2020年9月30日水曜日

こころ 1 受講の準備

 後期、年内いっぱいは「こころ」を読む。17~18時限の長丁場だ。

 「こころ」は、最も多くの日本人が読んでいる小説である(その一部分とはいえ)。
 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」はもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。
 たとえばこんなアンケートも。
東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク
ここでは4位に「羅生門」、7位の「山月記」も挙がっている、30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は「永訣の朝」の作者だ。18位の「舞姫」は3年で読むことになる。
 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。

 授業に入る前に二つの問いに答えておく。
 Formsで回答する。Teamsのリンクからどうぞ。
 秋休み中の宿題だが10分もかからない。
 とはいえ教科書を持ち帰っていない人は、夏休み中に読んだ記憶だけで答えていい。むしろその方が狙いに適った答えが出るかもしれない。評価はしない(ただ、ユニークな回答は個人的な評価としては覚えておくかも)。回答が秋休み明けの10月頭になってもいい。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「作品の主題」という言い方をよく目に(耳に)する。「作品のテーマ」ともいう。
 「主題=テーマ」って?
  辞書には「芸術作品などの中心となる思想内容」などと書いてある。「こころ」の「中心となる思想内容」って?

 それよりもこんなふうに考える。
 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。
 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。
 小説中の具体的な事物の名称を使って、具体的な筋の展開のみを語る場合、それを「あらすじ」という。いわゆる5W1Hで語るストーリー。誰がこうしてこうなりました…。
 それに対して、小説中にはない、何らかの抽象的な語句を使って、この話は「どういう話」なのかを他人に紹介してみる。「どういう話か」が言えれば、それが「主題」だ。
 「こころ」とはどういう話か?

 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。
 もちろん「こころ」は長編小説で、教科書に載っているのはその一部分に過ぎない。
 だが今回の課題はそれでいい。教科書に載っている範囲で、これがどんな話かを語ってほしい(「こころ」全編は当然違う主題で捉えられる)。
 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だ。
 だが、これを最初にやっておく意味は、現状の読みを自覚することだ。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。
 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。
 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない(まあ、といって「山月記」では変化があったかというとそうでもないかもしれないが、あれは、主題がどういうものかは最初からわかっていて、ただそれを的確に表現することが難しいといった小説なのだ)。
 「こころ」は、授業が進んでいくと見方がガラッと変化するテキストだ。
 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストである。

 もう一つの問い。
問2 Kはなぜ死んだか?

 この問いも、普通は、数時間の授業の後で考察するものだが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。

 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。

 例えば「羅生門」を読んで浮かぶ最大の疑問は「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。
 物語は、下人が最後に老婆の着物を剥ぎ取って去るところで終わる。この行為の意味「なぜ引剥をしたか?」は「羅生門」の主題と結びついている。なぜなら、冒頭でそうした行為への迷いが問題提起として示され、行為の実行という結末はいわばその回答であると読めるからである。
 例えば「主題」を〈生きるために各自が持たざるを得ないエゴイズム〉などと表現するのは、下人の「引剥」という行為を「エゴイズム(利己心)」の表れだと解釈しているということだ。下人は、生きるためには悪も許されると考えて引剥をしたのだ。
 このように、物語の中心的な問いと「主題」は表裏一体の関係にある(ただしこうした「羅生門」把握は間違っていると当講座授業者は考えているが)。
 「羅生門」では「なぜ引剥をしたか?」は少々考察を必要とする問いで、それだけに主題の捉え方にも様々なバリエーションがあるが、「山月記」の中心的問い「李徴はなぜ虎になったか?」は、それほどのバリエーションはなく、したがって主題の把握も自然になされる。ただ、繰り返しになるが、「山月記」の場合は表現が難しいのだった。

 Kの死をどう受け止めるかという問題と、「こころ」がどういう話だと考えるかという問題は、切り離して考えることはできない。論理的な整合性、むしろ因果関係があるといってもいい。この二つは互いを根拠づけるように整合しているのである。

 主題を考えるとは、この話はどんな話か、を考えるということだ。
 「こころ」がどんな話かを把握する最大の鍵は、Kの自殺をどう捉えるか(「私」がそこにどう関わっているか)だ。
 これらは今年度最初から繰り返し言ってきた文章読解のメソッド「問いを立てる」の実践である。
 「こころ」読解のための大きな目標として、これら二つの大きな問いを最初に立てておく。

 さて「こころ」の主題は何だろう?
 Kはなぜ自殺したのだろう?

2020年9月24日木曜日

ロゴスと言葉 10 構造的同一性

 「部分」の解釈としてもう一カ所。

ロゴスとしての〈名=言葉〉があって初めて世界は分節され、実質的なもろもろの差異が構造的同一性で括られることによって存在を開始するのであるから、ロゴスが生み出したカテゴリーこそが、一見自存的実体と思われていた〈指向対象〉だと言わねばならない。


 前半後半ともに容易には腑に落ちない表現が含まれているうえに、前半と後半の論理的つながりも俄には理解しがたい。

 「構造的同一性で括られる」とは、それらのもろもろのモノのもつ「構造」が同一のものを、それぞれの差異を捨象して一つの仲間としてまとめることだ、と解釈したくなる。

 例えば、「机」という概念で示されるもろもろのモノには、四本の足で支えられる平面があって、その上で何かの作業をする…といった「構造」的な同一性があることによって、材質や大きさや付属物に違いがあっても、一つのカテゴリーに括られるのだ、というふうに。

 だがそうではない。

 「同一性」は「構造的」に決定される「同一性」だ、と言っているのだ。

 何の「構造」?

