2020年7月15日水曜日

2学年現代文B 一斉テストについて

 今回のテストにおける大問1、2は、その出題形式と配点の大きさにとまどったかもしれません。この点についての出題者の考えを述べます。

 授業者は、そもそもこうした出題を「漢字問題」だと思っていません。「語彙力問題」だと思っています。
 「語彙力」とは、文脈体験の豊富さのことです。
 「言葉の意味」とは、辞書にあるような説明(テキストに朱文字で書いてあるような「意味」)のことではなく、文中での使用例の集合体です。
 つまりこれらの問題は、「暗記」された「漢字の読み書き」の知識ではなく、どれほど多くの言語体験があるかを問うているのです。
 したがってこれは「漢字テスト」なのではなく、「国語のテスト」なのです。

 また、今回の40点は、前年度の未実施だった試験範囲を含めているせいでもありますが、基本的にこうしたテキストからの出題は、毎回30点前後の配点をするつもりです。
 定期テストは、純然たる「国語力」を測定しているわけではなく、言わば「学習の成果」に対する評価でもあります。「意欲」も評価対象なのです。
 国語はもともと学習とテストの点数がストレートには結びつきにくい教科です。
 その中でも、比較的「やればできる」部分の割合をなるべく大きくしたいと考えています。
 今回の「山月記」は例外で、今後は授業中に読んだ文章を出題することはありません。テスト勉強は、予定されたテキストの範囲を勉強してください。
 出題形式は今後も、今回のような「語彙力」を問う問題です。
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213

 以下蛇足と言わず読んで。
 今回のテストは時間に余裕があったと思いますが、大問の1、2は、時間のある限り見直してほしいところでもあります。
 昔、こういう問題は覚えているかいないかなんだから、時間をかけたり見直したりしたってしょうがないと言った人がいました(教員で)。
 それは違うと思います。知っているかいないかはそうかもしれません。しかし覚えているかいないかは、それほどはっきりした違いではありません。
 人間は、一度触れた情報を基本的には忘れない、という説があります。問題は思い出せるかどうかです。「思い出せない」ことを慣用的に「覚えていない」と言っているだけで、一旦考えて浮かんでこないことでも、じっくり考えているうちに突然何かに結びつく、ということがあります(「知らない」でさえ、実はその瞬間「思い出せない」だけかもしれません)。
 そして「思い出す」とは、何かの刺激によって、それに関連する情報が活性化される状態です。活性化される頻度が高いほど容易に思い出すことができ、関連する情報が多いほど思い出す可能性が高まります。
 ことさらに勉強せずにテストを受けていても、日常生活においてそれらの言葉に触れたことがまったくないわけではない、ということもありえます。
 したがって、時間のある限り、様々な方向から記憶を探って、これでピッタリだ、と思える言葉を、漢字を探し当ててください。

 また、こうした考え方からすると、勉強する際にも、例えば所謂「漢字練習」でも、有効な方法は、「考える」ことです。
 「漢字練習」は「暗記」で、「暗記」とは考えずに覚えることだ、と思っていませんか?
 勉強は「覚えよう」とするよりも「思い出そう」とする方が効果的です。これは心理学の実験で確かめられています。
 そして刺激に関連していない情報は活性化されません。つまり、関連する情報が多いほど、思い出しやすくなるわけです。
 「漢字練習」でも、どうしてその熟語がその漢字の組合わせなのかを、一瞬でも考えることで、関連ができます。
 そのためには、それぞれの漢字の意味を考え、その組合わせとしての熟語の意味を考えてみてください。ああなるほど、と思えれば、その納得が(もしくはどうして? という疑問が)、思い出すための関連となります。
 だいたい、「漢字テストではなく語彙力テストだ」とか言ってるわけですから、そもそも言葉の意味がわからないまま漢字だけ覚えるなど、話にならないのですが。

