2021年12月22日水曜日

2021年12月21日火曜日

舞姫35 最終回

 最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。


 それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。

 「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。

 だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。

 とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。

 そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。

 今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。


 豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。


 第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。


 主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。

 これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。

 ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。

 皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。


舞姫34 比較読解「羅生門」3 通過儀礼における「異類」殺し

 前述の『人身御供論』の中で、大塚は通過儀礼の物語と、「鶴女房」「蛇女房」「猿婿入り」などの民話に見られる「異類婚」のモチーフを結びつけ、〈移行〉期における随伴者としての「異類」の存在を「移行対象」のアナロジーで考察している。

 『移行対象(transitional object)』とは、絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である『移行期(6ヶ月~1歳頃)』に現れてくる物理的な対象のことである。それは単なる物理的なモノというだけではなく、今まで一方的に依存していた母親のもとを離れようとする幼児の孤独や不安を和らげる魔術的な力を持ったぬいぐるみやおしゃぶり、玩具、毛布、ハンカチなどのことを指す。(「分かりやすい“心理学用語事典・学術用語事典”のブログ!Keyword Project+Psychology」)

 幼児は成長する過程で、いったんは「移行対象」に依存し、その後再びそれを捨て去るのであり、これが、「異類」との別離が必須である理由だと大塚は分析する。

 先の『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、「ハク」と呼ばれる川の精霊に助けられて、異界での〈移行〉期を過ごす。だが、通過儀礼の物語の最終的な段階である〈再統合〉のためには、千尋は「ハク」との別れを経験しなければならない。

 そして「異類」との別離は、時として殺害という形で表現されることもある。あるいは主人公によって、あるいは物語そのものの力によって、「異類」は通過儀礼の供儀として殺される

 グリム版「赤ずきん」では、森へのお使いが〈分離〉および〈移行〉のプロセスに対応し、帰還が〈再統合〉に対応している。だとすれば、森という異界に住む狼が、赤ずきんにとっての「移行対象」である。ベッドに潜んで赤ずきんを誘惑し、「食べて」しまう狼に性的な比喩を読み取ることは容易だ。つまり狼は赤ずきんにとっての「異類婚」の相手である。そして主人公は「移行対象」である「異類」を殺すことによって、通過儀礼の物語を完遂する。

 「羅生門」の老婆もまた、下人によって手荒く蹴倒されることによって、「移行対象」としての役割をまっとうしたのだといえる(そうした観点からは『千と千尋の神隠し』における〈移行〉期の随伴者は「ハク」及び「カオナシ」「湯婆婆」の三者に分離しているというべきかもしれない。子ども向けの作品としては随伴者の殺害といった物騒な展開にするわけにもいかないだろうから、「ハク」とは別れのみを体験させ、「殺害」に相当する闘争の相手として「湯婆婆」を置いているのかもしれない。「カオナシ」の存在はまた奇妙な謎に包まれていて、ここでは分析しきれない)。

 こう考えてみると、「舞姫」の物語が、なぜエリスの発狂という、読者にとって不全感を拭いがたい形で完結しなければならなかったのかという疑問にも、ひとつの解答が得られる。

 それは「舞姫」という物語が、豊太郎を近代日本という社会に〈再統合〉させる通過儀礼の物語だからなのだ、という答えである。

 エリスという「異類」は、そのための供儀として殺されなければならなかったのだ。


 通過儀礼とは、当人にとっては共同体への参入の資格を得る機会であり、それが「成長」というビルディングス・ロマンの形式にも比せられる理由だが、一方で通過儀礼を要請するのはあくまで共同体の側である。

 共同体は、内部の秩序を成立させるために、異物を作り出してそれを外部に排除する必要がある。「一寸法師」や「桃太郎」における鬼ヶ島の鬼たちも、そうして殺される「供儀」である。

