2020年7月31日金曜日

永訣の朝 11 -「まつすぐにすすんでいく」とは?

 さて、「Ora…」への寄り道をせずに「まつすぐにすすんでいく」について考える3時限コースに合流しよう。これは具体的に何を意味しているか?

 読者は、ここがとりわけ「わからない」とは思っていなかったはずだ(少なくとも授業実施前の筆者はそうだった)。したがって最初のやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「わかる」。「まつすぐ」も「すすんでいく」も、すでに肯定的なニュアンスを持った表現だから、それによって妹が「安心する」ことに論理的な疑問は抱かない。
 だがそれが具体的には何を意味しているかと問えば、にわかには答えられないはずだ。
 そもそもそんなことがこの詩から読み取れるのか?

 「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」とかいう言い換えはまるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。
 まして「人として正しい道を進んでいく」では、ほとんど同語反復だ。

 「Ora…」の展開を経ずとも、大多数の者がまず発想するのは、「妹の死の悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈である。だから「寄り道」をせずとも、この解釈が提出されたところで、これが不整合である理由を考えれば、「わたくし」の「も」について注目せざるをえない。
 「生きていく」という「わたくし」と、今しも死にゆく妹がなぜ並列されるのか?

 「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるだろうし、わざと口にして積極的に笑いを取りにゆく生徒もいる(今年もちゃんといた!)。
 だがこの解釈も、単なる受け狙いではなく、それなりに整合的に解釈しようという工夫もあった。
 死にゆく妹と並列するからにも、兄も「まつすぐに」、天に向かって「すすんでいく」のである。ただそれは、直ちに死ぬということではない。誰もが迎える死という終着点まで、一歩ずつ着実に歩んでいくということである。とすれば、死に向かって「進んでいく」とは、ほぼ「生きていく」の同義である。
 なるほど、言いようである。

 一方、「悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈で、なおかつ妹と自分を並列させる解釈についても、別なアイデアが提出された。
 「わたくし」が「すすんでいく=生きていく」のに対して、妹が「とおくへいく=死ぬ」を並列することはできない、というのが上記の考え方だが、「生きる」も「死ぬ」も、現時点に留まっていないという点では並列させてもいいのではないか、つまり、お前もこの世に未練を残さずにあの世に「すすんでいく」ことを裏返しに願っているのだ、と解釈すればいいのではないか、というのである。
 これもまたにわかには否定できない論理である。

 あれこれと解釈の可能性を追究するのは好ましいことだ。論理を組み立ててみて、それがどれほど無理なく腑に落ちるかを虚心に測ってみる。
 そのとき、上記二つの解釈はそれぞれによく考えられているが、後述する解釈に比べて、前の文脈から「わたくしも」という並列が引き出される必然性を充分に納得させる解釈にはなっていないように思える。

 この詩行に至る文脈を確認しよう。
 「も」が示す並列は、前の部分の何を受けて、「わたくし」と言っているのか?
 並列されているのは妹なのだから、妹がどうなのか、である。
 論理を追うと、前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」の中の「けなげ」を受けていることがわかる。
 つまり「まつすぐにすすんでいく」とは「けなげ」であることを指しているのである。「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」は、「私健気に生きていくから」と言い換えられる。
 さらに34行目・43行目に見られる「やさしい」という形容も加えれば、妹が「やさしく」「けなげ」であったように「私も優しく健気に生きていく」と言っているのだ、という解釈ができる。
 これはもちろん適切な解釈である。

 では、「優しく健気」とはどういうことを指しているか?
 さらに具体的な意味合いを捉える、ダイナミックな読みへ進もう。
 ヒントは出してもいい。
 「も」の並列を考えるためには、そこで並列されるとし子の人となりがわかる必要がある。着目したい詩句を後半から探す。
 それと、以前の授業の考察が伏線になっている。

 どこに着目するか?
 「寄り道」をしていないクラスでは、ここで「Ora…」に注目する者が表れる。それを認めつつも、最終段階では割愛する。
 着目すべきなのは、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」というとし子の言葉である。これを「まつすぐにすすんでいく」の直前の部分と読み比べると、何か気付くことはないか?
 こうした誘導によって、ただちに論理の帰結に至るかもしれない。いわゆる「わかった!」である。だがもちろん、その論理を言葉にして説明することが、同様に容易なわけではない。
 妹は何を言っているのか? 「また人に生まれてくるときは」「自分のことばかりで苦しまないように」どうしたいと言っているのか?

