「暴力的な主体化の問題性」を考えるにあたって、「主体化」を解釈する上で分岐する3つの意味、「問題性」を解釈する上で分岐する3つの意味、「暴力的」を解釈する上で分岐する4つの意味について確認した。
主体化
①「それ」が私たちを語る主体にする
②「それ」が私たちを行動する主体にする
③私たちが「それ」を語る主体にする
問題性
A.文字どおりの暴力性
B.少女の声の可能性の抑圧
C.私たち自身の加害者性の隠蔽
暴力
ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち
イ 状況(世界)→少女
ウ 運動(私たち)→カメラマン
エ 私たち→少女
これらはそれぞれ、文章全体のあちこちで反復される。だからどれも無視することはできない。筆者はそれぞれの言葉にそれぞれの意味を含意していると考えられる。
では、問題の「暴力的な主体化の問題性」というフレーズを全体として説明するために、どのような方法が可能か?
アイデアの一つが、これらを因果関係によって継起順に並べてみよう、というものだ。
その際、起点に置くべきなのは主体化? 問題? 暴力?
粘り強くこれらの因果関係をたどってみれば、「暴力」のイがこうした複雑な事態の出発点にあることがわかるはずだ。
イ 状況(世界)→少女
暴力を受けた少女から「それ」=「虚ろなまなざし」が生まれる。
カメラマンがそれを写真に収め、世界に発信する。
それを見た我々がトラウマを受ける。
↓
ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち
私たちは耐えきれず「それ」を語る主体にする(③)。
だがそれは彼女たちの声を奪うことに等しい。
エ 私たち→少女
B.少女の声の可能性の抑圧
↓
同時に、少女を主体化することは実は私たちが彼女に代わって主体になることに等しい(①)。
かわいそうな少女に代わって語る主体になることは、ただちに彼女を救うための行動する主体になることでもある(②)。
そして、そうした運動の中で、時にはかわいそうなカメラマンを追い詰めてしまう。
↓
ウ 運動(私たち)→カメラマン
A.文字どおりの暴力性
↓
C.私たち自身の加害者性の隠蔽
こうして、すべての「暴力」「主体化」「問題性」を網羅した因果関係をたどった果てに置かれるCは、出発点のイにかえっていく。なぜなら「加害者性」というときの「加害」こそイの「暴力」なのだから。
出発点のイが隠蔽されることで、この構造は解決に向かわずにループする。
「暴力的な主体化の問題性」という一節が示すのは、以上のような循環構造である。
それで、どうだと岡真理は言うのか?
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