2021年11月12日金曜日

舞姫 14 豊太郎の憂鬱

 豊太郎の「不興なる面持ち」は、読者に読み取られるべき「意味」をもっている。そしてその「意味」は読み取れるはずだ。

 その「意味」は、文中に関連要素をもっているはずである。

 また、その理由を問われた豊太郎が、なぜか答えなかったことに必然性を持つ必要がある。

 また、エリスが「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」契機としてこの顔つきがある。その「意味」はエリスに伝わっているはずだ。


 条件はまだある。「関連要素」の確認はまだ不十分だ。

 実は「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」=「正装が窮屈だ」も、それがどのような意味であるかを明らかにすれば、完全に間違っているとも言えない。それにはまず以下のように考える必要がある。

 この「不興なる」はいささか唐突に語られているともいえる。だから何とか解釈しようとして、前後を見回し、上のような二つの解釈を思いつく。

 だがもうちょっと視野を拡げることができれば、この言葉は先立つこと1頁ほど(教科書では前の見開き)にある次の言葉を受けていることに気づく。

(エリスの体調不良は) 悪阻 つわり といふものならんと初めて心づきしは母なりき。ああ、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし。/今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず

 それ以降には直接「不興」と関連しそうな情報がない(だからいたずらに不要な解釈をするしかなくなる)ことを思えば、豊太郎の「不興」は「心は楽しからず」を受けていると考えるしかない。

 だが、エリスの妊娠が引き起こした憂鬱を、この場面で唐突に豊太郎が顔に出したと考えることはできない。とうのエリスを前にして、妊娠が憂鬱だなどという心の裡を顔に出していると考えるのはあまりに不自然だ。

 またこれでは、妊娠発覚の後1頁程の、相沢の訪独の展開が考慮されていない。

 エリスの妊娠と相沢の訪独。この二つを結びつけて、豊太郎の「不興」を説明すべきなのだ。


 逆にここから豊太郎がエリスの妊娠になぜ「心は楽しからず」思ったのかも考えることができる。

 とはいえわざわざ考えるまでもなく、恋人の妊娠を「楽しからず」思う心理には疑問はないようにも思える。だが敢えて挙げるなら、どのような不満や不安があるのか。

 ここで生活の困窮などを挙げてはいけない(だが授業で聞いてみるとこの答えが意外なほど多い)。確かに現在の日本の少子化問題などを考えるときに挙がるのは、子どもを作らないのは収入の不足であるように語られたりもする。

 だがそれではエリスの心理の変化に対応していない。

 それよりも、端的に言えば豊太郎は逃げたいのだ。後に天方伯に帰国の意志を問われて承諾した時にも「本国をも失ひ、名誉をひきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり」と述べている。エリスの妊娠はこれまでの過去の栄誉を棄て、未来の可能性を限定してしまうことになる。それが豊太郎を「心楽しからず」させる。

 そこに手紙が届く。

 以前にも自分の窮状を救ってくれた相沢の訪独と大臣への謁見は、自分の「名誉を回復する」可能性を示している。エリスさえその可能性に思い至っている。相沢の手紙に書かれているそのことを、豊太郎が意識しないはずはない。

 ここまで条件を並べてしまえば「不機嫌」であることに何らの疑問もない。ただ説明のための条件を揃えることが少々難しかったのだ。


 説明とは抽象化の過程が必須であり、抽象化するためには、それを表わす言葉を用意する必要がある。各班でその言葉を挙げよ、と指示した。

 多くの班で挙がったのは、「迷い」「決断への怖れ」「葛藤」などといった言葉だ。

 日本への未練を棄てることは憂鬱だが、それを受け容れるしかないとなれば、なりゆきでそうならざるをえない。

 だがそこから逃れる可能性が示されてしまったら、却って迷ってしまう。どうするのかという決断を迫られることになる。

 相沢や大臣に対する度重なる うべな い(承諾)には、何より断ることのできない豊太郎の弱さが表われているということを分析した。その豊太郎にとって、エリスか相沢・大臣かのどちらであるにせよ、拒絶することは難しいのだ。

 そうした決断が迫られるのが憂鬱なのだ。


 もう一つの方向は「罪悪感」「良心の呵責」「自己嫌悪」などの表現だ。

 本心では、失ったエリートコースや日本での生活に未練があるが、それを諦めざるをえないと思っていたところに「名誉の回復」の可能性が示される。思わずエリスを棄てて日本に帰る可能性に期待してしまう自分の卑しさを自覚してしまうことが「不興」なのだ。