 老婆が着物を剥ぎ取られたうえで蹴倒されるのも、エリスが発狂したうえで捨てられてしまうのも、狼や鬼などの異界の住人が当然のように腹を裂かれ討ち滅ぼされてしまうことを考えれば、やむを得ない物語上の要請があったからだと考えるべきかもしれない。

 それは主人公による主体的選択などではなく、物語が強いる構造上の必然だ。そこでは登場人物の豊太郎もまた、近代的「個人」として行為の起源を担うことはできない。


舞姫33 比較読解「羅生門」2 通過儀礼の形式

 「舞姫」と「羅生門」それぞれに、通過儀礼の構造を見つけることは難しくない。

 「舞姫」では、豊太郎の洋行がすでに〈分離〉の形式を成していることは明らかだが、さらにここに「母親の死」と「免官」という要素を加えて、鷗外は豊太郎を日本、及びその安定した社会構造から念入りに〈分離〉する。

 一方の「羅生門」の下人もまた「主人から暇を出され」ることで社会的秩序から〈分離〉されている。

 〈分離〉はまた、異界への越境である。たとえば千尋が神々の世界に迷い込む際にトンネルを通過する場面は、〈分離〉の形式を、「境界を越える」という空間的な移動として象徴的に表現したものだ。

 「羅生門」における越境を空間的に展開したのが、もとより境界上に存在する門としての「羅生門」という舞台設定であると一見したところ見えなくもない。

 だが下人は千尋のように門を通って都の外へ出るわけではない。そもそも「羅生門」が隔てている「洛中」と「洛外」は、〈洛中のさびれ方はひととおりではない〉以上、それほど明確なコントラストを描いているとはいえない(むしろ初出によれば、下人はこのあと京都の町、つまり「洛中」へ舞い戻るのだ)。

 したがってここでの越境は、羅生門の上層へ下人が登ることによって表現されていると言える。


 一方「舞姫」における越境について考えるには、「山月記」「檸檬」との比較において考察した「舞姫」の空間把握が参考になる。

 すなわち大きなスケールでいえば日本→ドイツが〈分離〉=越境であるには違いない。

 だが、豊太郎にとってドイツは異国ではあるが、ウンテル・デン・リンデンに立つ豊太郎はまだ社会的秩序から断ち切られているとは言い難い。豊太郎にとって本当に異界であるのは、ここまでも空間的な対比として捉えてきた、反ウンテル・デン・リンデン的空間であるクロステル巷だ。異界としてのクロステル巷へ足を踏み入れた豊太郎は、そこで異界の住人であるエリスに出会い、エリスに伴われてその家へ足を踏み入れる。

 つまり「舞姫」において〈分離〉の形式は、先に「檸檬」との比較で考察した西洋的秩序への忌避感や母親の死と免官といった心理的な〈分離〉とともに、空間的には「ドイツ」→「クロステル巷」→「エリスの家」という入れ子状の「異界」への空間的な越境によって表現されているのである。


 こう考えてみると、うち捨てられた死体の転がる羅生門の上層への梯子を登る下人と、父親の死体の横たわるエリスの部屋への石の梯を登る豊太郎の姿が、奇妙に重なって見えてくる。

 「異界」は「彼岸=あの世」でもある。二人はともに「異界」への越境という形で、通過儀礼における〈分離〉を果たす。


 これまで檸檬と対比されてきたエリスは、ここで老婆に比せられる。

 二人は豊太郎や下人が〈移行〉期を過ごす「異界」の住人だ。エリスとのつつましやかな同棲生活が豊太郎にとっての、また老婆との会話の戯れが下人にとっての〈移行〉期である。下人はここで本当に、それまで彼を捉えていた「観念」から〈分離〉される。

 とすれば、豊太郎と下人の〈再統合〉はいかにして行われるか?


