2021年10月12日火曜日

舞姫 3 冒頭で提示される情報

 「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。


 班で検討しているうち、まずは「何のことか」についての了解が共有されるはずだ。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつくのである。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。

 さて、何のことか? 答えは次の通り。

船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わったということ

 話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではないのだ。確かに情報としてはこの一文ではまったく不充分だから、推測によって補う必要がある。


 「石炭をば」の「をば」は、現代語では、対象を示す格助詞「を」と題目を示す係助詞「は」が付いたものだから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭積み終えた」であるとともに「石炭積み終わった」というニュアンスでもある。

 「石炭を」だと、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。

 実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上でなお、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。

 だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。

 そして、「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭もう積み終わった。」のだ。

 同時に、「船は」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船石炭もう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとり」「熾熱灯の光晴れがましきも」と、実は主語が語り手ではない。


 さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分で自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。

 だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。

 問いというのは往々にしてその求める思考の範囲が曖昧なものだが、「なぜ」という問いもまた、限界がない。理由らしきことを言ってみても、それについてさらに「なぜ」という問いを発することができるからだ(子供のように。あるいは哲学者のように)。「なぜ」という問いは、問う側が納得してそれ以上の答えを制止することによって、元々求めていたものを示すしかないのである。

 「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いも、その問いの意図しているところが何なのか、どこに向かうべきか、どこに決着すべきかはわからない。

 そこでさらに問いを言い換える。

 「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと作者は言いたいのか?

 あるいは、この情報はどの情報と結びつけるとどういう「意味」を生むか?


 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次の2点。

  1. 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  2. 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。


 これらは面白い「鑑賞」でもあるが、同時に恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 例えば1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出すに船内を歩き回って、作業の終了を「視た」ことがありえない、と断ずることはできない。夕方、作業が終わったのを見届けて船室に戻り、手記を書き始めたのかもしれない。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れているのだし、食堂に行くくらいのことはあったろうから、そこから2~3時間ほど部屋にいたら、それをも「閉じこもっている」と言うべきだろうか。

 2について言えば、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由である。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なのではなく、「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかを考えようとしているのだから。


 冒頭の一文は、なぜここに置かれたのか? その意味する情報によって、読者にどのような解釈を迫っているのか?


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