さて、「部分」の解釈をもう一箇所。
本文第三段落後半は、全体として「わからない」この文章中でも、最もモヤモヤが集中する部分だ。
あれほど自分を動かした美しさはどこに消えてしまったのか。消えたのではなく現に目の前にあるのかもしれぬ。それをつかむに適したこちらの心身のある状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかもしれない。こんな子どもらしい疑問が、すでに僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行きつかない。
ここに感ずるモヤモヤを分析し、解決ができそうか検討してみる(先回りして言ってしまうと、実は結局解決しない。それでも構わない。解決が目的なのではなく、そこを目指した考察と議論が目的だからだ)。
問題点を抽出し、分析し、妥当性を検討する考察にはいくら時間があっても足りない。
なおかつ解決できる見通しがあるわけでもないので、議論は時間的に限界を決め、まず論点を整理して提示する。
この部分からは「子供らしい疑問」「途方もない迷路」「美学の萌芽」あるいは、なぜ「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」のか、なぜ「できない」ことが「別段反抗はしない」の理由になるのか、といった数々の疑問が浮かぶ。
重要なことは、これら一つ一つの問題箇所を個別に説明しようとする問いは有効ではないということだ。例えば「美学の萌芽」とはどういうことか? といった形で問いを立てても、結局決着点が曖昧だから思考を集中しにくい。
「どういうこと?」という問いは基本的に「正解」をもたない。説明という行為自体が本来、問う側と答える側のコミュニケーションでしかないからだ。
だからここではむしろ排他的な選択肢のある問いの形が思考を活性化させる。もちろん、答えがどちらであるかが重要なのではないことを常に思い出しながら、とりあえず結論に向けて目も耳も口も頭も総動員するのである。
そしてその選択肢のどちらを選ぶかが、上記の疑問についての考察を押し進める強制力になればいい。
問①「子どもらしい疑問」とは次のどちらのニュアンスに近いか。
A 「純粋で無垢な疑問」という肯定的ニュアンス
B 「幼稚でとるに足りない下らない疑問」という否定的ニュアンス
問②「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」とは次のどちらを指しているか。
C 美しさをつかむに適したこちらの心身のある状態
D 「子どもらしい疑問」によって迷路に押しやられている状態
問③ 末尾「だが、ぼくは決して美学には行きつかない」とは次のどちらのニュアンスに近いか。
E 美学に行きつくつもりはない
F 美学には(行きつきたいけれど)行きつけない
これらは問うてみると、必ず見解が分かれる選択肢だ。その組み合わせを考えると、単純には2の3乗で8通りだ。教室の雰囲気が付和雷同に流れなければ、本当に皆の立場は8通りに分かれる。
そしてそれぞれが納得のできないわけではない、といった解釈を成立させているのである。
問①「子どもらしい疑問」ではまず「こんな」と指示されている部分がどこなのかも問題になるが、これはまあ前の4行全体を指していると考えればいいか。
その上で筆者を「途方もない迷路」に「押しや」る「子どもらしい疑問」は肯定的なのか否定的なのか?
例えばA肯定的と考える根拠は「押されるままに別段反抗しない」からだ。
だがそうして押しやられる先は「迷路」だ。これが否定的な比喩であるとすれば、そこに自分を押しやる疑問も悪いものに違いない。とすればBだ。
つまりAであることもBであることも、それなりに妥当性の根拠は挙がる。
となれば、後に続く論理をどう構築できるかという問題だ。
問②の「そういう」は「美学」にかかっているわけではない。前の部分で「美学」が何を指しているかがわからないからだ。したがって「そういう」は「状態」にかかっていると考えるべきだろう。
つまり「そういう『美学の萌芽』とも呼ぶべき状態」だと読めるのだが、では何を指して「美学の萌芽」と呼んでいるのか?
「そういう」という指示語が、直近の文脈を受けていると考えるのはごく自然な読解作法だから、まずはDの解釈が発想されるはずだ。
Cの解釈は、もう少し文脈を広く把握しようとしたときに「状態」という語の共通性から発想される解釈の可能性だ。
ここでも既に両説の妥当性の根拠が挙がる。
となればどちらが「美学の萌芽」と呼ぶべき状態なのかを論理づける解釈が必要だということになる。
ある解説書では「美学の萌芽」を次のように説明している。
自分の美的経験に関する素朴な疑問と考察は、哲学的体系との整合性に配慮しつつ論理化された学問としての美学ではないが、美学とその出発点は同じくしているということ。
何を言っているかよくわからないが、「素朴な疑問と考察は」とあるのは、Dと解釈しているということだろう。
「ぼくは(迷路に)押されるままに、別段反抗はしない。」ことの理由として「美学の萌芽」に「疑わしい性質を見つけ出すことができない」と述べられているわけだが、Cに「見つけ出すことができない」のと、Dに「見つけ出すことができない」では、どちらが「反抗しない」ことの理由として納得できる論理を形成するか?
問③のEでは「美学」が否定的なものとして捉えられ、Fでは逆に肯定的なものとして捉えられている。
「美学の萌芽」が「疑わし」くないから「美学」も信用されるべきなのか、「萌芽」は「疑わし」くないが、「美学」は「疑わしい」のか。論理的にはどちらも可能だ。したがって、まだEともFともわからない。
0 件のコメント:
コメントを投稿