2021年2月22日月曜日

南の貧困/北の貧困 10 福祉

 さて「福祉」がどうだと言っているのか?

この社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され排出された矛盾の、第二次的な「手当て」であり「救済」であるという構造は、この「福祉」という領域を、基本的に傷つけられやすいものとしている。

 「外部化され排出された矛盾」は前項から「貧困」のことを指している。「福祉」は「第二次的」な「手当て」だから「傷つけられやすい」という。

 「傷つけられやすい」も比喩である。「地平」「離陸」「翻訳」「パラメーター」などに共通して、わかりにくいと感じる理由の一つが比喩表現が使われているということだ(「精神的貴族主義」もそうだった)。

 この「傷つけられやすい」は直後の

危機の局面にはいつも、「削減」や「節約」や「肩代わり」や「自己負担」や「合理化」の対象として議題の俎上に載せられる

 のことだ。先に比喩がきて、後でその説明がくる。「排出物」と「外部化」もその順番だった。だからわかりにくい。

 だが見田的には、そうした比喩で「何だろう?」と、読者の注意を喚起しておいてから説明をする、というレトリックのつもりなのだろう。こうした論理についていければ、こうした表現もそれなりに美意識に訴えるのだ。


 さて、「福祉」は「二次的」だという。言い換えは?

 「消極的」だ。「福祉」は「消極的な定義しか受けていない」。

 したがって「傷つけられやすい」。つまり「二次的」で「消極的」なものだから、すぐに減らされてしまう、といっているにすぎない。


 だから結局「福祉」がどうだというのだ?

 そこまでの論旨とどう接続しているのか?


 ここは南の貧困について「政策として方向を過つ」で考察したことと結びつけよう。

 どのように?


 「貧困」が「二重の疎外」に起因するものであることを認識しないということは、「貨幣への疎外」を見ずに「貨幣からの疎外」だけを見るということだ。つまり「貧困」を単に金がない状態としてしか定義づけないということだ。

 そうした定義による「過」った政策とは、「貨幣からの疎外」に対する、対症療法的な「開発」や「支援」だと先に述べた。

 「福祉」は北の貧困における、この「対症療法的な」施策なのである。

 お金がない人にお金をあげよう、と言っているのだから。

 こうして、「貧困」が南でも北でも同じ構造において生じていること、そしてそれに対する政策に問題があることを指摘する論理は一貫している。


 読解の目標は常に、まずは自分一人で読めること、である。その先に、そこで論じられている問題について自分なりに意見を持つとか別の問題に応用する、というようなことが求められるかもしれないが、とりあえず授業であれテストであれその後の人生においてであれ、まずは一人で読めることが必須だ。

 だから「わかる」ために何を考えるべきかも自分で粘り強く考えるべきなのだ。

 そうはいっても、授業はせっかく皆が集まっているのだから、議論を通じて考えを交換するために、ある程度は理解度を揃えた方が良い。そのために考えるポイントを示したり、ヒントによって誘導したりする。あるいは問いを投げかけたりもする。

 だが本当は「問いを立てる」とか、対比的に考えるとかいったメソッドを活かして、それぞれに自分で納得できるまでじっくり考えるべきなのだ。

 考えさせたい。


 今年度の授業もあとわずか。

 最後は「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をつなぐ論理を見つけ、それを現代の我々の問題として捉え直す。

南の貧困/北の貧困 9 必要を需要に翻訳するパラメーター

 以上の論理展開を把握した上で152頁下段から153頁上段までを通読してみよう。最初にはちんぷんかんぷんに思えた論理が、こんなふうに込み入った文脈で表わされていることが、何とか読み取れるようになっているはずだ。

 そうすると、最初にはやはり難解だった次の一節も、その勢いで読みこなせる。

それはシステムの排出物である。つまりシステムの内部に生成されながら外部化されるものである。

 システムは「対応しない」=「関知しない」から、貧困は「外部化される」=「排出される」。

 これが「排出物である」という名詞化された比喩になっているからわかりにくいのだ。文脈と論理をたどっていけば、難しいことを言っているわけではないのに。

 システムは貧困を生むが、救済はしない。


 そこで登場するのが「福祉」だ。

 このキーワードも、文中に登場するまでに、まず「政策的『手当て』」という比喩で語られ、「失業保険制度」という具体例を経て、抽象化される。

  • 比喩  手当て
  • 具体例 保険制度
  • 抽象語 福祉

 こういう対応関係を把握することが必要なように、「現代の情報消費社会のシステムの、原理上の矛盾に対応する、「福祉」という補完システムによる手当て」といった表現が、スッと腑に落ちにくいのは確かだが、次のような表現上のつながりがあることは読み取らなければならない。

  • システムにとって原理的に関知するところではない
  • 現代の社会のシステムの原理上の欠落補充する
  • システムの、原理上の矛盾に対応する、「福祉」という補完システム
  • 社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され排出された矛盾の、第二次的な「手当て」
  • システムの矛盾補欠する

 「原理的」と「原理上」のつながりがわかれば「欠落」が「関知するところではない」の言い換えであることがわかり、さらに「矛盾」と言い換えられていることが「外部化され排出された矛盾」で確認される。

 つまり「福祉」はシステムが「関知しない」=「欠落・矛盾」=「貧困」に対する「補充・補完・補欠」なのだ。


 読み方、考え方のこつがわかれば、こうして読み進められる。

 次のような一節も。

必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することであるが、特別な資産を保有するのでない限り、労働する機会か能力の欠如は、この翻訳するパラメーターの欠如にほかならないからである。

 見田宗介には、本当にいい加減にしてほしい。こんな言い回しをする必要がどこにあるのか。だがまあできてしまうとやりたくなるんだろう。美意識を共有すれば快感なのかもしれないが、ここまで伝わりにくくていいのか?


