さて「福祉」がどうだと言っているのか?
この社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され排出された矛盾の、第二次的な「手当て」であり「救済」であるという構造は、この「福祉」という領域を、基本的に傷つけられやすいものとしている。
「外部化され排出された矛盾」は前項から「貧困」のことを指している。「福祉」は「第二次的」な「手当て」だから「傷つけられやすい」という。
「傷つけられやすい」も比喩である。「地平」「離陸」「翻訳」「パラメーター」などに共通して、わかりにくいと感じる理由の一つが比喩表現が使われているということだ(「精神的貴族主義」もそうだった)。
この「傷つけられやすい」は直後の
危機の局面にはいつも、「削減」や「節約」や「肩代わり」や「自己負担」や「合理化」の対象として議題の俎上に載せられる
のことだ。先に比喩がきて、後でその説明がくる。「排出物」と「外部化」もその順番だった。だからわかりにくい。
だが見田的には、そうした比喩で「何だろう?」と、読者の注意を喚起しておいてから説明をする、というレトリックのつもりなのだろう。こうした論理についていければ、こうした表現もそれなりに美意識に訴えるのだ。
さて、「福祉」は「二次的」だという。言い換えは?
「消極的」だ。「福祉」は「消極的な定義しか受けていない」。
したがって「傷つけられやすい」。つまり「二次的」で「消極的」なものだから、すぐに減らされてしまう、といっているにすぎない。
だから結局「福祉」がどうだというのだ?
そこまでの論旨とどう接続しているのか?
ここは南の貧困について「政策として方向を過つ」で考察したことと結びつけよう。
どのように?
「貧困」が「二重の疎外」に起因するものであることを認識しないということは、「貨幣への疎外」を見ずに「貨幣からの疎外」だけを見るということだ。つまり「貧困」を単に金がない状態としてしか定義づけないということだ。
そうした定義による「過」った政策とは、「貨幣からの疎外」に対する、対症療法的な「開発」や「支援」だと先に述べた。
「福祉」は北の貧困における、この「対症療法的な」施策なのである。
お金がない人にお金をあげよう、と言っているのだから。
こうして、「貧困」が南でも北でも同じ構造において生じていること、そしてそれに対する政策に問題があることを指摘する論理は一貫している。
読解の目標は常に、まずは自分一人で読めること、である。その先に、そこで論じられている問題について自分なりに意見を持つとか別の問題に応用する、というようなことが求められるかもしれないが、とりあえず授業であれテストであれその後の人生においてであれ、まずは一人で読めることが必須だ。
だから「わかる」ために何を考えるべきかも自分で粘り強く考えるべきなのだ。
そうはいっても、授業はせっかく皆が集まっているのだから、議論を通じて考えを交換するために、ある程度は理解度を揃えた方が良い。そのために考えるポイントを示したり、ヒントによって誘導したりする。あるいは問いを投げかけたりもする。
だが本当は「問いを立てる」とか、対比的に考えるとかいったメソッドを活かして、それぞれに自分で納得できるまでじっくり考えるべきなのだ。
考えさせたい。
今年度の授業もあとわずか。
最後は「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をつなぐ論理を見つけ、それを現代の我々の問題として捉え直す。