2020年6月26日金曜日

ミロのヴィーナス6 -「美しく聞こえる」「厳粛な響き」

 いよいよ最終回だ。
  • 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
  • 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
 これらは、詩的で、ちょっといい感じの表現として、もはや読み流しても良い「部分」でもある。だが自らの心をごまかさず省みれば、やはりにわかには「わからない」一節であるはずだ。
 これも分析し、説明を試みよう。問いは次の通り。
  • 「機械とは手の延長であるという比喩」はなぜ「美しい」のか?
  • 「恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた述懐」はなぜ「厳粛な」のか?
 この問いに答えるのは、きわめて難しい。
 そもそも「美しい」とか「厳粛」とか言われて、共感できているわけではないからだ。ここでは読者が自らの内省によって「美しさ」や「厳粛」の理由を探ることはできない
 したがってここでも、この文脈で筆者が「美しい」「厳粛」ということの論理(すじみち)を読み取るしかない。

 ここで追うべき論理とは何か?
 上の二カ所を含む一文は「だから」で始まっている。「だから」「美しい」「厳粛な響きを持っている」ということは、つまり「美しい」「厳粛な」ことは、前の部分が根拠となっているということである。
 前の部分とは、前回の考察対象である、手が「世界・他人・自分」との「交渉」を「媒介」する「手段・方式」だ、という内容である。
 そしてそこには「実体と象徴の合致」があるというのだった。
 このことを真摯に受け止めれば「美しい」「厳粛な」ことは自ずと腑に落ちるはずである。

 だがここでも、腑に落ちればおしまい、ではない。適切な言葉を探して、他人の共感を得なければならない。
 そのためにたどるべき論理がもう一つある。
 この一文に続くのは「どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。」という一文である。
 つまり「美しい」「厳粛な」という形容のニュアンスには「自然」「人間的」だという意味合いが含まれているということである。
 さらにここに対比を用いる。
 すなわち「美しい/美しくない」「厳粛な/厳粛でない」の右辺に「不自然」「非人間的」を補助的に重ねて見るのである。
  • 美しい/美しくない
  • 厳粛な/厳粛でない
  •  自然/不自然
  • 人間的/非人間的
 ここまで準備して、さて、手が象徴的意味をもっていると、なぜ「美しい」「厳粛な」のか?

 「機械とは手の延長である」という表現を見て、マジックハンドや高枝切り鋏のようなものをイメージするのは、間違ってはいないが貧困な発想である。シャベルカーのようなもの? まだまだである。スマホまで拡張しよう。
 「機械とは」という主語をいきなり考えると行き詰まってしまう。まず「手とは」を考え、機械をその延長だと考える。
 ここに前回の「手は世界・他人・自分との交渉・媒介の手段・方式である。」というまとめが使える。そしてこれが「実体」であるばかりでなく「象徴」でもあるのだ。
 つまり機械を、単に世界・他人・自分に対して物理的な作用を与えるモノとして「実体」的にのみ見るならばそれは「冷たい」、文字通り「機械的」なモノでしかない。
 だがそれを世界・他人・自分に働きかけようとする人間の意志の「象徴」であると見るならば、そこには世界の中で生きようとする「美しい」生命の輝きが感じられてこないだろうか?

 「美しくない」をどんな言葉で形容するか。さしあたってそのまま「機械的」と言い、「冷たい」と言い換えた。「硬い」「油臭い」だっていいかもしれない。
 手の延長であると考えるとき、機械は「機械的・冷たい」=「不自然・非人間的」なのではなく「美しい」のである。

 「恋人の手を初めて握る幸福」を「厳粛ではない」=「非人間的」表現で形容するなら?
 「やわらかい」「すべすべしている」「あたたかい」などが、「実体」としての感触の形容に留まっているのならそれは「厳粛」に対比される「厳粛ではない」である。
 さらに「厳粛」ではない言い換えを考えよう。「軽薄な」「生々しい」「いやらしい」…、さらに「非人間的」なニュアンスで言うならば「動物的」と言ってもいい。

 それを、「実体」を超えて相手との絆の「象徴」としてみたときに「厳粛」という形容がふさわしい行為に感じられるのである。

 一見したところ考える道筋の見えない「詩的」な表現にも、実は論理が隠れている。
 大きな論理の流れをたどり、問題の部分を含む因果関係を把握した後、問題の部分では「対比」を論理の手がかりとして、そのニュアンスを適切に示す表現を発想する。
 こうした手続きによって、一見、曖昧で捉え所の無い表現を理解したり説明したりすることができるようになるのである。
 今回は「人間的」の対比「非人間的」に「機械的」と「動物的」が図らずも登場したのだが、対比について最初に説明した回の例←がここで再登場したのは思いがけなかった。

ミロのヴィーナス5 -「実体と象徴の合致」

 二段落の「量と質」「芸術の名において」は2回目の授業で解決したからいいとして、さて三段落。
 教科書ではちょうど1頁に収められた最後の形式段落は、含みが多く、わかったようなわからないような表現が連続して、説明の課題として面白い箇所が多い。詩人である清岡卓行の面目躍如たる文章である。
 段落全文引用する。
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? ぼくはここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっときりつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。そして、例えばこれらのことばに対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
 どこが最も「わからない」か?

