2020年4月30日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 11 -グループワーク実施

 学校全体でTeamsが動き出すまで、もうしばらくかかりそうです。
 そこで、あるクラスで試験的に、Teamsとは別のオンライン通話で、前回の「問題の整理」にしたがって、話し合いをしてもらいました。
 基本4人ずつの10班によるグループワークです。話し合いの後、その成果(必ずしも「結論」というほどまとまらなくても)をレポートとしてそれぞれ班ごとに送ってもらいました。

 レポートには、部分的に面白い見解や「うまい」表現もあったのですが、全体としては問題に対する考察が十分に深まっているとは言えませんでした。これはやむをえないことです。今回の話し合いはあえて時間を短くするよう制限しましたし、授業のようなこちらからの微妙な誘導ができないからです。

 それでも、こうした話し合いは授業にとってやはり重要な意味をもつと、あらためて思いました。
 そうした契機がなければ、こんなブログの長い文章など、読むことすら面倒でしょう。そしてその問題について考えることも。
 そして「考える」ことこそが、国語の学習のほとんどなのです。
 この後の記事を読む上でも、この問題について考えた今回の経験がなければ、どれほどの関心を持って読めるか、あまりにも心許ない。このクラス以外の人たちにとって。 
 それでも、そうした機会を待って現状で止まっているより、問題を先に進めます。

 考察すべき問題を確認します。まず一点目。

①文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」とは何のことか説明する。

 この問いにストレートに答えてはいけません。前々回この問いは「雑な問い方」だと言ったはずです。「単なる『何のことか』よりも適切な問い」をまず考えなさい、というのが前回までのアドバイスです。
 また、どちらも、文中から該当箇所を挙げることはできるが、それだけでは「わからない」ので、「わかる」ための説明を考えなさい、というのが指示です。
 もちろんこれらの指示に応えるのは難しい。問いそのものを工夫しているレポートはありませんでしたし、「説明」も、結局本文といくらも変わらない表現にとどまっているレポートが多い。
 繰り返し言いますが、それらの「答え」は正解です。本文からの抜き出しが適切なら。
 にもかかわらず、それでは「わからない」と感じているのではないでしょうか?
 やはり「わかる」ために明らかにしなければならないポイントを捉える必要があるのです。

 予告どおり、今回はそこまで話を進めます。
 説明が「わかりやすい」と感じられるようになるためには、「そのこと」を説明するだけでなく、「そのことでないこと」と併せて説明するのが効果的です。「対比」の考え方です。「対比」の考え方は、自分が「わかる」ためにも有効ですが、相手に「わかってもらう」ためにも有効です。
 つまり「逆説」を説明するためには「通説」が何なのかを明らかにするのです。
 「問い」として言い直すなら「この『逆説』とはどのような『通説』に対して『逆』なのか?」です。
 対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせるのが肝心です。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすることが、「そのこと」を認識しやすくします。
 さて「逆説」はもう明らかですね。ではこの場合「通説」とはどのようなものでしょう?

 「形而上学」も同じように考えます。「形而下」とは何のことか、と考えるのです。
 ただしこちらはこれだけではまだ「わかる」べきことが明らかにはなりません。
 授業ならば「『形而上学』という言葉を、筆者はどのようなニュアンスで使っているか?」と問います。
 「ニュアンス」?
 微妙な言葉です。ですが筆者がそれをどのような「ニュアンス」で使っているか、こそが「形而上学」の「わからなさ」です。
 そもそも肯定的? 否定的? どうして「形而上学」という言葉がそのような意味で使われるのでしょう? 筆者はこの言葉にどのような「ニュアンス」をこめているのでしょう?

 そしてもう一つ重要な問題は、題名にはじまって本文中一貫して「ホンモノ」という言葉がカタカナで表記されていることの意味です。ここにはどんなニュアンスがこめられているのでしょう?
 実は「形而上学」はそれだけを説明しても不十分で、「ホンモノの形而上学」と言わないとそのニュアンスが説明できないのです。
 筆者はなぜ、「本物」という言葉をカタカナで「ホンモノ」と表記するのでしょうか? それを含めて「ホンモノの形而上学」を「形而下」と比較しながら説明してください。

 ところで、レポートの中で「形而上学」を「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」と説明している班が複数ありました。察するに、おそらく昨年度の授業で確認された「公式」解答ということでしょうか。
 これは確かに間違ってはいません。ですが、単なる本文そのままの「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという認識」より何かが「わかりやすく」なっているでしょうか? どうしてこれが「形而上学」という言葉で表現されているかは、依然として「わからない」のではないでしょうか?
 「ホンモノの形而上学」が本文の何を指しているか、が問題なのではなく、やはりこの表現のニュアンスが読み取れることが、ここでは読者に問われているのです。

 ②全体を捉える「問い」と「答え」の組み合わせを考える。

 まず「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」では駄目だと最初に言いました。
 「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」は、それよりは良いのですが、上述の通りまだ不十分です。
 この二つは、その「答え」が本文中からほとんどそのまま抜き出せて、それでも「わかる」という感覚がおとずれるとは言い難いからです。
 ポイントは二つだと私は考えています。
 まず一つは上記にも挙げた「ホンモノ」のニュアンスです。「ホンモノ」とは何か?
 もう一つは?
 これは、もう一度考えてみてください。「問い」の形はシンプルです。そしてこの「問い」こそ、全体を把握する「問い」です。
 そして、上記二つの「問い」に対する「答え」を考えてください。
 「答え」は、繰り返し言っている通り、本文そのままでは駄目です。解釈を通して、自分が納得できる「答え」を形にしてください。

 さて、上記クラスには、もう一度、こうした誘導にしたがって話し合いをしてもらおうと思います。
 他のクラスでもそうした取り組みが自主的に行われることを期待します。
 何よりそもそも、始めてしまえば楽しいに違いないのです。

2020年4月27日月曜日

休憩 -星野源とコラボ

休校&外出自粛中のみんなに送ります。

ブログ同様完全公開なので、講座受講者に限らず、Youtube動画そのものはむしろ拡散希望です。






以下、興味のある人向けに。

演奏に参照したコード進行です。

CM7      B7      Em9     G7  Db7-5
CM7      B7      Em9     G7
Am7  Bm7  Dm7/G

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  F9-5

Db7-5とかF9-5の使い方がお洒落です。
コードはネット上にもいろんな分析があって、F9-5なども、表記はさまざまです。
サイトによって「F7#11」とか「B+/F」とかいう表記も見ましたが、和音としては「F9-5」と同じです。


うちで踊ろう

CM7        B7     Em9   G7  Db7-5
 たまに重なり合うよな 僕ら

CM7      B7             Em9      G7
 扉閉じれば 明日が生まれるなら 遊ぼう 一緒に

Am7  Bm7  Dm7/G

CM7   B7    Em9      G7
 うちで踊ろう ひとり踊ろう

CM7      B7   Em9  G7
 変わらぬ鼓動  弾ませろよ

CM7    B7   Dm7    G7   CM7
生きて踊ろう 僕らそれぞれの場所で

F9-5
重なり合うよ


CM7   B7    Em9   G7
 うちで歌おう 悲しみの向こう

CM7   B7  Em9   G7
 全ての歌で 手を繋ごう

CM7   B7     Dm7      G7   CM7
生きてまた会おう 僕らそれぞれの場所で

F9-5
重なり合えそうだ

  CM7  B7  F9-5

2020年4月26日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 10 -問題の整理

 休校中の課題の提示から2週間が経ちました。
 各科目の課題の中には、GW明けの学校再開を想定した課題もあります。一方、学習の方向性だけを示した課題もあります。本ブログ「現代文」の課題もそうです。要約を週に2本、という課題なので、ここまでで4、5本の要約をしていれば、とりあえずは指示どおりです。さらに「学習の手引き」について考えてあれば、「現代文」という科目の学習としては十分です。
 おそらく予定のGW明けの学校再開は難しいでしょう。感染者増加のペースは落ちていないので、緊急事態宣言を解除する理由がありません(解除するなら、活動自粛には実は感染拡大を防止する効果がない、という意見が専門家会議でまとまるしかないでしょう。が、それはここまでの方針を誤りであったと認めることになるので、難しい)。
 引き続き休校が続くとして、その間、課題は同じように続けてください。