 対象となっているモノの構造ではない。言語のもつ構造である。

 対象となるモノの構造が同一ならば、それをひとつのカテゴリーに括る、と言っているわけではなく、言語という構造の中で同一のカテゴリーに括られることで、初めてモノは存在を開始する、と言っているのだ。

 この「構造」を喩えたのが「網」という比喩である。

 網目の一枡は、隣接する他の枡目と区切られることによって一つの枡目となる。枡目同士は相互の緊張によって支えられている。こうした枡目の一つ一つが「言葉」(単語)なのであって、それは「網」という構造をつくっている。それが言語体系だ。

 「構造的同一性で括られる」とは、現実的には様々な差異のある「もろもろ」がそうした構造の中にある一つの枡目に入れられることによって初めて「存在を開始する」と言っているのである。

 そのそれぞれの枡目こそ「カテゴリー」であり、それが言葉の指し示す「指向対象」=言葉の「意味」だ。

 現実の「机」は「テーブル」や「椅子」と区別される「机」の枡目の中に括られた時に初めて「指向対象」として「存在を開始する」のであって、それ以前に「自存的」に在ったわけではない(もちろん物理的には存在していても)。


 こうした一節も、言語論の基本的な考え方がわかっていないと、この文章の解釈だけでは適否を判断できない。

 他にも腑に落ちない箇所があれば、いつでも質問に応じたい。納得がいくまで考えよう。

ロゴスと言葉 9 象徴の森という名の文化のシミュラークル

 「ロゴスと言葉」という文章は、ソシュールの言語論に基づく様々な言語論―たとえば「ものとことば」や内田樹の文章―の中でもとりわけ読みにくい。

 とはいえ全体的な論旨の把握や、他の言語論との比較の中で、最初はわからなかった箇所も、それなりに読めるようになってきたはずである。

 が、依然としてすんなりとは腑に落ちない箇所もあるだろう。

 最初に予告した「細部を読む」を最終段階で迎えるにあたって、取り上げたい箇所はいくつもある。最終的な応用課題として、今までの考察を元に、厄介な表現を説明できるようになっているか、チャレンジしてみたいところではある。


 とりわけ厄介なのは以下の一節である。

彼女は次第に象徴の森という名の文化のシミュラークルに入っていく。繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。


 まず「象徴の森という名の文化のシミュラークル」を説明してみよう。

 どういうことを言っているかはもうそれなりにわかっているはずだ。

 問題は、どう説明するか、である。


 この表現を分析するには、「象徴」「文化」「シミュラークル」それぞれに込められた意味合いを捉えるとともに、「象徴の森」という比喩や「名文化」の二つの「の」のニュアンスを捉える必要もある(所有格の「の」には様々な意味・用法がある)。形容句の係り受けの構造もあやふやだ。まったくもって厄介な問題が凝縮した表現だ。


 「象徴」はこのブログでも頻出。というか、すべての文章の読解で「象徴」について考えてきた。「金」「少年」「手」「虎」「雪」…。

 「象徴」とはそれをそれという具体物として捉えず、抽象概念として捉える認識のことだ。「手」は「世界との媒介の手段」、「虎」は「強さ/孤独/制御できないもの」、「雪」は「聖なるもの」…。

 言葉はすべて、特定の具体物を指すのではなく、概念を表している。「机」という言葉は目の前の学習机を指しているのではなく、「机」という概念を表している。一つの机を指して「机」と言ったとしても、その机は「机」という概念の一つの具体的現れとして捉えられている。

 ということは、言葉で世界を捉えるとは、概念として世界を捉えるということである。

 我々が言語を通して見ている世界にはそのような「象徴」が溢れている。それが「森」という比喩で表されている。我々はそうした「象徴」に囲まれている。


 「シミュラークル」は「シュミラークル」ではない。英語の「シミュレーション=模倣」の方が馴染みがあるだろうか(これも「シュミレーション」ではない)。

 教科書の註ではわかりにくいが、とりあえず「コピー」のことだと考えておこう。「本物ではない」という意味だ。

 我々は「象徴」に囲まれている。つまり我々が見ているのは個々の具体物ではなく、概念なのである。言葉を使ううちに、少女は現実の具体物=オリジナルではなく、概念=コピーの「森」の中に入っていく。


 「文化」は第3回「ものとことば」比較の中で考察した。

 本文の趣旨を捉えるためには対比の考え方が有効であり、それはそのまま説明のためにも有効である。

 「象徴」「シミュラークル」も対比で捉えて以下に列挙する。

    動物/人間

 感覚・運動/言語

    現実/虚構

   具体物/象徴

    自然/非自然

    本能/文化

 オリジナル/コピー

      /シミュラークル

 子供は言葉を使うことで左のような世界観から右のような世界観の中に「入っていく」のである。

 対比項目を列挙したら、それを繋げて考える。

 それぞれの項目をどのような順番で繋げてもいい。例えば左辺の項目を繋げて「動物現実世界のオリジナル具体物を感覚で捉える。それは本能に根ざした自然な捉え方だ。」というように。

