2021年12月22日水曜日

2021年12月21日火曜日

舞姫35 最終回

 最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。


 それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。

 「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。

 だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。

 とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。

 そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。

 今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。


 豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。


 第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。


 主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。

 これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。

 ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。

 皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。


舞姫34 比較読解「羅生門」3 通過儀礼における「異類」殺し

 前述の『人身御供論』の中で、大塚は通過儀礼の物語と、「鶴女房」「蛇女房」「猿婿入り」などの民話に見られる「異類婚」のモチーフを結びつけ、〈移行〉期における随伴者としての「異類」の存在を「移行対象」のアナロジーで考察している。

 『移行対象(transitional object)』とは、絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である『移行期(6ヶ月~1歳頃)』に現れてくる物理的な対象のことである。それは単なる物理的なモノというだけではなく、今まで一方的に依存していた母親のもとを離れようとする幼児の孤独や不安を和らげる魔術的な力を持ったぬいぐるみやおしゃぶり、玩具、毛布、ハンカチなどのことを指す。(「分かりやすい“心理学用語事典・学術用語事典”のブログ!Keyword Project+Psychology」)

 幼児は成長する過程で、いったんは「移行対象」に依存し、その後再びそれを捨て去るのであり、これが、「異類」との別離が必須である理由だと大塚は分析する。

 先の『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、「ハク」と呼ばれる川の精霊に助けられて、異界での〈移行〉期を過ごす。だが、通過儀礼の物語の最終的な段階である〈再統合〉のためには、千尋は「ハク」との別れを経験しなければならない。

 そして「異類」との別離は、時として殺害という形で表現されることもある。あるいは主人公によって、あるいは物語そのものの力によって、「異類」は通過儀礼の供儀として殺される

 グリム版「赤ずきん」では、森へのお使いが〈分離〉および〈移行〉のプロセスに対応し、帰還が〈再統合〉に対応している。だとすれば、森という異界に住む狼が、赤ずきんにとっての「移行対象」である。ベッドに潜んで赤ずきんを誘惑し、「食べて」しまう狼に性的な比喩を読み取ることは容易だ。つまり狼は赤ずきんにとっての「異類婚」の相手である。そして主人公は「移行対象」である「異類」を殺すことによって、通過儀礼の物語を完遂する。

 「羅生門」の老婆もまた、下人によって手荒く蹴倒されることによって、「移行対象」としての役割をまっとうしたのだといえる(そうした観点からは『千と千尋の神隠し』における〈移行〉期の随伴者は「ハク」及び「カオナシ」「湯婆婆」の三者に分離しているというべきかもしれない。子ども向けの作品としては随伴者の殺害といった物騒な展開にするわけにもいかないだろうから、「ハク」とは別れのみを体験させ、「殺害」に相当する闘争の相手として「湯婆婆」を置いているのかもしれない。「カオナシ」の存在はまた奇妙な謎に包まれていて、ここでは分析しきれない)。

 こう考えてみると、「舞姫」の物語が、なぜエリスの発狂という、読者にとって不全感を拭いがたい形で完結しなければならなかったのかという疑問にも、ひとつの解答が得られる。

 それは「舞姫」という物語が、豊太郎を近代日本という社会に〈再統合〉させる通過儀礼の物語だからなのだ、という答えである。

 エリスという「異類」は、そのための供儀として殺されなければならなかったのだ。


 通過儀礼とは、当人にとっては共同体への参入の資格を得る機会であり、それが「成長」というビルディングス・ロマンの形式にも比せられる理由だが、一方で通過儀礼を要請するのはあくまで共同体の側である。

 共同体は、内部の秩序を成立させるために、異物を作り出してそれを外部に排除する必要がある。「一寸法師」や「桃太郎」における鬼ヶ島の鬼たちも、そうして殺される「供儀」である。

 老婆が着物を剥ぎ取られたうえで蹴倒されるのも、エリスが発狂したうえで捨てられてしまうのも、狼や鬼などの異界の住人が当然のように腹を裂かれ討ち滅ぼされてしまうことを考えれば、やむを得ない物語上の要請があったからだと考えるべきかもしれない。