 豊太郎の「不興なる面持ち」は、豊太郎の「迷い」や「罪悪感」を示している。豊太郎の頭に「名誉の回復」の可能性がちらついているということは、エリスのA→Bの変化と整合しているし、エリスに問われて答えられないのも当然だ。

 そしてここまで分析できれば「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」もあながち間違ってはいない。このように考えている豊太郎はエリスの甲斐甲斐しい世話を「煩わしい」というより「後ろめたく」思うはずだし、混迷を深くするかもしれない大臣への謁見は憂鬱だ。正装が窮屈だというのは、こうした状況を象徴している表現だとすれば正解の範疇だ。


 ここまで考えれば「微笑」の説明も些かの修正が必要となる。

 それは確かにエリスの不安を なだ めるためではあるのだが、同時に、そうした不安をエリスに与えてしまう自分の心理が真実であることを気取られていることも、豊太郎は感じ取っている。だからそれを誤魔化そうとしているのだ、と説明できる。

 読者は「〈豊太郎の心理〉に気づいたエリスの心理』に気づいた豊太郎の心理」に気づかなければならない。


 こうした説明には、誰もが納得するはずだ(授業では「葛藤」を提案した班が多かった)。

 だがそうした説明を的確に組み立てるのはそれほど容易ではない。

 「わかる」ことより、わかったことを客観的に捉えて他人に伝えることは、格段に難しい。

 だがそれを求められる場面は多い。

 入試のようなペーパーテストでさえ基本的にそうした力を試されているのだ。


舞姫 13 不興なる面持ち

 豊太郎の「不興なる面持ち」が示す心理を「エリスの世話焼が煩わしい」「大臣に会いたくない」と考えることには、なぜ腑に落ちない不全感があるか?

 これは、逆に言うとどのような条件を満たせばここでの心理の説明として納得できるのか、ということでもあるのだが、こういう「自然とそう感じられる」ことの論理を自覚するのは難しい。実際には授業者も、このような条件を考えてから、さて豊太郎の心理は、と考えたわけではなく、先に心理を説明してみてから、それが上のような候補とどう違うのか、と考えたのだが。


 D組のMさんからは、「不興なる面持ち」についてエリスから問われたのに豊太郎が答えないということと整合的であるべき、という条件が示された。

 なるほど。この心理を説明するためには、「なぜ豊太郎は答えないのか」に答えなければならないのだ。

 豊太郎は、エリスの指摘・問いに対してなぜ答えないのか?

 「歯痛・腹痛」説はこうした点でも条件から外れる。「ネクタイが苦しい」も。

 「不興なる面持ち」は、「エリスからそう見えているだけだ」説も同様に否定される。そうならば豊太郎は「そんなことはないよ」と答えるか、地の文で読者に対して訂正される必要がある。

 「久しぶりの正装が窮屈だ」は実は「大臣に会いたくない」の象徴的な表われだと言ってもいい。そしてともに、この条件から否定される。エリスの科白が終わった後に、エリスの不安を払拭するために結局言っているのだから、なぜ問われたときにすぐに答えないのかわからない。

 「エリスの世話焼が煩わしい」はこの条件をクリアしているとも言える。確かにそんな本音は本人には答えられない。


 だが上記のように条件をつけて、発想される諸説を選別していくというのは、読解に負荷がかかりすぎて現実的ではない。読者はそんなに立ち止まって考えたりはしない。

 この「不興」についての解釈は、もっと自然になされるべきだ。それはどのような条件によって可能になっているか?


 「不興なる面持ち」が示す豊太郎の心理は、AからBに推移するエリスの心理に対応している。だからこそそれは読者に読み取れるはずなのである。

 エリスが「容をあらため」た契機は、「不興な面持ち」しか考えられない。つまりエリスは豊太郎の心の裡を感じ取ったのだ。むろんそれは論理的な明晰さなどなくともかまわない。だがそれがエリスの誤解であったのなら、その釈明が必要となる。その釈明が文中にない以上は、豊太郎の「不興」が示しているものと、エリスに「容をあらため」させたものは一致していると考えるべきなのである。

 読者はそのようにして「不興」を解釈するはずだ。鷗外はそれを読者に期待しているはずだ。


 AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう(この考察のアイデアは元々H組のYさんの疑問だ)。

 この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?