 右辺を繋げてみよう。

 人間は言葉を通して、世界をそのままでなく、コピーされた象徴として捉える。それは生物にとっての自然ではなく、人間が作り上げてきた文化的シミュラークルに生きているということだ…。


 この対比がわかれば、次の一節も理解できる。

この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての〈モノ〉ではなく、文化の中でのみ意味をもつ〈コト〉として存在し始めたと言えるだろう。(102頁)

 「ゲシュタルト」が鬱陶しいがそこに惑わされずに、これも「ではなく」型の文型で対比を表わしていることを見てとる。左辺を否定的に提示し、右辺を主張しているのである。

 するとこれも、上の対比軸上に並べられる。

 〈モノ〉とは「人間としての種」=動物が捉える具体物であり、〈コト〉は「人間」が言語によって捉える概念的表象である。


 「シミュラークル」には、註によると「オリジナルが失われた」というニュアンスがあるという(『現代文単語』には残念ながらこの重要なニュアンスが説明されていない)。

 ボードリヤールが広めた「シミュラークル」という概念の重要性は、一般的に皆が信じている「オリジナル/コピー」という対立を無効化するところにある。我々が生きている世界は「コピー」だが、といって「オリジナル」がどこかに存在するわけではないのだ。

 丸山がここで「シミュラークル」という言葉を使うのは、左辺のような「オリジナル」な世界すら実は想像の産物でしかなく、我々は右辺のようにしか世界を捉えられないということを強調しているのである。


 また、この考え方は前回説明した「言語の恣意性」にも重なってくる。

 「言語の恣意性」とは「言語は現象と独立した構造をつくっている」ということだった。そしてここでいう「現象と独立した構造」とはそのまま「象徴の森という名の文化のシミュラークル」に他ならない。

 シミュラークルは現実世界と独立してるがゆえに恣意的である。コピーはオリジナルの手を離れて自由なのである。


2020年9月20日日曜日

ロゴスと言葉 8 -どちらが先か?

 言葉と表象、どちらが先か?


 「言葉が先」の鈴木孝夫は先に引用した箇所で次のように言っている。

ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。(75行目~)


 「切り離して扱う価値があると認めた」というのは、山鳥の言う「心のはたらき」がまずあるということだ。それは「切り離」された「表象」が先にできたということではないか?

 だが「表象が先」の山鳥はこう言っている。

心に生成する表象はそれ自体としては心そのものであり、心から切り離すことはできない。その表象に音韻(名前)が貼りつけられると、音韻と表象は一つの構造(言語記号)を作り、心から切り離せるものとなる。(8行目~)


 表象は「心から切り離すことはできない」、名前がついて始めて「心から切り離せる」というのは、「表象が先」にあるわけではないということだ。山鳥自身がそう言っているのである。

 もちろん「心のはたらき」くらいなら、先にあるだろう。だがそれが言語と対応した「表象」になるためには「音韻と表象は一つの構造を作」る必要があるのだ。


 「言葉が先」と主張しているはずの鈴木が、まるで「表象が先」であるかのように言い、「表象が先」と主張しているはずの山鳥が「表象」は「先」にはない、と言っているかのようだ。


 つまりどちらが先だと言おうとしても、それに反するような記述が自分の文中にまぎれこんでしまう。


 では言語論の元祖、ソシュールは何と言っているか?

 「同時だ」と言っているのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉は単なる無意味な発声や模様である。二つが結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する新たな言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。

 言葉と表象は同時にしか存在し始められない。メルロ・ポンティが次のように言うのはそのことである。

事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである。


 だがまだ納得できない人もいるだろう。

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 こうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのである。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのである。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。「まだ名前を持たないもの」という言葉をつけるまでは「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのである(もちろん物理的実体はある。認識の中に「表象」として存在していないという意味だ)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。

 「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 素朴に言えば、そんなバカな、と感ずる。犬と猫の違いは見れば分かる。言葉より先にその違いを認識できないはずはない、と。

 だがそうではない。我々は既に言葉によってカテゴリー化された「象徴の森のシミュラークル」に生きているから、それ以前の認識の状態を想像することが難しい。言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはアレコレの個体差があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きいのである。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のようなズルい仮名の想定も含めて、名付けが必要なのである。


 言葉と表象は同時にしか成立しない。

 そしてまた、どちらもが単独で先に「ある」のも確かである。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥がいうように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導するのである。

 だが一方で、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレが生じるからこそ、新しい言葉が生まれるのである。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めているのである。それを山鳥は「心のはたらきが先」と言っているのだろう。

ロゴスと言葉 7 -言語の恣意性

 授業者が指定した、具体例を論拠として述べている部分の比較から生まれた、有益な議論を紹介する。


 山鳥は次の事実を示して「表象が先」と述べる。

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


 一方で鈴木は次の事実によって「言葉が先」と述べる。

実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。


 この二つの記述それぞれに有効な反論が授業で提示された。

 まず前者、山鳥に対して。

 「同じ表象」「同じ海、同じ空」と山鳥は言うが、それが「同じ」であることはどうしてわかるのか。翻訳を通して、限りなく近い表象であることが両言語話者に了解されていくこともあるだろうが、その表象がずれている例はたちまち見つかる。したがってこの「同じ」は「比較的近い」「大体同じ」であることが言葉の使用を通して推測されるに過ぎない。それを「同じ表象」が「先に」存在しているかのように表現し、それを論拠にしているのは、実は結論ありきで「事実」を捏造しているのである。