 思考が浅ければそこら中が「わからない」と感じられてしまう。真剣にならないと「どこ」かを挙げることはできない。自分のわからなさを自覚するにも集中した思考が必要だ。
 「アイロニー」なども気になるが突っ込まない。だが脚註で「皮肉」と訳されているのは、ここでは不適切だ。この文脈では「逆説」という訳語をあてるべきである。「逆説」と訳していいことがわかればここまでの考察の通りである。
 また「トルソの美学」は考えて解釈できる部分ではないので、触れるにとどめる(註)。
 取り上げるに値するところはいくつもあるが、次の三つに絞る。
  • 実体と象徴のある程度の合致
  • 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
  • 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
 「人間存在における象徴的な意味」も気になりはするが、「実体と象徴とのある程度の合致」の考察の中で自然と解決するはずだ。

 まず「実体と象徴のある程度の合致」は、この前後の文脈を整理するところから始める。
 文脈の整理には主述の確認が重要である。これはメソッドの一つとして立てても良いほどに重要な認識だ。文脈が混乱して感じられたら、まず主語と述語を確認せよ…。
 ここではこれを応用して、1文内の主述と言わず、この表現を含む前後4文(上記下線部)をひとまとめに考え、主部と述部を見定める。
 主語は? 「手」である。
 述部は? 「交渉の手段である」と「関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである」が言い換えられて並列されている。
 「交渉」と「(関係を)媒介する」、「手段」と「方式」の近似性は見易い。
 何との「交渉・媒介」か? 必要な修飾語を確認する。
 「世界との、他人との、あるいは自己との」である。
 一文にまとめてみる。
手は世界・他人・自己との交渉・媒介の手段・方式である。
 こうしたテーゼに、問題部分が挿入されている。これが「実体」でもあり「象徴」でもある、というのである。
 どういうことか?

 ここで言っていることが腑に落ちるためには、どういう事態を指しているかが思い浮かんでいる必要がある。
 そこでまず例を挙げる。それが「実体」だ。
 「世界」「他人」「自己」との「交渉」について、三つそれぞれの例を挙げたい。「象徴」はそれらを一つにまとめる。

 例が挙がりやすいのは「他人」との「交渉」である。
 対象が人間であるような、手の行う行為を表わす動詞は、そのまま例となる。
 握手する・抱き寄せる・殴る…。

 「世界と交渉する」もしくは「世界との関係を媒介する」の具体例は厄介だ。
 例えば「電子メールを送る」などという例を挙げる者が多い。
 これは何との交渉を手が媒介しているのか?

 「世界」がこの文脈でグローバルな、ワールドワイドな「世界」を意味していると考えるのはピント外れだ(がそのような意味で考えてしまった者は呆れるほど多い)。そんなふうに考えたら、世界中のそれぞれの身近な「世界」で一生を終える「世界」中のほとんどの人の手は、一生涯「世界」との交渉など経験しないことになる。
 そうではない。手は万人にとって「世界」との「交渉の手段」なのだ。そういう意味で「世界」を捉えなければならない。
 手が交渉の手段であるような「世界」とは、我々を取り巻く外界全てである。目の前、手の届くここが既に「世界」である。
 それと「交渉する」とは、そこに物理的な力を加えて何らかの変更を起こしたり(動かす・形を変える)、何らかの情報を得たりする(感触や温度を知る)ということだ。それを「媒介」する「手段・方式」が手だというのである。
 触る・押す・突き放す・引き寄せる・倒す・起す・叩く・撫でる…。

 つまり「電子メール」の例は、それを送るために操作している機械(パソコン・スマホ)との「交渉」なのだ。機械が「世界」なのだ。メールの送られる「相手(=他人)」との「交渉」はメールがしているのであって、手がしているわけではない。

 「自分」はやっかいだ。何のことを言っているのか、解釈の余地が広い。
 むろん上の「世界」や「他人」に対するのと同じ「交渉」を自分に対してもするかもしれない。自分の身体を撫でさすったり、叩いたりもする。髪をなでつけ、服を着、髭を剃ったり化粧をしたり…。
 また、「世界」や「他人」との「交渉」は、そのまま「自分」というものを作り上げていくことだとも言える。哲学的に言えば、「自己」とは外界の認知に対する反射として形成されるのである。「世界」を知ることによって、「他人」と関わることによってのみ「自分」という意識は形成されていくのだ。

 そして「手」は上に挙げたような「交渉」「関係の媒介」を行う主たる「手段」である。上の動詞は全て「手」が行う「実体」的行為である。

 あるクラスで「世界」との「交渉」の例として「演奏する」「絵を描く」「文章を書く」という例が挙がった。これらは「世界」を「世界的ピアニスト」などと使う時の「世界」だと解釈として挙げた例なので、その意味では誤っているのだが、上のように「外界」という意味で解釈しても、適用できる例ではある。楽器や筆との「交渉」に手が使われているのである。
 また、「演奏」は「他人」に聴かせるのだろうから、その意味では「握手」などと同じ「他人との関係を媒介する」の例だと言うべきだが、これはまたすぐれて「自分」との「交渉」の例かも知れない。
 芸術は自分の内なるものを外に表現する活動である。とすれば、手を使って「外界」と「交渉」することこそが、「自分」の内なるものを自分自身の前に曝け出すことになるのである。自分の無意識と意識を手が「媒介」しているのである。