 また、どこで間違いやすいか、何と何を区別すべきかといった判断も、「考える」ことによって印象づけられます。
 
 たとえば
 「疲弊」の「弊」と、「貨幣」の「幣」は違います。
 コロナのニュースで「終息」と「収束」の違いを意識しませんでしたか?
 ニュースで「コロナ禍」が「コロナ渦」「コロナ鍋」になったという笑い話がありますが、「災禍」の「禍」は「しめすへん」、「胸襟」の「襟」は「ころもへん」です。「神様関係のしめすへん」「衣服関係のころもへん」と覚えます。意味を考えればどちらかの判断ができます。
 「比肩」は「肩を並べる」ことです。「比見」=「見比べる」ことではありません。
 「難行」は「なんぎょう」です。「難航する」は「航行が難しい」ことです。
 「符合」「符号」「付合」はそれぞれ違う言葉です。
 「相好」「必定」「席巻」はそれぞれ「そうごう」「ひつじょう」「せっけん」です。「そうこう」「ひってい」「せっかん」じゃないんだなあ、と思う瞬間が大事なのです。
 「耽溺=たんでき」は「沈弱(ちんじゃく?)」ではありません。「耽(ふけ)り溺れる」ことです。
 「要旨」は「ようし」、「造詣」は「ぞうけい」です。
 「耽美的(たんびてき)」「参詣(さんけい)」という言葉に見覚えはありませんか?

 残りの大問についての解説は省略しますが、字数だけでなく「一文節で」「二文で」などの問題で指定されている解答の条件を見落としている回答が多かったのは残念です。
 それと「瀟洒(しょうしゃ)=すっきりとしてあかぬけしたさま。」「瓜実(うりざね)=面長」を読めた者は、驚くほど少なかった。
 「瀟洒なレストランで夕飯」などという表現は日常でしばしば目にします。また、昨年読んだ「夢十夜」の「第一夜」で死ぬ女は「輪郭の柔らかな瓜実顔」と描写されていたではありませんか!

 7月の残りの授業では「永訣の朝」を読みます。国語の授業で詩を読むのはこれきりになるかもしれません。
 9月には本格的な評論「ロゴスと言葉」を読みます。「ミロのヴィーナス」は評論と言うより随筆です。「ロゴスと言葉」ではそれよりはるかに抽象度の高い認識と論理性が要求されます。

2020年7月10日金曜日

山月記 7 李徴はなぜ虎になったのか?

 「山月記」読解の大詰めである。以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことである。

 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が再帰的に循環するとは、どのようなことか?

 「尊大」であることは「臆病」であることの原因である。プライドが高いから、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」を抱くのである。プライドが高ければ高いほど「危惧」は強まる。つまり「臆病」になる。
 「臆病」になると他人とのつきあいが悪くなる。
 人との交わりを断つことは「自尊心」にどのような影響を及ぼすか?
 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
 満たされない自尊心は燻ったまま蓄積する。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。他人に認められないから自尊心が満足されないのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられないのである。
 結果は原因に帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。
 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。

 また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
 「自尊心」が「臆病」からの脱出を妨げ、「臆病」が「自尊心」の満足を妨げている。決定不能の状態に止め置かれたまま、どちらへも進めない。心の平穏は永久におとずれない。

 悪循環にせよジレンマにせよ、どうすればこの地獄から逃れられたのか?
 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
 だがそれは、「李徴は狷介だったから=傲岸だったから虎になったのだ」ということの裏返しでしかない。それは間違ってはいないが、「虎になる」という現象の仕組みを一面的にしか言い当ててない。「悪循環による暴走」というシステムを説明していない。

 授業者が現在用意している表現は「やりきる」である。李徴は「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのである。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。
 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。

 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。

 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?

 両者を結びつける言葉は「我執」「自意識」である。
 「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。

 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。

山月記 6 結論に向けての再検討

 虎を「孤独」を象徴するものとしてみる、あるいは「強さ」の象徴としてみる。これらは李徴の性格を特徴付けるものとしても、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の表れとしても、可能であるとともに適切な想定だ。
 だがそれは「なぜ虎なのか?」を納得させるものではあるが「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。
 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題である。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業である。

 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。

 まず、虎の象徴性についての再検討だ。
 虎のイメージは「孤独」と「強さ」という二面だけで言い表せているだろうか?

 「猛獣」と表現される虎は、確かに「強さ」の象徴ではある。冒頭の「名を虎榜に連ね」の「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。つまり「科挙の合格者」=「優秀な者」を表わす比喩である。
 だから李徴が虎になることは、李徴にとって、かつての栄光に満ちた自分に戻ることを意味するのだ、という解釈もあり得る。つまり、実は李徴は虎になりたかったのだ(これは「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに対して、かつて或る生徒が答えた解釈だ。大いに感銘を受けたのだった)。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きがわからない。

 確かに虎は「強さ」の象徴ではある。虎という猛獣は、他人に恐怖を与え、他人から避けられたり他人を傷つけたりする存在だ。そして李徴はもともとそのような人物である。
 つまり彼は人間であった時から虎だったのだ、と言ってもいい。

 だがそう言ってしまうと「なった」ことの説明がつかない。
 では?