 次に後者、鈴木に対して。

 言語によって言葉の示す「表象」がずれていることは、言葉が先であることの根拠にはならない。ある民族は、その風土、自然環境、生活習慣などから、対象を認識し、表現する上で、対象をある切り取り方で「表象」する。それが民族毎に違ったものになるのは自然なことだ。従ってそうして切り分けた「表象」に名前としての言葉を貼り付けるのだから、言葉の示す「表象」が言語毎にずれるのは当然である。言葉の示す範囲・幅がずれていることは、「言葉が先」である証拠にはならない。「表象が先」だからだ、と言っても一向にかまわない。


 山鳥は違った言語が「同じ表象」を「持ちうる」ことを根拠に「表象が先」と言い、鈴木は言葉の示す表象がずれている例を根拠に「言葉が先」という。

 だがどちらにも上記の様な反論ができてしまう(これらの反論を提起した者、鋭い!)。


 両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、フェルディナン・ド・ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が共通しているのも、これらがソシュール言語論に定番の用語だからだ。

 ソシュールについては内田樹の『寝ながら学べる構造主義』で紹介されており、春休みの宿題として皆が読んだはずなので、ここでは説明しない。

 ソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」である。

 「恣意性」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。

 各言語による異なった名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。

 ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対してどういう形態をもとりうる。これが言語のもつ「恣意性」だ。

 これだけ聞くと、どちらかといえば「表象が先」であるような印象になる。

 だが実は「言語の恣意性」は上のような説明でのみ理解すべきではなく、「水/Water」の例のように、対象の切り分け方の「恣意性」のことでもある。どうとでも切り分けていいのだから表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。つまり「言語が先」なのだ。

 山鳥は前者の「恣意性」を「表象が先」の根拠とし、鈴木は後者の「恣意性」を「言葉が先」の実例として用いているわけだ。


 だが二つの「恣意性」は別々の物ではない。それらは同じ原理から派生している。

 それは「言語は現象と独立した独自の構造をつくっている」という原理である。

 独立しているから、現象に対してどのような形態をもとりうる(各言語で違った名称になる)し、現象をどのように切り分けることもできる(各言語で意味の幅が異なる)。

 これがソシュールの言う「言語の恣意性」である。「独立している」=自由=恣意的なのである。

 そうした「言語の恣意性」を唱えた元祖、ソシュールは、この、どちらが先か問題について何と言っているか?


ロゴスと言葉 6 -批判的検討

  鈴木孝夫は自らの立場を〈一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。〉と表現し、〈ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている〉と言う。

 一方、山鳥重は〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉〈まず心があり、ことばがそれを追うのである。〉と言う。

 「言葉=名前」が先か、「ものの認識=観念=表象=心」が先かを巡って、鈴木と山鳥は一見正反対の主張をしているように見える。なぜこんな、あからさまな食い違いが生ずるのだろうか。

 言語学者である鈴木が「言葉が先」と言い、精神・脳神経学者である山鳥が「心が先」と言っているんだな、と考えれば、なんだか図式的にはまりすぎていて、ある意味で腑には落ちるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問が残る。


 議論をかみ合わせることはとても難しいと、どのクラスの議論をきいていても感ずる。

 鈴木は「ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだ」という。

 それに対し山鳥派が、そんな馬鹿な、受け入れられない、というのは実感に照らして無理もないことだ。言葉がなくても犬と猫の区別はできるだろう、どうみても。

 一方鈴木派はそれを受け容れているのである。なるほどそうだと思っているから「言葉が先」理論を支持しているのだから。

 だがこれでは水掛け論である。互いが、自分の感覚に基づいて主張し合っているだけである。といって根拠を言おうと思うと、単にその説を繰り返してしまうばかり。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や反論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。


 例えば、山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後で、必ずタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。自分で作るのか。

 山鳥派はどう答えるだろう?


 一方山鳥派はこう問う。

 「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 授業者の想定している結論は、鈴木説、山鳥説、どちらでもない。

 ただ、どちらかというと山鳥の記述に甘さが目立つ、とは思う。

 上記の様に「表象が先で言葉が後」と言ってしまうと、まるですべての名前=言葉は、それぞれの人間がそれぞれの場面でいちいち作り出したものだとでもいっていることになってしまう。

 だがそれでは言葉が他人同士を媒介するコミュニケーションの道具にはなりえない。言葉とは個人のものではなく、共同体のものである。言葉とは何より、すべての人間にとって基本的に所与の(しょよ=与えられる所の)ものである。我々はこの世に生まれて、既に存在する「言葉」達に次々と出会っていくのである。そういう意味でまさしく「言葉」は「先」にあるのである。


 例えば丸山の「デンシャ」のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。

 山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」という表象を作って、それを「人間」と名付け、「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を作って「人形」と名付けたということになる。さらに「デンシャ」という言葉より前に「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ったということになる。

 これはあまりに高度な哲学的思考である。幼い子供の脳裏に、高度な抽象化思考によってそんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無茶だ。

 しかもそうした表象が生じたところに、折良く「デンシャ」という言葉がもたらされたというのである。

 これが言葉を獲得する際に起こることの一般的なモデルだなどと、どうして信じられるだろうか?

