今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。
高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。
残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。
後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。
最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。
今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。
もちろん常に授業は議論と発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。
だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。
学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。
だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。
それもまた明らかに国語の学力だ。
発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。
つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。
どのような図を画くか。
必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。
認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。
それを2次元に投影したものが「図」だ。
取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。
それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。
だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。
案内のための地図が、黒板に画く図である。
その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。
さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。
これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。
だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。
籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。
そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。
とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。
これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。
これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。
A組N君の構想図。
学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。