 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。
 だが「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」と見なすには不適当である。それは「比喩」だ。
 では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものである。
 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見るとき、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとってすら脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。
 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
 もちろんこれらの「性情」が李徴を虎にしたのだ。だから「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」ことができれば良かったのだ。
 だがそんなことができるのなら、はなから悲劇は起こらない。
 それよりも「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という精妙な性格造型に、不可避的に暴走を引き起こすメカニズムが設定されているのではないか?

 このメカニズムは「悪循環」という言葉の印象によく似ている。
 これを説明するために「再帰的」という言葉を使おう。悪循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましからざる傾向が強まっていくことだ。
 「再帰的」とは何か?

 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
 だが、「自己言及的な繰り返し」がなぜ「悪循環」を生じさせるのか?

 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそうした意味を表わす。また結果も原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
 いよいよ考察は最終段階である。
 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?

山月記 5 李徴にとって詩とは何か

 もう一つ、考える手がかり&条件として、次の点も指摘しておく。
なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか
 これはどうみても気になる表現である。
 ここで述べられている、李徴の詩に「欠けるところ」とは何か?
 もしくは、作者はなぜ李徴の詩に「欠けるところ」があるなどと感じさせているのか?

 これら「何?」「なぜ?」もまたさまざまなバリエーションで表現される。いずれにせよ、一貫した説明の中に適切に位置付けられる表現を発想することが肝要である。
 まずはあれこれアイデアを出し合ってみたい。

 最も素直な答えは、李徴の才能がその程度であることが端的に表現されているのだ、という解釈である。
 とすると、なぜ作者はそうであることを読者に伝えているか、という点が問題だ。李徴の才能は「第一流」には届かない。そのような設定は、どのような論理に組み込まれるべきなのか?

 だが、そういうことではない。袁傪が言っているのは、「素質」は「第一流」だが、「作品」が「第一流」には「欠けるところがある」ということだ。
 「素質」が「作品」に結実しない、どのような事情があるのか?

 だが、この謎への解答は、次頁の次の一節が言わば種明かしになっていると考えられるはずである。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
 つまり厳しい鍛錬の場にさらされていないのである。本人の才能だけでは到達できない修行の跡が見られないのである。

 さらに、一つの方向性として、李徴が自作の詩の伝録を袁傪に依頼した場面の次の記述から、この問題を考えてみる。
 次の二つの記述からわかることは何か?

  1. 作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
  2. 恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 もちろんここからは李徴の詩への強い執着が読み取れる。
 だがとりわけ後者に注目してみると、その執着の方向について、ある表現ができそうである。これを次のように表現してみる。
李徴にとって詩は  ではなく  である。
 これもまた、対比を用いて捉えるべきことを明確にするメソッドの応用である。
 
 「詩への強い執着」を読み取ろうとすると、  には「夢」「願望」などという言葉が想起されるが、それでは  に入る言葉が思いつかない。そもそも「夢」では強いのか弱いのかもわからない。
 話し合っているうちに、李徴は純粋に良い詩を書きたいと思っていたのではなく、名声がほしかっただけなのだ、といった分析を語る者が表れる。
 適切な分析である。
 これを、このブログの最初の頃の言葉を使って表現するとさあ…、と促すうち誰かが狙いどおりの言葉にたどりつく。
李徴にとって詩は目的ではなく手段である。

 この認識は李徴の詩の「欠けるところ」についての考察にも一つの解答を与える。
 つまり李徴は詩を道具として扱っているのだ。芸術としての詩に真摯に向き合っていない。そうした姿勢が袁傪をして「欠けるところ」があると感じせしめているのである。

 世の中には「山月記」の悲劇を、詩への執着によって心を狂わせた悲劇として捉える論考がある。
 確かに文学者や芸術家が、自死や発狂といった悲劇に向かう例は歴史上数多くある。李徴の悲劇をそれらと並べ、芸術至上主義や、言葉や文字の憑依といった方向から捉え、同じ「古譚」作品群の一つ「文字禍」と結びつける。
 だがそれは「山月記」という小説から遊離した妄想である。
 李徴の詩への執着は、芸術創造への耽溺ではなく、名声への妄執なのである。

 さて、李徴にとって詩が手段であることと次の一節には奇妙な矛盾がある。何か?
自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。
 李徴の詩への執着という点から見れば、伝録を依頼する事情として読み流してしまいがちだが、問題は「もとより、まだ世に行われておらぬ」という一節である。
 どこに矛盾があるか?