A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」

 Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。したがって、BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。

 AとBはどのような意味で逆接しているか?


 こうした問いに答えるには、毎度言っている「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。

 Aに寄せてみよう。

 A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ(行けないのは体調が悪いから)。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。

 Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。

 つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。

 最初の分析で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機に「不興なる面持ち」がある。


 だがまだそれだけで「不興なる面持ち」が解釈されるわけではない。


2021年11月10日水曜日

舞姫 12 心理分析

 エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。

 8章(326頁)で、カイゼルホオフに赴く身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。

 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。わが病は母ののたまふごとくならずとも。」

 「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」


 ここではエリスと豊太郎の心理を分析しよう。

 エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。

A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」

↓  少し容を改めて

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」

↓  また少し考へて

C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」


 そして豊太郎。

 次の二つの描写はそれぞれどのような心理を表わしているか?

 「不興なる面持ち」「余は微笑しつ」

 そして、これら二つの形容の間の齟齬・矛盾・変化をどう考えるか?


 分析の容易なのはエリスの心理だ(といって「わかる」ことより「分析」の方がはるかに難しい。それを的確に言葉に表すのも)。

A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う

B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる

C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する


 Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。


 一方、豊太郎の心理は少々難しい。

 これは、読み取るのが難しいということではない。大抵の読者はここでの二人の心理を正しく読み取っている。だがそれを適切に表現するのが難しいのだ。

 それでもそれなりに表現できるのは「微笑」だ。

 BCのエリスの不安を なだ めるための微笑みであることはわかる。そのように表現することは間違っていないが、その微妙なニュアンスを充分に表現しきっているわけでもない。それは「不興」の心理を的確に表現し、それとの関連で初めて明らかになる問題だ。

 エリスの科白によって「不興なる面持ち」をした豊太郎の様子を読者に知らせておいて、なのにその内面を、地の文では解説しない。

 だがこの「不興なる面持ち」は、わざわざ書かれている、と思わざるをえない。となれば「書いてあることには意味がある」の法則に従って解釈しないわけにはいかない。

 だが「意味」とは何か?

 豊太郎の「不興なる面持ち」とはどのような心理を表わしているか?


 例えばこれを、たまたま歯に挟まった食べ滓が取れずに気になっていたのだとか、朝から腹を下し気味だったのだとか考える者はいない。

 だがそれらは文中でそうではないと否定されているわけではない。にもかかわらずなぜそれを誰も支持しないのか?

 解釈が妥当であるかどうかという判断は、それが置かれた文脈が、その可能性についてどのような限定をしているかに依存する。限定がなければどんな解釈をしてもいいということではなく、むしろそれはそもそも解釈の必要がないということだ。

 だから文脈が解釈の範囲を限定する。文脈の中でその妥当性を判断する。

 「食べ滓」「腹痛」説を誰も支持しないのは、そう考えることの妥当性を示す標識が文中にないからだ。関連する要素がみつからないのである。


 では、エリスの締めるネクタイがきつすぎて苦しかったから顔をしかめたのだ、というのは?

 これは科白の直前にある情報から導かれる解釈だ。だから文脈に依存しているという点では「食べ滓」「腹痛」よりはマシだ。だがやはり依然としてそれを本気で支持する人はいまい。なぜか?

 そうしたことをなぜ文中に載せるのかという必然性が腑に落ちないからである。例えばこの身支度の様子をコミカルに描きたいのだ、などという意図が感じ取れるなら、その必然性はわかる。だがそのようにも見えない。

 久しぶりの正装が窮屈だったのだ、は?

 これが単に身体的な感覚のことを言っているのではなく、心理的な抵抗感を示しているとすると、「ネクタイが苦しい」よりも必然性が高い。

 具合の悪いエリスの体調を心配しているのだ、という解釈は?

 これも本文中に関連する情報はある。エリスを気づかう豊太郎の心理が表わされているのだと考えれば「意味」もあると見做せる。

 あるいは「不興なる面持ち」は、エリスからそう見えているだけで、豊太郎にとっては別に意味はなく、これはむしろエリスの心理を表わしているのだ、という説もちらほらと聞こえた。これは去年の「こころ」の読解が活かされた発想だ。

 これらの諸説をどう考えればいいか?