 それは主人公による主体的選択などではなく、物語が強いる構造上の必然だ。そこでは登場人物の豊太郎もまた、近代的「個人」として行為の起源を担うことはできない。


舞姫33 比較読解「羅生門」2 通過儀礼の形式

 「舞姫」と「羅生門」それぞれに、通過儀礼の構造を見つけることは難しくない。

 「舞姫」では、豊太郎の洋行がすでに〈分離〉の形式を成していることは明らかだが、さらにここに「母親の死」と「免官」という要素を加えて、鷗外は豊太郎を日本、及びその安定した社会構造から念入りに〈分離〉する。

 一方の「羅生門」の下人もまた「主人から暇を出され」ることで社会的秩序から〈分離〉されている。

 〈分離〉はまた、異界への越境である。たとえば千尋が神々の世界に迷い込む際にトンネルを通過する場面は、〈分離〉の形式を、「境界を越える」という空間的な移動として象徴的に表現したものだ。

 「羅生門」における越境を空間的に展開したのが、もとより境界上に存在する門としての「羅生門」という舞台設定であると一見したところ見えなくもない。

 だが下人は千尋のように門を通って都の外へ出るわけではない。そもそも「羅生門」が隔てている「洛中」と「洛外」は、〈洛中のさびれ方はひととおりではない〉以上、それほど明確なコントラストを描いているとはいえない(むしろ初出によれば、下人はこのあと京都の町、つまり「洛中」へ舞い戻るのだ)。

 したがってここでの越境は、羅生門の上層へ下人が登ることによって表現されていると言える。


 一方「舞姫」における越境について考えるには、「山月記」「檸檬」との比較において考察した「舞姫」の空間把握が参考になる。

 すなわち大きなスケールでいえば日本→ドイツが〈分離〉=越境であるには違いない。

 だが、豊太郎にとってドイツは異国ではあるが、ウンテル・デン・リンデンに立つ豊太郎はまだ社会的秩序から断ち切られているとは言い難い。豊太郎にとって本当に異界であるのは、ここまでも空間的な対比として捉えてきた、反ウンテル・デン・リンデン的空間であるクロステル巷だ。異界としてのクロステル巷へ足を踏み入れた豊太郎は、そこで異界の住人であるエリスに出会い、エリスに伴われてその家へ足を踏み入れる。

 つまり「舞姫」において〈分離〉の形式は、先に「檸檬」との比較で考察した西洋的秩序への忌避感や母親の死と免官といった心理的な〈分離〉とともに、空間的には「ドイツ」→「クロステル巷」→「エリスの家」という入れ子状の「異界」への空間的な越境によって表現されているのである。


 こう考えてみると、うち捨てられた死体の転がる羅生門の上層への梯子を登る下人と、父親の死体の横たわるエリスの部屋への石の梯を登る豊太郎の姿が、奇妙に重なって見えてくる。

 「異界」は「彼岸=あの世」でもある。二人はともに「異界」への越境という形で、通過儀礼における〈分離〉を果たす。


 これまで檸檬と対比されてきたエリスは、ここで老婆に比せられる。

 二人は豊太郎や下人が〈移行〉期を過ごす「異界」の住人だ。エリスとのつつましやかな同棲生活が豊太郎にとっての、また老婆との会話の戯れが下人にとっての〈移行〉期である。下人はここで本当に、それまで彼を捉えていた「観念」から〈分離〉される。

 とすれば、豊太郎と下人の〈再統合〉はいかにして行われるか?


舞姫32 比較読解「羅生門」1 通過儀礼

 最後に「羅生門」と「舞姫」を読み比べてみよう。

 今年度の授業は「羅生門」から始まった。最後の教材「舞姫」の読解を「羅生門」との重ね合わせで終わるのも妙な巡り合わせではある(もちろん普通は1年生の早い時期に「羅生門」を読むので、つまりこの2作品は高校の国語科授業の最初と最後を飾る小説だといえる)。

 この読み比べによって期待するのは、なぜエリスはあんなに酷い目に遭わねばならないのかという疑問に対する一つの説明である。この疑問に対する別の解答は「こころ」との比較において考察した、豊太郎を日本に帰すという結末を前提として、豊太郎の性格造型との整合性を持たせるため、という心理的な機制である。一方ここでは文化人類学的な知見を応用した、別の説明を試みる。


 さて、両作品を比較する端緒は何か?


