2021年11月12日金曜日

舞姫 13 不興なる面持ち

 豊太郎の「不興なる面持ち」が示す心理を「エリスの世話焼が煩わしい」「大臣に会いたくない」と考えることには、なぜ腑に落ちない不全感があるか?

 これは、逆に言うとどのような条件を満たせばここでの心理の説明として納得できるのか、ということでもあるのだが、こういう「自然とそう感じられる」ことの論理を自覚するのは難しい。実際には授業者も、このような条件を考えてから、さて豊太郎の心理は、と考えたわけではなく、先に心理を説明してみてから、それが上のような候補とどう違うのか、と考えたのだが。


 D組のMさんからは、「不興なる面持ち」についてエリスから問われたのに豊太郎が答えないということと整合的であるべき、という条件が示された。

 なるほど。この心理を説明するためには、「なぜ豊太郎は答えないのか」に答えなければならないのだ。

 豊太郎は、エリスの指摘・問いに対してなぜ答えないのか?

 「歯痛・腹痛」説はこうした点でも条件から外れる。「ネクタイが苦しい」も。

 「不興なる面持ち」は、「エリスからそう見えているだけだ」説も同様に否定される。そうならば豊太郎は「そんなことはないよ」と答えるか、地の文で読者に対して訂正される必要がある。

 「久しぶりの正装が窮屈だ」は実は「大臣に会いたくない」の象徴的な表われだと言ってもいい。そしてともに、この条件から否定される。エリスの科白が終わった後に、エリスの不安を払拭するために結局言っているのだから、なぜ問われたときにすぐに答えないのかわからない。

 「エリスの世話焼が煩わしい」はこの条件をクリアしているとも言える。確かにそんな本音は本人には答えられない。


 だが上記のように条件をつけて、発想される諸説を選別していくというのは、読解に負荷がかかりすぎて現実的ではない。読者はそんなに立ち止まって考えたりはしない。

 この「不興」についての解釈は、もっと自然になされるべきだ。それはどのような条件によって可能になっているか?


 「不興なる面持ち」が示す豊太郎の心理は、AからBに推移するエリスの心理に対応している。だからこそそれは読者に読み取れるはずなのである。

 エリスが「容をあらため」た契機は、「不興な面持ち」しか考えられない。つまりエリスは豊太郎の心の裡を感じ取ったのだ。むろんそれは論理的な明晰さなどなくともかまわない。だがそれがエリスの誤解であったのなら、その釈明が必要となる。その釈明が文中にない以上は、豊太郎の「不興」が示しているものと、エリスに「容をあらため」させたものは一致していると考えるべきなのである。

 読者はそのようにして「不興」を解釈するはずだ。鷗外はそれを読者に期待しているはずだ。


 AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう(この考察のアイデアは元々H組のYさんの疑問だ)。

 この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?


A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」

 Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。したがって、BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。

 AとBはどのような意味で逆接しているか?


 こうした問いに答えるには、毎度言っている「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。

 Aに寄せてみよう。

 A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ(行けないのは体調が悪いから)。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。

 Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。

 つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。

 最初の分析で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機に「不興なる面持ち」がある。


 だがまだそれだけで「不興なる面持ち」が解釈されるわけではない。


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