 とりあえず「必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することである」を解釈しよう。先の対比の考察では「市場の需要に相関」より「人間の必要に対応」の方が重要だったから、「需要」の方を考えなかったが、今度は看過できない。

 「市場として存在する需要」とは何だったのか?


 「人間にとっての必要」とは、個人個人がそれを欲しているところの「必要」だ。その集合が「市場として存在する需要」なのか?

 そうではない。皆が欲しがっている、だけでは「需要」ではない。

 皆の「必要」が「市場」を形成するということは、そこに売買が成立するということだ。

 つまり欲しい物を買える人がある程度の規模で存在しているという状態が「市場としての需要」がある、ということだ。

 「必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することである」は、逆に言えば「お金がなければ必要を需要に翻訳できない」と言っているのだから、つまり、「お金があれば物が買える(お金がなければ物が買えない)」と言っているに過ぎない。


 「労働する機会か能力の欠如は、この翻訳するパラメーターの欠如にほかならない」は「働いていなければお金を持っていない」だ。ただし「特別な資産を保有しているのでない限り」だ。働かなくても金を持っている少数の例外に一応言及しているのだ。


 続けて言うと「物を買うにはお金がいるが、働いていない人はお金を持っていない」だ。

 これが、「からである」なのだから、以下の理由になっているということだ。

「労働する機会のない人々」と「労働する能力のない人々」という実際上の(福祉の)対象規定は、現代の社会のシステムの原理上の欠落を補充するものとして、完璧に論理的である。

 どういう「論理」か?

 「原理上の欠落」は先述の「システムは人々が金を持っていなくても関知しない」だ。つまりシステムは「貧困」に「対応しない」ということだ。

 対応するのは「福祉」であり、その対象は働いていない人だ、と言っているのだ。当然だ。働いていない人はお金を持っていない人である。だから彼らにお金を与えることが「福祉」なのだ。「完璧に論理的である」というのは当たり前のことだと言っているだけだ。


 結局、この段落(153頁下段)全体は、

  • 「福祉」の対象は「働いていない人」だ。
  • 物を買うには金が必要だが、「働いていない人」には金がないからだ。

 と言っているのである。

 言っていることは、あまりに当たり前のことだ。そう思って読み返してみてほしい。あまりに呆気なく、それだけのことを言っているに過ぎないことに驚くだろう。

 驚いてほしい。


南の貧困/北の貧困 8 対応/相関

 「必要/需要」という対比によって明らかにしようとしているのは何か?


 この文章は、大きく言えば「貧困はなぜ起こるのか?」について述べている。だから「本来的な必要/新しい必要」という対比によって明らかにしたいことも、そのまま展開していけばそこに辿り着く。そのための一つの前提を導くための対比である。それは確認したのだった。

 同様に「必要/需要」も、やがて貧困が起こる機制(=仕組み)に辿り着く。

 そのための論理の筋道を見つけることがここでの目標だ。


 そして「言いたいこと」の最後は「だから貧困が起こる」であるはずだ。その事を忘れず、そこまでの論理展開をたどらなければならない。

  どうすればいいか?

 まず、問題の二文を、「システムは」を主語とする「~ではなく、」型の一文に言い換えてみよう。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

            ↓

現代の情報消費社会のシステムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。


 これは単なる構文の変換操作だが、こうした操作を、潜在的にであれ、論理操作において自然に行えることが、解釈の助けになる。

 「対応していない」はその後の文脈で何と言い換えられているか?

 「関知しない」である。

 システムは「需要」に「相関」する。だが「必要」には「関知しない」のである。


 「だから?」と問いながら小さな結論を確認していくことで論理展開を進めていく考察方法もある。

 一方で、結論から迎えにいくこともできる。論理は、両方から接点を探っていくのが有効だ。

 「だから貧困が起こる」という結論にいたる直前の論理展開と思われるのは、本文のどこか?

 「~関知するところではないという落差の中に『北の貧困』は構成されている。」というくだりだ。

 「関知しない」は「落差」を生み、それが「北の貧困」を生んでいるのだ。


 「落差」とは何と何の「差」?

 こう聞くと、「本来的な必要/新しい必要」だとか「必要/需要」だとか考えたくなるのは授業の展開上尤もではあるが、論理的ではない。「金持ちと貧乏」という珍妙な答えも各クラスで出てきた。貧乏は既に「貧困」なのであって、金持ちと貧乏の落差によって貧困になるのではない。金持ちとの落差によって貧乏なのだとしたら、それは「相対的」ということだ。

 何と何の間に「落差」があると「貧困」になるか?

 小学生でもわかる、と言うと皆、素直に考える。

 「必要なお金」と「持っているお金」の「落差」である。

 次の一節は、それを言っているのだ。

システムがそれ自体の運動の中で、ますます複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない必要を生成し設定しながら、必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではないという落差

 前半は「必要なお金」の水準が高いことを言っている。これは前の「本来的な必要/新しい必要」の対比から得られた結論だ。

 「ながら」は並行の助詞ではなく逆接の接続助詞。「必要は高い水準に設定されるけれども」の意味。

 そして後半「必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではない」は「持っているお金」がどうだと言っているのか?