 共通するキーワードは「通過儀礼」である。

「通過儀礼」 出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(「Wikipedia」)

「イニシエーション」 人類学用語。「成年式」「入社式」とも訳される。社会的に一人前の成人として認知,編入されるための一連の手続きのこと。広義には,ある社会的カテゴリーから他の社会的カテゴリーへの,集団的あるいは個人的加入を認可するための一連の行為体系をさし,秘密結社への加入やシャーマンなど宗教職能者の地位の取得なども含まれる。通過儀礼を伴うことが多い。(「コトバンク」)

 長らく国語教育界では「羅生門」を「極限状況において人間が持たざるを得ないエゴイズム」を主題とする小説として扱ってきた。だが今年度の最初に読んだ「羅生門」はそのような小説ではなかったはずだ。

 ここでは詳述しないが、授業で提示した読解によれば、「羅生門」とは自らの「観念」から脱却する話だ。とすればそれは下人にとって一種の成長譚と捉えることができる。

 そしてこれを通過儀礼の物語として読もうというのが、ここでの読み比べの手がかりである。

 一方、「舞姫」を通過儀礼の物語として読む可能性については、前述の前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」に言及が見られる。


 さて、「舞姫」と「羅生門」を通過儀礼の物語として読むためには、もう少し準備がいる。それは通過儀礼の基本構造を押さえておくことである。

通過儀礼がその構造上、三つのプロセスに分けて考えることができるのは文化人類学の定説である。まず儀礼の当事者は彼がそれまで帰属していた社会的立場から〈分離〉する。そしていったん、彼は日常的な社会秩序から解き放たれ、非日常的な時空を象徴的に生きる。この状態を〈移行〉期と呼ぶ。やがて彼は再び社会に〈再統合〉されるが、その段階では彼はそれまでその支配下にあったのとは全く異なる社会的秩序のものと組み込まれているのである。(大塚英志『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』)

 古くからの民俗や習俗にとどまらず、多くの民話・神話、童話やファンタジーなどの物語をこの〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という基本構造によって分析する試みが、これまで文化人類学や民俗学で行われてきた。

 たとえば、旅をモチーフとする、いわゆる「行きて帰りし物語」は基本的に通過儀礼の構造をもつものとして把握できることが知られている。

 「桃太郎」「一寸法師」「白雪姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」などの民話、あるいは「ナルニア国物語」「指輪物語」「ゲド戦記」「ハリー・ポッター」などのファンタジーにも同様の構造が見られる。

 たとえば人口に膾炙した宮崎駿監督によるジブリ・アニメの諸作品も、多くはそうした構造をもっているといっていい。

 中でも最も典型的なのが『千と千尋の神隠し』だ。現実の世界では中学生である千尋は、トンネルを抜けて迷い込んだ神々の世界で父母と離れ名前をはぎ取られて(分離)、湯屋の下働きとして働き(移行)、やがて元の世界へ帰る(再統合)。そこには主人公の成長を描こうとする、明瞭に意図された通過儀礼の構造があからさまに見て取れる。


 さて、以上の予備知識をもとに「舞姫」と「羅生門」について考察する。


2021年9月27日月曜日

虚ろなまなざし 8 主張

 「暴力的な主体化の問題性」というフレーズには、この文章全体で語られる問題群が凝縮している。だから4~5回の授業は、この問いについて考えるだけで終わった。

 だが、前々回で示した「暴力」と「主体化」と「問題性」の因果関係の循環構造そのものを岡真理が示したかったとすると、この文章はあまりにわかりにくすぎる。

 すなわちそれはこの文章が、それそのものを読者に提示することを目的にしていないことを示す。

 読者の方で再構成したのが前回の構造図であって、それを読者に示すつもりなら、岡真理はもっと手際よく、わかりやすく書くはずだ。

 つまりこれは岡真理の主張の背景となる認識であって、この文章の主張そのものではない。

 では何を主張しているのか?