 それよりもこう考えるのが現実的なはずだ。

 まず「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されたのである。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通した「ソレ」という感覚的イメージに結びついていく。そうした感覚的イメージこそが「表象」だ。

 さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化される。

 少女の身に起こったことを想像するならば、こうした描写が自然ではないだろうか?

 山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。


 一方で鈴木が次のように言うのも怪しげである。

日本人にとって、水や湯や氷がそれぞれ独立した、いわば別個のものであるのは、「水」「湯」「氷」のような、互いに区分が明確で、それぞれが独立した存在であることばの持つ構造を、現象の世界にわたしたちが投影しているからなのである。ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。


 前半は「言葉が先」と言っているようだが、後半で「価値があると認めた」というのは山鳥の言う「心のはたらき」ではないか?

 とすれば先に「切り離」された「表象」が先にできたのではないか?

 前半と後半では論理が逆転しているような感じだ。


 つまりどちらの記述にも「ツッコミどころ」がある。

 ではどう考えたらいいのだろう?

2020年9月16日水曜日

ロゴスと言葉 5 -白黒つける

 言語論をめぐる複数の文章を読み比べている。

 丸山圭三郎、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章である。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。

 だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。

 明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのである。たとえ一次的な判定・判断であるにせよ、ひとまずは白黒つけようと考えてみるべきなのだ。


 一方で、白黒つける必要はない、という意見も出た。二人の言っていることは見かけのように相反するわけではないのだ。現に共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木・丸山と重なってくるような印象もある。

 そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違が見られるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。

 また、二人の述べている「言葉の働き」は、違ったフェーズ(位相)を対象としているのであって、矛盾することなく同居するのだ、という解釈も提出された。丸山はそれを「一次的機能」「二次的作用」としてどちらも認めていたではないか。

 だがそれでも、どちらを本質と見なすかにおいてはやはり見解の相違は否定できないのではないか?


 さて、両者の主張を検討しよう。

 だがどちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。みんなの話を聞いていても、山鳥支持を唱えようとして、単に山鳥説を説明するだけにしかなっていない、といった場合が多い。それはそうだが、それが彼の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。

 白黒つけるためには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の主張を等分に見比べる必要がある。


 たとえば次の部分。

ヒトはなぜことばを使えるか

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


ものとことば

ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。


 同じことを言っているように見える。

 ではこれらと、下の記述を比較するとどのようなことが言えるのか。


ものとことば

英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。


ロゴスと言葉

具体的にいえば、日本語を母国語とする人々に、「犬」と「狸」が別の「動物」であるような意識を生ぜしめたり(フランス語ではいずれもchienと呼ぶ)…すること、さらにはメタ的レベルにたつ「動物」とか「昆虫」というクラス名で、それぞれ「犬」と「狸」、「蝶々」と「蛾」を同一カテゴリーにまとめることを可能にするものは、言葉の力以外のなにものでもない。


 上の二つと下の二つをそれぞれ可能な限りシンプルに言い換えて、両者がどのようなことを言うための例かを明らかにする。

  • 前者は、同じ「モノ」を言語ごとに違った言葉で表わしている。
  • 後者は、言語ごとに意味の切り分けの幅が違うことを示す。

 まだ比較しにくい。共通する言葉を使って大胆に言い換えてみよう。


名前が違っても同じモノを指している

/名前が違ったら違うモノである


 この二つの事例はそれぞれ、前回に確認した以下の山鳥/鈴木の主張を、どのように根拠づけているのだろうか?


 表象が先で言葉が後/言葉が先で表象が後


 このように、比較のための基準を揃えてはじめてその是非が検討できる。


 同じように山鳥の紹介する次男のエピソードと丸山の電車内の少女のエピソードを比較して、どのようなことが言えるか?

 すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。自然科学はもちろん、社会学や経済学などの人文科学も同様である。

 仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則によって、天体の運行を説明する。相対性理論によって宇宙の成り立ちを説明する。それが人々を納得させたとき、その仮説が定説となる。

 つまり、山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみるのである。

 また鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。

 どちらかが不自然だということはあるか? どちらに説得力があるか?

2020年9月11日金曜日

ロゴスと言葉 4 -ヒトはなぜことばを使えるか

  さらに、山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」を読み比べる。

 ここにもまた「差異化」「ラベル」「範疇化(=カテゴリー化)」などの用語が登場する。内容的にも「ものとことば」「ロゴスと言葉」のあちこちを連想させる部分は多い。

 だがこの文章を読み比べる時に浮上する最大の問題は、共通点よりは相違点である。

 どの一節を読み比べることでどのような相違点が指摘できるか?


ヒトはなぜことばを使えるか

まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。(14~16行)

まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。(20~21行)


ものとことば

ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている(32~33行)

わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。(40行)。 


 上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。

山鳥 心が先で言葉が後

鈴木 言葉がものをあらしめる


 「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」を同じものだと認めていいか?

 そちらも比較のために共通する言葉に言い換えてみよう。

 鈴木の言う「もの」とは、物理的な存在ではなく、その存在を「もの」として認識するかどうかという問題である。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉に対応している。

山鳥 表象が先にできて言葉が後から貼り付けられる

鈴木 言葉が先にあって表象が後から存在できるようになる


 では丸山はどういう立場か?