 実際に授業で提案されるのは主に次の二つの解釈。

 エリスの科白の前の部分と結びつけるならば、

エリスの甲斐甲斐しい世話焼がかえって煩わしい

という解釈が可能であり、後の豊太郎の科白から引用すれば、

大臣に会いたくない

という心理を表わすものだと解釈できる。

 それぞれに文脈に依存した解釈ではある。

 また、エリスの世話が煩わしいとか大臣に会いたくないとかいう解釈は、豊太郎がそれらの人物に対してどのような感情を抱いているかを表わしているのだと考えれば「ネクタイが苦しい」よりは有用な情報であると見なすこともできる。

 だがこれら、簡単にとびついてしまいそうな説明は、まだ腑に落ちない、と考えるべきである。

 なぜか?


舞姫 11 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙である。

 この母の手紙の内容について考えてみよう。


 その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたということは、母の手紙が、その死の直前に書かれたということを意味する。遺書なのだ。

 そこには何が書かれていたか?


 母の死自体もまた悲しいに違いないが、その内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているから、問題は内容だ。

 不慮の死であったというのは、「わざわざ書かれるべき特別な事由」にあたるから、そうでないとすれば母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたということになる。それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えられるか?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だ。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 もう一つ、母の死が自死である可能性について考えた人もいるだろう。これもまた遺書であるという可能性から考えられる一つの死因である。

 授業では 諫死 かんし という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって主君に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待する息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 問題は、免官の宣告を受けた一週間のうちにこの手紙が届いたことだ、と授業では言った。

 当時は航空便もなく、船便による郵便は日独間で1ヶ月以上かかったという。母親が、豊太郎の免官を知って諫死したのだと考えるのは無理だ、といって、悪評程度を仄聞するくらいで諫死までするだろうか?

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられるのだが、この、情報の伝達のタイミングの不整合が容易には腑に落ちない要素ではある、と注釈した。


 電信の発達・普及がどうなのか、という問題もある。実はこのころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電報を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在のように気軽に連絡ができるわけではない。一留学生の罷免について、わざわざ電信を使って日本からドイツに知らせる必然性があるとは考えにくい。まして豊太郎が舞姫と遊んでいるようだ、というような報告が、電信を使って伝えられるべきこととは思えない。

 したがってこれらは文書をもってやりとりされたはずだ。

 とすれば、母親からの手紙は、いつ、どのような契機で書かれたものなのか?


 だがこうした疑問は、以下の記述についての浅はかな勘違いに基づくものだった。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、わが官を免じ、わが職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、実際には「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」に、それぞれ文書の船便で1ヶ月以上の時間が経過しているのだ。

 独公使館からの報告を受けて日本にいる官長が豊太郎の罷免を決めたことは、正式にか、周囲の人からの忠告でか、母親にも知らされたのだろう。それを知った母親が死をもって不甲斐ない息子を諫める。

 その時に書かれた遺書と、それを知らせる親族の手紙は、官長による豊太郎罷免の通知を追いかけるようにして日本からドイツに海を渡ったのだ。そして免官の宣告を受けた豊太郎に、その宣告に追い打ちをかけるように、母の死の報せが届いたのだ。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの淡い交際に胸をときめかせ、浮かれて日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


 以上の追加考察は、D組のMさんとM君の提言に基づいている。貴重な意見に感謝するとともに、他クラスの人にも知らせたいと思い、ここに掲載した。

2021年11月5日金曜日

舞姫 10 エリスの戦い

 この場面について、さらに興味深い解釈を紹介する。かつて本校にいたM教諭によるものだ。

 皆はこの一連の出会いの場面を読みながら、一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのかが気になったりはしなかったろうか?

 エリスは清純なのかあざといのか?

 敢えてどちらかというと、でいいからと挙手させてみると、小説の裏を読んで面白がりたい高校生たちには「あざとい」説が優勢だ。

 「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写からである。

  G

彼は物語りするうちに、覚えずわが肩に寄りしが、この時ふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢてわがそばを飛びのきつ。

  H

彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

 Gは豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写、Hはエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う 科白 せりふ の後に続く描写である。

 この二つの描写をどう読むか?

 Gの「覚えず」というのは本当か?

 Hの目遣いの効果について本人は自覚的なのか?

 どちらと答えるによせ、実はそう考える根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。

 だがHでは作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?


 考える緒は次の疑問に答えることだ。

 「わがそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?