 一方、このブログでは授業が行われていたら、という想定で、授業で取り上げたかもしれない教材文を題材に、読解のためのメソッドを紹介しています。
 繰り返し書いているように、メソッドは、知っていると役に立つというようなものではなく、使うことで、身につけることでしか役には立ちません。
 そしてさらに、可能ならば、ここで問題を提示することで、みなさんが授業を受けたときのように「考える」ことができないか、とも期待してきました。
 まあしかしこれについては悲観的にならざるをえません。おそらくみなさんは、数学の問題を解くようには、現代文の問題について一人で考えるという経験をしたことがないだろうと思われるからです。何かを一人で考え、考えが深まっていくという経験を。
 「考える」ためには、やはりある程度の強制力があり(例えば学校に集められて、授業を受けさせられる、といったような)、そこには目の前に他者がいて、対話をする、というような契機が必要なのです。
 一人で考えるという「経験」を数知れずしてきた私でも、前回までのように、対話という契機があると、いきなり、一人ではできなかったような考察に導かれます。前回までの考察では、自分なりにはこの文章はこう読めば良いだろうと見当をつけていた読みとは違う読みに目を見開かされました。「認識の変容」というやつです。
 こういうことが起こるから授業は面白い。

 さて、「ホンモノのおカネの作り方」について「考える」ために、問題を整理します。

  1. 文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」を説明する。
  2. 文章全体の「問い」を「~か?」という形で表し、その「答え」をまとめる。

 1については、もちろん語義ではなく、文中での意味を説明するのです。そしてもちろん、「逆説」も「形而上学」も、文中ではどういっているかを指摘することはできます。

  • 逆説ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説
  • ホンモノの形而上学ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」

 文中から上記部分を指摘するだけでは「わかった」と感じられるようにはならないからこそ問題なのであって、上記記述の意味をこそ説明すべきなのです。
 ここでは「説明」するための方向性について、単なる「何のことか」よりも適切な問いがあるのですが、前回予告を先延ばしして、さらに次回。

 2「文章全体の『問い』」については前回「授業8」で言ったように、以下のように「問い」と「答え」が出揃うことは共通認識として、それでも「わからない」感覚をどう納得させたらいいのか、を考えてください。

  • 問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
  • 答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 つまり、上記とは違う「問い」と「答え」の組み合わせを考えてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 9 -対話3「対比を探す」

 前回に続いて対話の試み。
 さらにこの生徒は「対比を探す」にも、応えてくれています。

【具体例】
  ニセの二分判金⇔預かり手形
【形容・性質】
  ホンモノに似ている⇔ホンモノには似ても似つかない
【抽象語】
  ホンモノの形而上学⇔逆説

 既に自分でも考えてあったみなさん、どうでしょう? 一致していますか?
 この中で「抽象語」に挙げられた対比「ホンモノの形而上学/逆説」は、私には全く予想外でした。そして、初見では「要約」同様、この対比に強い違和感を感じました。そしてなおかつ、考えてみて、この生徒がこれを対比として挙げた理由が納得されてきました。

 本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。

 私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
 これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
 この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
 そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
 「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
 そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。

すなわち、ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説の作用こそ、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきたのである。だが、あのニセガネ作りたちを支配していたのは、この逆説とは逆の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。(52~53頁)

 ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
 「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。

 「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
 /逆説の作用によって両替屋の預り手形ホンモノのおカネになった。

 見事な対比です。
 こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?

 ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。

 「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
 「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
 「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆」と「逆」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
 「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。

 「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
 違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。

 それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
 と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
 いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
 やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
 以下次回。

ホンモノのおカネの作り方 8 -対話2「問いを立てる」

 引き続き、反応を返してくれた生徒の考察をもとに「対話」を試みます。
 この生徒はさらに続けてこのようにも言っています。

この文章全体が「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」という問いに答えようとしていると考えて要約したのですが、そもそも問いの方向性が間違っているということでしょうか?

 いや、これは正しい。とても。
 実は「授業4」回で「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」という問いはイマイチだ、ではどういう問いを立てるべきか、というお題を出したときに、みんなに考えついてほしかったのは、まさしくこれです。
 「どうしたら作れるか?」より「どのようなものか?」の方がいい。前回書いた通り「作り方」は本質的な問題ではないのです。「どのようなものか?」を論じるために二つの具体例をもってその成り立ちを説明していこうとして紹介したニセガネ作りたちの失敗例から、「作り方」を問うというレトリックを惹句として発想した、といったところでしょう。
 問題は確かに「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」です。文章は間違いなくこの問いに答えようとしています。

 にもかかわらずなお、この問いは最終的に有効なわけではありません。
 この「問い」の「答え」は前回、要約で参照した引用部分に既にあります。

問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 ここまで「わかった」上で、なおも「腑に落ちない」のではないでしょうか。
 書き送ってくれたあなた、あなたは必要な論旨の整理も理解もできています。その上でなお、これで本当に「わかった」と思えているのかどうかを自問してください。自問する間もなくまだ「腑に落ちない」と感じているとしたら、さらに有効な「問い」を立ててください。
 もちろん本講座の受講者全員も。

p.s.
 上記「答え」について、この生徒はさらに返信で、これがどういうことなのかという本人の解釈を書き送ってくれました。上の「答え」は単に本文から対応する部分を抜き出しただけですが、それをさらに解釈することによって、この「問い」に対して筆者が考えている、より本質的な「答え」が、抽象度の高い形で表現されていました。
 なるほど、この人はそのようにこの文章を読んだのか! 確かにこれは「腑に落ちて」いる!
 前回の「要約」があのように表現されていることも、それで納得されます。
 とても面白い問題です。次回紹介します。

P.P.S.
 「次回」取り上げられなかったので。
 この人はこの時点で、この文章は「『ホンモノのおカネは変化していく流動的なものであり、絶対的なホンモノのおカネは存在しない』ということを言いたいのだと思います。」と書いていました。このシリーズの最終回「授業14」で書いたことを、既に的確に表現していたわけです。

ホンモノのおカネの作り方 7 -対話1「要約」

 繰り返し書いているように、授業の本質は「対話」なので、こうして情報発信するだけでは授業の「代わり」にはなりません。
 前回お報せした通り、方法については検討していくとして、今回は「投稿募集」に応じたというわけではないのですが、反応を返してくれた生徒がいたので、本人の了承のもと、それを取り上げて、3回に分けて「対話」の試みをしてみようと思います。

 まず要約です。
 要約は、それをやろうと頭を使うだけで既に学習になっているのですが、もちろん書き上がった要約が適切なものであるかどうかの検討も必要です。
 ところが、これは要約した本人には判断しにくい、という決定的な問題があります。
 なぜかというと、ある理解に基づいて要約したわけですから、原理的に、そのような要約が適切かどうかをそのように理解した本人は判断できないということになるからです。「自分の理解」に基づいて「自分の理解」の適切さを判定しようというのですから、まるで自分を支えにして自分のバランスをとるような行為になってしまうわけです(わずかにできるのは、わかってはいるけれど上手く書けてはいないという感触を手掛かりに推敲する、くらいです)。
 そう考えた生徒の一人が、私に添削を依頼してきました。ありがたい申し出です。これで対話が始められます。
 送ってくれたのは以下のような要約文です。

ニセガネはホンモノでないものをホンモノに似せたものなのでホンモノになれない。ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。(101字)

 必要な要素は揃っています。100字要約としてのバランスはとてもいい。
 ですが一読したときに、最後の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」の部分に引っかかりました。
 2文目の主語は「ホンモノのおカネは」です。上記要約のように「に対する」というと「代わり」と「ホンモノ」は対立するものだと言っているように見えます。
 ところが本文では、代わりのおカネがホンモノに「代わって」ホンモノになったのだ、と言っています。
 つまり「代わりホンモノ」なのに、これでは「代わりホンモノ」に見えるわけです。

 …という指摘をしたところ、本人から次のような返信がありました。

教科書52ページ13行目〜15行目の「ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである」を参考にしました。

 なるほど! 本文が「ホンモノのおカネとは、その時々の『代わり』のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく」と言っている! これは上記要約の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」とほぼ同じです。
 そのつもりで読もうとすると、なるほど、この要約で言っていることは間違ってないとも思えてきました。この要約はそういうことを言っているのだ、と読むことが可能であることに、私の方も今更気づきました。