舞姫32 比較読解「羅生門」1 通過儀礼

 最後に「羅生門」と「舞姫」を読み比べてみよう。

 今年度の授業は「羅生門」から始まった。最後の教材「舞姫」の読解を「羅生門」との重ね合わせで終わるのも妙な巡り合わせではある(もちろん普通は1年生の早い時期に「羅生門」を読むので、つまりこの2作品は高校の国語科授業の最初と最後を飾る小説だといえる)。

 この読み比べによって期待するのは、なぜエリスはあんなに酷い目に遭わねばならないのかという疑問に対する一つの説明である。この疑問に対する別の解答は「こころ」との比較において考察した、豊太郎を日本に帰すという結末を前提として、豊太郎の性格造型との整合性を持たせるため、という心理的な機制である。一方ここでは文化人類学的な知見を応用した、別の説明を試みる。


 さて、両作品を比較する端緒は何か?


 共通するキーワードは「通過儀礼」である。

「通過儀礼」 出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(「Wikipedia」)

「イニシエーション」 人類学用語。「成年式」「入社式」とも訳される。社会的に一人前の成人として認知,編入されるための一連の手続きのこと。広義には,ある社会的カテゴリーから他の社会的カテゴリーへの,集団的あるいは個人的加入を認可するための一連の行為体系をさし,秘密結社への加入やシャーマンなど宗教職能者の地位の取得なども含まれる。通過儀礼を伴うことが多い。(「コトバンク」)

 長らく国語教育界では「羅生門」を「極限状況において人間が持たざるを得ないエゴイズム」を主題とする小説として扱ってきた。だが今年度の最初に読んだ「羅生門」はそのような小説ではなかったはずだ。

 ここでは詳述しないが、授業で提示した読解によれば、「羅生門」とは自らの「観念」から脱却する話だ。とすればそれは下人にとって一種の成長譚と捉えることができる。

 そしてこれを通過儀礼の物語として読もうというのが、ここでの読み比べの手がかりである。

 一方、「舞姫」を通過儀礼の物語として読む可能性については、前述の前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」に言及が見られる。


 さて、「舞姫」と「羅生門」を通過儀礼の物語として読むためには、もう少し準備がいる。それは通過儀礼の基本構造を押さえておくことである。

通過儀礼がその構造上、三つのプロセスに分けて考えることができるのは文化人類学の定説である。まず儀礼の当事者は彼がそれまで帰属していた社会的立場から〈分離〉する。そしていったん、彼は日常的な社会秩序から解き放たれ、非日常的な時空を象徴的に生きる。この状態を〈移行〉期と呼ぶ。やがて彼は再び社会に〈再統合〉されるが、その段階では彼はそれまでその支配下にあったのとは全く異なる社会的秩序のものと組み込まれているのである。(大塚英志『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』)

 古くからの民俗や習俗にとどまらず、多くの民話・神話、童話やファンタジーなどの物語をこの〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という基本構造によって分析する試みが、これまで文化人類学や民俗学で行われてきた。

 たとえば、旅をモチーフとする、いわゆる「行きて帰りし物語」は基本的に通過儀礼の構造をもつものとして把握できることが知られている。

 「桃太郎」「一寸法師」「白雪姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」などの民話、あるいは「ナルニア国物語」「指輪物語」「ゲド戦記」「ハリー・ポッター」などのファンタジーにも同様の構造が見られる。

 たとえば人口に膾炙した宮崎駿監督によるジブリ・アニメの諸作品も、多くはそうした構造をもっているといっていい。

 中でも最も典型的なのが『千と千尋の神隠し』だ。現実の世界では中学生である千尋は、トンネルを抜けて迷い込んだ神々の世界で父母と離れ名前をはぎ取られて(分離)、湯屋の下働きとして働き(移行)、やがて元の世界へ帰る(再統合)。そこには主人公の成長を描こうとする、明瞭に意図された通過儀礼の構造があからさまに見て取れる。


 さて、以上の予備知識をもとに「舞姫」と「羅生門」について考察する。