 これはつまり李徴は自らの詩をほとんど発表しなかったということだ。
 これは先に引用した一節とも符合する。李徴は「師に就いたり、求めて詩友と交わっ」たりすることをしなかった。そんな者の詩がどうやって他人に読まれるのだろう。インターネットもない時代に。
 つまり李徴は独りでせっせと詩を作り、それを発表もせずに死蔵していたのだ。
 詩が、真摯な自己表現というより名声を得る為の手段だというのに、である。

 この矛盾の原因を「なぜか」と問うのなら答えは簡単だ。
 「臆病な羞恥心」と「尊大な羞恥心」はそのまま李徴のそうした振る舞いを説明している。詩は「自尊心」を満たすための手段でありながら、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」から、発表ができないのである。
 だがむしろ、このことは、李徴を虎にさせたメカニズムの表れであるとみなすことはできないだろうか。
 つまり、こんなことをしているから「虎になった」のだ。
 どういうことか?

2020年7月9日木曜日

山月記 4 「虎」の象徴性

 李徴はなぜ虎になったのか?
 この問いに明確に答えることが「山月記」読解の目標だ。
 まずは文中から探し当てた三つの候補について一次的な検討をした。
 さらに、結論に至る経路をさまざまに探ってみる。
 同時にそれは、結論を妥当であると見なすための条件でもある。

 まずは問いに含まれる二つの側面の一方「なぜ虎なのか?」である。
 これはつまり、「虎」が何を象徴しているか、という問いである。
 「象徴」は「ミロのヴィーナス」で既習である。具体物で何らかの抽象概念を表わしているのである。
 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、先の「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」の表れとしてみることができるか、を検討する。

 各クラス、グループワークで話し合わせると、それぞれのグループで多様な「象徴」の候補が出る。もちろん似たような概念・観念にグループ化されるような表現もあるが、とりあえず、バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の表現が提出される。

 虎をどのような象徴と見なすか?
 バリエーションは様々あるとはいえ、どこのクラスにも共通して挙がる表現も勿論ある。また、いくつかの言葉はおおよそ二つの系統に分類できる。
 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージである。虎は群れを作らないで単独行動する動物である。
 もう一つは「強さ」のイメージである。虎は百獣の王である。これはバリエーション豊かにさまざまな言葉で言い表せる。
 この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。
 「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが「虎の威を借る狐」の故事では虎を「百獣に長たり」と表現している。アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ。ついでに言えばライオンはサバンナで群れている。虎は一頭で茂みに身を潜めている。李徴の性質を示す形象として虎はまことにふさわしい。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。
 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージと「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。
 つまり「なぜ虎なのか?」は容易に納得できる。
 だが「なぜなったのか?」は充分に説明されていると言えるだろうか?
 これが「おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまった」と言うのだが、そのメカニズムは明らかだろうか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?
 とはいえこれも、上の仮説から答えることができないわけではない。
 「独り」がいけないのなら、もっと人と交われば良かったのだ。
 プライドの高さがいけないのなら、もっと謙虚になれば良かったのだ。
 確かにそれができれば李徴の不幸は解消するだろう。
 だがそんな身も蓋もない反省で李徴の悲劇は回避することができたのだろうか?
 それができなかったことでただちに「虎になる」という極端な事態に至ったのだと納得すべきなのだろうか?

2020年7月8日水曜日

山月記 3 内なる猛獣

 李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。

 ただこのことは、現時点では充分に「わかって」いるわけではない。 

 そのことについて最終的な考察をする前に、当面「わかる」べきことはわかっておくべきである。

 「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か?

 もちろんこんなことは読めば「わかる」。だが「わかる」ことと明晰に説明できることは同じではない。

 普通の読者はこの奇妙なフレーズを、身に覚えのある、ある共感とともに理解し、かつ靄のかかった引っかかりとともに受け止めるはずである。

 それぞれの表現が指している内容は、さしあたり直後の文に対応しているように見える。
  • 「臆病な自尊心」…己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうとしない
  • 「尊大な羞恥心」…己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできない
 一応確認しておく。「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?
 「瓦」は前の文の「俗物」の言い換えになっているから、そこから「平凡な者」というほどの意味だと考えることができ、対する「珠」は「才能のある者」の比喩だと考えられる。
 「伍する」は?
 「落伍者」という言葉は知っているはずだ。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。

 言葉の意味がわかれば言っていることは「わかる」。
 にもかかわらず、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というフレーズには、あるひっかかりを感ずる。この違和感はどこから生じているか?

 それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。
 「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。
 これが、ちくはぐに組み合わされている。
 形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような情報の重複による冗長さによる違和感があるが)。
 ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?
 そしてなぜそうした形容が可能なのか?

 まずは「臆病」「自尊心」「尊大」「羞恥心」が、後の文のどこに対応しているかを確認しよう。
 前の部分で「人との交わりを避けた」ことが「尊大」だと他人に言われたが、それは「羞恥心」なのだと言っている。とすれば、後の部分の「碌々として瓦に伍する」に対応していることがわかる。
 「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。
 だがそれは「己の珠にあらざることを惧れる」からだと言えば、それは実は「臆病」さゆえである。
 また「己の珠なるべきを半ば信ずる」という「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「あえて刻苦して磨こうとしない」「卑怯な危惧」ゆえの狷介を生ずる。
 つまりこの二つの方向性は相互に循環した因果関係にあるのである。「また」で接続されるのはそれらが表裏一体であることを表している。
 「己の珠なるべきを半ば信」じているような「尊大」さがあるから「己の珠にあらざること(が露顕すること)を惧れる」。「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」が、「碌々として瓦に伍することもできない」という「尊大」なふるまいを生む。
 一見方向性の反対の形容は、実はそれぞれが原因であり、同時にその結果としての表われなのである。
 捻れた形容は、その関係性を巧みに表わしている。

 「山月記」では常に問題となるフレーズだが、整理してみればここまでの解釈はさほど難しくはない(だが世間では上記の展開が授業の山場になっているのが実際のところだろう)。
 問題はそれがなぜ「虎になる」という事態を招いたのかという論理である。

2020年7月7日火曜日

山月記 2 「答え」の重み付け

なぜ虎になったのか?
という問いに対する三つの候補を文中から挙げた。
  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから
 まずはこの3点の関係を考え、重み付けをする。
 どう考えるべきか?

 とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかである。無視していいのか?

 1を問いの答えとするということは、つまりこの小説のテーマをどのようなものだと考えるということか?
 それを言い表すには便利な三文字熟語がある。何か?

 しばらく時間をおけば、誰かが「不条理」という言葉を思いつく(「理不尽」もわるくないが、文学作品のテーマとして使われる頻度は「不条理」の方が高い)。
 確かに「不条理」をテーマとする小説というのはありうる。
 だがそれを結論とすることには、むろん抵抗がある。だがそのように1よりも2を重視すべきであると判断することの妥当性はどこにあるか?
 いくつか挙がる。
 まず情報量として1や3に比べて2がとりわけ詳しく書かれていて情報量が多い。それだけ重視すべきであるように思われる。実にシンプルな話だ。大事なことは詳しく語られる。
 また、1は虎になった当初の混乱の中で発せられた感慨だが、その後熟慮の末にたどりついたのが2だ。
 それを、後出しジャンケンのようだ、と言ってしまうと語弊があるが、後から述べられたことの方をより重視すべきだという妥当性はある。つまり、後ろまで語って結局先に述べた1を結論として重視すべきであると考えるには、2や3で語られる理屈に対する疑義が小説中に置かれている必要があるのである。本人がいくら理屈をこねても、そんなものはあてにはならない、と。
 だがその痕跡は見つからない。とりあえずは。
 見つけられないでいるうちは、素直に2や3を重視すべきなのである。

 では3はどうか?
 1を候補から除外した時と同じ、情報量という点からはどうみても2が優勢である。
 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強されると言っていい。
 「山月記」の元になっている中国の伝奇小説「人虎伝」は、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままである。
 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。「人虎伝」の李徴は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのである。
 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。
 したがって中島敦がこれを「山月記」の肝として書き込んだのは間違いなく、とすれば「山月記」を整合的に解釈しようとすればここを重要視せざるを得ないのである。

 では3は、単なる自嘲癖の一つの表れとして看過すべきか?

 だが「関係」という言い方で考えさせたとき、2と3は、あながち別のことを言っているわけではない、という感触を語る者が現われる。そのような指摘に対し、頷く者も多い。
 最初の「問い」に対して2から形成される「答え」と3から形成される「答え」が同じであるなどということは、どう考えれば可能か?