 さてこうした「実体」に対して「象徴」とは?
 上に挙げた行為は全て、ある物理力の行使であるとともに、それをしようとする人間の精神の現れでもある。ペンを持ち上げようと思ってペンを摘まんだり握ったり持ち上げたりするのは、それをしようとする人間の意志の発現である。人間のあずかり知らぬところで発生した単なる自然現象ではない。
 つまり手によって行われる行為は、人間が「世界」と「他人」と「自分」と関わろうとする意志・精神を「象徴」しているのである。
 例えば「握手」は、相手の手に対する物理的な接触であり圧迫だが、同時に相手との友好関係「象徴」的に表わしてもいる。この、実体でもあり同時に象徴でもある両義性を指して「合致」と言っているのだと考えられるし、これらが全ての場面で完全に合致しているわけではないから、「ある程度の合致」なのだろう。
 また、こうした両義性は考えてみれば当然だから「もちろんある」のだろうが、いずれにせよすっきりと読者の腑に落ちる表現とは思われず、厄介な表現だ。
 筆者の思考にとってはどれも必然的で自然な表現なのだろうが。

註 「トルソの美学」
 美術に明るくないと「トルソ」がピンとこない。教科書脚註で「首や手のない胴体だけの塑像」などと説明されているだけだ。これを見て、考えて、わかったりはしない。
 授業者の現在の理解では「トルソの美学」は「量塊」としての胴体に美を見出しているのであり、腕や首はむしろ無くても良いという捉え方である。一方筆者は「無い腕」にこそ美を見出している。「有る胴体」か「無い腕」か、という注目点によって「トルソの美学」と筆者の考察は違う方向に向かっているのである。

2020年6月22日月曜日

ミロのヴィーナス4 -「特殊から普遍へ」

 次に取り上げる一節。一文全体を見てみよう。
このことは、ぼくに、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる。 
特殊から普遍への巧まざる跳躍」とはどういうことか?

 とりあえずグループワーク。どういう手続きで考察し、他人に説明するかを自分で考えることも学習だ。諦めずにがんばりたい。
 しばし話し合わせて、だがこれを発表させることはしない。

 以下は授業者による誘導。
 「巧まざる」に拘泥する必要はない。これは言い換えを前後から一つずつ指摘する。「無意識的に」「偶然の」である。前の頁から参照するなら「制作者のあずかり知らぬ」なども引き受けていると考えられる。
 問題は「特殊普遍」だ。
 まず「特殊普遍」という対比は「ある/ない」のどちらに対応するか?

 「特殊=腕がないこと」と答える高校生はいる。「ある」のが普通なのだから「ない」のは特殊なことなのだ。
 もちろんそうではない。みんなもそうではないと思っているはずだ。だがそうでないことをどのようにして読み取っているのか。読み取るべきなのか。
 「特殊」や「普遍」という言葉を解釈して、それを「ある」や「ない」に結びつけているわけではない。そうすべきでもない。
 順序が逆だ。まず文脈の論理で「特殊」が「ある」なのだとわかるべきであり、その後で「ある」ことを「特殊」と表現しているのはなぜなのか、と考えるべきなのである。
 文脈の論理を読み取ろう。「このこと」は何を指しているか?
 短く言う(これは後で検討したいことがあり、そこへ踏み込まないためである)。
 「腕を失ったこと」だ。これを主語とする一文であることを確認する。
 「腕を失う」ことが「特殊から普遍へ」なのだから「あるからないへ」なのである。
 まず文脈から「特殊」=「ある」という判断がなされているのだ。
 では「腕があること」はなぜ「特殊」?

 ここから先の準備として、ここで特殊普遍の辞書的な意味を、班の中で確認しておく。「特殊」は「特別」ではないし、「普遍」は「普通」とは違う。

 次に一文の前半と後半が並列されている事を確認する。
  • 特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われる
  • 部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる
これが言い換えであると仮定して「特殊」と「普遍」を考えてみる。「特殊」と「普遍」は何に対応しているか?
 「特殊」は「部分的な具象の放棄」に対応しているのではない。
 「放棄による、偶然の肉迫」が「巧まざる跳躍」に対応していると考えれば、「特殊」が対応しているのは「部分的な具象」である。
 すなわち次のような対比がそれぞれ対応していることになる。
    特殊普遍
部分的な具象全体性
 腕を失くすことがこれらの対比の左辺から右辺への変化なのだから、これはそのまま「ある/ない」の対比に並べて良い。
 「部分的な具象の放棄」が腕を失うことを意味しているのは見易い。
 では「ある全体性への偶然の肉迫」は?
 まず、言い換えになっている表現を以下の文章から探す。教科書の42頁から3カ所。
 順に挙げる。
1 生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている
2 存在すべき無数の美しい腕への暗示
3 全体性への羽ばたき
 まず「全体性」がそもそも共通する3はすぐに確認できる。「肉迫」と「羽ばたき」が言い換えとして許容されるのを見ておく。
 1と2は「多様な可能性」と「存在すべき無数の」に共通性を感じ取ってほしい。

 「全体性」=「普遍」がこのようなものであるとすると、「特殊」とは?
 「部分的な具象」とは「ある」腕であり、固定された一つの形象をもった腕が「ある」状態が「特殊」なのである。
 ここでの「特殊」とは普段我々が日常的に目にする「変わっている。平均から外れている。」という意味ではない。「普遍」と対になっている「特殊」とは「限定された・特定の」という意味である。言わば全ての個別性のことである。あらゆるものは全て「特殊」、つまり「オンリーワン」なのだ。
 同様に「普遍」は「全体性」であり、「多様な可能性」「存在すべき無数の美しい腕」に開かれた状態である。
    あるない
    特殊普遍
部分的な具象全体性=「多様な可能性」「存在すべき無数の」
これが「特殊」と「普遍」の一つの説明である。