 対比されている対立項目を結論に結びつけるには、先ほどの一文の語順を変えると良い。

現代の情報消費社会システムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。

 よりも

現代の情報消費社会システムは、市場の「需要」に相関するだけで、人間の「必要」に対応していない。

 という方がわかりやすい。

 この「対応していない」が「対応は関知していない」に言い換えられるわけだ。

 これは「保障しない」くらいのニュアンスだと考えればいい。

 人間の「必要」を保障しない…。

 「保障」は「保証・補償」との同音異義が問題になりやすいが、基本的には「障害から保護する=困らないように守る」という意味だ。つまり、必要を満たすだけの「持っているお金」を供給することなど「保障しない=関知しない=対応しない」のである。


 システムは「必要」を満たすため高いお金が要るよう「地平」をつり上げる。だがそのお金の供給は保障してくれない。

 これはまさしく「貨幣への疎外」の上に「貨幣からの疎外」があるということだ。

 「北の貧困」もまた「二重の疎外」に拠るのである。

 

2021年2月18日木曜日

南の貧困/北の貧困 7 必要/需要

 情報消費社会における「必要」の地平は、差異化によって「常に更新されてゆく」。北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だった。

 だが「『贅沢』のすすめ」の「浪費/消費」の対比に対応する対比を「南の貧困/北の貧困」から探した折に、「本来的な必要/新しい必要」ではなく、その隣の行の「必要/需要」を挙げた者も多かった。

 ではこの対比は何を意味しているのか?


 付せられた形容が手がかりにはなる。

 「人間に(とっての)必要/マーケットとして存在する需要」だ。

 だがその言葉の意味を説明していくだけでは、その意味が「わかった」とは思えないはずだ。「人間にとっての必要」と「マーケットとしての需要」という表現は、それなりに「わかる」。わからないほど難解な表現ではない。だが両者を対比的に並べることによって何を言いたいのかを捉えないと、この部分が「わかった」とは思えないのだ。

 対比を用いるのは、何かを明確にしたいからだ。だから「必要/需要」という対比が何を明らかにするための対比なのかを考える。

 だがにわかにはその意図は読めない。


 これは「本来的な必要/新しい必要」の変奏だろうか?

 あるいは「主観・相対/客観・絶対」の?


 「主観・相対/客観・絶対」という対比は「新しい必要」の「地平」の高さが「客観・絶対」的であることをいうための対比だ。「本来的な必要」が「主観・相対」的なわけでもないから、上の二つの対比軸は全く別の位相にある。

 「必要/需要」という対比はまたさらに別の対比軸に沿って配置されている。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

 上の文では「本来的な必要/新しい必要」という対比は「であれ」で接続する「並列」だ。だがそこまでの論は、やはりこれを「対立」と見なすことで進んできたのだ。

 そのうえで、この一節は、語順を変えて「既に見たように現代の情報消費社会は、本来的な必要であれ新しい必要であれ、人間にとっての『必要』に対応するシステムではない。マーケットとして存在する『需要』にしか相関することがない。」と並べ替えてしまえば明らかなように、「本来的な必要/新しい必要」が「人間にとっての必要」とまとめられているのである。その上で、それと「需要」が対比されているのである。


 そしてさらに「必要/需要」は「ではない」で挟まれているのだから、明らかな「対立」的対比項目だ。

 では「必要/需要」という対比によって何を明らかにしたいか?


2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 6 常に更新されてゆく水準

 「幾重にも間接化された充足」について考察するために、國分功一郎「『贅沢』のすすめ」を援用して、何が間に挟まっているのかを考察した。

 我々と「物」との間を、「メディア」を通して「他者」の欲望が乱反射した「観念や意味」=「情報」が隔てている。

 「幾重にも間接化された」のイメージとしてこれが適切だと考えられるのは、見田がこの前後の文脈の中で「情報消費社会」という言葉を再三使っているからだ。「貨幣」が間に入るというのは南の国でもそうだし、「流通経路」の重層化による「間接化」が問題だとしたら、おそらく「資本主義社会」「市場経済社会」という言葉を使っているはずだ。「必要から離陸した欲望を相関項とする」という表現も、「物」が我々の手に届くまでの物理的な「間接化」のことよりも、「メディア」による「情報」の付加を意味していると考えられる。


 さて、これで何が明らかになったのか?

 「幾重にも間接化されている」からどうだというのか?

 このブログではそれを疑問として明示したが、自分で文章を読んでそれを意識するのはなかなかに難しい。

 どんな問いだったか?


 「北の貧困」の考察を始めるところで掲げた疑問は「なぜ北の国の必要の地平=水準は高いのか?(10倍あっても足りないのか?)」だ。答えは出ただろうか?

 つまり「幾重にも間接化され」ているから「高い」のだ。間に入るものが少ない方が安いであろうことは道理だ。

 「貨幣」が間に入ることについては南の国々でももはや「貨幣への疎外」によって同様の状態になっている。それより「10倍」であることの理由を今は問うているのだ。

 もちろん「資本主義社会・市場経済社会」も地平=水準を高く「つり上げ」るには違いない。「流通経路」が「重層化」すれば、それだけ中間搾取がはたらいて、コスト分が価格に反映する。そもそも「資本主義」は利益を生み出すために地平=水準を「常に新しく更新」する。

 では「情報消費社会」において、なぜ地平=水準は「常に新しく更新されてゆく」のか?


 「消費」は「観念や意味」を消費しているのだ、というのが國分功一郎の定義だ。

 ここに丸山圭三郎「ロゴスと言葉」を応用しよう(「懐かしい」とか「忘れた」言うな。今年度のことだ)。

 「意味」とは何か?

 「ロゴスと言葉」において、言葉の意味とは、まずは「カテゴリー」のことだと説明されていた。だがそれではまだここに応用できない。

 「カテゴリー」は何によって生ずるか?

 「分節化」による。近づいた。では「分節化」とは何か?

 「ロゴスと言葉」の結論は、言葉の意味とはカテゴリーであり、カテゴリーとはそれとそれ以外のものを分節すること、つまり差異化によって生ずる、というものである(「Water/non-water」という差異化)。

 つまり「差違」が「意味」を生むのだ。

 「情報」とは「差違」である。デジタル情報とはonとoff、1と0の違いだ。

 このことは國分功一郎が述べている何の例と対応しているか?


