全体の対比をとり、考察の必要な受け取りにくい「部分」に考察を加え、さてでは小林秀雄はこの文章で何を主張しているのだろうか?
それは明らかになったのだろうか?
対比を整理することは、文章の、思考の論理を整理することだ。
対比構造を対立項毎に左右に振り分けて、その差違線から輪郭を明確にするとともに、左右それぞれの領域を通観することで、そのまとまりも意識しよう。
縦に並んだ両辺のグループをひとつなぎに関係づけられるだろうか?
それぞれをつなげてみる。
左辺
現代人は、多くの歴史家のように頭を記憶でいっぱいにして、歴史を新しく解釈することに汲々とした挙げ句に常なるものを見失って、一種の動物にとどまっている。
右辺
鷗外や宣長のように、心を虚しくして巧みに思い出すことによってしか、解釈を拒絶して動じない常なるものを見出すことはできない。
つまりこれは全体の趣旨を要約しているわけだ。
これでかなり全体を俯瞰することができた。だがこれでもまだ、必ずしも「わかった」という実感、いわゆる腑に落ちるという感じに繋がるとは限らない。
例えば「思い出す」とはどういうことか?
それが小林によって推されていることはわかるが、それがどのようなことであるのかは自明とは言い難い。言葉としてあまりに日常に埋没しているがゆえに、ここで特別な意味を担わされているらしいこの言葉の意味をうけとりかねるのだ。
一方で「思い出す」の対比として「解釈する」と「記憶する」が並置されているのはどういうわけか?
一般に、「解釈する」とは対象への主体的な対峙であり、「記憶するだけ」にはそうした主体性を抑制した客観的な態度である(ような感じがする)。むしろ「解釈する」と「記憶するだけ」こそ、対立した概念ではないのか。にもかかわらずどうしてこれらが同じく「思い出す」に対置されるのか?
こうしたことを考えるのは、もう「無常ということ」の内部では限界である。内部の論理の整序による読解だけではこれ以上は先に進めない。自家中毒的な「迷路」に迷い込むばかりだ(「美学」の意味がこの文章内では決定できなかったように)。
文章内の構造分析は、必ずしも「わかった」という実感を保証しはしないのだ。
いや、むろんあるレベルでは、こうした対比構造の把握をする前よりもよほど「わかった」という実感はあるはずだ。「わかる」という感覚は常にある段階での、その前の段階との差異によって訪れる感覚だ。「場所と経験」を「幻想的/感性的/均質な」という構造に整理することも、「無常ということ」を「記憶・解釈する/思い出す」という構造に整理することも、あるレベルでの枠組みに情報を当てはめる=理解することに成功しているのだとは言える。
だからその先、である。
授業者にとって、次の段階の「わかる」という感覚が訪れたのは、「無常ということ」と「場所と経験」、二つの文章が同時に意識に上ったときである。あるとき、二つの文章が主張していることは同じだ、と突然気付いたのだ。その途端、両者が「言いたいこと」の感触がにわかにはっきりしたものになった。これは、後で考えたところによれば、二つの文章が、互いに枠組みとして機能したのである。
この感触は一瞬にして訪れたのであり、それを自覚的に跡付けることも、他人に説明することも、その一瞬の正確な再現ではない。しかし、それを他人向けに図式化して言語化することが、自分自身にとってもそれ以上の考察を可能にする。
授業という、一人で思考するのとは違う「場」が、こうした考察を可能にする。
0 件のコメント:
コメントを投稿