 もう一つの考え方は、先ほど意図的に避けた部分に関わる。
 ここまでの考察は「特殊から普遍への巧まざる跳躍」より後の文中から「特殊」「普遍」の意味するものを同定しようとした。次にこれを、前の文中から考える。
 実は先に「このこと」が何を指しているか、という問いに「腕を失うこと」と短く答えさせたのはミスリードだ。前の部分から皆の目を逸らそうとしたのだ。
 では正確には「このこと」とは何を指しているか?
 丁寧に言うなら「このこと」とは「よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために、腕を失ったということ」もしくは「腕を失うことによってよりよく国境を渡っていくこと、よりよく時代を超えていくことができるようになったということ」である。
 これが「特殊から普遍への巧まざる跳躍」だと述べられているのだから、「普遍」とはすなわち「国境を渡る」「時代を超える」ことを意味している。
 では「特殊」は?
 すなわち特定の国、限定された時代を意味しているのである。
 腕があれば或る国、或る時代にのみ受け入れられたかもしれないが、腕を失うことで多くの国、多くの時代の人々に伝わる美しさを得たのである。

 さて、これら前と後の説明をつなぎ合わせよう。
美しい一つの腕をもったヴィーナス像として、特定の国、特定の時代の人々に愛される存在だったものが、腕を失うことで、逆に「存在すべき無数の」腕を想像させる「多様な可能性」を得て、多くの国、多くの時代の人々に受け入れられる存在となった
 これは前回の「語り下ろし」同様、易しくはない。できれば全員に書かせたいところだ。

2020年6月19日金曜日

ミロのヴィーナス3 -「生臭い秘密の場所」「逆説を弄する」

 対比というメソッドを用いて二段落を考察するところまでが第2回の授業。
 ここからは「部分」の考察だ。もちろん「部分」の解釈にも、全体の論理構造の把握が益する。必要に応じて前回までの考察を参照したい。

 最初に取り上げるのは「生臭い秘密の場所」である。
 とりあえずノーヒントで考え、話し合ってみる。
 だが、しばらく考えたら辞書を引く。これは「生臭い」「世俗的な」「俗っぽい」「(金銭的)利害がからむ」などのニュアンスを慣用的にもっている形容であるという「知識」を外部から補う必要があるからだ。
 そしてさらに、そこに対比の考え方を用いる。
「世俗的」の対比は?
 これは2回目の考察が応用される。「芸術」もしくは「神秘的」である。この部分の少し前に「美術作品の運命」などという表現もある(「世俗的」の対義語である「神聖な」とまで言ってしまうとここでは方向がやや異なる)。
腕のある場所がなぜ「世俗的」なのか?
 これは様々な説明が可能だ。なるべく多くの班から、それぞれの話し合いの成果を聞きたい。

 さていくつかの説明をこちらでも用意してある。
 腕のないとろこに美を見出しているのが「芸術」的立場だとするのだから、あった方が良いのだ、という発想がそもそも「俗っぽい」のだ(これはこの後の「逆説/通説=通俗的」の対比にもつながる)。
 また、「秘密の場所」という表現に引きつけて言うのなら、ヴィーナスの腕はどこにあるんだろう、みつかったら大発見だ、などという興味本位な関心の持ち方が「俗っぽい」とも言える。
 また、腕がないことが「神秘的」な雰囲気をもたらしているのだから、あったら、ありふれた「世俗的」なヴィーナス像になってしまう。
 また、直前の部分でヴィーナスを発見した農民がフランス人に売り、その後ルーブル美術館に運ばれたという紹介があることに関連させるなら、腕の発見はあらたな売買美術館収蔵につながる、金銭名誉といった「世俗的」な価値を帯びる可能性がある、とも言える。

 複数クラスでこの部分を「ルーブル美術館/ギリシャの海か陸のどこか」という対比で捉える意見が提示された。これは授業者にとっては想定外だった。
 この対比に「芸術的/世俗的」という対比をそのまま対応させることは確かにできる。
 なるほど、そういう説明ができるか、と驚いた。
 一方で、「ルーブル美術館」は売買権威といった「世俗的」な価値につながりそうな感じもして、必ずしも「ギリシャの海か陸のどこか=生臭い秘密の場所」の対比的な位置にあるわけではないとも言える。
 結論として否定も肯定もできないが、こういう発想が提出されるのが授業の面白いところだ。

 これはまあ小手調べである。

 次に取り上げる一節。
ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。
 太字部分を説明せよ、と訊くのだが、皆の説明は焦点がぼやけている。多くは、この部分の前の内容(この後で扱う予定の「特殊から普遍へ」の解釈)を曖昧に語っているような感じだ。
 ここでは前の部分「特殊から普遍へ」の解釈はしなくていい。

 この部分の考察が有意義なのは、これが復習でもあるからだ。それが充分に定着していないことがもどかしくもある。

 この部分を説明しようと思ったら二つの対比について考える必要がある。何か?