 往来で泣いていたことに、初めて気づいたのか?

 見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたのか?

 そう考えることを否定するわけではないし、読者にはまずそのようにしか読めない。

 だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。

 Gの場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている家を飛び出してきたからである。といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「わが肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。

 それが、何らかの契機がエリスに「初めて我を見たるがごとく」豊太郎の存在を捉えなおさせ、「恥ぢてわがそばを飛びの」く動作をさせたのだ。

 M教諭の解釈は次のようなものである。

 エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。

 ここからHに至るエリスの心理を推論してみよう。

 それでもエリスは豊太郎にすがることを決める。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。

 家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?

 もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」である。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのである。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。

 豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋である。

 母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げるのである。

 エリスの科白を分析しよう。

 まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。

 そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。

 なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのである。

 こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。

 このように考えると、Hの「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」はGに比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。

 エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。


 だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。

 そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。


 以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かである。

 そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのである。


舞姫 9 出会いの場面の真相

 エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?

 ここからその「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。

 「体を売る」のは、具体的には、いつ、どこでか?


 上の問いに対する答えを念頭に置いてD「母親の態度」、E「衣服」、F「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。


 答えは「今晩、エリスの家で」だ。

 「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。

 場面は、仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」である。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。

 「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Eのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。

 では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?


 現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。

 だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。

 例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。

 あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。

 もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。

 そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?

 その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。

 こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。


 では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?

 それこそがFの室内の描写である。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。

 「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をFの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった。

 これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいるのである。


 a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。

 その中で最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」なのだ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定されるのである。

 室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。


 では「価高き花束」の出所については?

 花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。

 だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。

 それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。

 そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。

 お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。

 それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。


 さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者がほとんどだったのは奇妙だった。

 de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。

 だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。

 つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。

 だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。

 「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。

 D「母親の態度」がそれを示している。

 母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。

 それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。

 母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからである。だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。

 当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。


 一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。

 家の中には父親の遺体がある。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎えるのである。そしてその準備は母親がしているのである(これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた)。

 また、上の想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!

 この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。

 だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。室内の描写を根拠としてまず「エリスの家で」説を採るべきなのであり、この家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーの方が解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。

 そう考えることで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。

 そして母親はこの場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をしたのだ、と考えるべきなのである。

 恐るべき変わり身!

 この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。


 Eの「衣」について、後段の舞姫という職業についての説明の中で、舞台では「美しき衣をもまとへ」と言及されていることと結びつけ、この「衣」は舞台衣装ではないかという推測を語った者がいた。

 確かにテキスト内情報は関連づけることで有意味化するものであり、そうした意味づけを「読解」と呼ぶのだが、この解釈はただちに認定することはできない。舞台衣装を街中で着ていることの異様さに、Eの時点で言及しないのが不自然だからである。

 だがもちろんこの舞台衣装が「垢つき汚れたりとも見えず」程度の形容を許容するとすると、この晩にわざわざ舞台衣装を着ることを要求したのは、やはりエリスのファンであるような、今夜の予定の客であると考えるのが妥当とも言える。


 結局「なぜそこにいたか」は、最初の選択肢ではaが最も近いが、母から逃げ出したというよりも、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきた、つまり「家から逃げて」とでも言った方が的確である。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。

 そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。


 さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?


2021年10月27日水曜日

舞姫 8 論点整理

 この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。

 時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。

 主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像するためである。


 いくつかのストーリーの類型を提示した。

○なぜ路上にいたか?

  • a.母親から逃げ出してきて
  • b.助けを求めて
  • c.身を売る相手を探して
  • d.どこかに行く途中で
  • e.どこかから帰ってきて

 上記のような各ストーリーの背景に、以下のような想定の相違がある。


○「身体を売る」相手

  • シヤウムベルヒ
  • 特定の誰か
  • 不特定の誰か

○場所の意味

  • 教会の前
  • 家の前

 少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。

 例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?

 「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。

 この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。


 さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。

D.母親の態度

E.エリスの衣服への言及

F.室内の描写

 これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定している筋書きを明らかにする。

 どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?


 主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?

 議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張した筋書きに支持が集まっていく。だが最初の段階ではクラスによっては一人も支持していなかった。「どこ」の確定と、なぜ行かずに止まっているかを説明しなければならないというハードルがあるからだろうか。

 さて、どのようなストーリーか?

