岡真理の「虚ろなまなざし」を読む。
岡真理は慶應大や一橋大他、国公立大や有名私立大の出題もある注目の論者。専門がアラブ文学ということで、第三世界に関する、文化的多様性、文化相対主義といったテーマの文章が取り上げられることが多い。
「虚ろなまなざし」もまた、そういった問題を取り上げているのだろうか? 確かにアフリカにおける度重なる紛争の結果として生じた難民問題・飢餓の問題に言及してはいるが、論じている問題の焦点はそこではない。
では何か?
題名の「虚ろなまなざし」とは何を意味しているか?
今回この文章を読むのも、柄谷、小林、鷲田と読み継いできた一連のテーマの流れだ。
とすればこれもまた近代批判? だがどのような意味で?
例えば次のような一節を読み比べるだけでも、岡真理が柄谷と同様な問題意識を射程に収めていることは容易に見てとれる。
「虚ろなまなざし」
私たちが生きる、この地球社会に山積した問題の数々。民族問題、環境問題、南北問題、人権問題……それは、この世界に生きる私たち一人ひとりの問題でありながら、ほうっておいても、いつか、どこかのだれかが解決してくれるかのように、いつもは、他人事のように忘却を決め込んでいる私たち、これらの問題を紹介するテレビや新聞の特集や詳細なルポも、ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう
「場所と経験」
直観的に言えば、我々が新聞やテレビで知るような場所や事件はこういう空間に属しているように思われる。それは近所で見聞する事柄のようなリアリティを持たないし、肉眼で見るような切実感もない。その上、それは妙に国際的である。沖縄、ベトナム、ビアフラ、テルアビブ……これら各地で起こっていることに我々は均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起こっているからである。
ここに共通する問題意識とは何だろう?
確かに、世界に起こる国際紛争などの「問題」についてのルポルタージュを「ワイドショーで報じられる芸能人のスキャンダルと同じような情報の一つとして消費してしまう」ことが問題であることはわかる。だがそこからこれを、例えばメディアリテラシーの問題として捉えたり、広く世界の問題に目を向けようといった教訓に進んでも、「情報の一つとして消費してしまう」ことや「均質な関心を寄せる」ことにしかならない。
文章を読む目的は、それを「理解する」ことなのではなく、それを「使う」ことにある。ここまで論じてきた「比較読み」も「使う」ために読むことの一つの実践なのであり、「虚ろなまなざし」を、現代社会の問題を考える上で「使う」ことはその意味で妥当な扱いだ。
だが、それは安易にできることではない。
例えば「虚ろなまなざし」から抽出されそうな「我々自身の『加害者性』に目を向けよう」などという教訓は容易く岡真理のいう「キャンペーン」に流れて「消費」されてしまうだろう。あるいは柄谷のいう「真の知識」を得るためには、テレビで観るのではなく事件の現場に行くしかない、などといった見当違いの解釈に陥ってしまうだろう。
それぞれの文章をその内部で読むだけでは、例えば両者が「文学」について語っていることはわからない。「場所と経験」で最後に突然言及される「文学」は唐突に過ぎて何のことかわからないし、「虚ろなまなざし」の本文中には「文学」への言及はない。だが、岡真理が批判するジャーナリズムやその享受者たる我々に対置するものとしてアラブ文学を専門家とする彼女が想定しているのは「文学」のはずである。それは「ちくま評論選」の岡真理「棗椰子の木陰の文学」を読めばわかる。
そしてそれは柄谷が「視たものだけを視たということ」から出発するほかに不可能だと語る、その「文学」である。
さて、こうした「問題」意識を元に読解を進める上で、考察の緒とするのは次の一節だ。
「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性とは、人を時に死に至らしめるほどの、文字どおりの暴力性である、というだけではない。私たちが恣意的に投影した私たちの声が「それ」の声となってしまうことで、もしかしたら、そうではないかもしれない、ほかのさまざまな声の可能性を抑圧してしまうと同時に、私たちが被害者として同一化することで、もし、私たち自身が加害者であった場合に、その加害性を都合よく隠蔽することにもなってしまうだろう。
この一節の「暴力的な主体化の問題性」とは何か?
お久しぶりです。生徒時代は読み忘れも多かったですが、最近になって読み返しています。
返信削除新しく、現国教室がひらかれているのですね。また先生の授業に参加したいです。今度学校にお邪魔するので、ぜひお話してあげてください。