2021年7月14日水曜日

「無常ということ」と「場所と経験」

 「無常ということ」と「場所と経験」を読み比べる。

 もちろん思考のガイドとなるのは、それぞれの文章の対比図である。

 どのように照らし合わせると、どのようなことが「わかる」のだろうか?


 「場所と経験」では、結局「感性的/均質な」という対比に重心が移って文章が閉じられることを確認した。この主要な対比を「無常ということ」の対比と比べてみる。

 個々の表現の印象の類似性もあるだろう。「意味づけ」と「解釈」が似ていることを指摘する声があちこちから聞こえたが、これこそ最も重要な対応なので、その類似性が感じ取れているのはとても好ましい状態だった。


 だが一方で解釈はいかようにでも変えられる、ということもある。「子どもらしい」という形容が肯定・否定、どちらのニュアンスでも解釈できてしまうように。小林秀雄の文章がそもそも「解釈」の不安定性を批判していた。

 だから表現の印象の類似性にも目を配りつつ、対比全体の構造を比較する。

 すると、次の「場所と経験」の対比と「無常ということ」の対比の左右がそれぞれ対応していることがわかる。

 この対比の左右が揃っていると見做せるのはなぜか?

 どちらの文章でも、左辺を否定して右辺を推しているからである。


 こうして並べてしまえば、あとはいかようにも言える。上の配置図に挙げられた表現をつかって、二つの文章をこんな風にコラージュしてみよう。

 柄谷が、自分が直接に見たものの「リアリティ・切実感」からしか「真の知識」は得られないのだというように、小林は、「心を虚しくして思い出す」ことでしか、我々を「動物的状態」から救う、美しい「常なるもの」は見い出せないのだと言っているのである。

 「新聞やテレビ」で知った「国際的」な事件は、多くの歴史家の頭を充たす、歴史についての「記憶」と同じものに過ぎない。そうした経験に我々は「意味づけ」をして、「もっともらしさを確保する」ように、現代人はそうした歴史の記憶を「解釈」してわかったつもりになるのである。

 「解釈を拒絶して動じないもの」こそ「真の知識」であり、そうした認識にいたった鷗外や宣長こそ、歴史の魂に推参した「文学」に到達したのである。柄谷が「生きた他者」からしか「人間」について知ることはできないというように、小林は「死んだ人間」こそが「まさに人間の形をしている」というのである。

 「生きた他者」=「死んだ人間」!


 小林の「生きている人間」を柄谷の「生きた他者」と結びつけてしまうと、対比の対応関係がまるで逆転してしまう。「死んだ」と「生きた」こそが対応しているのだと納得するためには、文脈の論理を捉える必要がある。

 「生きた他者」=「死んだ人間」とすると、両者の共通点は何か?

 「どちらも~」と言い出してみて、続く言葉は何か?


 両者の共通点を積極的に言うことは、実は難しい。こういう時には対比の考え方を使う。対比される側に「ではなく」を付けるのだ。斎藤環のいう「否定神学」だ。

 両者はどちらも、こちらの解釈=意味づけを拒むものだ。

 こうした意味合いは、言葉のニュアンスからも捉えられる。

 例えば評論を読む際に必須の認識として、「他者」という言葉は単なる「他人」の意味ではなく、「こちらの解釈を拒絶する存在」を意味していることを知っておく必要がある。そうした認識があれば、「死んだ人間」こそ「生きた他者」であるという奇妙にねじれた帰結をも受け容れることができる。


 柄谷を経由して初めて、小林の「解釈する」と「記憶する(だけ)」が、同じように「思い出す」の対比として並列されるわけが納得できる。

 柄谷は言う。

われわれは日々多くのことを経験しているが、そのほとんどはたんに経験したような気になっているにすぎないので、だからこそ意味づけが性急に要求される。事件が不可解だからではない。意味づけることで、もっともらしさを確保したいからにすぎない。

 これは「頭を記憶でいっぱいにしている」「多くの歴史家」こそが「歴史の新しい解釈」という罠に囚われてしまう事情を端的に述べている。

 そしてその「解釈」と「意味づけ」こそ、小林と柄谷が厳しく拒否しようとしているものである。


 こうした対比によって、「無常ということ」でも最大の謎といっていい「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想」について、ようやく考えることができる。

過去から未来に向かって飴のように延びた時間

を柄谷の文章で翻訳すれば

ここからあそこに向かって地図のように伸び拡がった空間

とでもいうことになる。

 これは端的に柄谷「均質な空間」にならって「均質な時間」のことなのだ。

 数直線上に均等に配置される史実によって成立する歴史、というイメージこそ、柄谷の言う「地図のように均質な空間」でさまざまな出来事が起こるこの世界、というイメージに重なり合う。

 つまり、「場所と経験」の「場所=空間」を「時間」に置き換えたものが「無常ということ」なのである。


 結局これらの文章は何が言いたいのか?


 柄谷は、世界を「均質な空間」だと捉えているだけでは、そこでの経験を擬似的なものとしてしか受け取れないといい、小林は、数直線上に並んだ歴史を「記憶するだけ」では、「常なるもの」を見失った「動物的状態」から逃れることはできない、と言っているのだ。

 あるいは、柄谷は、出来事を「意味づけ」をしてわかったつもりにならずに「生きた他者」を見ることでしか「真の知識」を得ることはできないと言い、小林は、歴史を「解釈」してわかったつもりにならずに、ただ「心を虚しくして思い出す」ことでしか「常なるもの」は見い出せない、と言っているのである。

 こうしたまとめも、基本的には先ほどのコラージュの変奏だ。


 ただしこれをきいて「ああなるほど」と思うことはまるで無駄だとは言わないがそれほど意味のあることではない。

 それよりも自分でやってみることだ。それをやってみることによって、これらの文章の言っていること、筆者の考えていることが血肉化される。


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