 「モデルチェンジ」と「個性」だ。前のモデルとは違うこと、他人と違うこと、いずれも、差違が享受すべき意味=価値を生んでいるのである。

 とすれば、「必要の地平」は「常に更新されてゆく」しかない。更新という差異化こそが「意味」を作り出すからだ。差異化されないものは単なる「物」でしかない。それは「本来的な必要」の対象だ。


 こうして、「幾重にも間接化された」必要の地平=水準は「常に更新されてゆく」。だから北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だ。


南の貧困/北の貧困 5 浪費/消費

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比が「浪費/消費」であることは明白だ。

 一方「南の貧困/北の貧困」においてこれに対応する対比は「本来的な必要/新しい必要」である。

 この対比も、一旦それについて考え始めると自明のように思えてしまうが、自分で探そうとすると案外に見つからない者も多かった。

 「本来的」も「新しい」も、文中に何度も使われながら、明らかに並んで登場するのは153頁の「本来的な必要であれ新しい必要であれ」という箇所だけだ。

 この書き方は「並列」ではあるが「対立」ではない。「対比」は多くの場合「対立」だが、頻度は少ないものの「類比」や「並列」の場合もある。


 これら二つの対比はどのような意味で対応しているのか?


 授業で「浪費/消費」の違いは何かと問うと、「限界がある/ない」の違いだと答える者がどのクラスでも多かったが、それは副次的な結果だ。まず國分功一郎はどのような意味で「浪費/消費」という使い分けをしているかを捉えなければならない。

 どのような意味で「浪費/消費」を使っているか?


 「浪費/消費」を分けるのは「物/観念や意味」という対比である。

 「浪費」=「物」の享受はやがて満足をもたらすから「限界がある」が、「消費」=「観念や意味」の享受は満足をもたらさず「延々と繰り返される」=「限界がない」。

 これを「本来的な必要/新しい必要」という対比と重ねてみる。

 「本来的な必要」とは「物」への欲望だ。食べたい・着たい…。

 「新しい必要」とは「観念や意味」への欲望だ。それは「必要から離陸した欲望」だ。だから「延々と繰り返される」=「限界がない」=「常に新しく更新される」。


 そこではどのような意味で「幾重にも間接化され」ているのか?

 ひとまずは「観念や意味」が間に挟まっている、とも言える。

 さらに我々が「消費」する「観念や意味」はどのようにして生まれるのか?

 ここは、先に「流通経路」について想像したように、具体的に想像できることが文章の解釈に必要だ。抽象的な言い回しは、それに該当する具体例を思い浮かべられなければ「わかった」と思えない。


 國分功一郎が「消費」を説明するために挙げているのは「グルメブーム」の中で食事をするという例だ。

 ここで「観念や意味」を生んでいるのは?

 「宣伝」である。これをさらに抽象化して言うと?

 口コミやSNS、インターネット、テレビや雑誌などのマスメディアなどである。これらを総称して「メディア」と呼ぼう。「メディア」とは「媒体」という意味だ。つまり媒介する=間に挟まっているものである。

 単なる「物」はメディアを通じて「観念や意味」を身にまとう。我々が必要とする=欲望するのは、そのような「物」である。


 「貨幣」が挟まるとことと「観念」が挟まることを並列してみるように、「流通経路」と同じ程度の抽象度として「メディア」という概念を想起することはきわめて重要である。

 上に、具体例を思い浮かべられることが「わかった」と思えるために必要だと書いたが、さらに具体例を想起したうえで、そこから抽象的な把握をすることが「わかる」ということである。抽象化のためには具体例がいくつも想起されていなければならない。

 具体と抽象の往還ができれば「わかった」と思える。


 さらに、「メディアを通して間接化される」という事態をさらに抽象化してみよう。

 メディアの向こうにいるのは「他者」である。誰かがそれを美味しいと言っていたのだ。誰かが「いいね」をクリックしていたのだ。誰かがそれを推していたのだ。

 メディアによって付加される「観念や意味」は常に「他者の欲望」である。欲しいのは私に必要な物ではなく、誰かが必要としている物だ。誰かが欲しがっているから、それは私にとって欲しい物になるのである。

 我々の「必要」は「他者」によって「間接化」されている。


 我々の「必要」は、狩猟採集的「直接的充足」から見ると、これでもかというほど「間接化」されている。

 「貨幣」「流通経路」「観念や意味」「メディア」「他者」…。


2021年2月16日火曜日

南の貧困/北の貧困 4 幾重にも間接化された充足

 厄介な「部分」を、まずはゴリゴリと解釈していこう。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。


 上の前半は北の国における「貨幣への疎外」だ。そのまま「貨幣への疎外を通して」と読み替えることができる。「依存する」「強いる」は「疎外」の「支配される」「本来のあり方を失った」感じを表わしている。

 問題は後半「本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に」だ。ここがすんなりと腑に落ちると感ずる読者は多くないはずだ。


 まず「様式」や「の上に」が鬱陶しいが、後回しにする。

 「充足」という名詞も、上記の「疎外」同様に解釈の妨げになるので、「必要は幾重にも間接化されて充足する」と、動詞化して考える。

 「間接化」は「直接」を対比的に想定する。「直接充足される」こととの対比で「間接的に充足される」という事態を想像しよう。

 「必要」が「直接充足される」状態?

 例えば狩猟採集生活。

 狩猟採集によって食べ物を手にすることに比べ、間に何が挟まるというのか?

 まずはいうまでもなく貨幣だ。お金を出さなければ「充足」されない。

 だがまだ「幾重にも」がわからない。


 想像してみよう。山の中の木から林檎をもいで食べる。これが「直接的な充足」だとする。それに対して、現代の消費社会で実際に我々がそれを口にするまでにどのような経路が想定されるか?