 相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオである。

 家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。

 一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。

 このストーリーには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。


2021年10月26日火曜日

舞姫 7 母親の豹変・衣服・花束

 路上で泣いているエリスに主人公が出会う場面は、どのようなストーリーの、どのような時点か? 出会う時点までにどのような出来事があり、この後、どのような展開になる予定だったのか?

 さしあたって「体を売ることになる相手」と「場所の意味」という観点から、ストーリーの背後にある想定のバリエーションを提示した。

 だがそれでも実はまだ組み合わせによっていくつかの整合性のあるストーリーが描けるということが確認されたに過ぎない。

 その中でどれを選ぶか、どのような読解が適切なのか、鷗外はどのようなストーリーを想定しているか、といった判断は、本文との整合性に拠る。

 本文の記述は、どのストーリーと不整合であり、どのストーリーを支持しているか。


 次の記述内容は既に考察に組み込まれ、班で検討の俎上に上っていただろうか?

エリスの母は、豊太郎を伴って戻ったエリスに対し、なぜ豊太郎を外において扉を閉めたか。また、次に扉が開いて豊太郎を招き入れる時に態度が豹変したのはなぜか。その間、部屋の中でエリスと母が交わした「言い争うごとき」会話とはどのような内容か。

 この記述はどのようなストーリーを支持しているか?


 母親の態度が豹変したのは、この東洋人から資金的援助が得られるというエリスの主張を受け容れたからだということはわかる。「言い争うごと」き話の内容はエリスによる説得だろう。

 だが最初にドアを「あららかに」開け、「待ち兼ねしごとく」「激しく」閉め、豊太郎を閉め出したのはなぜか?


 次の描写は何を意味しているか? これらの描写からはどのような推論が可能か?

(エリスの)着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

 小説の中に書かれていることには必ず意味がある、というのは小説読解にとっての大前提だ。人工的に創造される虚構は、作者がそう書かなければ存在しない。全ての断片は、書かれる意味がなければ書かれない。

 Eのエリスの服装についての描写は単に、豊太郎及び読者に、エリスに対する好印象を抱かせる目的で言及されているだけかもしれない。

 だが一方でこの言及もまた、ここでのストーリーを構成する断片かもしれない。それによって支持されるのはどのようなストーリーか?


(部屋は)中央なる机には美しき氈(かも)を掛けて、上には書物一、二巻と写真帳とを並べ、陶瓶にはここに似合わしからぬ価高き花束を生けたり。

 この描写の中で、とりわけ注意を引くのは花束の存在だ。

 花束だけならば、その前のテーブルクロスや書物などとともに、豊太郎の目に映る室内描写の一つとして看過できたかもしれない。だが「ここに似合わしからぬ価高き」という形容は、この花束の存在について、意識的な解釈を読者に要求している。これを無視することはできない。

 この花束はなぜここに置かれているのか?


 死者に手向ける花ではないかと推測する者もいる。

 ここでは部屋の構造を確認しておこう。父親の遺体が寝かされているのは、入って正面の一室である。一方、花束の置かれているのは、左手の   かまど  のそばの戸を入った一室である。それぞれ別な部屋である。

 花束を死者に手向けられたものであると解釈させるには、それらを別の部屋にすることの必然性がわからない。したがって、これは死者に手向けられたものではなく、「体を売る」という状況と結びつけて考えるしかない。

 そして、その出所を問うならば、エリス家が用意したか、誰かから贈られたか、しかない。

 エリス家が用意したものだとすると、それによってストーリーは限定される。それはどのように帰結するか?

 一方、贈られたものだとすると、それは体を売ることになる相手から贈られたものであることを示しているのだと考えるしかない。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるには、まだ明らかになっていない道筋がある。


2021年10月25日月曜日

舞姫 6 なぜ「そこ」にいたか

 エリスが、身体を売らねばならない窮境に陥っていることを、いくつかの記述を結びつけて推測した。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるにはさらに何段階もの推論と説明の手順が必要だ。

 「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの抽象度の状況把握で、「その時そこにいた」というのはさらに細かい状況の把握を必要とする。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。


 さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?

 授業で出てきたアイデアを分類する。

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 こういった諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。

 たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。

 さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。

 deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。


 最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけている。

 だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていたはずだ。

 だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いているストーリーと、誰かが語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。

 上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?


