そこで、あるクラスで試験的に、Teamsとは別のオンライン通話で、前回の「問題の整理」にしたがって、話し合いをしてもらいました。
基本4人ずつの10班によるグループワークです。話し合いの後、その成果(必ずしも「結論」というほどまとまらなくても)をレポートとしてそれぞれ班ごとに送ってもらいました。
レポートには、部分的に面白い見解や「うまい」表現もあったのですが、全体としては問題に対する考察が十分に深まっているとは言えませんでした。これはやむをえないことです。今回の話し合いはあえて時間を短くするよう制限しましたし、授業のようなこちらからの微妙な誘導ができないからです。
それでも、こうした話し合いは授業にとってやはり重要な意味をもつと、あらためて思いました。
そうした契機がなければ、こんなブログの長い文章など、読むことすら面倒でしょう。そしてその問題について考えることも。
そして「考える」ことこそが、国語の学習のほとんどなのです。
この後の記事を読む上でも、この問題について考えた今回の経験がなければ、どれほどの関心を持って読めるか、あまりにも心許ない。このクラス以外の人たちにとって。
それでも、そうした機会を待って現状で止まっているより、問題を先に進めます。
考察すべき問題を確認します。まず一点目。
①文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」とは何のことか説明する。
この問いにストレートに答えてはいけません。前々回この問いは「雑な問い方」だと言ったはずです。「単なる『何のことか』よりも適切な問い」をまず考えなさい、というのが前回までのアドバイスです。
また、どちらも、文中から該当箇所を挙げることはできるが、それだけでは「わからない」ので、「わかる」ための説明を考えなさい、というのが指示です。
もちろんこれらの指示に応えるのは難しい。問いそのものを工夫しているレポートはありませんでしたし、「説明」も、結局本文といくらも変わらない表現にとどまっているレポートが多い。
繰り返し言いますが、それらの「答え」は正解です。本文からの抜き出しが適切なら。
にもかかわらず、それでは「わからない」と感じているのではないでしょうか?
やはり「わかる」ために明らかにしなければならないポイントを捉える必要があるのです。
予告どおり、今回はそこまで話を進めます。
説明が「わかりやすい」と感じられるようになるためには、「そのこと」を説明するだけでなく、「そのことでないこと」と併せて説明するのが効果的です。「対比」の考え方です。「対比」の考え方は、自分が「わかる」ためにも有効ですが、相手に「わかってもらう」ためにも有効です。
つまり「逆説」を説明するためには「通説」が何なのかを明らかにするのです。
「問い」として言い直すなら「この『逆説』とはどのような『通説』に対して『逆』なのか?」です。
対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせるのが肝心です。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすることが、「そのこと」を認識しやすくします。
さて「逆説」はもう明らかですね。ではこの場合「通説」とはどのようなものでしょう?
「形而上学」も同じように考えます。「形而下」とは何のことか、と考えるのです。
ただしこちらはこれだけではまだ「わかる」べきことが明らかにはなりません。
授業ならば「『形而上学』という言葉を、筆者はどのようなニュアンスで使っているか?」と問います。
「ニュアンス」?
微妙な言葉です。ですが筆者がそれをどのような「ニュアンス」で使っているか、こそが「形而上学」の「わからなさ」です。
そもそも肯定的? 否定的? どうして「形而上学」という言葉がそのような意味で使われるのでしょう? 筆者はこの言葉にどのような「ニュアンス」をこめているのでしょう?
そしてもう一つ重要な問題は、題名にはじまって本文中一貫して「ホンモノ」という言葉がカタカナで表記されていることの意味です。ここにはどんなニュアンスがこめられているのでしょう?
実は「形而上学」はそれだけを説明しても不十分で、「ホンモノの形而上学」と言わないとそのニュアンスが説明できないのです。
筆者はなぜ、「本物」という言葉をカタカナで「ホンモノ」と表記するのでしょうか? それを含めて「ホンモノの形而上学」を「形而下」と比較しながら説明してください。
ところで、レポートの中で「形而上学」を「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」と説明している班が複数ありました。察するに、おそらく昨年度の授業で確認された「公式」解答ということでしょうか。
これは確かに間違ってはいません。ですが、単なる本文そのままの「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという認識」より何かが「わかりやすく」なっているでしょうか? どうしてこれが「形而上学」という言葉で表現されているかは、依然として「わからない」のではないでしょうか?
「ホンモノの形而上学」が本文の何を指しているか、が問題なのではなく、やはりこの表現のニュアンスが読み取れることが、ここでは読者に問われているのです。
②全体を捉える「問い」と「答え」の組み合わせを考える。
まず「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」では駄目だと最初に言いました。
「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」は、それよりは良いのですが、上述の通りまだ不十分です。
この二つは、その「答え」が本文中からほとんどそのまま抜き出せて、それでも「わかる」という感覚がおとずれるとは言い難いからです。
ポイントは二つだと私は考えています。
まず一つは上記にも挙げた「ホンモノ」のニュアンスです。「ホンモノ」とは何か?
もう一つは?
これは、もう一度考えてみてください。「問い」の形はシンプルです。そしてこの「問い」こそ、全体を把握する「問い」です。
そして、上記二つの「問い」に対する「答え」を考えてください。
「答え」は、繰り返し言っている通り、本文そのままでは駄目です。解釈を通して、自分が納得できる「答え」を形にしてください。
さて、上記クラスには、もう一度、こうした誘導にしたがって話し合いをしてもらおうと思います。
他のクラスでもそうした取り組みが自主的に行われることを期待します。
何よりそもそも、始めてしまえば楽しいに違いないのです。