 まず、我々は八百屋であれスーパーであれ、小売業者から林檎を買う。その前に配送業者が店舗に品物を運んでくる。農協からかもしれないし仲買業者からかもしれないし、巨大商社かもしれない。農家から我々の手元に林檎が届くまでに、既に様々な売り買いを経ているし、その間には配送業者も介在している。

 さらに林檎を育てるためには、様々な農機具や農薬・肥料などが必要となる。

 我々が林檎を食べるまでには、「幾重にも」生産流通システムが介在して「間接化され」ているのである。

 工業製品はさらに複雑だ。原料→部品→製品→商品と、「幾重にも間接化されて」初めて我々の手に届く。


 これで「物価が高い」理由は説明されただろうか?

 間違ってはいない。だがそれが「常に新しく更新されてゆく」理由についてはまだ不十分である。

 どう考えたらいいか?


 ここで國分功一郎の出番だ。

 冬休みの宿題では、「『贅沢』のすすめ」と「南の貧困/北の貧困」の何頁が関連するか? と問うたが、実はこれは152頁でも153頁でも良い。この辺り一帯を考えるのに参考になるのである。

 対応を見るためには共通の語を手がかりにするのが常套手段だが、もう一つ、今回は対比の考え方を用いる。

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比は何か?

 「南の貧困/北の貧困」のこの部分の対比は何か?


2021年2月15日月曜日

南の貧困/北の貧困 3 「必要」の新しい地平

 「南の貧困/北の貧困」の主旨はこれで捉えられた。「貨幣への疎外」にこそ本論の中心がある。

「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外をまず視界に照準しなければならない。

 これは国際関係・貧困・途上国支援などの問題を考える上できわめて重要な視点で、例えば小論文などを書く際にも有用な視点だ(平たく言えば「使える」)。


 応用してみよう。

けれども「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、このあたりまえのことを理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。

 ここでいう「過ち」とはどのようなものか? どのような「方向」へ「過つ」のか? 方向を過った「政策」とはどのようなものか?


 「二重の疎外」を「理論の基礎として立脚していない」というのだから、つまり最初に「貨幣への疎外」があることを視野に入れず、「貨幣からの疎外」に対する施策しか考えていないということだ。

 具体的には?

 金がないことが問題なのだと考えるから、手っ取り早いのは財政支援であり、長期的にみても発想しやすいのは開発である。たとえそれがSDG’s的な理念に則っていようとも、それは対症療法的な対策であり、却って「貨幣への疎外」を強めることになるかもしれない。「目に見えない幸福の次元を失う」悲劇は拡大する。


 じゃあどうすべきかは、言わば社会科(現代社会・政治経済)の分野で、国語科的には、まずは文脈をこのように把握することが必要だ。


 「全体」は捉えた。となれば次は「部分」である。

 「貧困」のコンセプトは「南」の国々でも「北」の国々でも同じように「二重の疎外」だという(152頁下段)。

 すると、北の国の人々も、お金を持っていなければ貧乏なのは当然として、その前に「貨幣の疎外=貨幣を必要とする生活に投げ込まれる」という事態が起きているということになる。

 当然だ。北の国の人々も、お金がなければ生きていけない。

 ただし南の国と違うのは次のような事態である。

東京やニューヨークでは、巴馬瑤族の一〇倍の所得があっても実際に「生きていけない」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することができないということである。つまりその生きている社会の中で「普通に生きる」ことができない。これは羨望とか顕示といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。

 いきなり言い回しが難しくなる。無用に難しい。

 だが少なくとも、「~ではなく」で示される対比が2回使われているのは意識すべきだ。

  1. 隣人との比較や不平等一般の問題/絶対的な必要を充足することができない
  2. 羨望とか顕示といった心理的な問題/社会のシステムによって強いられる客観性・構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性

 まず1は、後項の「絶対的」に対比されているのだから、前項の「隣人との比較・不平等の問題」とは「相対的」な問題ということになる。

 2でも後項で「客観性・絶対性」とあるから、前項「心理的な問題」は「主観性・相対性の問題」だと捉えられる。「羨望(うらやましいなあ)」も「顕示(どうだうらやましいだろう)」も「心理的」であり、それはすなわち「主観的」で、かつ他人との比較の問題だから「相対的」なのだ。

 心理的=主観的/客観的

     相対的/絶対的

 つまり、北の国で生きるための「必要」は、主観的・相対的にではなく、客観的・絶対的に高い「地平」に設定されているというのだ。

 この「地平」にまたも目が眩んでしまう。が、続く文章中に言い換えがある。

 何か?

 「水準」である。これがわかれば、つまり北の国で生きるには高い金が要る、と言っているに過ぎないことがわかる。

 それだけのことを言うのにああした言い回しをしてしまうのは、別に見田が意地悪であるとか衒学的だとかいうのではなく、恐らく天然なのだ。


 貧困は、まずこの「必要」の水準をシステムが決め(貨幣への疎外)、それに貨幣が足りない場合(貨幣からの疎外)に起こるのだから、北の国の貧困も、やはり「二重の疎外」によるのだという趣旨はわかる。

 問題は、なぜ北の国の「必要」の地平=水準は高いのか、だ。

 単に物価が高いということか?

 152頁下段からの「北の国」編では、この問題を解説した部分に、さらに一層の難解な言い回しが登場して、読者に目眩を起こさせる。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。

 このような一節を読んで、すんなりと頭に入る人がいるという想定がどうかしている。見田宗介にしてみれば、半ばは美意識でもあろうし、やさしくわかりやすい文章を書くのが面倒だということでもあろうが。

 さてどうするか?

 ひたすら力押しでゴリゴリ考えていくという手もある。もちろんここだけを見ていないで、前後を参照しつつ、だ。

 だが、ここは國分功一郎の「『贅沢』のすすめ」を参考にして考えを駆動しよう。

 どうしたらいいか?


南の貧困/北の貧困 2 貨幣への疎外

 「貨幣への疎外」?