 検討するにあたっては、当然のごとく「わかる」べきことはわかっておくべきである。
 3は、具体的には何のことを指しているか?
 こうした対応関係が把握されていないと3について適切に考えることはできない。まず確認しておく。
 3は、袁傪に、自らの作った詩を伝録してもらうよう依頼したことを指している。妻子の面倒をみるよう依頼したのは3の述懐の直前だから、「妻子」より先に「詩業を気にかけ」ている、と言っているのである。

 このことは2とどのような意味で「同じことを言っている」のか?

 だがまずは、敢えて2と3が別の方向性を持っているように解釈してみよう。というより最初は、むしろ2と3は違った「答え」の有り様を示している、と感じた者の方が多いはずだ。
 そこでまずは3の述懐から、2には適用できないような「答え」を導き出してみよう。3からは「なぜ虎になったのか?」という問いにどのような「答え」を用意できるのか?

 こうした思考を「抽象化」という。比較のためには、本文そのままの言葉でなく、一度抽象度を上げたレベルに言い換えないと、その関係・異同について考えることはできない。上で「不条理」を想起したのも同様の抽象化の思考である。

 3からは、ある種の利己心、身勝手さ、肉親に対する酷薄さを読み取ることが可能である。つまり人間的な情愛の欠如が李徴を虎にしたのだ。非人間的だから人間以外のものになったのだ。それはある種の神様から下される「罰」のようなものかもしれない。
 この言い方は、上記の「人虎伝」で李徴が虎になった理由にも通ずる。「人虎伝」の李徴の行為は「山月記」の李徴の3よりも遙かに極悪非道ではあるが、人間として許されない行為を「虎になる」ことの理由として考える点では同じ論理だ(「畜生道に堕ちる」などという仏教的な言い方にも通ずる)。
 だがそうだとすると、3は「虎になった」ことの理由として充分な重みをもっているとは到底考えられない。それは「人虎伝」と比較するからこそ明らかな感触だ。

 そしてこのような解釈は、2から読み取れる「答え」とも相容れない。2で語られる論理を「人間的な情愛の欠如」などと表現することはできない。2で語られているのは、実に「人間的」な葛藤だという感触がある。

 では3をどのように解釈したとき、2と整合的になるのか?
 間をつなぐ整合的な論理を見出すことも、それを整理して語ることも、簡単にできるわけではない。
 そのためにも、いったん2について考察を進めよう。

2020年7月6日月曜日

山月記 1 二つの問いと三つの答え

 授業で中島敦の「山月記」を読む。
 いったい何をすべきか。

 小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。

 一方で小説は芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。
 娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術は転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みである。

 だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場である。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽や芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか。

 一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。

 娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みである。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが可能だろうか。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか。
 一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか。

 国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録である。それを目的にしてはならない。
 道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様である。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのである。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない。

 まずは「読解」である。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。

 「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?
 「わからない」とすれば何が「わからない」のか、「わかった」とすれば何が「わかった」のか?
 それを判定するための試金石は明らかである。次の問いに答えることである。
  • 李徴はなぜ虎になったのか?

 この問いに、今直ちに答えられるだろうか?
 わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。
 おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。
 ここに明確な形を与えることを目標とする。

 この問いには二つの問いが含まれている。
 そう言うとみんなは直ちに何のことか了解する。さほど遠くない過去、「ミロのヴィーナス」において「腕の無いミロのヴィーナスはなぜ美しいのか?」という問いに二つの問いを見出したことがあるからだ。すなわち「なぜミロのヴィーナスは美しいのか?」「なぜ無い部分が腕でなければならないのか?」という二つの問いである。
 「山月記」における上の問いにも、次の二つの問いが隠れている。

  • なぜ李徴は人間でないものになったのか?
  • なぜ李徴がなったものは虎なのか?

 最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件である。
 これらを説明するためには、それぞれを対比を応用して、考えるべき焦点を明らかにすると良い。
 すなわち「なぜなったか」を考えるには「どうすればならずにいられたか」を考える。
 また「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(いや、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味、すなわち、「虎」の属性・象徴性をあきらかにするのである。

 さて、まずは小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。

 「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所である。

  1. なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。
  2. おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
  3. 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

板書はシンプルに

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

とでも書いておく。
 さしあたってこの3点を検討する。

 はたして、李徴はなぜ虎になったのか?