 丸山が鈴木と同趣旨のことを述べている部分については前回指摘した。ただ、全面的に鈴木と同じ主張をしているかというと、それには留保が必要である。

同じ名づけと言っても、カテゴリー自体を生み出す命名作用(世界の分節)のような一次的機能と、生まれた犬に「ポチ」と名づける二次的命名作用(ラベルの貼付)としての機能の二つがあるのである。(99頁7行~)

 鈴木孝夫が述べているはたらきは上の「一次的機能」にあたり、山鳥が述べているのが「二次的作用」にあたる。丸山は両方があると言う。

 だが「ロゴスと言葉」ではこの「一次的機能」について主として述べているので、鈴木孝夫との共通性が強く感じられるのは間違いない。


 3人の文章だけ読んで多数決でもあるまいから、相反する主張がなぜ生じたのか、またそれらの主張についてどう考えるべきか、考察を深めたい。

 それぞれの論の根拠は何か?

 どのような論理で自らの主張を正当化しているか?

 その論理に整合性はあるか?

2020年9月10日木曜日

ロゴスと言葉 3 ものとことば

 問いを立て、要約した。
 これらは、文章の全体を把握しようとする頭の使い方である。
 これまでもやってきたように、読解は、全体の把握と細部の考察が補い合うように進む。では次は細部の考察か。
 この文章ではこれを最後に回す。その前にまずはいくつかの言語論を扱った文章を読んで、言語論の基本的な考え方を把握する。
 「わかりにくい」と感じられる細部の言い回しをいくらこねくり回しても、その文章の内部では自家中毒に陥るばかりで、結局ピンとこないことになりかねない。それよりも、同じ考え方に基づいた文章を読み比べて、同じ考え方が別の表現で述べられているそのバリエーションに触れてから、戻って、その厄介な箇所を考察する方が有効なのである。

 最初に読み比べるのは鈴木孝夫の「ものとことば」である。
 これは1学年で使っていた「国語総合」の教科書に収録されているので、はじめて読むわけではない(ただ、収録部分がズレてはいる)。
 同じ内容を述べていると思われる部分を探し、対応する表現を指摘する。

 最重要箇所は以下の2カ所。

ものとことば
それは、ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめているという見方である。(32~33行)
客観的に存在するものを人がことばによって表現するというよりは、ある特殊な見方、現実の切り方が集約されたものとしてのことばが、わたしたちに、そのような特徴、性質を備えた事物がそこに存在すると思わせると考えるほうが、妥当のようである。(77~79行)

 これと対応する内容を「ロゴスと言葉」から挙げる。

ロゴスと言葉
ロゴスとしての言葉は、すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼り付けるだけのものではなく、その正反対に、名づけることによって異なるものを一つのカテゴリーにとり集め、世界を有意味化する根源的な存在喚起力として捉えられていた(97~98頁)

 これらはいずれも、結論を述べている箇所であり、抽象度が揃っている。
 そして対応が認められる最大の要因は、三カ所とも、文の途中が逆接していることである。「ではなく」または「よりは」によって、その前後を逆接させており、前後それぞれぞれの内容が対応しているのである。
 逆接するということは、その前後が対比されているサインである。筆者が主張したい内容を言う前に、それと対比的な考え方を言っているのである。
 これらに共通する対比を、なるべくシンプルに表現してみよう。


  • ものが先/言葉が先
  • 先に存在するものに言葉をつける/言葉によってものが存在するようになる


 「ではなく」「よりは」などの対比を表わすサインに注目すれば、対比されている二項対立そのものが、二つの文章に共通していることがすんなり腑に落ちよう。

 さらに。

ものとことば
ものとことばは、互いに対応しながら人間をその細かい網目の中に押し込んでいる。(18行)
ロゴスと言葉
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。(101頁)

 ここでは「編目」「網の目」という言葉の共通性が目を引く。
 この二つの文が同じ内容であることを示すために、まずは両者が同じ文型になるように言い換えてみよう。
 述語の能動態と受動態をあわせる。
・ことばは人間を網目の中に押し込む。
・ことばは人間の本能図式に認識の網の目をかぶせる。
両者は同じことを言っていると感じられるだろうか?
 「認識の網の目をかぶせる」という比喩は、そうした「網の目」のフィルターを通して世界を見るような認識の中に人間を「押し込む」ことにほかならない。「網の目」を「かぶせられた(受動態)」人間の認識は「編目」の中に「押し込まれる(受動)」のである。

 さらに、次の一節は目を引きやすく、なおかつ重要である。
ものとことば
ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている。(53~54行)

ロゴスと言葉
世界のロゴス化とは、それまで分節されていなかったマグマのごとき生体験の連続体に区切りを入れて、これを観念なり事物なりのカテゴリーとして存在せしめることなのである。(98~99頁)

 どちらも「切れ目のない」「連続体」に「区切りを入れ」「分類する」という言葉の働きを述べている。
 この働きを何というか?
 差異化・分節である。

 これらの言い回しが二つの文章で似ているのは、つまり元ネタがあるからである。二人ともこの文中ではふれていないが、この元ネタは、この一連の言語論読解で後ほど登場することになる。

