「暴力的な主体化の問題性」とは何か?
本文は「暴力的な主体化の問題性とは」に続いてその説明をしているのだから、それを適切に捉えればいいだけだとも言える。テスト問題ならば、理解がどうであれ、まとめてしまえば解答は作れる、とも言える。
だがこのことを考えるためには「問題性」の前にまず「暴力的な主体化」とは何なのかを捉える必要がある。それが「問題」だと言っているのだから。
では「暴力的な主体化」とは何か?
だがこれも決して自明なわけではない。
しばらく話し合って、問題点が見えてきただろうか?
こういうときは問題を選択肢のあるような問いに置き直すことも有用だ。
「主体化」とは「主体になる」なのか「主体にする」なのか?
そしてこの分岐はさらに以下に分岐する。
私たちが「主体になる」のか、「それ」が「主体になる」のか?
あるいは、
私たちが「それ」を主体化するのか、「それ」が私たちを主体化するのか?
自分がそこまでしていた「主体化」の説明は、上の4つの選択肢のうち、どれだったか?
こういうときはゆめゆめ、全員がそれぞれの解釈を脳裏に描き、それを提示しあって虚心に検討しなければならない。
自分の考えが曖昧なうちに話し合いに入ると、最初に話し出した者の考えに引っ張られて、それとは違ったふうに考えていた自分の考えが霧散してしまう、ということが起こりがちだ。
4つすべての選択肢について、それを支持する者がいていい。これはそういう問題だ。班の中で説得力のある人の選んだものを「正解」とする必要はない。これは、唯一の正解にあっさりとたどりつくような問題ではないのだ。
その上で、考えるべきなのはどれが正解かではなく、これら4つに分岐した解釈の関係だ。
「暴力的」という言葉は文中ではここで初めて登場する。何を指して「暴力的」と言っているかという把握にも解釈の余地がある。
そこまでに「恐怖」「苦痛」「加害」といった、「暴力的」という表現に結びつきそうな語はある。だがそれぞれが何を指しているかは充分に文脈を捉える必要がある。
以上のような要素の検討に基づいて「暴力的な主体化の問題性」について捉えよう。
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