 しかしこれは、今回のシリーズの第1回で言及したように、うっかりすると安易な解釈の罠にはまってしまう。

 例えば、「私たち自身の加害者性を隠蔽する」ことが問題だと岡真理は言う。ということは、私たちは自らの加害者性を自覚することが大切なのだ、と岡真理は主張していることになるのか?

 それは確かに間違ってはいない。だが彼女はそのように表現されるお説教くさいお題目を唱えたいのか?

 あるいは世界のニュースを「他人事のように忘却している」姿勢が批判的に述べられている。ならば、少女についても自分のことのように考えるべきなのか?

 だがそのような主張がカメラマンを死に追いやる「文字どおりの暴力性」を生んだのではないか?


 「虚ろなまなざし」という奇妙な題名の文章が何を主張しているかということは、実は授業者にとっても難問だった。というか正直に言えば、以前、授業で取り上げる前には、この文章は何が言いたいかわからないと感じていた。

 それが腑に落ちたのは柄谷行人「場所と経験」と近い時期に読んで、両者が結びついたときだった。

 二人がそれぞれの文章で主張していることは、実は同じなのだと気づいたのだ。


 柄谷の主張を端的に言うならば「視たものだけを視たと言え」である。

 これを言い換えると「視たものにもっともらしい意味づけをするな」である。

 岡真理は何を主張しているか。

 「『それ』を恣意的に主体化するな」である。

 「それ」の主体化がカメラマンを殺し、私たち自身の加害者性の隠蔽を招いているのである。

 両者は同じことだ。つまり 意味づけ=主体化 である。

 物言わぬ少女に声を当てることは、恣意的な「解釈」(小林秀雄)である。つまり、声を当てる=「主体化」は、「解釈」=「意味づけ」なのである。


 とすると、題名の「虚ろなまなざし=それ」は「場所と経験」では何にあたるか?

 いったん比較してみようという目で眺めてみれば、「虚ろなまなざし」の中の例えば〈私たちは「それ」を、この世界の中に、私たちとの関係性の中に―肯定的であれ否定的であれ―位置づける〉などという表現が、「意味づけ」「解釈」などといったかたちで柄谷、小林によって繰り返されていたことがただちに見てとれる。

 柄谷は「意味づけ」の動機を〈もっともらしさを確保したい〉と言うが、それを岡は〈まなざしのその「虚ろさ」、意味の欠如、それが私たちを不安にする。〉と強調しながら反復する。

 〈そこにあってしかるべき、『恐怖』や『苦痛』といった感情が表明されていないこと〉に耐えがたい我々は〈語れない少女に代わって〉少女の感じているであろう「恐怖」や「苦痛」を語らずにいられない。そうして語ることは、柄谷のいう〈知ったような気になっている〉ということだ。

 ということは、〈私たちが読み取り、同一化することのできるような、いっさいの意味を欠いていること〉=〈「それ」がまさに「それ」でしかないこと〉=「虚ろなまなざし」は柄谷の文中の「生きた他者」に他ならない。

 「他者」とは「こちらの理解を超えた相手」という意味だ。

 つまり「虚ろなまなざし」の持つ「他者性」が、我々に「暴力的」に「トラウマ」を与えるのである。トラウマを負った者は、少女を「主体化」して、その声を代弁することで何とか快復をはかろうとする。「それ」と対峙する不安に耐えられない我々は「暴力的な主体化」によって立ち上がる。「暴力」を受けた者が、その「暴力」を避けようとして、気づかずに「暴力」をふるう側に回る。

 そうした「主体化」を拒む者こそ「視たものだけを視たという」者である。つまり岡真理の言っているのは、単純に言ってしまえば、こうした「暴力」に負けずに「それ」を直視せよ、ということだ。

 そして〈そこから出発するほかに、どうして「文学」が可能だろうか〉と柄谷が言うように、アラブ文学者である岡真理もまた「それ」を「それ」のままに描くことこそが「文学」だと言うにちがいない(「棗椰子の木陰の文学」はそう言っているのだ)。