 おそらくこの表現は、にわかにはピンとこないはずだ。

 もちろんこれは「貨幣からの疎外」とセットで理解されなければならない。

 そしてこれらの表現は、単に文中から言い換えを探すことで、ひとまずは考察が先に進む。

 どこか?

貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。


 「二重の疎外」→「貨幣からの疎外・貨幣への疎外」と遡って辿れば「金銭を持たないこと」が「貨幣からの疎外」で、「金銭を必要とする生活の形式の中で」が「貨幣への疎外」だとわかる(実際には後の部分との整合性で「わかる」のだが)。


 とりあえずどういう意味かはわかる。それなのに「貨幣への疎外」という言葉に違和感を覚えるのはなぜか?

 「疎外」という言葉はサ変動詞だ。つまり「疎外する」か「疎外される」を名詞化している。そしてその前に接続する格助詞は「~を疎外する」か「~から疎外される」だ。

 だから「貨幣からの疎外」は「貨幣から疎外される」として解釈できる。

 だが「~への疎外」だと「貨幣へ疎外する」なのか「貨幣へ疎外される」のかがまずわからない。しかも何が何を「疎外」しているかもわからない。


 「疎外」という言葉は一般的には「仲間外れ」というような意味で使われる。「友達が話している話題に入っていけずに疎外感を感じた」などのように。

 とすると「貨幣からの疎外」は、貨幣から仲間外れにされているという、貨幣を擬人化した表現として理解することもできる。

 あるいは「関係が断たれる。縁遠くなる」くらいに捉えてもいい。貨幣との関係が断たれ、貨幣と縁遠くなるのだ。

 いずれにせよ、つまりは金のない状態である。


 一方「貨幣への疎外」は、直後で次のように言い換えられる。

貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(149頁)

 どの部分を「への」と読んだらいいのか?


 上の表現は、後に「GNPを必要とするシステムのうちに投げ込まれてしま(う)」とも言い換えられる(151頁)。

 「への疎外」は「投げ込まれる」と受身に言い換えられている。とすれば「疎外される」の方か?

 となれば主語は「人々は」だろう。

 では「疎外する」の主語は? 人々は何によって「疎外された」のか?

 「システムのうちに投げ込まれる」というのだから、システムの外にある「自然」や「共同体」からか?

 「自然」や「共同体」が人々を仲間外れにしたのか?

 なんだかピンとこない。


 ここは「疎外」という言葉の独特な使い方に馴染む必要がある。

 例えば例の『現代文単語』では「疎外」を「仲間外れにすること」としたうえで、「人間が本来あるべき姿を失った状態を意味する場合がある」と付け加えてある。広辞苑には「人間が自己の作りだしたもの(生産物・制度など)によって支配される状況」とある。

 これはヘーゲルやマルクスの思想において使われる意味合いだ。つまり独特のニュアンスを帯びた哲学用語なのである。

 「疎外」は「疎外する」という動詞で使うのだから、誰か疎外した主語があるように思われる。「投げ込まれる」にしても、誰かが「投げ込む」のだろうから、その主語は想定できるはずだ。

 だがその主語は、自分のいる場所から人々を「仲間外れ」にして、システムの中に「投げ込んだ」わけではない。

 そうではなく、人々がシステムの中に「投げ込まれ」て、そこで「疎外される」=「人間が本来あるべき姿を失う」のだ。だから「疎外する」の主語を想定するならば、「システムが」だ。

 「への」はこの「投げ込まれる」という移行を示し、「疎外」は移行によって起こる事態を指している。上の引用の「貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」あたりが、こうした意味での「疎外」のニュアンスを表現している。

 だから「貨幣への疎外」は「人々が貨幣を必要とするシステム投げ込まれてそこで疎外される」もしくは「人々が疎外されるようなシステム投げ込まれる」といった意味合いなのである。


 「疎外」のこのような意味合いについては、「倫理」や「政経」、「現代社会」でも触れられるはずなので、意識しておくといい。もちろん「現代文」で評論を読むときにも、その「疎外」がこういった意味合いなのかどうかは注意しておく。


2021年2月9日火曜日

南の貧困/北の貧困 1 問いを立てる

 「南の貧困/北の貧困」の筆者・見田宗介は、日本を代表する社会学者。この文章が収められた『現代社会の理論』は、本校図書室の新書コーナーにある。

 現代社会の貧困について、本質的なモデルを提示していて、考える上で汎用性のある、とても「使える」文章だ。例えば社会学とか国際関係学などで貧困や開発や国際貢献がテーマとなる小論文に、この考え方を援用できる。


 だが正直、不必要に捻った言い回しが多く、読みにくい文章でもある。

 となれば手がかかるのは「部分」だ。

 そのためにはまず「全体」を把握しておく。


 そのために使えるメソッドは?

 「問いを立てる」である。

 というわけでこれが冬休みの課題だった。

 「『である』ことと『する』こと」に比べて、「南の貧困/北の貧困」では、これはそれほど難しくない。

 ところが、提出された課題を見ると、このメソッドの注意事項を、実行の際には忘れている人が多かった。自覚はあるだろうか?


 年度当初にブログでこのメソッドを紹介した際、「イエス/ノーで答えられる問いではなく、疑問詞を使った問いにする」という注意事項を掲げておいた。

 それなのに「『二重の疎外』という貧困のコンセプトは正しいか(適切か)?」というような形にした人が、意外なほど多かった(初期の提出者の半分がそうだった)。

 このように問いを立てると、ほとんどの場合、答えは「正しくない(不適切だ)」となってしまう。「正しいのか?」というのは、疑問と言うより反語なのだ。答えが決まっている。

 確かにこれが筆者の主張とか文章の主旨を適切に表わしていると感じられる場合もある。「南の貧困/北の貧困」もそうだ。

 だが今は文章把握のためのメソッドとしてこれをやっている。その場合、反語的な「~か?」は問いと答えのセットが持つ情報量が少ないのだ。

 例えば「『二重の疎外』という貧困のコンセプトはなぜ不適切か?」などと、疑問詞を使った問いの形の方が、思考の整理のために有益だ。


 それよりも、この文章ではシンプルに「貧困はなぜ起こるのか?」でいい。「貧困のコンセプトはどのようなものか?」でもいい。

 この問いに対する簡単な答えは「貨幣からの疎外貨幣への疎外という、二重の疎外に因る。」だ。

 さて、そのように「全体」を把握して、最初に考察に値する「部分」は何か?