 なのになぜ最初に要約文を読んだ時には違和感があったのでしょうか。
 これはとても興味深い問題であり、かつ説明がとても難しい。現時点で、これをわかりやすく書けるかどうか自信がもてないくらいに。それでも、やはりこの要約に感ずる違和感には根拠があります。
 みなさんの中にも、同じように違和感を感じた人も、まるで感じない、これでいいではないか、と思った人もいるでしょう。違和感を感じた人、そのわけを考えてみてください。
 そしてこれを書き送ってくれたあなた、どうぞ再考してみてください。もちろんさっき述べた理由で、本人にはこの違和感を感ずること難しいかもしれません。ですが「再考」することで、さっきまでの自分を客観視し、さっきとは違った「自分」として、かつての自分の思考に対する違和を感ずることは可能です。

p.s
 この記事をアップしてから3週間ほど経って、後の記事の方でこの件について解説することができなかったので、ここに追記します。
 上の要約の違和感は、記述内容の順番に拠るものです。説明のために色分けして引用します。
ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。
 この一文の主語「ホンモノのおカネは」に対する述部は、青字の「「代わり」に対するホンモノでしかない。」です。しかし逆に、この述部に対する主語は、正確に言うと「『ホンモノのおカネ』における『ホンモノ』とは」です。
 ところがこの文章における重要な主語は、本当は「おカネは」であり、それに対する述部は、赤字の「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、という内容の方です。
 つまり内容的に、主要部分は赤字で、青字はむしろ付属部分です。
 こういう場合、付属部分が先にきて、主要部分が後に、特に文末にくる必要があります。「~は」という主部は必ず文末と対応して完結するからです。
 というわけで、例えばこういう順番であれば違和感はなかったでしょう。
ホンモノのおカネとはあくまで「代わり」に対するホンモノでしかなく、ある時点での「代わり」がホンモノになるという逆説の作用を受けてホンモノになる。
 予備校の要約文採点などでは、要約文の中の要素の有無で得点(減点)を計算したりしますが、実際には単純に要素の有無だけではその適切さを測れないというのがこの例でもわかります(だから予備校の要約指導や採点はあんまり信用できません)。ここでも、要約の適切さの判断の難しさについて、とても面白い例を挙げて論じられています。

2020年4月23日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 6 -部分的な表現を考える1

部分的な表現を考える1


 「ホンモノのおカネの作り方」を題材に、web上で授業(のようなもの)を展開する試みを続けています。
 ここまで「要約」「問いを立てる」「対比を探す」というお題を課していますが、それぞれ実行しているでしょうか。
 「要約」はともかく、後の二つは、ここで今、解答&解説のようなことをしても、残念ながらそれほど学習のためにはなりません。これらのメソッドは学習者(みなさん)が実行することによってのみ意味あるものとなるのであり、その動機付けと有効性の確認のためには対話が必要だからです。
 この対話のためのツールについては、現在、学校全体で検討中です。オンライン会議のためのツールは、現在複数のサービスがありますので、それらのどれかを使うことになると思われます。既にみなさんが日常的に使っているツールとしてはLINEのグループ通話なども活用できるでしょう。
 動向は追って連絡されるはずです。その全体方針を見てから、この講座での展開方法を考えていきます。

 さて、「問いを立てる」「対比を探す」のいずれも、思考の方向性を定め、思考を整理するために役立つ方法ではありますが、これだけで十分というわけではありません。
 全体的にはわかってきたが、細かいところでわからない感じがしている部分もある、ということもあります。そして「ホンモノのおカネの作り方」の場合、「要約」しても「問いを立て」ても、結局そのわからない部分がそのままの形で露出してしまうだけなので、論理の構造がわかったからといって、腑に落ちないという感じは解消できないのです。
 ただ、攻める方向は複数あった方がいいのは確かです。いくつかの方向から複数の方法を試しながら考えていくことで、それらの成果が互いに助け合って働きます。

 上記「わからない部分」は、この文章の場合明らかです。
 「逆説」「形而上学」です。これらの言葉が出てくる箇所で、理解がいちいち引っかかるはずですし、それが要約したときにもそのまま露出するので、その適切さの判断がしにくいはずです。
 ちなみに、最初の「問いを立てる」というメソッドにおいて、「『~という逆説』とは何か?」「『ホンモノの形而上学』とは何か?」という「問いを立て」た人もいるかもしれません。
 これらの問いは間違ってはいませんが、理解のための有効性としては十分ではありません。問いが部分的であることと、その答えは本文中から簡単に見つかり、なおかつそれでもわからないからです。
 ですが、これがこの文章を読解する上で考えるべき焦点の一つ(二つ)であることは間違いありません。
 引き続き、考えるべきことの指示として、この二つを取り上げます。
 ここでいう「逆説」と「形而上学」とは何のことか、説明してみてください。

 そもそも言葉として馴染みがないですよね? まずは語義を辞書や手元にある『読解を深める 現代文単語』(表紙が全体として青緑の)で調べてみましょう。その語義を本文に戻して、その文脈上では何を言っているかを考えてください。
 ただし、「逆説」と「形而上学」とは何のことか? というのは雑な問い方です。授業では意図的に、まずは雑な問い方をします。問題の方向性だけを示して、それを考えるためにはさらに何を考えたらいいのかをみなさん自身に考えてもらうためです。
 問われたことを答えることよりも、重要なことは、自分で問いを立てることです(学習上も、人生においても!)。「正しく問いを立てる」ことができたら問題の大半は解決への道の半ば以上が過ぎている、とさえ言われます。
 「逆説」と「形而上学」のわかりにくさは、単に語義がわからないということではありません。語義がわかった上で、それでもわかりにくいのはなぜか、何をわかりたいのかを考えてください。
 この、さらに方向を明確にした「問い」は次回提示します。その前にまずは自分で考えてみてください。

2020年4月21日火曜日

ホンモノのおカネの作り方 5 -対比を探す1

メソッド2

対比を探す1


 前回の課題、考えてみましたか?
 「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」が問いとして不適切だというのはどういう意味かわかりましたか?
 といって「どうして不適切か」を直接考えることはできません。適切な問いを立ててみようとして、その候補を考えているうちに、この表現の不適切さ、夾雑物(きょうざつぶつ)が意識されてくるはずです。

 問題は「作り方」という部分です。なぜこれが夾雑物なのでしょうか?
 筆者は本当は「作り方」など問題にはしていないからです。本気で作りたいとも、読者に作らせたいとも思ってはいません。これは偽金作りたちの陥った誤謬(ごびゅう)をエピソードとして取り上げるにあたって考えついたレトリックなのです。
 問題は「作り方」ではありません。では何でしょう?

 種明かしをする前に、予告した二つのメソッドのうちの二つ目を紹介します。
 それは文章中から対比を探す、という思考法です。
 2年生は昨年「水の東西」でこの読解方法を練習したはずです。

 対比は人間の思考の基本的な様式に基づいています。
 何かについて考えるということは、その「何か」を、「何か」とは別のものと比較するということです。そうでない思考というものは原理的にありえません(いや、私がとりあえず思いつかないだけかもしれませんが。あったら教えてください)。
 例えば「人間とはどのような存在か?」を考えてみてください(文章から目を逸らして、一瞬でも)。
 「人間なるもの」として、いくつかの属性を思い浮かべることができます。それらは必ず「人間でないもの」が備えておらず、「人間」が備えている属性です。「人間でないもの」もその属性をもっていたら、その属性が「人間」を表わすことになりません。論理的に。
 例えば「命がある」などと言ってしまうと、犬にも微生物にも命はありますから、「人間」とは犬だ、微生物だ、ということになります。
 授業ならばここでみなさんが思い浮かべた属性を発表してもらうところですが、残念ながらこちらで例を挙げます。例えば「理性を持っている」などという属性を思い浮かべた人はいるでしょうか?
 一方で「感情をもっている」という属性を思い浮かべた人もいるはずです。「理性を持っている」と「感情をもっている」の二つは反対の方向性をもつ性質のように見えます。なぜこんなことが起こるのでしょうか?
 私の経験では、みなさんの思い浮かべた属性は何種類かに分類できます。「人間」を、何との対比にようて捉えたか、によって。
 たとえばこんな分類です。