 こうしたストーリーの違いは、その背後に、想定の相違を秘めている。

 たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か

 これは必ずしも一致していないはずだ。

 さしあたって解釈の可能性は次の三つ。

 まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されている不特定か、という可能性で二つに分岐するから、都合三つの可能性が考えられる。

 そしてこれら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。

 世に出回っている「舞姫」評釈書では、三つとも目にすることができる。

 たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。

 別の評釈書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介するを取るようにという要求。〉と解説している。

 あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある。当然相手は「不特定」だ。

 だが、寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。

 これらいわば「愛人強要説」「売春強要説」は、どちらも両論併記ではなく、どちから一方のみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。

 自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。

 そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。

 ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。


 また、「そこ」とはどこか?

 端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」である。

 では、この教会はどこにあるか?

 エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのである。とすると単に「家の前」という意味かもしれない。

 重要なのは「教会の前」であることか? 「家の前」であることか。?

 それはa~eの議論にどう影響するか?

 

 上で言えばbは「教会の前」であることに意味があると考えているはずだ。無意味な路上ではなく、教会に「助けを求め」たのだ。だが扉は閉ざされていた。だからそこで泣いていたのだ。

 またdeは「家の前」で止まっていたといっていることになる。

 aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。

 cは?


 まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。

2021年10月21日木曜日

舞姫 5 エリスはなぜ泣いていたか

 「4章」で、ようやくヒロインたる「舞姫」=エリスが登場する。

 この、語り手=豊太郎とエリスの出会いの場面について考察する。


 豊太郎とエリスとの出会いに続いて、交際が始まってからしばらく、4~6章までの6頁ほどを読み進めたら、戻って考察したいのは次の問題である。

 エリスはなぜそこで泣いていたか?

 この場面でエリスの置かれた状況を的確に捉えることは、この後のエリスと豊太郎の関係を捉える上で重要であるばかりか、それ自体、考察することに手応えのある問題でもある。


 この問いは、例によって二つの問いを含んでいる。

  • エリスはなぜ泣いていたか?
  • なぜ「そこ」にいたのか?

 「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。


 先に解釈が進んで、班員に合意が形成されるのは「なぜ泣いていたか」だ。

 本文のどこからどんな情報を読み取れば、エリスが泣いていた事情が推測できるか?

 推測の根拠となるのは次の三カ所である。

A(317-318頁)
「君は善き人なりと見ゆ。彼のごとく酷くはあらじ。またわが母のごとく。」/「我を救ひたまへ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼のことばに従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」
B(319ー320頁)
「明日に迫るは父の葬り、頼みに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼はヴイクトリア座の座頭なり。彼が抱 へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、人の憂ひに付け込みて、身勝手なる言ひ掛けせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。それもならずば母のことばに。」
C(321頁)
はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞ言ふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。

 「なぜ泣いていたか」として語られるべき事情を推測するための情報として、この3カ所はいずれも欠かせない。3カ所が揃ってはじめて充分な事情が推測できる。

 まずAから、父親が死んだこと、エリスの家庭が貧しく葬儀さえ出せないでいることはただちにわかる。

 次にBから、座長に経済的援助を申し込んだところ「(座長が)人の憂ひに付け込みて、身勝手なる言ひ掛け(=提案・要求)」をしたとある。さらにAの「彼のごとく酷くはあらじ。またわが母のごとく」「母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。」から、母が座頭と結託してエリスにそれを強いていることがわかる。そして「言い掛け」は「酷」いものなのだ。

 さらにAの「恥なき人とならん」とCの「賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなり」「エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。」から、「言い掛け」の内容が推測できる。

 このABC三カ所は必ず出揃わなければならない。三つ全てを総合して初めてこのような推論が可能になる。どこが論拠なのかを自覚しなくても推論結果を語ることはできるかもしれないが、重要なのは結論ではなく根拠と推論の過程だ。


 これで「なぜ泣いていたか」が一応は把握できた。シヤウムベルヒが葬儀の費用を出す代わりにエリスに体を売るよう強要し、嫌がると母親が殴るのである。酷い話だ。ヒロインはこのように追い詰められた状況で物語に登場するのである。

 これでエリスの置かれた状況の把握はできたと考えていいだろうか?

 これ以上の推測はできないか?