2021年4月28日水曜日

ぬくみ 3 近代という問題

 具体的な手がかりとして、まず「『である』ことと『する』こと」と「ぬくみ」に共通する「近代」という言葉がどのような意味で使われているかを確認する。


 「『である』ことと『する』こと」における「近代」はもう充分馴染んでいるだろうか。

 165頁や169頁下段の記述から、「である」価値・論理から「する」価値・論理への移行を意味していると捉えられる。

 一方「ぬくみ」では次のように言っている。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、「封建的」と言われたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、あるいは証明しなければならない社会を作り上げてきた。少なくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会を目指して、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的コンテクストから自由な個人ということだ。

 「近代(化)」を共通項としてこれら二つの文脈を重ねてみる。

 何が言えるか?


 「封建的」な社会が「である」社会であることは「『である』ことと『する』こと」で述べられている。つまりそこにある「血縁・地縁」などの「くびき」「社会的コンテクスト」は丸山の言う「である」論理である。

 鷲田はそこから「身をもぎ離」すことが「近代化」だという。

 丸山の「『である』ことと…」の「近代化」は上記の通り「である」から「する」への移行なのだから、丸山と鷲田、二人の言う「近代」は一致していると見なせる。

 「身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも」という羅列は見事に「である」論理を列挙していて、それらに「囚われない『自由な個人』」とはつまり「する」論理にしたがって動く存在だということだ。

 「自由」が「する」論理に基づくことは「『である』ことと『する』こと」でも述べられている。つまり「自分が誰であるかを自分で証明しなければならない」とは「不断の検証・行使」が必要だということだ。


 さらに、「ぬくみ」から「する」論理・価値を表わす言葉を探そう。何か?

 勘の良い者はすぐに指摘した。「資格」や「条件」である。

 「である」論理から解放された「自由な個人」はむしろ「寂しい」。人々は「資格」や「条件」といった「する」価値を示し続けなくては社会に存在し続けることができない。それに疲れた人々は、むしろ「このままの」自分(223頁)=「である」価値を認めてほしいと思っている。


 整理してみよう。

である/する

 左辺から右辺への移行が近代化である。

    封建社会/近代社会

 血縁・地縁、身分・性・民族/個人

 社会的コンテキスト/個人

 これらは一対一対応になっているわけではない。大体左辺か右辺かが示されている、というくらいだ。

 さてこうして「する」化=近代化が生み出すのは、大規模にシステム化された社会だ。

 そこでは、個人は「資格」「条件」が求められる。

    /システム化

    /資格・条件

 これらはなぜ「する」論理なのか?

 説明のために「する」価値・論理の言い換えのバリエーションから適宜選ぶ。

 たとえば「機能」「業績」「実用の基準」「効率」などが想起されれば良い。

 「システム化」された社会は「実用の基準」に基づいて「効率」的に運用される「する」論理で動いているし、「資格」はそうした社会で個人が持つ「機能」のことだ。

 そうした「不断の検証」に疲れた人々は「このままの」自分を認めてもらうことを欲する。これは「『である』ことと『する』こと」の「それ自体」「かけがえのない個体性」などと対応される。

 「このままの」自分/

      それ自体/

かけがえのない個体性/


 「ぬくみ」は単独では対比が見えにくく、それが趣旨を理解しにくい原因のひとつなのだが、こうして「である/する」図式を援用することによって、鷲田の捉えている現代社会のあり方が対比構図にはまってくると、その主張が明瞭になる。


ぬくみ 2 読み比べる

 ところで「ぬくみ」とは何か?

 本文中には一度も「ぬくみ」という言葉が登場しない。

 とりあえず「ぬくみ」という単語はどういう言葉なのか?

 「甘み」と「甘い」という関係から「ぬくみ」は「ぬくい」という形容詞の名詞形であると推測される。「ぬくい」は関西圏で使われる傾向のある言葉で、関東圏にとっては「あたたかい」の方が馴染みがある。それを名詞化するならば「あたたかみ」あるいは「あたたかさ」であり、「ぬくい」も、「ぬくみ」よりは「ぬくもり」という名詞の方に馴染みがある。

 本文中に登場しないこの言葉を、先ほどの一文要約に使ってみる。

 既に作った文によっては操作は難しくない。「現代の人々はつながりを求めている。」を、そのまま「現代の人々はぬくみを求めている。」と言ってしまえばいいのだ。


 実は「ぬくみ」という文章は、教科書の2部の冒頭に収録されているからという理由だけで読み出したのではない。

 前項の通り、部分的に難しいと感ずるところはなく、なのにつかみ所のない文章だ。読解によって何かが明らかになっていくわけではないから、単体では取り上げる気にはならなかったかもしれない。

 だが、年度始めに取り上げる意義はある。読み比べには使える文章なのである。

 読みながら、それを想起していただろうか?


 お相手は「『である』ことと『する』こと」である。

 考え方の基本方針は了解されているか?

 本文から根拠を引用して、と指定すると、似た趣旨のことを言っていると感じられる箇所をそれぞれの文章から指摘する、というのがとりあえずの発想になってしまうが、それがなぜ似ていると感じられるかは、全体の論旨の中ではじめて納得される。

 したがって、考え方の基本方針は、昨年度の読み比べでもやったように、「である/する」図式に、「ぬくみ」の論旨を位置付ける、という方向で論を立てることである。

 「ぬくみ」のどこがどのように「である/する」図式に対応するのだろうか?


 それでもとっかかりが掴めなかったら、直截的な手がかりとして、共通する語彙に注目する。

 何を取り上げるか?


 もちろん重要な語彙、いわゆるキーワードでなければ手がかりにはならない。

 そうした条件にあてはまるのは「近代」という語である。


ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。