  • 人間/動物
  • 人間/機械(ロボット・アンドロイド・AI…)
  • (現実の)人間/理念としての「人間」

 例えば「理性を持っている」ことを人間の属性として思い浮かべた人は「人間/動物」という対比で「人間」を考え、「感情をもっている」と思い浮かべた人は「人間/機械」という対比で「人間」を考えたわけです。あるいは理念としての「人間」の対比であれば「人間とは不完全なものだ」といったところでしょうか。
 みなさんの考えた「人間なるもの」は上のどれかの対比によって捉えられたものであるはずです(西欧人にこの問いを投げると、そこには「神」との対比によって捉えられた「人間」が浮上してきます。そのように考えた西欧的な思考の持ち主はいたでしょうか)。
 上の「命がある」という属性はもちろん「人間」にもあてはまります。ただそれは「人間」が「生物/無生物」という対比における「生物」に含まれる、という意味であって、「人間」という概念の外延を輪郭づけるものではないわけです(必要条件ではあるが十分条件ではない、というか)。

 「そうでないもの」は、思考する人自身にとっても潜在的かも知れません。したがって文章になったときに、その対比が明示されているとは限りません。その明示の程度は様々で、よくよく考えないと何が対比要素なのかわからない文章もあります。
 このメソッドは後者のような傾向の強い文章ほど有効性を発揮します。当然です。対比が明示されているということは筆者がそれだけ整理して論を進めていて、かつそれを読者に親切に説こうとしているということです。つまりそれだけ最初から「わかりやすい」文章なのです。となるとメソッドの効果が実感に乏しい。
 一方、対比要素が何かわかりにくいということは、筆者自身が論理の未整理なまま書き進めているということであるか、読者に対して不親切だということです。こういう文章ほど「対比を探す」という思考法が有効なものになりうるわけです。

 「水の東西」は前者の例で、題名に既に対比が示されているばかりか、あちこちで対比が明示されています。したがって、このメソッドの効果が実感しにくい文章です(つまりメソッドなど使わなくてもわかる、という。高校1年生用の練習だからそれでいいのですが)。
 振り返ってみましょう。
 題名に明示された対比は「東/西」です。「/」はその前後が対比項目であることを示します。「対」「vs」の意味です。この文章は「水」を題材に「東洋」と「西洋」を対比しているわけです。
 対比軸の見当がついたら、文中の「具体例」「形容・性質」「抽象語」などの対比を片っ端から挙げて、軸の両辺に向きを揃えて振り分けます。

  •    東/西(抽象語)←ラベル
  •  鹿威し/噴水(具体例)
  •  流れる/噴き上げる(形容・性質)
  •  時間的/空間的(形容・性質)
  • 見えない/目に見える(形容・性質)
  •   自然/人工・造型(抽象語)

 これらの対比のうち、どれかを対比軸のラベル(見出し)として選んでおきます。この場合は「東/西」が題名にもあるので、すぐに選べます。
 ですが必ずしも最初に決める必要はありません。いくつかの対比項目を挙げながら、どこかの時点で、どれか適当なものを便宜的にラベルとして代表させるのです。
 対比の種類は別に上記三つのどれかに分類しなければならないというわけではありません。例えば「~的」という言葉が対比的に使われている時には、それは「形容・性質」でもあり「抽象語」でもあります。

 こうした対比の抽出には何の効用があるのでしょうか? 上に述べた通りです。対比の整理とは、文章の構造を把握することであり、筆者の思考を整理することです。これをやることでボンヤリしていた論理が明瞭になるという実感があるはずです。
 上に述べた通り「水の東西」ではこの実感は薄いのですが、それでも例えば上の対比の左辺だけをつなげて、この文章を次のように表現することができます。
東洋では、鹿威しにみられるように、自然に流れる水を目で見ることなく耳で捉え、そこに流れる時間を味わう。

 さて「ホンモノのおカネの作り方」には、どのような対比が潜んでいるでしょうか?
 さしあたって「具体例」「形容・性質」「抽象語」にあたる対比をそれぞれ一つずつ、三組探してください。

2020年4月20日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 4 -問いを立てる3

メソッド1

問いを立てる3


 読解するためのメソッド「問いを立てる」、「ホンモノのおカネの作り方」について、考えてみましたか?
 と、その前に要約はしてあるでしょうか。
 「要約」「問いを立てる」、現代文探究で紹介する「読み比べる」、いずれも、読解するためのメソッドです。ブログでは、実際に授業で取り上げたかもしれない教科書の文章を教材として、その有効性を明らかにしていくつもりですが、何よりもこれらのメソッドは、みなさんが自分で実行し、自らの国語力向上を図るために紹介し、その実行を求めるものです。
 そしてメソッドとは「知っている」だけで有効なのではなく、繰り返し実行して身につけることによって有用な技術になるものです。
 実行してください。繰り返し。ルーチンとして。

 さて、既に「ホンモノのおカネの作り方」の要約をしたことを前提に話を進めましょう。
 「要約の実演」の中で、本文の順番に要約していく方法を提案しました。この方法で要約してみましょう。

A ホンモノのおカネを作るには、ホンモノのおカネに似せようとしなければいい。佐土原藩のニセの二分判金はホンモノに似せようとした、あくまで「ニセガネ」に過ぎないが、両替屋の天王寺屋や鴻池屋の発行する「手形」はホンモノには似ていないが、後にホンモノのおカネのように実際の支払い手段として流通するようになった。ホンモノの「代わり」がそれ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用が、ホンモノのおカネを作る。(198字)

 要約に使うキーセンテンスを選ぶ際には、具体例の挙がっている文よりも、抽象的な表現の文を選ぶ方が、短く結論を示すことができます。この文章の場合は佐土原藩のニセガネ作りと天王寺屋や鴻池屋の発行する「預かり手形」のエピソードが具体例にあたります。これらを取り上げずに要約文を作ることもできます。

B ニセガネ作りたちを支配していた、ホンモノのおカネがホンモノなのはホンモノの金銀からできているからだという「ホンモノの形而上学」ではなく、本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」が、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきた。本来のホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意なのである。(200字)

 ABどちらが正解ということもありません。
 砂土原藩のニセガネ作りのエピソードも、両替屋の預かり手形のエピソードも、本文中では多くの紙幅を費やして語られており、その例示自体にも情報としての重要性はあります。抽象度を高めた下の要約より、具体例を含んだ上の要約の方がわかりやすい(情報が読み手に伝わる)とも言えます。

 ですが、100字に要約するとなるとさすがに具体例と抽象的表現の両立が難しくなります。下の要約abはどちらが「わかりやすい」でしょうか。

a ホンモノに似せようとした佐土原藩のニセの二分判金はついにはホンモノにはなりえず、両替屋の手形はホンモノには似ていないからこそ、後にホンモノの「代わり」として流通するいわば「ホンモノのおカネ」になった。(100字)

b 本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」、つまりホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意である。(99字)

 具体例を含む要約aの方がわかりやすいけれど、だから何なんだ? と言いたくなる舌足らずさも感じます。一方の下の抽象的な要約bは、これだけでは何を言っているかわからない(原文を読んで理解している人にしかわからない)文だろうと思います。

 ともあれ要約は、要約しようという思考がトレーニングなので、その結果がどのような形になっても有益です。もちろん、上の要約を自分の要約と比べてみる、などという思考も。

 さて、こうして何種類かの要約をしてみると、そこには既に「問い(問題)」と「答え(結論)」が潜在していることに気づきます。
 どのような「問い」でしょうか?
 おそらくみなさんは次のような「問い」を立てただろうと思います(そうではない、という人はちょっと待っていてください。ひとまずは想定される多数派からとりあげます)。

どうしたらホンモノのおカネを作れるか(ホンモノのおカネの作り方の極意とはか)?

