2021年11月5日金曜日

舞姫 10 エリスの戦い

 この場面について、さらに興味深い解釈を紹介する。かつて本校にいたM教諭によるものだ。

 皆はこの一連の出会いの場面を読みながら、一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのかが気になったりはしなかったろうか?

 エリスは清純なのかあざといのか?

 敢えてどちらかというと、でいいからと挙手させてみると、小説の裏を読んで面白がりたい高校生たちには「あざとい」説が優勢だ。

 「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写からである。

  G

彼は物語りするうちに、覚えずわが肩に寄りしが、この時ふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢてわがそばを飛びのきつ。

  H

彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

 Gは豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写、Hはエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う 科白 せりふ の後に続く描写である。

 この二つの描写をどう読むか?

 Gの「覚えず」というのは本当か?

 Hの目遣いの効果について本人は自覚的なのか?

 どちらと答えるによせ、実はそう考える根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。

 だがHでは作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?


 考える緒は次の疑問に答えることだ。

 「わがそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?


 往来で泣いていたことに、初めて気づいたのか?

 見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたのか?

 そう考えることを否定するわけではないし、読者にはまずそのようにしか読めない。

 だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。

 Gの場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている家を飛び出してきたからである。といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「わが肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。

 それが、何らかの契機がエリスに「初めて我を見たるがごとく」豊太郎の存在を捉えなおさせ、「恥ぢてわがそばを飛びの」く動作をさせたのだ。

 M教諭の解釈は次のようなものである。

 エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。

 ここからHに至るエリスの心理を推論してみよう。

 それでもエリスは豊太郎にすがることを決める。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。

 家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?

 もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」である。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのである。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。

 豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋である。

 母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げるのである。

 エリスの科白を分析しよう。

 まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。

 そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。

 なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのである。

 こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。

 このように考えると、Hの「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」はGに比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。

 エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。


 だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。

 そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。


 以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かである。

 そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのである。


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