 まず「逆説」を考えよう(説明しよう)と思ったら何を考えるべきか?
 「通説」である。「ホンモノのおカネの作り方」でこの考え方をさんざん使ったはずだ。
 「通説/逆説」の対比は、この前後の文章を軽く眺めただけではわかりにくい。かえってわからなくなる、とも言える。明確に、直截的に指し示せる部分がないからである。
 だが一方で、全体の趣旨を既に捉えているので、考えればすぐにわかる、とも言える。
通説 有る方が良い
逆説 無い方が良い
 何事によらず一般的には「有る」方が良い。だが筆者は、ミロのヴィーナスの腕が失われていることを、むしろ肯定的に捉えている。そのことを「逆説」と言っているのだ。
 さらに文章全体の趣旨を汲み取るならば、「有る」ことは確かに「有る」ことだ、という当たり前の論理(通説)に対して、「無い」方がむしろ多く「有る」ということだ、という奇妙な論理(逆説)を指しているとも言える。

 この部分にはもう一つ、明白な対比がある。
 この考え方は2回目の授業で触れている。「量の変化ではなくて、質の変化である」が対比であることは、文型からわかる。「AではなくB」の文型になっている場合は基本的に「A/B」の対比によってBを明確にしようとしているのである。
 問題のこの部分は「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。」という、対比の文型になっている。
 「~ではない」で否定される要素は何か?
 もちろん文章どおりに言えば「逆説を弄しようとしている」である。だが筆者が言おうとしているのは「無い方が良い」というまさに「逆説」である。「逆説」の内容を否定しているわけではないのだ。
 とすると対比要素は何なのか?

 対比要素だけを抽出するなら、「弄する/実感」である。
 これが対比であることはピンとくるだろうか?
 まずは「弄」の字の訓読みを確認しよう。そう「もてあそぶ」だ。
 その上で、「弄する/実感」の対比要素を、対立していることがはっきりするように表現する。
 「ふざけている/本気」「不真面目/真面目」「口先だけ/心から」…。
 つまり「逆説を弄する」とは、一般的な説とは反対の言説を、口先だけで気取って言うことである。「奇を衒う」などという言い方に近いニュアンスだ(「衒う」を「てらう」と読めた人に拍手)。

 以上の整理をもとに、文脈に戻してみる。
「無い方が良い」「無いことでかえって無限の可能性が広がる」などというちょっと変わったこと(「逆説」)を、言葉遊びのように口先だけで言っている(「弄する」)わけではなく、本当に心からそうだと思っている(「実感」)のだ…。
 「対比」というメソッドはここでもまた強力な汎用性を示すのだった。

2020年6月16日火曜日

ミロのヴィーナス2 -対比を考える

 初回の授業はまだ続いている。

 ではこの文章はどのような「対比」で論が立っているか。
 それぞれに思い浮かべた「対比」があるはずである。だがここにもう一つの問いを付け加えてからグループワークだ。

  • 先の問い「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」に、すでに二つの「対比」要素が潜在している、それぞれ何か?

 様子を見ていると、各班で誰かが気づくようだ。
 「ある/ない」「腕以外(鼻・眼…)/腕」である。

 「ある/ない」の対比はこの文章全体を貫く対比だ。以前書いた「ラベル(見出し)」となる対比である。
 「ミロのヴィーナス」は全体が大きく三つに分けられている。このうち、いわゆる大段落でいえば、一つ目の段落は「ある/ない」の対比に基づいて論じられている。「ない」ことがミロのヴィーナスの魅力の源泉なのだ、という主旨はここで既に結論まで述べられてしまう。
 そして「腕以外/腕」の対比に基づいているのが三段落だ。欠落しているのが腕であることの意味が論じられる。
 では二段落はどのような対比によって立論されているか?
 これはなかなか難しく、面白い問いである。

 二段落はミロのヴィーナスの復元案に対する筆者の見解が展開されている段落だ。この考察はどのような対比によって立論されてるか?
 文中には対比要素が、それとわかるようには並んで出てこない。対比の片方があるから、それが何と対比されるかを考える、というのがヒント。

 この問題提起をするところまでが1回目の授業だ。クラスによって多少のばらつきはあるものの、おおよその進度は揃えた。
 以下は続く2回目の授業だ。

 実は二段落にも、あからさまな対比表現や対義語がないわけではない。まずはそれを挙げるよう指示する。次の二つの対比を文中から指摘できる。

  • (の変化)/(の変化)
  • 限定されてあるところのなんらかの/おびただしい夢をはらんでいる

 対比項目を関連させる便宜のため、対比の記述では左に否定的項目、右に肯定的項目を置く(黒板では縦書きなので上下に並べる)。
 後者は明白に全体の対比「ある/ない」の対比。既に「空白の意味」との対応を指摘する展開でも取り上げられていた表現だ。
 「量/質」の対比は「量の変化ではなくて、質の変化である」という文型によって示されている。「AではなくB」という文型は「A/B」という対比を表わす典型的な文型だから、常に注意しておく。Aを対比として取り上げることでBを明確にしようとしているのだ。
 だが「量/質」の対比がどのようなものかを納得するのは難しい。「部分」の解釈に踏み込む必要がある。
 そもそも次の一節は考察に値する「部分」として取り上げたいところでもあった。
ここで問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものが既に異なってしまっている時、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?
 取り上げるべき「部分」は一、三段落にもいっぱいあるので、ここは二段落の対比を捉えるために、この「部分」だけここで取り上げて考察してしまう。

  • 「量の変化」「質の変化」とはそれぞれ何か?