 柄谷「場所と」や小林「無常と」の中ではこの苛烈さは特に強調されてはいないが、その困難に向かって柄谷も小林も声を上げていることは間違いない。柄谷が「視たものだけを視たと言え」というのも、小林が「解釈せずに思い出せ」というのも「『それ』を『それ』として見ろ」と岡が言うのと同じことだ。それを実行する困難こそ、これらの論者が共通して言挙げしていることなのだ。


 ここでもまた、それぞれの文章の主張を同じ型の文におさめることで、それらがそれぞれに違った言葉で、同じことを言っていることが感じ取れる。

 これは決して単なる言葉遊びでもなければ牽強付会でもない。こうして語りながら、不断に元の、それぞれの文章との比較によって生ずる違和感を測りながら細かく修正していく。そのとき、読み比べることはそれぞれの原文の真摯な読解だ。

 同時に、そうした読み比べによって、始めてこれらの論者の問題意識が確かな手応えで捉えられるのである。


虚ろなまなざし 7 加害性の隠蔽

 一つのフレーズから文章全体を把握するという方法で「虚ろなまなざし」を読解してきたが、「問題性」の一つとして取り出した「私たち自身の加害性の隠蔽」は、若干立ち入って考察する必要がある。

 一方でこれは、文中では殊更に詳しく説明されているとも言い難い。わかる人はわかるはずだ、という、読者に対する筆者の信頼が、余計な説明を省いている。

 例えば説明と言うより言い換えにあたるのは次のような表現だ。

他ならぬ私たち自身が「それ」の苦痛の元凶である

 これだけの前振りを元に「私たち自身の加害性」を理解するのは難しい。

 だがこれより後でもう一度次のように言い換えられる。

南北構造を固定化する世界システムの中で飽食している私たち自身の姿

 ここで「なるほど」と思えなければ、もう文中の説明によってはこれ以上この表現を理解することはできない。

 つまり問題を「南北構造」で言うならば、豊かな「北」側に属する我々は、搾取される「南」側に属している人々、例えば写真の「少女」に対して、自覚の有無にかかわらず「加害者」なのだ、と言っているのである。構造的な加害ー被害の関係の中で、我々が加害側にいる、ということだ。

 これは国語科の問題というより社会科の扱うべき問題だ。


 さらに、なぜこの加害者性が「隠蔽」されるのか?

 こちらは国語科の問題だ。この文章から読み取らなければならない。

 「隠蔽」は「かき消されてしまう」と言い換えられているから、その文の前半「難民の少女に被害者として同一化して、カメラマンを非難することで」がその機制を説明しているわけだが、これがどうして「隠蔽」につながるのかは、またしても読者の理解に委ねられていて、これ以上に詳しい説明はない。

 だがむろん、こんなことはわからなければならない。

 だが求められる「国語力」とは、これを「理解」することより「説明」することにある。

 この点については授業で、想定外の「説明」が提示された。「カメラマンを非難する」からだ、というのだ。どういうことか?

 つまりカメラマンを「加害者」として攻撃することで、自分たちの「加害者」責任が転嫁される、というのだ。

 だがなぜカメラマンが「加害者」なのか?

 つまりこのカメラマンは「傍観者」なのだ。なるほど、傍観者も加害者の仲間だ、などという言い方は、「いじめ」についての言説の中でしばしば目にする。

 とすると、私たちもまた「傍観者」に過ぎないという点でカメラマンと同じだったはずなのに、そのカメラマンを非難することで、自らの「傍観者=加害者」性を忘れてしまう、と。