 この問いは題名の「ホンモノのおカネの作り方」に、既に潜在しています。「文系と理系の壁はあるか」でもそうですが、題名は主題の在処を示していますから、そこにその文章が提起する問題が潜在しているのは当然です。
 そしてこの「問い」の適切さは、「答え」との対応関係から判定されます。「答え」はなんでしょう?
 次のような「答え」を想定しているはずです。

ホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに似ていない、ホンモノの「代わり」を作ればいい。

 これらの問いと答えの組み合わせは、既に要約文中にも見て取れます。「要約する」ことも、「問いを立てる」ことも、読むための思考法=メソッドですから、それを通して形になる読み=理解に共通性があるのは当然です。このような要約をしたということは、この文章を、このような「問い」に対してこのように「答え」ている文章であると理解したということなのです。

 さて、このように要約され、このように問いを立てられたなら、この文章に対する理解は「正解」です。この文章はまさにそう言っています。
 にもかかわらず、みなさんの実感は「腑に落ちない…」といったところだろうと思います。
 例えば大学入試問題のような問いは、基本的には本文中の論理の対応を問うているはずなので、上のような論理の整理ができれば答えられます。ですが、そのように「答えがわかる」ことと、その文章が「わかる」と感じられることは、必ずしもイコールではないのです。

 この文章を「わかる」ためには、別の問いの立て方が必要です。
 そもそも、筆者岩井克人にとっても、この文章で説きたいことを「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」と表現するのは少々不適切なはずです。この問いの形は、わざと奇を衒(てら)ってこの文章を面白くしようというレトリック(修辞)に引っ張られて、文章が本当に問題にしていることを見えにくくしています。この文章がわかりにくいのはそのせいだとも言えます。

 この文章では何が問題になっているのでしょうか?
 再び、上記とは違った「問い」を立て、その「答え」を文中から探してください。

2020年4月17日金曜日

投稿募集

 2年生、3年生「現代文探究」受講者のみなさん。

 このブログは、もともと授業のような想定で書いています。国語の学習は「教わる」ものではない、と最初から言っていますし、授業はインタラクティブであることが命です。
 2年生向けの「問いを立てよ」も、3年生向けの「読み比べよ」も、授業なら、みなさんに投げかけて考えさせ、話し合いをして、その後で何人かに発言してもらいます。いくつかの候補が挙がったらそれを検討します。

 ということで、受講生のみなさん、回答を投稿してください。

 ブログ下欄の「コメント」から直接コメントを投稿することもできます。直で公開ですが。

 また、ブログ右欄の「連絡フォーム」からはこのブログアカウント宛にメールを送れます。ブログに取り上げるときにはもちろん匿名にします。

 投稿よろしくお願いします(といっても投稿するにはハードルが高くて、投稿者があろうとは思えないので、実は個別に依頼するつもりではいます。ですが、門戸は開放しています。学年にも、選択者であるかどうかにもかかわりません)。

2020年4月15日水曜日

ホンモノのおカネの作り方 3 -問いを立てる2

メソッド1 問いを立てる2


 「問い」は立てられましたか?

 この「問い」の立て方には、やはりそれなりの制約やコツがあります。

 まず、イエスorノーで答えられる問いを立ててもあまり意味がありません。
 例えばコロナ感染対策のための休業補償を政府がしていないことを批判しようとしている文章(新聞コラムのようなもの)があるとして、その文章の冒頭あたりに「政府は休業補償をしなくていいのだろうか?」という「問い」の形をした一文が置かれていたとしましょう。これを今回の趣旨に合う「問い」として取り立てることには意味がありません。その「答え」が「よくない」であることは明らかだからです。イエスorノーで答えられる問いというのは、ほとんど反語のようなもので、その一文で意味が完結しているのです。
 この文章の場合、テーマはたぶん「なぜ休業補償が必要か?」といったあたりになるでしょう。「答え」は、「休業した店の人が困るから。」でしょうか? 間違ってはいませんが、わざわざ文章が書かれるとしたらそんな結論は当たり前すぎて書かれる必要はありません。おそらく「休業補償しないと、その後の日本経済全体の落ち込みを回復させるために必要な経済対策の方が多額になるおそれがあるから。」くらいの言い方をしたいか、「休業補償してでも休業させないと感染防止効果が十分保障されないから。」といった主張をすると予想されます。
 つまりこの文章での問題は「良いか悪いか?」ではなく、「なぜ悪いか(理由・根拠)?」なわけです。
 したがって、この「問い」は、「何が」「なぜ」「どのように」のように疑問詞が入った問いの形にします。主張・結論の表現に合わせて適切な疑問詞を選んでください。

 また、理解に資する「問い」と「答え」は、文章全体を包含するような組み合わせにすることが重要です。もちろん文章には部分的な、例えば段落内で完結する「問い」と「答え」の組合わせもあります。階層化された様々なレベルの「問題」と「結論」が構造化されて全体を構成しています。それらは必要に応じて考えるとして、まずは全体を捉えられる「問い」と「答え」を考えるというのが、この思考法を有益なものにするコツです。

 ところで、要約課題で最初に取り組んだはずの「文系と理系の壁はあるか」は、題名がいきなり「問い」の形です。この「問い」はどうでしょうか?
 もちろんこの問いはあまり有効ではありません。「ない。」という結論は読まなくとも予想できます。上記の「反語のような問い」に他なりません。「壁がある」ことは一般的な常識であり、わざわざ文章が書かれるとしたら、常識に反することを言いたいはずだと予想できるからです。
 この文章の最後の段落にはなぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。という、疑問詞の入った疑問形終わりの一文もあります。これは?
 残念ながらこれもまた、「なぜ」という疑問詞で始まっているにもかかわらず、「いや、枷をはめなくてよい。」という主張に続く反語のようなものです。
 でもこれをちょっと変形すると、有効な「問い」の形になります。たとえば「なぜ文系と理系の壁がない方が良いのか?」としてみましょう。この「答え」は?
 上の一文中からも一つの「答え」が抽出できます。視野を狭めることになるから。です。また、文章全体の最後の一文から抽出するならもったいないから。」「(理系も文系も)同じ人間の営みだから。あたりも抽出できます。つなげて言えば、この文章は「理系も文系も同じ人間の営みなのだから、視野を狭めるような枷をはめて区別するのはもったいない。」というような主張をしているということになります。
 これで全体の「問い」と「答え」が対応しましたが、しかしまあこの文章ではこれで、なるほど! みたいな「認識の変容」がおとずれるというわけでもありません。この文章は最初からそれほどわかりにくいことを論じている文章ではないからです。上のような「答え」も、それはまあそうだろうけど、という感じでしょう。
 というわけでこの文章を授業で取り上げることはなかったでしょうけれど、実際に授業で上のようなやりとりをしてみれば、それはそれでちょっとした頭の体操にはなるはずです。「問い」を立ててごらん、その「答え」を文中から探してごらん、そう言ってしばし考えさせ、隣の人と「答え」合わせをさせてみる。国語の学習としてはそれなりに有益で、かつ楽しいはずです。
 そしてこの「答え」を、最後から二段落目から次のように探すことができた人がいたら、大いに誉めていたでしょう(誰かが次のように回答し、それに対し「やるねぇ! 素晴らしい!」などと応える、授業の、そういう瞬間はとても楽しい)。
 「(科学の)成果を享受するのは私たちなのだから、私たちには技術を理解してその社会的な影響を考え、最終的な選択を行う責任がある」から

 ところで、この文章で扱っているテーマについては題名に疑問詞を付しただけの「なぜ文系と理系の壁はあるのか」という問いも想定できます。この「問い」はどうでしょう?
 でもこれはさっき無益だと却下した「なぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。」とほとんど同じように見えます。じゃあ取り上げる価値はないのでしょうか。
 いいえ、両者は同じではありません。文中に書かれたこの問いは、「自分の視野を狭めるような枷」と、最初から否定的な形容がつけられているため、「枷をはめてはならない(壁があってはならない)」という結論が見え透いていて、それを本気で論じようとはしていないことが予想されます。そして実際にその予想どおり、この文章では「なぜ壁があるか」を論じているのではなく、「壁がない方が良い」という前提をそのまま結論づけているのです。
 もちろん上の例と同じように「なぜあるのか」は「いや、ありはしない」という反語を意味することもあります。ですが「文系と理系の壁」問題の場合、「なぜ壁があるか」は、まず壁があることが前提ですから、その当たり前の前提に疑問を投げかける根本的な問題提起になるはずです(その分、当たり前の結論ならば書かれる意味のない文章になるおそれもあります)。
 また「何が壁をつくっているのか」という言い方でも、同じように根本的な問題提起になりえます。
 ですがその答えをこの文中から探すことはできません。これらの「問い」は、この文章の読解から派生した哲学的な「問い」であり、考える価値のある問題ではありますが、少なくともこの文章はそのような根本的な問題に踏み込んだ考察を行っている文章ではありません。したがってとりあえず国語の授業としての文章の読解からは、はみだしているわけです。

 さて、取り上げるつもりのなかった「文系と…」について思いがけず長々と論じてしまいました。次回こそ「ホンモノのおカネの作り方」を読むための「問い」を立ててみましょう。


p.s

 念のため。
 読解のための教材として授業で取り上げるにはそれほど意義がない、と言っているのであって、この文章を読む意義がない、と言っているわけではありません。
 「文系と理系の壁はあるか」を読む意義は、その主張を理解することよりも、筆者がそう主張するために取り上げた筆者の実体験を知ることにあります。そしていくらかは、わかってはいるとはいえ陥りがちな我々の思い込み、前提(文中の「枷」)をあらためて自覚することにあります。
 読解のための「教材としての価値」は、読解に負荷をかけることにあるのであって、「その文章を読む価値」とは違うわけです。