 言うまでもなく「貨幣への疎外」である。


2021年2月8日月曜日

「である」ことと「する」こと 13 「である」価値=?

 「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。


 二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。各クラス、各班が見つけた対応箇所も実に多様な箇所が挙がった。

 ここではそれらを網羅して列挙はしない。それでもいくつか挙げてみよう。

 例えば冒頭の一文。

ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「封建制」が「である」、「近代」が「する」だと仮定すると、次のように言い換えられる。

ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「する」化が肯定的に評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつてはポジティブに評価されていたのだ。


 このように、「である/する」図式は、今村が言っていることを把握する手がかりになる。

 そのうえで「市民社会化する家族」が「過近代」の問題を扱っているというためにはどのように論理をたどれば良いか?

 まずこの文章でも「市民社会」が「する」論理であることを確認する必要がある。そしてそれによって「である」が尊重されるべき部面に「する」論理が蔓延しているのを問題視しているならば、それが「過近代」な状態だといえる。


 「近代」はどのように語られているか。

近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。

 「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理である。

 さらに、

近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。

 となれば、「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会ということになる。

 そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。つまり「アトム化」とは人々が「する」化しているということだ。そうした「あかの他人」同士がつくる「社会」とは「未知の者の集まり」にほかならない。

 そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。

私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。

 「保守的」は「である」推しな観点だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と同様である。

 今村仁司は「過近代」の問題を論じているのである。

 そのことが典型的に表出しているのは次の一節だ。

子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。

 成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。

 だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。

 「する」論理=「実用の基準」「効果・効率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などといったら幼子は救われないではないか。そうではなく、子供には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。お爺ちゃんに「効率」など求めてはいけない。老人に生に流れる、緩やかな「休止」の時間と、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。


 最後に、それぞれの文章の主張が一致していることを納得するために、両者を簡潔な形に要約して並べてみる。具体的には「『である』ことと『する』こと」の170~171頁と「市民社会化する家族」の主張を、同じ文型単文で要約し、それが相互に入れ替え可能であることを示す。

 どのように頭を使うか?

 文中からどのフレーズが使えるかと、あてもなく探すのは非効率だ。見つからないかもしれない。

 それよりもまずはそれぞれの話題の中心が何であるかを見定めることだ。主語を決めるのである。

 「『である』ことと『する』こと」は?

 これは既習事項。「学問・芸術」または「文化」だ。

 述語は?

 「『する』論理ではかるべきではない。」とか「『である』価値こそが重要だ。」など。

 これと同じ文型で「市民社会化する家族」を要約する。

 まずは主語。これが「家族」であると見定められれば良い。

 述語は「『である』ことと『する』こと」と共通でもいいし「社会化すべきではない。」でもいい。

  • 文化は「する」化すべきではない。
  • 家族は「社会化」すべきではない。

もしくは

  • 学問・芸術には「である」価値を認めるべきだ。
  • 家族には「である」価値を認めるべきだ。


 これで「『である』ことと『する』こと」の後半と「市民社会化する家族」が同じ主張をしていることが腑に落ちる。


 こんなふうに「である/する」図式は、考え方の型として威力を発揮する。
 授業で読む文章は、あるときはそれをただ読むだけで価値がある場合もある。一方でこのように「使う」ことで有用性を発揮する場合もある。そうした「である」価値と「する」価値は矛盾するわけではなく、文章を「読む」という行為の中に同居している。

「である」ことと「する」こと 12 「市民」=「する」論理

 日野啓三「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 この準備として課したのが、冬休みの宿題だ。

 そこでは最初の2章「権利の上に~」「近代社会における~」を挙げる者が多かった。話題の方向性が近いという感触は間違っていない。が、引用に適するのは166~167頁「徳川時代を~」「『である』社会と~」に多い。

 どのような一節を選べばいいか?


 例えば次の一節を比べてみる。

  • 政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる(13頁)
  • 民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる(164頁)
  • 政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」(165頁)


 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を「問う」」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別年齢人種といった「先天的」な要素を持ち込まない「あかの他人」同士だ。ここでは「公共の・パブリックな道徳」が必要となる。それが「討議の手続きやルール」や「会議の精神」を支える。

討議も堅苦しくなく率直に、だがあくまで証拠に基づいて論理的に進められる。ひとりひとりが納得するまで決して安易に和合しない。(略)時に苛立つ人はあっても過度に感情的になる人は、少なくとも画面にはなかった。繰り返し証拠物に当たり被告の録音テープを聴き直し、告発に対する〝合理的な疑念〟を探し合う。「いいかげんにしろ」というような言葉を、反対意見の人に向かってどなることはない。

 ここに見られる陪審員の姿はこうした「パブリックな道徳」に基づく「会議の精神」=「する」論理を体現している。


 「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」に共通する「近代」が登場しない。

 だが次のような一節がそれに対応している。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。(16頁)

 「具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟」=「する」論理が「市民社会」を支える。「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「普遍的に開かれた現実」は、「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類が初めて手にした「上位のレベルの現実」なのである。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。

 そうして「『市民』のイメージ」は「する」推しではあるが「非近代」の問題は扱っていない、ということも、まず直感的にわからなくてはならない。「する」論理が高らかに顕揚される本論では、そこに「である」論理が根をはる「倒錯」には言及されていない。したがって、「『である』ことと『する』こと」の前半、「する」推しとは重なるが「非近代」には重ならないのである。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


「である」ことと「する」こと 11 使い回す

 「『である』ことと『する』こと」を読み進めたら日野啓三「『市民』のイメージ」と読み比べることは予告しておいた。

 さらにここに今村仁司「市民社会化する家族」を加えて、三つの文章の論旨の関係を考えてみよう。


 三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰しなければならない。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。

 その上で、関係づけるために、接点として使える共通項を見つける。

 後から加えた二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。

 だがそれは直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。

 他には?