 この部分の直前と「うまれてくるたて…」はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができるのである。
 それぞれのクラスで、誰がこのフレーズを口にするだろう?
 このフレーズが場に提出されればこの展開は成功である。このフレーズが提示されたとたんに、他の者の中でも、ある論理が形成されるはずだ。
 この部分、「また生まれてくるときには」と「こんなに苦しまないように生まれてきます」を短絡させてはいけない。「苦しみたくない」と言っているのではない。「自分のことばかりで苦しむ」ことを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく「他人のことで苦しむ」ことが望みだったということだ。むしろ「苦しみたい」と言っているのである。
 できるなら「他人のために生きて苦しむ」ことこそ、彼女の本望であったはずなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」は読める。
 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分、「ああとし子/死ぬといふいまごろになつて/わたくしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」では先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。
 兄にみぞれを採ってきてくれと頼む妹の要請が、自らの生理的な欲求によるものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は気づく。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくし」なのである。
 とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはもっとそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。
 この「から」は、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っていることを示しているのである。

 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節がある。
 こうした賢治の願いを引き受けた表現はどれか?

 「引き受けた」とは曖昧だが、逆に言えば、これを踏まえていなければ意味のわからない表現があるはずなのである。
 先の「沈む」と「気圏」を結びつける問いと同様に、これも答えを限定する問いではないが、聞いてみるとこちらの意図通りの答えは返ってくるものだ。
 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
 この「みぞれ」「雪」が、そのつもりで「わたくし」が「おもて」に走ったように、いわば妹の死に水、末期の水であるとしたら、それが「みんなとに」もたらされる理由はない。
 だからこの「みんなとに」の挿入は唐突である。にわかには論理が見出せないはずだ。
 「みんなとに」がここに挿入される必然性は、ここがいわば、妹の死後、それを願っていた妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからだ。「聖い資糧」は「みんな」にもたらされるべきなのである。
 このことを、この部分の直前の「うまれてくるたて…」から導き出すだけでなく、詩の前半部の「まつすぐにすすんでいく」と「わりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」を結ぶ隠れた論理を読み取ることから辿り着くよう展開するのは、なかなかにダイナミックな読解体験である。

 「永訣の朝」という詩が、妹の遺志を継ぐことを宣言することで妹を看取る兄の祈りを主想とする詩であることを、「から」で表される「理由」が「理由」になっている論理を明らかにすることから読み取ってきた。
 こうした、この詩の主想の捉え方自体は特別に目新しいものではない。つまるところ「永訣の朝」とはそういう詩であると、世間には認知されている。
 だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。教師は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや蠍の祈り、「雨ニモマケズ」の願い、あるいは宮沢賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、実はそれをガイドラインにして詩を読んでいるからだ。
 だから生徒が感ずるかもしれない「みんなとに」の唐突さも、ともすれば看過されている。だがそうした詩の周辺の知識を教師によって詩の「外部」から持ち込むことで賢治の祈りを捉えるよりも、目の前の詩の言葉を丹念に読むことによってそうした読みを生成することができるのである。そのダイナミズムを味わう方が、国語科の授業としてよほど意義深い。

 我々は授業において宮沢賢治という人物について知ろうとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について理解しようとしているのですらない。「国語」の授業をしているのである。
 読者ひとりひとりが目の前のテクストを「読む」のである。

永訣の朝 10 -「Ora」とは誰か?

 時間があれば、「まつすぐにすすんでいく」とは何を意味しているかを考える上で寄り道してみたいのは、39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」についての考察である。
 「山月記」を終えてから夏休みに入るまでの授業は、3時限のクラスと4時限のクラスがあった。3時限のクラスでは、「ふる/沈む」の違いから、「まつすぐにすすんでいく」の考察までを3時間目に詰め込んだから、以下の考察については寄り道をしなかった。4時限のクラスでのみ、この回り道をすることができた。

 この行で気になるのは無論、なぜローマ字なのか、という点だ。
 だがこれを問う気にはならない。この疑問について何かすっきりと腑に落ちる、目新しい解釈を授業者はもっていないからだ。
 もちろんこの問題にふれた多くの解釈は知っている。だがそれらを見ても、どうにもすっきりしない。
 それは専ら、この部分の解釈が「なぜ賢治はローマ字で書いたのか?」という形で問われることに因る。つまり解釈の発想が「作者の意図」に偏っていて、後で紹介する諸説にしても、賢治の気持ちを代弁しようという語り口が何だか怪しげだと思ってしまう。
 「降る/沈む」の考察の時もそうだが、まずは読者がどのように感ずるかである。そしてそれが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。

 それよりもこの詩句については時間があれば問うべきなのは次の問題なはずだ。

 「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?