2020年4月14日火曜日

ホンモノのおカネの作り方 2 -問いを立てる1

メソッド1 問いを立てる1


 オススメの評論読解メソッドの一つは、この文章はどんな問いに答えようとしているか、と考えてみることです。
 この文章が主張しているのは、そもそもどんな問いに対する答えなのか? この「問い」を、「~か?」という疑問形で表現してみましょう。

 この「問い」は、稀に文中に直接書かれている場合もありますが、そういうのが見つかることは多くはありません。
 教科書所収の文章や入試で出題される文章は、長い文章の途中一部分の抜粋であることも多いということもあります。今読んでいる文章より前に、著書の中では問題が明示されていたのかもしれません。
 あるいは書き手は自分が何を書きたいかを、あらかじめ明確には自覚していないということもあります。書きながら考えているわけです。「評論」という括りの文章にも「論文」寄りのものと「随筆」寄りのものとあり、「論文」では問いが明示されることが作法ですが、「随筆」ではそのような決まった型がありません。
 そういうわけで、この「問い」は読者が自分で設定します。
 どうやって?
 結論から遡って、それはどのような問いに答えているのか、と考えてみるのです。
 この文章はつまりこういうことを言っているのだな…、ということはそもそも何について論じているかというと…と考えてみます。その「何について論じているか」という「問い」を「~か?」の形で表現するのです。
 といって「結論」が明らかであるとも限りません。今回の文章でも、結局何が言いたいかわからない、と言っているわけですから。
 というわけで、この「問題」と「結論」は、どちらが先にはっきりするとも限らず、その対応がしっくりいくかという感触を点検しながら、徐々に明確にしていきます。両側から攻めて、合致を探る、というのがこの思考法のイメージです。

 「ホンモノのおカネの作り方」は、どのような問いについて論じているのでしょうか?
 この文章が提起している「問題」を「~か?」の形で言い表してみてください。

ホンモノのおカネの作り方 1

 課題の要約、指示どおり週に2回のペースで進めてください。
 一方で、予告した、授業を想定した講座を展開します。
 まずは、
 順番が重要なわけではないので、何回目の課題としてでも良いので、教科書48頁の「ホンモノのおカネの作り方」の要約に取り組んで下さい。

 実は「ホンモノのおカネの作り方」は1年の「国語総合」の教科書にも収録されていて(教科書の出版社が違うのでこういうことも起こります)、週末課題で一度は読んでいるはずです。
 今回はこれを2年生の授業として再読します。そこに「認識の変容」は起きるでしょうか。

 筆者の岩井克人は日本を代表する経済学者で現在東大名誉教授。2010年のセンター試験はじめ、大学入試問題にも頻出です。

 さて、要約をすればそれで既に、それなりの理解はできているはずです。
 にもかかわらず、この文章は何を言っているのかよくわからない、という感じがしていることと思います(という前提で話を進めます)。
 要約はしてみたものの、さて、この筆者は何を言いたいんだ…?
 この感じは冒頭の「文系と理系の壁はあるか」などでは感じられないと思います。「文系と…」は一読して論旨明快であり、要約にはそれなりの負荷がかかるので、それはそれでトレーニングにはなっているのですが、それ以上に「認識の変容」が訪れるというようなものでもありません。最初から、まあそうだよな、というようなことが書いてあるのです。
 ところが「ホンモノの…」はそうではありません。
 文章の各部分からキーセンテンスらしきものを抜き出してつなげてみても、結局だからなんなんだ、というところが見えてきません(こないはずですが…)。
 この「結局何が言いたいの?」を考えてみて下さい。

 ここで「筆者は何が言いたいか」を教わることには、今まで述べたように、意味はありません。「何」の部分が学習内容ではないからです。というわけで、この先それについて私なりに解説する展開もあるでしょうが、大事なのはそれを読んで「理解する」ことではありません。それを自分で考えることだけが学習を成立させるのです。
 といって、「考えろ」って言われても、「わからない」と感じている状態に対して、一体何をどう「考え」ればいいのかは明らかではありません。考える、という志向性のある脳味噌の状態が作れればもう学習の意味はあるのですが、考え方のコツ、メソッドのようなものもあります。
 これから、「ホンモノのおカネの作り方」を例に、考えるためのメソッドを二つ紹介していきます。

2020年4月13日月曜日

要約の実演

 2年生、3年生ともに、課題の「要約」、最初の二つくらいは既にやってみたでしょうか。まだ一つ? 「文系と理系の壁はあるか」だけ? 「三つの動詞」すらまだやってない?
 練習は、コンスタントにやることが大切です。週に2回がめやすです。

 前回の予告どおり「国語の学習とは」を要約してみます。
 全体の論旨を把握した上で、要約文を書き下ろす、というやり方もあります。ですがこの方法は、全体の論旨を把握するにせよ、要約文を書き下ろすにせよ、ハードルの高いやり方です(今回は自分の文章ですからやれないことはないのですが)。
 それよりも本文の順番に沿って、キーセンテンスを抜き出す方が簡便です。まずはこのやりかたで要約の一段階をやってみましょう。この段階では4回分の記事の見出しをそのまま付けておきます。

要約1


1.国語の学習の目的

 国語の学習の目的は「国語力」を高めることです。「国語力」とは「聞く」「話す」「読む」「書く」力です。「できる」ようになることを目指しているという意味で、国語という教科は実技科目です。一方で、一般的な授業では「教材」の文章の内容を理解することが学習の目的であるかのような了解が、授業者/生徒に共有されています。a「国語力を高めること」b「ある文章の内容を理解すること」これら二つの関係はどうなっているでしょう?

2.「目的」と「手段」の関係

 本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言います。「文章を理解する」ことは国語学習において、しばしば自己目的化されがちです。b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という「目的」のための「手段」に過ぎません。自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まります。

3.要約というトレーニング

 この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。要約には国語力を高める練習として必要な要素の多くが詰まっています。要約という練習を繰り返すことで、国語力は確実に高まります。

4.授業の意義

 国語の授業とは、何かを教わる場ではありません。みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。
 ですが授業はそれだけのものではない、とも思っています。それはテキストの向こうに広がる「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうると信じています。

 上の文章は、基本的に原文の順番で、なるべく本文そのままを抜き出してつなげています。
 ですが完全な抜き出しだけでは、うまく文章がつながるとは限りません。上の例はたまたま、まあまあうまくいっているだけですし、細かいところでは前後のつながりに合わせて書き直している部分もあります(それでも充分に自然な文章にはなっていません)。
 しかもまだ700字以上もあり、目標の200字、100字には遠く及びません。ですがまあ字数の見当がついてきた、とも言えます。これを3分の1よりもう少し短くすると200字なのだな、ということがわかりました。
 そしてこの段階で全体の構成がおおよそわかってきました(自分で書いておいて今更ですが)。ここまでくると書き下ろすこともできます。

要約2


  1. 国語の学習の目的は国語を使う力を高めることだ。
  2. 授業における「ある文章の内容を理解する」という学習も、この目的のための手段である。これを自己目的化することなく、手段として能動的に取り組むべきである。
  3. またこの目的のために有効なのが、総合的な国語力が必要とされる、文章の要約である。
  4. 一方、国語の授業とは、対人スキルである国語力を高めるために、みんなで集まってトレーニングを行う場である。また授業はそれ以上に「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうる。


 これで200字強です。

 こうやって書き下ろそうとすると、この文章がいくつかの方向性をもっていることがわかってきます(またしても、自分で書いておいて今更ですが)。次のような方向性です。

  • 課題として提示した「要約」という学習の有効性を説きたい。
  • 様々な行為における「自己目的化」の罠について注意を喚起したい。
  • 学習における「授業」の意義を再考したい。

 こうした複数の要素を100字に収めるのは難しい。「自己目的化」のくだりは言いたいという動機の結構強い部分なのですが、これ以上短くするためにここを省いてみましょう。

要約3

 文章の要約は、総合的な国語力が必要とされ、国語の学習の目的である、国語を使う力を高めるために有効である。また授業は、対人スキルである国語力を高めるだけでなく、認識の変容をもたらす重要な場である(97字)