 いったんはグループワークにしてみると、この「部分」の説明の難しさが実感できるはずだ。

 そもそも、「変化」とは何か? 何に伴う「変化」なのか?
 ほんの確認程度である。
 だが解釈は二通りある。一つは復元に伴う「変化」、つまり「ない→ある」「量/質」それぞれにもたらす変化のことである。もう一つはそもそもの欠落によって生じた「ある→ない」の変化のことである。文脈上はどちらとも確定しがたく、筆者もどちらかを限定して指しているとも思われない。「ある/ない」を比較してその差を「変化」と言っているだけだとすれば、別に方向は問題ではないからだ。
 以下は説明の便宜上、復元に伴う「ない→ある」の変化の場合で説明する。
 腕の復元はどのような「量/質の変化」をもたらすか?

 何の「量」、何の「質」なのか?
 石膏か大理石の重「量」? 体積?
 だがこれでは「質」には対応しない。いや、とりあえず「量」がこうであることだけを認めることはできないか? それもだめだ。復元案は「量の変化」を良しとする立場である。それは重量や体積の増加を良しとしているわけではない。
 「量の変化/質の変化」に「表現における」という形容がついていることと、「有」に「それがどんなにすばらしいものであろうとも」という形容がついていることがヒントだ。
 「表現における量」とあるから「表現の量」? だがそんな怪しげな日本語のまま放置せずに、明確にするため言い換えよう。

  • 「表現における『  』の量/質」の『  』に入る語は何か?

 「情報」「美しさ」「感動」などが挙がればよい(平均してどのクラスもこれらが挙がる)。これらの言葉を代入して「量の変化/質の変化」を説明する。

 復元は、表現における「情報」「美しさ」「感動」の「量の変化」をもたらす。復元前には「量」的には0なのだから、基本的には増加である。それは「素晴らしい」場合には肯定的要素の増加だ。
 だが同時に「質」にも変容をもたらす。筆者的にはこちらが「問題」だというのだから、平たく言えば「無」から「有」に変化することで、「情報」「美しさ」「感動」は「量」的に増え(「すばらしい」場合には)、「質」的に低下するのである。
 「量」は多寡(多いか少ないか)で言えるので簡単だ。問題は「質」の変化である。「質の低下」をどのように形容するか?
 「有」の「情報」は、そこにあるその腕が持っている情報である。
 一方「無」が「情報」を持っているとは奇妙な表現だが、筆者の言う「多様な可能性の夢」「おびただしい夢」とはつまり、自分の中に探り当てられ、そこから湧き出てきた「情報」である。あるいはそうした情報を引き出す情報の空虚としての「情報」である(逆説的な表現!)。そして当然「有」になれば、そうした「質」の「情報」は失われるのである。
 こうした「質」に対比的な形容を加えてみよう。例えば、「ある」ことの「情報」「美しさ」は固定的であり、「ない」ことの「情報」「美しさ」は自由である。
 文中から形容を探すなら、「ない」ことの「美しさ」は「神秘的」だが、「ある」ことのそれは現世的(?)である。
 D組のK君からは、「ある」ことの「美しさ」は見る側が「受動的」に受け止めるものだが、「ない」ことの「美しさ」は見る側が「能動的」に見出すものだ、という表現が提案された。見事な対比である。
 こうした「情報」「美しさ」「感動」の性質の差が「表現の次元」と表現されている。「量」よりも「質」の方が高次元だというのである(平たく言えば)。

 「量の変化ではなくて、質の変化である」とか「表現の次元」とかいう尤もらしい言い方で、しかし言っていることは読者にもなんとなく伝わる、という一節を、分析して述べれば上記のようになる。
 もちろんこんな表現は詩人らしい含みのある言い回しだなあとでも思って読み流せば良いのだ。一読者としては。
 だが国語の学習だと思ってこんなふうに考えていくと、思いの外すっきりと腑に落ちるような感じがするのも悪くないはずだ。

 さて、回り道をしたが、もともと二段落から読み取りたい対比はこれではない。だが同時に「量の変化/質の変化」は直截的に「ある/ない」に対応しているとも言い難く、むしろこれから捉えようとする対比に連なっているのだった。

 上の二つのようにあからさまではない対比要素を探す。もう一方が文中にないが、おそらく対比の一方ではないかと思われる表現を挙げる。
 文中から対比要素として挙げるべき語は「抽象語」「具体例」「形容」である、といった復習もしておく。
 ここからは皆が挙げてくる対比要素によってクラス毎に展開が変わる。
 考えあぐねるようなら、文中の具体的な言葉ではなく、二段落がどういう考え方・主張・姿勢・立場の対立かを考えよう。言葉を文中に探すよりも、全体を大づかみにする思考だ。

 二段落の対比とは基本的に「復元を企図する立場/復元を拒否する立場」の対立である。これは一段落には出てきていない対立要素だ。
 復元すれば腕は「ある」ことになるのだから、これも大きく言えば「ある/ない」の対比に連なるとはいえる。また、復元は「量の変化」を良しとすることであり、復元を拒否することは「質の変化」を拒否することだ。両辺が何に注目しているかでいえば、「量/質」もまたこの対比に連なる。
 こうした立場の違いが、二段落ではどのようなものとして論じられているか?

