「無常ということ」「場所と経験」に共通する、左右の対立とは何か?
これは何のことやらわけのわからない問いに感じるかもしれない。漠然としてとっかかりがつかめない。
だがこのように訊くことの必然性があるのだ。
それは、この対立が初めて触れるものではないからだ。
対立的な対比といえば、皆の頭に最も想起されやすいのは「である/する」という対比だろう。
また?
冗談ではない。そうなのだ。
だがそもそもこの対比は何の対比だったか?
また例えば「過去から未来に向かって雨のように伸びた時間」を「均質な時間」のことだと言ったとき、連想されるものはないだろうか?
内山節の「不均等な時間」である。この題名に覚えはないだろうか?
この文章における対比のラベルは、題名から素直に導き出せる「均等な時間/不均等な時間」である。
これらの対比は、どんな対立を示しているのだったか?
ここで「近代/非近代」という対立構造が想起できた人は素晴らしい。
昨年度の「『である』ことと『する』こと」から「南の貧困/北の貧困」へつなぐ読み比べ、今年度に入って鷲田清一から斎藤環、平野啓一郎へつなぐ読み比べでも、問題は常に「近代/非近代」だった。
そして柄谷行人も小林秀雄も、同じことを問題にしているのだ。
近代は「均等な時間」を成立させた。時計の刻みにしたがって、速さも濃度も一定の時間が流れていく。
だが本来、我々が生きているのは「不均等な時間」だと内山節は言う。時間はその中身によって速かったり遅かったり、部分的に濃かったり薄かったりする。それが自然の、また人間の生の営みの時間なのだ。
これはそのまま、柄谷が空間について言っていることと同じだ。我々が住んでいるのは地図のように均質な空間ではない。小さな円同士はつながることなく点在する。間には何だか怖い場所がある。通ってはいけないタブーの地もある。
均質な空間/感性的な空間
記憶・解釈する/思い出す
する/である
均等な時間/不均等な時間
これらはどれも左辺を、近代に成立した世界観だとみなすことができる。小林の「蒼ざめた思想=現代における最大の妄想」はそうした近代的世界観を激しく糾弾している。
そしてそれに対立する右辺こそ本来の在り方であり、またそれを志向する姿勢だというのだ。
みんなそのことを言っている。
丸山によれば「近代化」とは端的に「する」化である。「『である』ことと『する』こと」は「する/である」を様々な変奏によって対比するから、ここでそのうちのどれを取り上げるかに迷うが、小林、柄谷、鷲田、斎藤、内山らに共通する「である」価値と言えば「かけがえのない個体性」だろう。
みんな、その重要性を、その喪失の問題を語っているのだ。
近代化による「する」化は、逆に全てのものを交換可能にする。「交換可能」と「かけがえのない」は文字通り対義的だ。
ここに斎藤環の「全てが偶然教」を付け加えてもいい。
そうした世界では「キャラ」が必要とされる。
これが「意味づけ」であり「解釈」である。内山ならば「経済価値」であり、丸山ならば「機能」だ。
全てが均質の世界で、交換可能になったものたちには、「意味づけ」が必要になってしまうのである。鷲田清一も「ぬくみ」の中で、現代の社会では「資格」「条件」が必要だ、と言っていた。
みんな、そのような世界観と、そこで行われる「意味づけ」を拒否する(丸山真男と平野啓一郎はそれぞれ別な動機で、必ずしも他のメンバーとは軌を一にしていない)。
こうして、昨年度の年明けから今年度にかけて読んできたいくつもの文章が、「近代批判」もしくは「近代への反省」という文脈で共通していることが一望できた。
これは世界中の様々な分野で提起されている問題であり、多くの評論文に共通するモチーフである。
そうした認識が、読むための「枠組み」として有効であり、世界を視るために必要なのだ。
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