全体の構図が見えてきたところで「部分」の解釈をする。
「鷗外・宣長/多くの歴史家」という対比は意識的に並べなければ、文中では対比的に配置されているわけではない。むしろその近辺では「考証家」がどちらであるかをめぐって議論が繰り広げられたりする。
そこでその一節について「部分」的な読解をする。
歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映ってくるばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられるような脆弱なものではない、そういうことをいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したというような説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼はおそらくやっと歴史の魂に推参したのである。
上記の「晩年の鷗外が考証家に堕したというような説は取るに足らぬ。」とはどういうことか?
まずは「考証家」の意味を確認したくなるだろうし、「堕した」と「取るに足らぬ」で表現された論理をたどる必要はある。
誰かが晩年の鷗外を「考証家」と呼び、それは「堕落」だと言っているのだ。そして小林はそれを「取るに足らぬ」と切って捨てる。
すると、明らかにすべきなのは次の2点だ。
「考証家に堕した」と評されるような鷗外の晩年の活動がどのようなものであるか?
「晩年の鷗外が考証家に堕したというような説」を唱えているのは誰か? またそれはどんな意図によるものか?
晩年の鷗外が歴史小説に傾斜していったことは、外部的な知識として補う必要はある。それは「場所と経験」にとっての「共同幻想」などと同じく、この文章の当時の読者にとって常識だが、現在の高校生にとっては知っている方が特殊であるような知識だ
だがそれがどのような小説なのかは、この文章の論理から明らかにされなければならない。
「誰か」については二つの可能性が考えられる。
- 小説家や文芸批評家や小説読者など、「文学」畑の人
- 歴史学者や歴史愛好家など、「歴史」畑の人
文学畑の人だとするとその潜在的な対立項は「考証家/小説家」だろうし、歴史畑の人だとすると「考証家/歴史家」だろう。授業者は1を想起していたが、かつての生徒から提起された2の案でも論理は成り立つ。両方考えてみよう。
ここでも、「部分」の解釈は「全体」の把握と相補的だ。「記憶・解釈する/思い出す」という対比に基づいてここを解釈するのだ(だが、この対比が既にこの「部分」の解釈の結果として抽出されたという側面もある)。
少なくとも鷗外の歴史小説がどのようなものであるか、この対比からすれば、「解釈」をしない、史料を淡々と書き写したようなものだということになる。そうした歴史小説を書く鷗外を「考証家に堕した」と評するのはなぜか?
文学畑の人だとすれば、虚構を創造することこそ文芸の営みだと考え、創作的な要素のない鷗外の歴史小説はつまらないものに感じられる。鷗外氏は「考証家に堕した」のだ。
この場合は自分たちの文学という営みの方が高尚なものであると捉えられているわけだ。
一方歴史畑の人が唱えている説だとすると?
彼らからすれば素人の鷗外氏が、自分たちの畑に入ってきて、やっていることといえばただ史料を書き写してそれを「小説」と称して発表する。そんなものは、自分たちのやっている歴史学からすれば、単なる考証に過ぎないように映る。
むろんこの人たちにとって「歴史の新しい解釈」こそが高尚な歴史学だということになる。
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