 例えば次の語が文中から挙げられる。
  • 真の原形/?
  •  客観的/?
  •  実証的/?
  •    ?/芸術
 これらが揃って皆から提出されるとは限らない。「客観的」「実証的」は粘れば誰かが発見するが、「芸術」はこちらで挙げてしまって皆に考えてもらう。
 これらの対比を補おう。「?」にはどんな表現が補完できるか?
 「真の原形/?」は「限定されてあるところのなんらかの有/おびただしい夢をはらんでいる無」の言い換えだ。
 こうした「ある=原形」を復元する試みが、例えば「客観的」「実証的」に行われるのが復元作業である。
 「客観」の対義語として「主観」を想起することは容易。
 「実証的」の対義語ははっきりしない。「理論的」「思弁的」などの語が対義的に用いられる場合がある。「形而下的な現象に基づく」に対する「形而上的な思弁に基づく」の意味である。だがここでの「実証的」を「客観的」に合わせて解釈するならば、対義語は「主観的」の意味合いに近い、「感覚的」「直感的」くらいでいい。文脈上は「実証的に、また想像的に」とあるのを対比として捉えてもいい。その場合「想像的」も候補とする。
 復元案は「真の原形」を「客観的」「実証的」によみがえらせようとする試みである。それが「どんなにすばらしいものであろうとも」これを拒否するのが筆者の立場だ。
 とすれば筆者は「おびただしい夢」をいかに見るか。すなわち「主観的」「感覚的」「想像的」にである。
 そしてそうした立場を表わすのが「芸術」である。
 「まさに、芸術というものの名において(真の原形を否定したいと思う)」という一節はこれもまた考察したい「部分」ではある。これもこの「対比」の流れで考察してしまう。
 上の展開で既に「芸術」が挙がっていれば良い。だが対比要素としてまだ挙がっていなければ、「主観的」「感覚的」に「おびただしい夢」を見ることを支持する立場を表わす言葉を文中から挙げよ、と訊けば、「芸術」が挙がる。
 それに対して問う。
  • 「芸術」は何の対比か?
 「客観的」「実証的」な復元を目指そうとする立場として、例えば「考古学」が挙がれば良い。「~術」に揃えるなら「学術」も考えられる。
 なかなか挙がらない場合は「 ~学」「~術」とヒントを出せばそのうち考えつく(「歴史学」「科学」なども挙がる。悪くない。復元チームにはそういうメンバーももちろんいよう。炭素同位体による年代測定も行われるかもしれない。芸術家だってメンバーにはいてもいい)。

 先の対比を、上の考察にしたがって補完してみよう。

  •      ある/ない
  • 復元を企図する/復元を拒否する
  •    真の原形/おびただしい夢
  •       量/質
  •     客観的/主観的
  •     実証的/感覚的・想像的
  •  考古学・学術/芸術

 左辺を対照として、筆者が右辺の立場の支持を表明するのが二段落だ。

 同一軸上に連なる対比要素を挙げたら、最終的に左辺、また右辺で通して見直すことが重要だ。これらの対比要素をひとつながりの文として書き下すのである。
客観的・実証的原形を復元しようとする考古学的手続きは「量」の増加を良しとする立場であり、一方筆者は、主観的な想像によってを見ることができるヴィーナスの美しさの「質」の変容を、芸術の立場から拒否する。
 こうした書き下しは難易度が高い。だがこうして通観したときの腑に落ちる感触は是非味わってほしい。

2020年6月12日金曜日

ミロのヴィーナス1 -全体を捉える

 ブログ開設以来ここまで、休校中の特別措置ということで全体に語りかけるという体裁をとろうと、慣れない敬体で書いてきたが、ここからは授業の進行と並行して、授業の記録及び考察の整理のためにという、私的な目的が強くなるので、通常運転の常体に変える。
 もちろん公開はしているので誰でも読める。欠席者や、授業時には個人的に考え事をしていてボーッとしていたとかいう事情で授業内容を振り返りたい人など、積極的に読んでほしい人もいる。とはいえ、まあそういう人よりも、読むとしたら授業中にも積極的だった人だろうとも思う。
 さらに、こちらがクラスによって言い忘れたりしていることもなるべく書いておく。
 また、別のクラスで提出されたアイデアの交換にもなるはずだという期待もある。

 休校明けの最初の教材は「ミロのヴィーナス」。
 休校中に「ホンモノのおカネの作り方」「少年という名のメカ」と、評論→小説の順に扱ってきて、この後で定番の「ミロのヴィーナス」か「山月記」かという選択だったので、同じパターンを踏襲して、評論→小説にしようとしただけだ(ということでこの次は「山月記」)。
 だが始めてみると、ここまでのブログでの読解で使ってきたメソッドが意外と使えることに気づいて、「ミロのヴィーナス」を取り上げた偶然を幸運だと思わされる。

 読解のための作法は、文章の全体を見ることと部分を見ることを交互に関連させながら、それぞれの考察結果を互いにそれぞれの考察に活かすように進めていく、というのが常套手段だ。
 この文章は何を言っているんだろう? と、文章全体に意識を向けるか、ここの一節は何を言っているんだろう? と部分的な表現に意識を向けるか。
 ここでいう「全体」というのはその文章の主旨や、論の構成、そこで論じられている問題の社会的な背景などを指す。
 「部分」というのは、局所的に読みが滞ったり靄がかかったような印象があって、一読して腑に落ちるとは言い難い一節のことだ。
 「ミロのヴィーナス」という文章は「全体」と「部分」、どちらが難しいか?
 そう問えば誰もが思い当たる。「全体」よりも「部分」の方が圧倒的に手こずるはずである。「全体」として何を言っているかは一読してわかる。共感できるとは言い難いが、とりあえず主旨は読み取れる。
 そこでまず「全体」を問う(註)。導入にまず易しいところから入る。