 次の文に語られている「虚構性」は重要な概念なので考えてみる。

ものとことば
言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、ものやことの集合であるかのような姿のもとに、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っているのである。(54~56行)
 主語述語を確認すると「言語は虚構性を持っている」である。あるいは「言語による分節は虚構である」と言い換えてもいい。
こうした内容は「ロゴスと言葉」ではどのように語られているか。

ロゴスと言葉
言語習得によって身につける分節線は、そういう自然の生物的な区切りではなく、まことに非自然的な画定である。(100頁)

 前者の「虚構性」が後者の「非自然的」に対応している。
 ここにさらに、要約過程で「非自然」と「文化」が対応していることにも触れていたことを考えるならば、次のような対比が明らかになる。

    現実/虚構
 本能・感覚/言語
    自然/非自然
    生物/人間
  種がもつ/文化
自存的・実体/関係
    モノ/コト

 こうした対比図は、左辺と右辺それぞれをまとめて通観することが重要である。
 左辺的な認識モデルは「自然界にある実体としてのモノを生物が持つ本能的な感覚で捉える」というものである。
 これに対して、これらの文章が提示しているのは右辺的な認識モデルである。言語による認識は「非自然的で文化的で虚構的」なのである。

 これ以外にも各クラスではそれぞれ何カ所もの対応箇所が指摘された。
 「対応している」と言うためには解釈を要する箇所であり、解釈しているうちに「そういえば対応しているといえないこともない」などと論理がつながってくるのも、国語的訓練として有意義なことだ。
 さらに、こうした読み比べによって、言語論の基礎的な考え方に馴染むことが期待される。
 次の文章でもまた同じような考え方が登場するはずだ。

2020年9月4日金曜日

ロゴスと言葉 2 -要約する

 次は要約だ。今度は口頭で終わらず、文章に書き起こす。テキストを見直してもいい。教科書解禁である。
 要約には条件をつけるのが効果的だ。国語力というのは言語による情報操作の能力のことだから、目的に合わせた様々な条件で操作する練習をするのがいい。
 簡単な条件は字数だ。
 休校中に100字要約と200字要約をしたのはそういう狙いだ。

 今回の条件は「4つの大段落それぞれを一文で要約する」だ。さらにそれぞれの一文は単文(主語と述語が一組の文)であること、という条件をつけた。
 単文にしたのは、なるべく文の構造をシンプルにすることが頭の整理に有効だからだ。日本語として最低限意味を成すような3~4文節くらいの一文にする。
 もちろんそれだけでは説明不足に感ずるだろうが、かまわない。必要に応じて説明できるように、背後には複雑な論理が感得されているとしても、とりあえずなるべく簡素な文構造の一文にする。把握のためには把握した形自体の情報量が多くない方がいいのだ。圧縮率を上げようとすることが理解を押し進める。

 要約しようとするとき、本文中から、そのまま文章の内容をまとめた言い方になっていると思われる一節が見つかることがある。見つかったならそれでもいい。だがいつもそういう一節が文中にあるとは限らない。
 むしろ要約をするには、細部に目を凝らして探すより、全体をボンヤリ眺める方が良い。視野を広くもって、細部を濾して除去してしまうフィルターのような意識で、全体の構造や「大事なところ」を感じ取ろうとする。
 そしてまず主語を決めてしまう。何を主語にするかを考えることは、その段落の主題、最重要モチーフが何かを考えるということだ。実際には主語だけでなく、ほとんど主語と述語の組合わせとして認識されるはずだが、とりあえず「主語を決めよう」と思って全体を眺めると、取り上げるべきキーワード(主語)と、それがどうしたというのか(述語)が意識されるはずだ。
 そこに最低限の目的語や形容をつけくわえて5文節以内くらいに収める。

 例えば1段落を次のように要約するのはどうか?
・言葉の本質はロゴスにある。
 もちろん正しい。だが望むらくは「ロゴス」という言葉を使わずに要約文を考えた方が良い。
 要約の効用は、要約の「正解」を知ることではなく、要約しようとすることが思考の整理になるということだ。これもまた目的ではなく手段、である。
 それならば「ロゴス」という言葉を使って筆者が言いたかったことこそを一文にしようとした方が目的に適っている。「ロゴス」という言葉はまだブラックボックスのようなものだから。開いてしまった方が良いのだ。
 「ロゴス」とはカテゴリー化する=取り集める働きのことだ、と本文にある。したがって、次のような要約が考えられる。
・言葉は事物をカテゴリー化する。(3文節)
・言葉には物事を取り集めるはたらきがある。(5文節)
 2段落はどうか。
 言うべきことは1段落と重なっているように思える。実際にどう要約しようとしてみても、それは両方の段落で触れられているトピックであるように思える。
 だが敢えてそれぞれの段落のトピックに重み付けをして、要約文を書き分けてみよう。
 選ばれる言葉は「存在」「分節」「差異化」あたりだろう。
・言葉による分節で物事の存在が認識される。
・命名は外界の差異化である。