 ところでこれを見て、こんなに短くなるのなら、そもそも長々書く必要はあったのか、と、ちらっとでも思った人はいるでしょうか。
 元の文章の趣旨は元の文章を読み、例えばそれを要約しようとすることによって理解されるのであって、要約を読んでもその趣旨が伝わるわけではありません。
 文章の趣旨というのは必ずしも結論のことではなく、そう考える論理過程全体のことです。結論のみ示しても言いたいことが伝わるわけではないのです。
 逆に要約されて抽出された結論を見ても、その文章の趣旨が伝わるわけではありません。要約するという思考を通してのみはじめてその趣旨を理解することができるのです。

2020年4月9日木曜日

追伸と予告

 以上、課題指示の補足として書いてきましたが、思いのほか長くなりました(私は国語の先生ですから「長文失礼」などと言うつもりはありませんが)。
 同時にこれらは、授業が始まっていたら、もしかしたら最初の授業で話したかもしれない内容でもあります。
 もうここに書いてしまったので(読んでいない人もいるとは思いますが)実際の授業では、もう繰り返し話すことはせずに、すぐにテキストを読み始めるつもりです。
 ですが、国語授業に対しては、以上のような思いが根底にあることをご承知おき下さい。

 さて、次回の更新までに自身の課題として、以上「国語の学習とは」を200字と100字に要約します。みなさんも、一瞬だけ考えてみてください。書かなくてもかまいません。どんなことが書いてあったっけ、と思い出すだけで、もう国語の学習としてのトレーニングになっています。
 筆者自身の要約は次回掲載。

 さらに予告。
 年間の授業数が減るのは確実です。もう授業では扱えないという予想のもと、授業の最初の方で読むつもりだったテキストについて、2年「現代文B」、3年「現代文探究」それぞれについて、授業を想定した問題提起をします。
 2年生 教科書 48頁 「ホンモノのおカネの作り方」
 3年生 教科書218頁 「ぬくみ」
 これも次回。

国語の学習とは4 -授業の意義

4.授業の意義


 国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのでしょう。
 上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はありません(そういう意味では、ほとんどの塾や予備校の授業は、現代文については意味がないと私は思っています。ただしいわゆる「コツ」のようなノウハウは有益な場合もあるでしょう。また他人の優れたプレーを見ることは自分のプレーの上達のために有効になることがあります。スポーツや音楽演奏や芝居の演技など、いずれも、自分がプレーすることを常に想定して、演者のプレーに自分を重ねようとする姿勢があれば意味あるものともなりえます。そういう意味で「授業を受ける」ことが「全く」意味がないとはいいません。「ほとんど」です)。

 国語の授業とは、何かを「教わる」場ではありません。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということです。国語、特に現代文には、教えるべき学習内容というものがほとんどないからです。
 それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。
 要約は、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたります。こうした自主練でもできる基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的です。
 単純にその方が楽しいとか励みになるということもあります。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になります。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができます。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれます。

 それだけではありません。技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせません。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはなりません。
 国語という実技も、それがコミュニケーションの手段である以上、複数人の合同トレーニングでしか練習できない部分が確実にあります。授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのです。隣の席の人の言うことが理解できるか、自分の話は相手を納得させているか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場です。
 自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。

 したがって何より、積極的な参加こそが求められます。みんなのプレーに混ざって自分もプレーすることで、対人プレーの技術は上達します。コート外でベンチに座って他人のプレーを眺めているだけでは、うまくはなりません。
 そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければなりません(単なる最近の流行ではなく!)。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのです(だというのに、それを避けねばならないコロナ対策! いつまで続くことやら)。

 以上、国語の学習の基本的イメージと練習方法の関係について述べてきました。
 ですが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業はそれだけのものではない、とも思っています。
 授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがあると、私は経験上知っています。
 それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容です。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえます。
 そうした場としての授業とは、独りで文章を要約しているだけでは、そしてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じています。
 授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのです。

 コロナウィルス感染予防の措置がいつまで続くかわかりませんが、こうした状況が一刻も早く終息し、また有意義で楽しい国語学習としての授業をみんなと「体験」することができる日を待ち望んでいます。

国語の学習とは3 -要約の有効性

3.要約というトレーニング


 教科書はトレーニングにおけるバーベルなどと同じで、バーベルが上がることを自己目的化してはならない。
 だが同時に、トレーニングにおいてバーベルは持ち上げようとしなくてはならない。バーベルが持ち上がることは最終目的ではないが、自分でそれをしようとしないかぎり、トレーニングは成立しない。つまりバーベルを上げることは、やはり当面の目的であり、かつそれは上位目的のための手段に過ぎないのです。
 このことを理解する必要があります。国語学習では、文章の内容を理解することは目的ではないが、にもかかわらず理解しようとする姿勢がトレーニングを成立させるのです。
 というより単に「わかろう」とすれば必ず学習になります。バーベルは、持ち上げようと力を入れさえすれば、持ち上がらなくともトレーニングになります。つまり負荷をかけてそれに抗えば、既にトレーニングは成立しているのです。だから現状で持ち上がらない(=わからない)としても、それをしようとするかぎり、トレーニングとしては有益なのです(そもそも練習は「できない」ことを繰り返すことです。スポーツでも楽器の練習などでも)。
 そのことを信じないと地道な練習は続けられません。地力とはそのような練習の積み重ねによってゆっくりと身についていくものであり、練習は(やり方によって程度の差こそあれ)必ず有効なのです(「練習は裏切らない」とは成功者のよく言う経験則です)。

 この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。
 バーベルを上げようという意志と上がったという成果の関係は明白です。が、文章を理解しようとすることと理解できたという成果の関係は、必ずしも明白ではありません。どうなれば「わかった」ということになるか、それ自体は目に見える形にはなっていないのです。
 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になります。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできます。
 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になります。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっています。
 要約とは、「文章を理解する」という当面の目的のための一つの手段であり、ひいては「国語力を高める」という目的のための一つの有効な手段なのです。

 何事によらず練習とは、繰り返さなければ効果を得られません。要約という練習を繰り返すことで、国語力は確実に高まります。

 では、授業の意義はどこにあるのでしょう?

国語の学習とは2 -自己目的化の弊

2.「目的」と「手段」の関係


再掲します。
a・国語力を高めること
b・ある文章の内容を理解すること
「ある文章の内容を理解すること」は、先に述べた「できる」ようになるための「練習」にあたります。つまりbはaという目的を達するための手段である、ということになります。この「目的」と「手段」を意識することは重要です。というのは、人はしばしば本来の目的を忘れて、手段(今まさに行っていること)が目的であるように錯覚してしまうからです。
 この、本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言います(註)。

 例えば「バーベルを上げる」という行為は「筋力を高める」という目的の為の手段です。「筋力を高める」ことは、「競技力を高める」「美しいボディラインを手に入れる」「健康な生活を送る」等の上位目的のための手段です。もちろんこれらの「目的」も、それより上位の「目的」を設定すれば、そのための「手段」と見なすことができます。「目的」と「手段」はこうした階層構造になっています。

 b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という目的のための手段に過ぎません。これはちょうど上の例のb「バーベルを上げる」=手段、a「筋力を高める」=目的と同じ関係にあります。

 a「国語力を高める」=目的  b「ある文章の内容を理解する」=手段
 a「筋力を高める」=目的   b「バーベルを上げる」=手段

 つまり教科書などのテキストは筋トレにおけるバーベルです。バーベルの存在意義は、筋肉に負荷をかけることです。テキストは脳味噌に負荷をかけるためにあります。

 バーベルを上げることを自己目的化する人はあまりいないでしょう。そこではそれが筋力を高めるための手段であることは意識されているはずです。
 それなのに「文章を理解する」ことはしばしば自己目的化されがちです。
 他人がバーベルを上げる様子を眺めていても、自分の筋力が高まるわけではありません。同様に、誰かに教えてもらって、ある文章の内容が理解されても、それで自分の国語力が高まるわけではありません。ですから、授業で先生が「わかりやすい」説明をすることによって、その文章が「理解できた」と思えたからといって、自分の国語力が高まっているとは限りません。それは介助者がバーベルの重さをほとんど支えてくれて持ち上げたようなものかもしれないわけです。そしてバーベルが持ち上がること自体が目的ではないのです。
 この自己目的化はしばしば我々教員自身にも起こっていて、ともすると国語教員は、生徒に文章を理解させることを「目的」として授業を行ってしまいます。「わかりやすい」授業とは、生徒に替わって自分でバーベルを上げて見せてしまっている授業かもしれません。先生がバーベルを上げているのを見て、生徒は「わかった」と言っているだけかもしれません。