 なるほど。理屈は立つ。

 だがこれは想定外の「説明」だった。まっとうな「説明」はこうではない。

 むしろその前半「難民の少女に被害者として同一化して」の部分こそ、この文章が取り上げている問題である。

 この文章の肝は「主体化」だ。

 前述の通り「主体化」はいくつもの意味を重ねて含み持つが、さしあたって「少女を語る主体にする」のことだとしよう。

 だが実際は少女は語っていない。少女が語っているかのように当てられているのは、実は我々自身の声だ。

 つまり我々は少女を「主体化」することで自身を「被害者として同一化して」しまうのだ。自分が「被害者」になってしまうのだから、「加害者」であることは見えなくなる。

 これが「加害者性の隠蔽」を生む機制の、端的な「説明」である。

 この「説明」に向かって、まっすぐに言葉を組み立てられた者こそ、高い国語力をもっているといえる(それぞれのクラスでそれをなしえた者たちこそ)。

 学習とは「わかる」ことではない。「できる」ようになることだ。


虚ろなまなざし 6 継起順に並べる

 「暴力的な主体化の問題性」を考えるにあたって、「主体化」を解釈する上で分岐する3つの意味、「問題性」を解釈する上で分岐する3つの意味、「暴力的」を解釈する上で分岐する4つの意味について確認した。


主体化

①「それ」が私たちを語る主体にする

②「それ」が私たちを行動する主体にする

③私たちが「それ」を語る主体にする


問題性

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


暴力

ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち

イ 状況(世界)→少女

ウ 運動(私たち)→カメラマン

エ 私たち→少女


 これらはそれぞれ、文章全体のあちこちで反復される。だからどれも無視することはできない。筆者はそれぞれの言葉にそれぞれの意味を含意していると考えられる。

 では、問題の「暴力的な主体化の問題性」というフレーズを全体として説明するために、どのような方法が可能か?


 アイデアの一つが、これらを因果関係によって継起順に並べてみよう、というものだ。

 その際、起点に置くべきなのは主体化? 問題? 暴力?


 粘り強くこれらの因果関係をたどってみれば、「暴力」のイがこうした複雑な事態の出発点にあることがわかるはずだ。

イ 状況(世界)→少女

 暴力を受けた少女から「それ」=「虚ろなまなざし」が生まれる。

 カメラマンがそれを写真に収め、世界に発信する。

 それを見た我々がトラウマを受ける。

       ↓

ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち

 私たちは耐えきれず「それ」を語る主体にする(③)。

 だがそれは彼女たちの声を奪うことに等しい。

エ 私たち→少女

B.少女の声の可能性の抑圧

       ↓

 同時に、少女を主体化することは実は私たちが彼女に代わって主体になることに等しい(①)。

 かわいそうな少女に代わって語る主体になることは、ただちに彼女を救うための行動する主体になることでもある(②)。

 そして、そうした運動の中で、時にはかわいそうなカメラマンを追い詰めてしまう。

       ↓

ウ 運動(私たち)→カメラマン

A.文字どおりの暴力性

       ↓

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


 こうして、すべての「暴力」「主体化」「問題性」を網羅した因果関係をたどった果てに置かれるCは、出発点のイにかえっていく。なぜなら「加害者性」というときの「加害」こそイの「暴力」なのだから。

 出発点のイが隠蔽されることで、この構造は解決に向かわずにループする。

 「暴力的な主体化の問題性」という一節が示すのは、以上のような循環構造である。

 それで、どうだと岡真理は言うのか?


虚ろなまなざし 5 様々な「暴力」

 さて、問題の一節で「主体化」に付せられた「暴力的」という形容も、何のことかわかりにくい。

 何らかの暴力が存在するとして、その暴力は「主体化」にとってどのような関係になっているのか? どのような関係になっていることを「~的」という形容で表わしているのか?

 「的」とは曖昧な形容だ。「暴力」と「主体化」の関係をどのように考えたらいいか。

 さしあたってこう考えよう。

 その暴力の「方向」(文法でいう「敬意の方向」的な)を明らかにしよう。それは誰の誰に対する暴力なのか。

 また、その暴力は「主体化」という変化に対して、「原因」となるのか「結果」なのか、あるいは「主体化」というプロセス自体が「暴力的」と形容するしかないような変化なのか。


 授業では、さしあたって三箇所の「暴力」の記述について注目し、それぞれがどのような暴力なのか(誰の誰に対する暴力なのか)を確認した後、その継起の順番を考えた。次の三箇所だ。


a 難民の子どもの、その虚ろなまなざしである。そのような視線にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。

b そのまなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいるからではない。

c なぜ私たちは、意味づけられない空洞が、かくも耐えがたいのか、一人の人間を暴力的に死に追い込むほどまでに?


