の生活が
李徴は妻子を養うために再び就いた地方官吏の職に満足できずにいたのだし、豊太郎は官長や母の期待を今更ながら抑圧と感じている(自分が受動的な機械のような人間だったと振り返る)。
虎になって束の間の解放感と全能感に酔っていると、気がついたときにはこれまで手にしていたものを失っている。「虎になる」ことは二人にとって、桎梏と抑圧からの解放であるとともに喪失でもある。
李徴は闇の中に駆け込んで、視界に入った兎を知らずに喰っている。豊太郎もまたクロステル街に駆け込んで、気づいた時にはエリスを喰っていたのだ(というフレーズが図らずも授業中に飛び出したのは見事だった)。
とすると「舞姫」は主人公が〈人間〉からいったんは〈虎〉になり、再び〈人間〉に戻る話であり、「山月記」は〈虎〉になりきる話だ、と要約することができる。
〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。こうした主題の在処が結末の違いに表れていると考えることもできる。
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