2021年9月12日日曜日

虚ろなまなざし 3 様々な「主体化」

 「暴力的な主体化の問題性」とは何か?


 まず「主体化」の意味を捉えるために本文の他の部分を参照する。

 同じページのここより前の部分に「少女に代わって、少女の恐怖を語る主体になる」という一節がある。

 「主体になる」のは誰か?

 「私たち」である。

 何の「主体」?

 「語る主体」である。

 そして問題の箇所を前から引用すれば、次の通りである。

 「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性

 ということは、「それ」が「私たち」を「主体化」するのである。少女の声を「語る主体」にするのである。

 ここにどのような「暴力性」を見出すべきか?


 文章中の文言の解釈は、前の部分からのみ為されるべきものではない。後ろの部分との整合性もまた保障される必要がある。

 次のページには次のような一節がある。

(アフリカの難民の子どもの、その虚ろなまなざし)にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に

 ここでもやはり「それ」が私たちを「主体化」する、という。そしてその主体化が「暴力的」なのだ。なにせ「トラウマとなる」のだから。


 だがその直後には次の表現もある。

その(少女の)まなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいる

 この「暴力」は少女が状況からふるわれる「暴力」だ。暴力を受けているのは少女だ。

 この「暴力」は先の「私自身の加害者性」に通じるように思えるが、そうなると上の「私たちを主体化」することが「暴力的」だというのとまるで違っているように見える。


 だがまた一方でその直前には次の表現もある。

  • 私たちを突如、行動する主体へとかりたてる

 「語る主体」と「行動する主体」は同じと見なしていいのか?


 さらに引用する。

  • 「それ」が、それ自身の、語りの主体になってくれること
  • 「それ」が決して主体―Subject―主語の位置を占めないこと
  • 私たちが「それ」に、声なき声を聴き取ることで、「それ」は「それ」であることをやめ、主体化される

 これらは全て「語る主体」のことだが、ここでは語るのは少女である。

 さっきは私たちが語るのではなかったか?


 そういったそばから次のような表現が頻出する。

  • 「それ」を主体化すべく私たち行動する
  • 私たちをこのように行動する主体に駆りたてる

 ここでは「行動する主体」のことであり、行動するのは「私たち」だ。


 いったいどうなっているのだろう?


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