 例えば「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」には、最も重要な用語が共通している。何か? またそれは「『市民』のイメージ」には適用できないか? 


 こんなふうにして共通項を接点とするつながりを探っていくのは有効だが、全体を俯瞰するための方略についての見通しもあわせて考えていきたい。


 「『である』ことと『する』こと」という講演における丸山の主張は確認した。それはそれで現代の問題にも適用して考えていけばいい。

 だがこれを文章として読んだ我々が、政治に対して行動を起こすとまでいかなくても、またそうした行動の指針としてのみ丸山の主張が有効なのでもなく、ここから得た認識はもっと汎用性のある考え方として、これを活かすこともできる。

 どういう考え方?

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。

 「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、というのだ。

 これは例えば「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」で述べられている事柄を「である/する」図式を適用して考えることができるということだ。そして「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ことが可能になるということだ。


 「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、と把握されなければならない。

 これは「『市民』のイメージ」が「非近代的」で、「市民社会化する家族」が「過近代的」だということをそのまま意味しはしない。後者はそのとおりなのだが、前者は誤っている。どういうことか?

 これも必要に応じて説明ができなければならないが、まずは、そうだ、と思えることが必要だ。


2021年2月1日月曜日

「である」ことと「する」こと 10 精神的貴族主義

 ここまで考えて、時間があれば最終頁の「保守的」に触れる。触れるだけ。

 「保守」の対義語は?

 「革新」「進歩」だ。

 「保守的」「進歩的」、それぞれ何のこと?

 「である」推しと「する」推しのことだ。

 後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?

 話の趣旨を理解していない人は前半と後半で主張が食い違うと「怪しむ」かもしれないし、あるいは単に昔がいいと言っている、反進歩的(=保守的)な主張のように感じる人がいるかもしれない。丸山真男は政治学者だから、「する」推しであるのは自然なこととして受け止められる。誰も怪しまない。それが後半で「である」推しになったので、よく趣旨がわからない人は「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。


 さていよいよ、「部分」の解釈において最も難問であった次の一節を考えることができる。

現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか

 ここを疑問として挙げた者も多い。

 これは上段の「文化の立場からする政治への発言と行動」の言い換えになっている。

 「文化の立場」=「精神的貴族主義」から「政治」に「発言」するにあたって「ラディカルな民主主義」と「内面的に結びつく」ことが必要なのだ。

 ピンとこないと感ずるときは、とりあえずは対比を立てることで、それが表わすものを明確にする。

 「ラディカル(根底的)」の対比は「表層的」、「内面的」は「外面的」だ。対比をとるとどちらも似たような概念の対比になっていることがわかる。つまり外側だけ、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめたいらしい。

 「精神的」は「現実的」とか「実体的」とかいったような対比を想定すればいい。つまりホンモノの「貴族」ではなく、「貴族」のような精神に基づく「主義」だ、と。


 そして、この部分の問題の核心は「貴族」の対比である。何との対比概念を「貴族」という言葉で表現しているのか?

 「貴族」という比喩が表わす「である」精神とは何か?


 「貴族」の対比は「庶民」? 「民衆」?

 悪くない。だが「貴族」の対比項目は既に文中でマークされている。

  1. 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の規準が押しよせてきている(170頁)
  2. 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない(171頁)

 ここに見られる「大衆的な効果と卑近な『実用』の規準」「大衆の嗜好や多数決」こそ「する」価値・論理である。

 「である」=「貴族」的精神は、こうした「する」=「大衆」的精神に対比されていると考えるべきなのだ。逆に言えば、「大衆」という対立項目が既に言及されていることを忘れてしまうから「貴族」という比喩が唐突でわけのわからないものに思えるのである。


 「大衆」との対比から「貴族」という比喩のニュアンスを説明してみよう。

 1から反照されるのは、非「実用」的=役に立たないものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージである。「実用」などといった規準は「卑近」だ。「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚(卑近の対義語)」なもの―例えば学問や芸術―に価値を見出すのだ。

 2から反照されるのは、単に人気投票で選ばれるような物を良しとするのとは違った価値観だ。では何を?

 ここには例えば「古典」や「価値の蓄積」が対比される。「古典」の対義語として「流行」、「蓄積」の対義語として「消費」を想起しよう。

 大衆は「多数決」の「流行」を「消費」する。そうした文化は寄る辺なく移ろいやすい。だが「貴族」はそうした一時の「流行」に左右されない価値を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。

 文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。

 貴族とは文化の庇護者である。「実用」性や「多数決」といった大衆の論理で文化を扱うと、古典として後世に残ることもなく消えてしまう。

 貴族は庇護する対象ではなく主体だ。貴族を文化として庇護するのではなく、貴族のように文化を庇護すべきなのである。

 「精神的貴族主義」とはそのような志向性を表わしている。


 さて最後に、どんな運動が「文化の立場からする政治への発言と行動」として想起されれば良いのだろう?


 例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」のひとつとして、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動などを挙げてもいい。

 そこまで直接的な文化保護でなくとも、「効率・機能・実用」主義だけで政策が決定されてしまうと損なわれるおそれのある「弱者保護」や「環境保護」なども、「である」精神によって修正していく必要があると考えればいいかもしれない。