2021年7月8日木曜日

無常ということ 4 「美学」2

 この部分の解釈には個人的な思い出がからんでいる。

 「無常ということ」が長らく教科書に載り続けている文章で、前述の通り授業者もまた高校生のときにこれを授業で読んだ。この部分の解釈にまつわる不一致は、実は高校生の時の授業者の体験に基づくのである。

 どこまでも神妙に授業を受けていたとは言わないが(しばしば授業とは別の本をこっそり読んでいた。国語以外の教科の授業はむしろ寝ていた)、国語の授業の内容は比較的追っていたと思う(起きていたので)。

 そして、この部分について先生が語る解説に違和感を覚えたのだった。

 何がどう違っているかはわからないが、その違和感は看過しがたく、遠慮がちにそのことを表明してやりとりするうち、かろうじて先生の説明と自分の解釈が食い違っているらしいことがわかってきたのが問③のEFだった。

 授業1時限費やしてもこの議論は決着をみなかった。そうして、授業担当の先生も当時の授業者も、意見を変えることなく終わるしかなかった。

 この理由は、つまりこの問題に「正解」がない、つまりどちらかを「正解」とする根拠が、この文章からは導けないということだと現在の授業者は考えている。

 最初から「正解」はない、と言っているのはそのためだ。

 ただ、この授業の担当教師は、年度末の最後の授業でこの事件に触れて、授業の内容に質問を投げかけてくることさえ稀なのに、まして先生の言うことは違っているなどと言ってくる生徒は本当に珍しく、面白かったと言った。その柔軟な姿勢に心を打たれた本授業の担当者もまた、生徒からの異論反論を心から歓迎するものである。どうか曖昧に飲み込むことをせず、授業で感じた違和感を表明してほしい(その異論を容赦なく叩き潰してしまうようなことは控えるよう心がけよう)。


 それ以来、自分で授業をする中で生徒と考えているうち、問①②についても、排他的な選択肢の形で示される解釈のバリエーションがあることに気づいて、論点としてとりあげてきた。

 長い議論に寄り添った経験からすると、これらの選択肢はいずれも、それ自体では、明確な根拠を挙げてどちらかを否定することができない。それをただ否定しようとする議論は拙速に終わる。思い込みを排して考え直してみると、決定的な否定の根拠は驚くほど存在しないのだ。したがって、全体として整合的な解釈を提示することで個々の選択肢の妥当性を支持する、という形でしか議論できない。


 議論をすればするほど、ある意味では理解が深まる。同時に議論すればするほど、結局わからなくなる、とも言える。

 それほどに、この部分の解釈はすっきりと腑に落ちることがない。

 ただ、選択肢にした問いのうち、③だけは結論を決定できる。

 だがそれは、この文章内の情報では不可能である。その意味では①②と変わらない。

 ③についての結論はEである。だがそうだと言いうる根拠はこの文章の論理にあるわけではなく、例えば「無常ということ」という連作の別の文章、「当麻」の次の一節に拠る。

僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確めた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」 美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから、彼はさう言ってゐるのだ。

 この中の〈美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。〉はとりわけ人口に膾炙した一節で、よく引用される。

 ここからは次の対比が抽出できる。

「花」の美しさ/美しい「花」

     観念/肉体

 そしてここに書かれていることは「無常ということ」にそのまま通じている。「解釈する/思い出す」の対比である。

 つまり、「美学者」はありもしない「観念の曖昧さに就いて頭を悩ま」していて、それは「化かされている」ということなのだ。「無常ということ」の「多くの歴史家」である。

 とすれば、小林が「美学には行きつかない」というのは、E「行くつもりがない」ということなのだ。

 30数年前の先生はこのことを知っていたのだ。だがF「行き着けない」という意味で解釈していた授業者には、その説明は受け容れ難いものだった。

 だが今ではEの解釈の妥当性を認める気になっている。

 これはつまり他の文章を読むことによって得た小林の「美学」に対する見解が枠組みとしてはたらくことではじめてEの解釈の確からしさが保証されるということだ。だからFの解釈に整合性を持たせる①②の解釈は、それはそれで可能なのである。筋が通ってさえいれば、それを不正解などとは言えない。


 その上で③をEとして、そこへ向かっていく論理を構築する。

 現在の授業者の納得はBCEである(この支持者はどこのクラスでも少数派もしくは皆無だった)。

 「子どもらしい疑問」がB「幼稚で取るに足りない下らない疑問」だから、自分は「迷路」に押しやられる。ただ、その疑問の元になっている「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」=C「美しさをつかむに適した心身のある状態」には「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」。だから「押されるままに、別段反抗しない」。

 つまりCで解釈する「美学の萌芽」こそ「上手に思い出す」ことができている「状態」である。

 だが、「美学の萌芽」とも呼ぶべき状態への信頼と、「美学」という行為は別なのだ。「美学」は、そうした「状態」を観念によって分析しようとする。それが「迷路」だ。そんな「化かされている」ような連中に筆者は与するつもりはない、と宣言しているのがE「美学に行きつくつもりはない」というわけだ。

 となると「美学/美学の萌芽」という対立は「解釈する/思い出す」の対立に連なっているということになる。


 この部分はまだ小林自身が手探りで論を進めているところで、対比すら明確ではないから、唯一の正しい解釈には「行きつかない」し、それは全体の解釈にとってどの程度重要かもわからない。

 だがこの授業展開は毎度盛り上がる。

 それは決して無駄なエネルギーの浪費というようなことではない。

 学習とは議論の過程そのものであり、結論を知ることではないのだから、議論によって思考が活性化している状態でありさえすればいいのだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