 それぞれの「暴力」の方向を確認しよう。

  • ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち
  • イ 状況(世界)→少女
  • ウ 運動(私たち)→カメラマン

 aの「暴力的」はその「主体化」が引き起こす結果としての暴力、すなわちcをも指している形容だとも考えられるが、さしあたりcとは別の、原因となる暴力をとりあげている。またcの「耐えがたい」はaの「トラウマ」を生み出す情動だが、ここでの「暴力」はカメラマンを「死に追い込む」ものを指していると捉えておく。


 これらの「暴力」は先の「問題性」ABCとどのように対応しているか?

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽

 Aはウのことだ。

 Bはアイウのいずれでもない。だが「抑圧」と言い、「可能性を全て奪う」という表現で繰り返されているBもまた明らかに「暴力」だと筆者には捉えられているはずだ。これをエとして取り立てておこう。

エ 私たち→少女

 Cの「隠蔽」は暴力ではないが「加害者性」の「加害」は暴力を指しているから、Cはつまり暴力が隠蔽されるのは「問題」だと言っていることになる。そしてその「加害」=「暴力」はイのことでもある(ここは直観的に「そうか」と思えることが求められる。同時に、「なぜ?」という保留も必要だ)。

 アはABCいずれの「問題」にも対応していないが、この一節の「暴力的」という形容は実はアを最も強く念頭に置いて付せられているとも言える(これは、ここを考える上での本質的な問題なので、後でまた論ずる)。


 さて、これらの「暴力」と「問題」、そして「主体化」は、どのような関係になっているか?


2021年9月12日日曜日

虚ろなまなざし 4 様々な「問題性」

 「暴力的な主体化」という表現を解釈するために、文中に現われる「主体」「暴力」といった表現を追ってみた。それらは単一の解釈を容易には成立させてくれない。


 まず「主体化」という名詞が「主体になる/主体にする」という二つの解釈の可能性に分岐し、それぞれの主語と目的語が2つずつ考えられることから、4つの解釈ができると先に述べた。

 だが「AがBを主体にする」ことは「Bが主体になる」ということだから、実はこの「なる/する」は裏表で一つと考えられる。となると問題は主語の二択だ。

 そしてどのような行為の「主体」なのかという点で「語る/行動する」という解釈の分岐の可能性が見えてきた。

 となると主語の二択と行為の二択で、組合わせはやはり4通りだ。

①「それ」が私たちを語る主体にする

②「それ」が私たちを行動する主体にする

③私たちが「それ」を語る主体にする

④私たちが「それ」を行動する主体にする

 このうち④はどのような事態なのかを想定することはできない。したがって、実際に考えられる「主体化」の分岐は①~③の3つだ。


 さらに「暴力的な主体化の問題性」を解釈する際には次のような問題がある。

 「…問題性とは」に続く部分を段落末まで読んでみる。

 すると「…というだけではない。」というフレーズがある。並列を表わす表現だ。そこに並列されているはずの論点の一つ目は明らかだ。

  • 人を時に死に至らしめるほどの、文字どおりの暴力性

 さらに「というだけではない」というだけではなく、そのあとにまた「と同時に」という語句による並列が示される。

 つまり「暴力的な主体化の問題性」とは、「 A というだけでなく B と同時に C でもある」といっているのだが、この二重の並列をどう整理するか?


 ひとまずは「と同時に」に示される並列を整理してみよう。

B 私たちが恣意的に投影した私たちの声が「それ」の声となってしまうことで、もしかしたら、そうではないかもしれない、ほかのさまざまな声の可能性を抑圧してしまう

C 私たちが被害者として同一化することで、もし、私たち自身が加害者であった場合に、その加害性を都合よく隠蔽することにもなってしまう


 「というだけではない」の前の部分をAとし、上記BCの抽象度を高めた表現を考えて、並べてみる。


A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


 さて、これらABCの「問題」は、どのような関係になっており、それは「暴力的な主体化」とどのような関係になっているか?