 とはいえいま言ったとおり、この文章の主旨はあまりに明らかである。それを20字以内で簡潔に表現せよ、などという問いも悪くないが、その前に少々ひねる。教科書に収録されている「空白の意味」(原研哉)を読み比べるのである。
 二つの文章を読み比べて、次の2点について考えをまとめるように指示する。

  • 二つの文章で対応する表現
  • 二つの文章に共通する主旨

 ここからは初のグループワークだ。「主旨」は上記の通り簡単だが、「対応する表現」はさまざまな箇所を挙げうるから、それぞれの見つけたところを交換する。
 班での検討の後は発表だが、とにかくあちこちが挙がる。クラスによって様々な箇所が発見される。
 「可能性」は共通して文中に登場して「対応」する語である。
 「対応」のわかりにくいものは応答によって明らかにする。皆の言う引用が長いと、どこが「対応」しているかわかりにくい。
 例えば

  • 「ミロの…」  おびただしい夢をはらんでいる
  • 「空白の意味」 未来に充実した中身が満たされるべき機前の可能性

 が対応している、というような意見が出される。ぼんやりと、そうだとは思える。だがどこがどう「対応」しているのか?
 そこで、短く切って、何と何が「対応」しているかを明らかにする。
 「おびただしい夢」「機前の可能性」が、「夢をはらんでいる」「未来に充実した中身が満たされるべき」が対応しているとすれば「」は? 「空白」「」である。さらに「ミロの…」では他に「欠落」「失われた」があり、「空白の意味」では「省略」の語がある。
  • 「ミロの…」  存在すべき無数の美しい腕への暗示
  • 「空白の意味」 空っぽの器に~何かが入る「予兆」
が挙がった時にはこちらがハッとしせられた。「暗示」と「予兆」!

 また、皆から挙がらなかったもので、こちらから一方を挙げて考えさせたものもあった。
 「空白」の「イメージ」に対応する語を「ミロの…」から挙げよ、という問いは難易度のちょうど良い問いのはずだ。
 「イメージ」の日本語訳としてしばしば用いられる、などとヒントを出しながら、候補をどんどん挙げるよう指示すると、「想像」「夢」など、悪くない対応語が挙がり、誰かが「心象」にたどりつく。
 この問いはむしろ、最初のクラスで「イメージ」「心象」の対応を指摘した生徒がいたので、後のクラスではこちらから問いかけたのだった。

 さて「主旨」は「ない方がかえって想像させるので良い」くらいの捉え方で良い。数人にきくと、結局は趣旨は同じだが、それぞれに違った表現で語られるところが面白い。
 すぐに既習のメソッド二つを応用する。「問いと答え」「対比」だ。これもグループワークである。

  • 全体を捉える「問いと答え」はどう表現できるか?

 「問い」の形そのままの表現は文中にはない。上の「主旨」が「答え」になるように「問い」を設定するのである。
 抽象的な表現で、本質的な問題を問おうとする者もいる。それよりも「ミロのヴィーナス」という言葉を「問い」に入れて表現してみよう。
 例えば「ヴィーナスは腕があった方が良いか、ない方が良いか?」という問いは、前に触れた「イエスorノーで答えられる問い」と同じように、益が少ない。二択のどちらかを本気で検討しているような文章ならいいが、この場合は結論は明らかだからだ。
 「ミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」はシンプルで良い。ただ注意が必要だ。「腕がないから。」が答えになりかねない。
 もちろん「腕がないことによって、さまざまな想像の可能性がひろがるから」という「答え」なら良い。
 「問い」の方に「腕がない」を入れてもいい。

  • 問い 腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?

 これなら先ほどの「主旨」がそのまま「答え」になる。

  • 答え ないことでかえってそれを想像させるから。

 こうした考察は、結論を聞いてしまえばあまりに当たり前で、そりゃそうだという以上の発見はないだろうが、問題は生徒一人一人がそれを形にすることには、それぞれにいくらかのハードルはあるということである。
 それなりに考える必要があるということは学習の機会になるということだ。これを聞いて「わかる」ことが学習なのではなく、これを自分で形にすることが学習なのだ。

 ここまでは難易度がそれほど高くないことから、お互いのコミュニケーションの機会として、年度初めにはちょうど良かった。
 だが2回目以降はどんどんハードルが上がる。


 文章を前から読み進めていくようなタイプの授業では、段落毎に「部分」を検討しつつその段落の内容をまとめ、最後の段落まで読んでから「全体」をまとめることが多いだろうが、筆者の授業では基本的に、前から順に内容を「まとめる」といった手順をふむことがない。最初から、考えるに値すると思われる問いを提示する。
 むろん、前の段落から順に「まとめる」ことが「考えるに値する問い」であるならばそうすることもある。それはつまりこちらが「まとめる」のではなく、皆に「まとめ」を問うということだ。
 みんなからすれば、こちらの「まとめ」を聞くまで待つのではなく、必ず自分で「まとめ」ようとしなければならないということだ。