 このように、それぞれの段落を一文にしたら、それぞれの内容の展開の論理がたどれるかどうか通観する。それぞれの段落を表わす一文を、バラバラなままにしておかないで、一続きの論理で把握する。
 例えば1、2段落の要約を、ひと繋がりの論理展開として捉えてみよう。
 「カテゴリー化」は「分節」と同じことだ。とすると、そのまま1,2段落の要約文は1文に書き換えられる。
・言葉によるカテゴリー化によって物事が認識される。
 実際に1文に書き換える必要は必ずしもないが、とにかく論理の繋がり・展開を意識するのは有益だ。
 「差異化」はここではまだ説明が足りていないので、保留にしておいてもいい。「取り集める」ことと「差異化」がどうつながっているのかは後で考えよう。

 さて3段落には子供のエピソード、4段落にはヘレン・ケラーのエピソードが登場するが、これらの具体例はこの一文要約においては捨象しよう。論理展開を追えるように、1,2段落と抽象度を揃える。
 3段落は1,2段落の内容を、具体例で説明し直しているだけのようにも見える。
 それでもそこで具体例を通してあらためて明らかになったことはないか考える。
 段落の末尾は次の通りである。
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。
子供のエピソードを通して示される認識がこのように表わされているとして、これをシンプルな一文に書き換えてみよう。
 「命名を通して」は「言葉による」と同じことだ。「繰り返し、繰り返し」とか「刻一刻と密になる」は大胆に伐り払って「命名を通して本能図式は再編成を強いられる。」としよう。
 「本能図式」が何のことかわかりにくいし、実は「本能図式」が直に「再編成」されるわけではない。そこには「繰り返し」があり、「刻一刻と密になる」過程がある。実際には「本能図式」が言葉による「象徴化」を受け、その「象徴図式」とでもいったものが「刻一刻と密になる」のである。そう考えてみれば勘の良い者は「象徴図式」とは1段落の「カテゴリー」のことだと気付く。
・言語によるカテゴリーは成長の過程で再編成される。
他に「分節線は非自然的な画定である。」を挙げたグループもあった。これも重要な要素ではある。「分節線」はカテゴリーの輪郭のことだから、「成長の過程で再編成される」時に「非自然的」に「画定」されるということだ。
 「非自然的」とはどういうことか? 同段落にある言い換えの言葉を探し、「文化」がそれに近いという感触を得た。
 だがこの要素は4段落でも述べられるので、そちらに入れることもできる。

 4段落はさらに厄介だ。「ヘレン・ケラーのエピソードも同じである」と言っておきながら、どう「同じ」なのか、にわかにわからない。
 手がかりとなるキーワードを決めてしまおう。
 重要なことは繰り返し述べられる。この段落で繰り返される言葉は「文化」「関係」「差異化」である。それぞれを一文にしよう。
・指向対象は文化の中で決定される。
・指向対象は関係の中で決定される。
・指向対象は実体ではなく差異化によって生まれる。
それぞれに、こうした一文にすること自体が、そもそも難しい。「指向対象」が「カテゴリー」とどういう関係になっているかも、現状では理解し切れていないはずだ。
 この三文はどれも同程度に適切だが、その関係を表わすのは、これはこれで現状では難しすぎる。「文化の中で」と「関係の中で」が同じ構文に入っているが、どうしてこういう言い換えが成立するのか?
 「差異化」は1,2段落で言っていればそれでよし、むしろ1,2段落で「差異化」を使わずに、4段落で使うという手もある。
 ついでに最終段落の「関係づける」と「差異化」が同じことであることについて考えた。
 差異化するということは、境界を引いて二つのカテゴリーを分けるということだ。そのとき、その二つのカテゴリーは「関係づけ」られている。比較され、違うものでありかつ隣接すると認識される。「関係づける」ことは二つを「差異化」することなのである。

 例えば4段落を、展開が見えるようにつなげてみよう。
1 言葉は事物をカテゴリー化する。
2 カテゴリー化することで物事の存在が認識される。
3 カテゴリーは成長の過程で文化的に再編成される。
4 カテゴリー化とは、カテゴリーの内と外を差異化することだ。
この4文の流れは「カテゴリー化=ロゴス」を使って論理展開を統一してある。

 現状ではここまですっきりした要約は無理だろう。
 要約は、完璧な要約を「教わる」ことに意味があるのではなく、要約しようと「考える」ことにのみ意味がある。要約しようと頭を使い、ある要約に辿り着いたときに感じるスッキリ感が味わえれば良い。
 あるいは、試行錯誤した要約文を発表して、授業者の反応(よしよし、とか、そうかなあ、とか)をみて、それぞれの要約の適切さについての反省と検討をすることに意義がある。

2020年9月1日火曜日

ロゴスと言葉 1 -問いを立てる

 夏休み明け、第2回の定期考査前まで7~8時限、言語論を読む
 まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。

 「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
 つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
 国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
 今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
 と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
 だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
 「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。

 まずは「ロゴスと言葉」を読む。
 授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
 これができることは、記憶力が高いということではない。
 何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
 そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
 つまり情報の圧縮解凍とは、国語における理解表現にあたる。
 その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
 文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。

 次は、読解のためのメソッドを使おう。
 まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
 どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
 どのような問いが適切か?
そう考えてみるだけで有益だ。
 そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
 ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
 授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
 みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
 たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
 だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
 題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。

  • 「ロゴス」とはどのようなものか?
  • 「言葉」とはどのようなものか?

 この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
 「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
 それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
 この、そう思って全体を見直してみたときスッキリ感を実感してほしい。

 さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
 さらに読解を続ける。