 自分でバーベルを上げようとすることによってのみ、自分の筋力は高まります。
 同様に、自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まります。


註 自己目的化

 例えばお金儲けをすることは、それによって何か欲しいものを手に入れるためでしょう。この場合「金儲け=手段」「欲しいものを手に入れる=目的」ですが、しばしば金儲けはそれ自身が目的であるかのように錯覚されてしまいます。個人ではそんなことはない、と感じるかもしれませんが、企業が利益を増やすことはしばしば自己目的化しがちです。本当は利益を増やすことは、社員を幸せにする(株主も幸せにする、社会に貢献する…)ことを目的とすべきはずですが、利益の増大が自己目的化して、そのために社員の不幸せを招くような本末転倒が起こりがちです。

 例えば最近話題になっている「ブラック校則」なども、いわば自己目的化のオバケのようなものです。社会や生徒のためにあったはずの「校則」が、それ自身を守ることを目的として社会から乖離し、生徒を傷つけるという本末転倒も、やはり自己目的化の病理です。

 勉強という行為も自己目的化しがちです。
 勉強することの「目的」を大学進学と考えることは、とりあえずは間違っていません。ですが大学に進学することは、そこでの経験を生かして人生を豊かなものにすることが目的のはずです。つまり勉強することは、上位の「目的」である大学進学のための「手段」であり、大学進学はさらに上位の「目的」である「豊かな人生」のための「手段」です。
 「目的」と「手段」はこうした階層構造になっています(さらに、「勉強」という手段は、そもそも直接に「豊かな人生」という目的のための手段でもあります)。

 このことを意識しないと、我々はとりあえず今やっていることを自己目的化しがちで、ただノートに何かを書き写したり、その時々の小テストで良い点数をとって満足してしまったりします(プリントの穴埋めなどは最も自己目的化しやすい行為です)。
 それが本当に大学進学に有効な学力向上につながっているかを考えることが必要です。
 また、その大学に行くことが、どのような意味で「豊かな人生=目的」につながっているかも考えなければなりません。

 そうした「目的」を見据えた上で、今取り組んでいることにどのような意味があるかを考えることが大切です。

国語の学習とは1 -学習の目的

1.国語の学習の目的


 休校中の学習として「教科書及び副読本所収の文章を要約する」という課題を出しました。このことについて補足し、かつ、今のところいつ始まるかわからない授業についてガイダンスします。

 文章の要約というのは、現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法です。場合によっては、学校や予備校の授業を受けることよりよほど有益だとさえ言えます。ですが、そこにはやはり限界もあります。
 要約という行為がなぜ有効なのか? では授業にはどのような意義がありうるのか?
 それを理解するには、「現代文」という教科がどのような教科なのか、その特性を理解する必要があります。

 国語の学習の目的は「国語力」を高めることです。当たり前です。とくに疑問はないですね。
 「国語力」とは何でしょう?
 具体的な場面で分類するならば「聞く」「話す」「読む」「書く」力、ということになります。
 そしてそれらの行為に通底する「言葉を使って考える」力です(「数式を使って考える」「イメージを使って考える」「感情を使って考える」? などの「考え方」もあるはずです。それらの「思考」がどのようなものかを直接言うことはできません。言葉で言う時には「言葉を使って考える」ことに翻訳されてしまいますから。「言葉を使って考える」は、そのような思考形態の一つであり、多くの動物にはできない、それゆえ人類の進歩を可能にした、重要な技術です)。
 これらの「力」は、日本語を使って日々生活しているみなさんには、もちろん既にそれなりに備わっています。このことが、国語(特に現代文分野)の学習の必要性に対する一般的な根強い疑問になっているはずです。国語なんて、やらなくてもできる人はできるし、やってもできるようにはならない、それなのになぜ国語の勉強が必要なんだ、まして授業なんて…。
 ですが、現状で走ることができている人でも、毎日走る練習を繰り返せば、今よりも早く走れるようになります。同様に、現状でそれなりに言葉を使うことができている人でも、練習次第では今以上に有効に使うことができるようになるはずです。国語の学習はそれを目指しています。
 練習によって何かが今以上に「できる」ようになることを目指しているという意味で、国語という教科は実技科目です。その分野における知識の習得が学習の多くの部分を占めている社会科や理科と違って、国語にはそのような習得すべき知識がわずかしかありません。「実技科目」というのはそのように「できる」ことを目指している科目だ、という意味です(これは一般的に勉強が「わかる」という言い方で表現されていることと対比的です。国語は何かが「わかる」ことを目指してはいないのです)。

 一方で、休校にならなければ、みなさんはこのような課題の指示を受けることなく、授業を受けていたはずです。授業という場では何が行われているのでしょう?

 一般的な授業では「教材」として、ある文章を読むのですが、そこではしばしば、その文章の内容を理解することが学習の目的であるかのような了解が、授業者/生徒に共有されていると思います。
a・国語力を高めること
b・ある文章の内容を理解すること
これら二つの関係はどうなっているでしょう? (授業ならばここで間を取って考えさせ、誰かを指名して答えてもらうところですが…)

2020年4月8日水曜日

休校中の課題 2年 現代文B

休校中の課題は以下のとおりです。

・教科書の文章を要約する(ただし詩歌を除く評論と小説のみ)。
・評論は「要旨」、小説は「粗筋」を、それぞれ200字及び100字程度の二種類の長さに要約する。
・原稿用紙に字数を数えて書いてもいいし、ノートに7~8行(200字)、3~4行(100字)と決めて書いてもいい。
・まとめて複数の文章をやるのではなく、週に2本(3日に1本)程度をコンスタントにやっていくこと。
・文末の「学習の手引き」に挑戦する。

授業があれば週に2単位ですから、自宅学習中も週に2回、1本の要約2種類を、長くても50分以内に終わらせるつもりで進めましょう。

一斉テストにおいて、「重要頻出漢字 リアルマスター3300」から次の範囲を出題します。
休校中の課題というわけではありませんが、週に10ページ程度をめやすに計画的に進めて下さい。

第一回テスト p62~82,p144~174(昨年度第四回テスト予定範囲)
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213
第四回テスト 未定

休校明けにこれらの課題の提出を求めるようなことはしません。
ですが、こうした学習の積み重ねは、確実に自分の力になります。
そのことを信じて、地道に取り組んで下さい。

休校中の課題 3年 現代文探究

休校中の課題は以下のとおりです。

・「ちくま評論選」所収の文章を要約する。
・200字及び100字程度の二種類の長さに要約する。
・原稿用紙に字数を数えて書いてもいいし、ノートに7~8行(200字)、3~4行(100字)と決めて書いてもいい。
・まとめて複数の文章をやるのではなく、週に2本(3日に1本)程度をコンスタントにやっていくこと。
・脚問及び文末の「読解」課題に挑戦する。
・別冊の「解答編」に詳しい解説及び解答例が載っている。200字強の「要旨」も載っているので、自分の要約文と比較せよ。

授業があれば週に2単位ですから、自宅学習中も週に2回、1本の要約2種類を、長くても50分以内に終わらせるつもりで進めましょう。

休校明けにこれらの課題の提出を求めるようなことはしません。
ですが、こうした学習の積み重ねは、確実に自分の力になります。
そのことを信じて、地道に取り組んで下さい。

ブログ開設

 新型コロナウィルス感染拡大予防のための政府の緊急事態宣言によって、当面、GW明けまでの休校が決定しました。
 この措置がいつまで続くかは、感染拡大の状況次第ですが、措置が解除されて登校が可能になるまで、生徒諸君は原則、自宅での学習を続けることになります。
 それまでの学習のサポートとして、連絡手段を確保するため、ブログを開設することにしました。

今年度、現代文の授業を担当します。よろしく。
こんな事態になって、とても残念です。
早く授業でみんなに会いたい。

 当ブログは完全公開です。まさか検索で上位にくることはないと思いますが、検索も可能ではあります。
 したがって関係する個人・団体などが特定される情報を載せるつもりはありません。「課題」などは本校生徒向けのものですが、「本校」がどこなのかを表示しません。生徒諸君にはそれがわかっているという前提です。
 コメントも書き込み可能ですが、コメントも同様に公開となりますので、書き込む際は注意してください。個人・団体が特定されるようなコメントが投稿されたらただちに管理者の方で削除するつもりです。