「こころ」は、最も多くの日本人が読んでいる小説である(その一部分とはいえ)。
既に著作権はフリーだから、「青空文庫」はもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。
たとえばこんなアンケートも。
東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンクここでは4位に「羅生門」、7位の「山月記」も挙がっている、30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は「永訣の朝」の作者だ。18位の「舞姫」は3年で読むことになる。
東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。
授業に入る前に二つの問いに答えておく。
問1 「こころ」の主題は何か?
「作品の主題」という言い方をよく目に(耳に)する。「作品のテーマ」ともいう。
「主題=テーマ」って?
辞書には「芸術作品などの中心となる思想内容」などと書いてある。「こころ」の「中心となる思想内容」って?
それよりもこんなふうに考える。
「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。
ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。
小説中の具体的な事物の名称を使って、具体的な筋の展開のみを語る場合、それを「あらすじ」という。いわゆる5W1Hで語るストーリー。誰がこうしてこうなりました…。
それに対して、小説中にはない、何らかの抽象的な語句を使って、この話は「どういう話」なのかを他人に紹介してみる。「どういう話か」が言えれば、それが「主題」だ。
「こころ」とはどういう話か?
小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。
「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だ。
だが、これを最初にやっておく意味は、現状の読みを自覚することだ。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。
そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。
変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない(まあ、といって「山月記」では変化があったかというとそうでもないかもしれないが、あれは、主題がどういうものかは最初からわかっていて、ただそれを的確に表現することが難しいといった小説なのだ)。
「こころ」は、授業が進んでいくと見方がガラッと変化するテキストだ。
認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストである。
もう一つの問い。
問2 Kはなぜ死んだか?
この問いも、普通は、数時間の授業の後で考察するものだが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。
物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。
例えば「羅生門」を読んで浮かぶ最大の疑問は「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。
物語は、下人が最後に老婆の着物を剥ぎ取って去るところで終わる。この行為の意味「なぜ引剥をしたか?」は「羅生門」の主題と結びついている。なぜなら、冒頭でそうした行為への迷いが問題提起として示され、行為の実行という結末はいわばその回答であると読めるからである。
例えば「主題」を〈生きるために各自が持たざるを得ないエゴイズム〉などと表現するのは、下人の「引剥」という行為を「エゴイズム(利己心)」の表れだと解釈しているということだ。下人は、生きるためには悪も許されると考えて引剥をしたのだ。
このように、物語の中心的な問いと「主題」は表裏一体の関係にある(ただしこうした「羅生門」把握は間違っていると当講座授業者は考えているが)。
「羅生門」では「なぜ引剥をしたか?」は少々考察を必要とする問いで、それだけに主題の捉え方にも様々なバリエーションがあるが、「山月記」の中心的問い「李徴はなぜ虎になったか?」は、それほどのバリエーションはなく、したがって主題の把握も自然になされる。ただ、繰り返しになるが、「山月記」の場合は表現が難しいのだった。
Kの死をどう受け止めるかという問題と、「こころ」がどういう話だと考えるかという問題は、切り離して考えることはできない。論理的な整合性、むしろ因果関係があるといってもいい。この二つは互いを根拠づけるように整合しているのである。
さて「こころ」の主題は何だろう?
Kはなぜ自殺したのだろう?