 註には「私は私でひとりいきます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
 これを問いとして想定する授業案を見たことはない。理由ははっきりしている。結論は既にわかっているものとして看過されているからである。
 だが生徒に問うてみれば、必ずどのクラスでも兄と妹で意見は分かれる。詩の言葉自体からはそれが確定できず、どちらの解釈も可能なのである。
 意見が分かれるということは考察の余地があるということだ。
 「Ora=私」とは誰なのか? そして「ひとりでいく」とはどういう意味か?

 兄説、妹説、双方の主張を検討してみよう。

 妹説の根拠は、丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「Ora…」もそうなのだというものである。
 これは自然な推論だが、それだけで妹の言葉だと決めていいのだろうか。

 この詩では、丸括弧を付ける法則がどうなっているか? 丸括弧がついている行とそれ以外の行はどう違うか?

 丸括弧内は「妹の言葉」もしくは「回想された言葉」と言っている者が多かったが、それは論理が逆転している。推論の前提と結論が混同されている。

 この詩で丸括弧に括られている言葉はどれも方言である。それ以外の行は全て標準語である。これも「ふる/沈む」の原義を説明するのと同様、意外に難しい問いだった。的確にこのことを指摘できた者は少なかった。
 つまり「方言である」という特徴から、それが他の行とは違う、ととりあえず認識し、それを「妹の言葉」と見なせばいいのだ、という解釈が生じたのである。
 また鉤括弧ではないから、直接の会話文(科白)ではないと見なし、「回想された言葉」だと解釈する。そうして、妹が発した言葉を思い出しているのだ、と解釈しているのである。
 だがどちらも、まず方言であることから会話文と見なす解釈が生じ、それを「妹の言葉」でありかつ「回想された言葉」であると解釈しているのである。
 方言が会話文のように見えるのは確かだ。しかしそうした特徴からは、これらが「兄の言葉」であるとか、実際に口に出されたものかではなく口に出して言っているかのごとき「心中語」であるといった解釈も可能である。
 とすればむしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異は、(Ora…)だけが他の二カ所と区別されることを表わしているとも言える。つまり他の二カ所は実際に発せられた妹の言葉(の回想)であり、ここだけは「心中語としての兄の言葉」と考えるべきだ、と主張することもできる。
 つまり形態上はどちらであるとも言いうる。

 だがなぜか、このような検討の跡も見られず、この言葉は妹のものであることが世の解釈においては前提されている。
 世の授業者自身は、一読者としてこれを疑問には思わなかったのだろうか?
 もしかしたら丸括弧が付されていることを根拠に結論して、そこに安住しているのかもしれない。だとすればそれは単なる浅慮である。

 では内容的にはどう考えるべきか。
 妹だとすると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だいうことになる。あえて、一見冷たくも見える別れの言葉に、これからも生きていかねばならない兄への気遣いが見てとれる。
 一方兄だとすると、妹との別れを受け入れ、生き続けていこうとする決意の言葉だと受け取れる。(註)
 やはりどちらにも解釈でき、どちらかに決定する根拠はない。

 だがどちらの解釈であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
 そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。

 さて、この問題をこのタイミングで提示するのは、もちろんミスリードを意図している
 「寄り道」前に考えていたのは「まつすぐにすすんでいく」とは? であった。ミスリードとは、これと「ひとりでいく」を結びつける誘導である。その時、どんな解釈が生まれるか?

 「まつすぐにすすんでいく」が語り手の語る、詩の「地の文」の言葉なのだから、これと「ひとりでいく」を重ねるならば、それは兄の言葉だということになる。
 つまり、妹の死を乗り越えて(「引きずらずに」「忘れて」…)強く生きていく、というような意味に、両者をとるのである。

 だがこれには反論が挙がらなければならない。
 「Ora…」は前述の通りそれでも解釈できるが、「まつすぐにすすんでいく」が「妹の死を乗り越えて強く生きていく」ことだと考えるのが不適切である理由は、読み返してみれば気づくはずだ。
 何か?
 「わたくしまっすぐに」の「も」と不整合なのである。
 「も」は並列を表す副助詞である。妹と「わたくし」が並列されているのである。これが「わたくしまつすぐにすすんでいく」ならば「妹の死を乗り越えて」でもいい。だが「わたくしも」である。「すすんでいく」が「生きていく」ことであるならば、妹と自分を並列にすることはできない。

 だが別の解釈の可能性はないか?
 まず「Ora…」を妹の言葉だと捉え、「ひとりでいく(Shitori egumo)」を「ひとりで遠くへ行く=死ぬ」の意味に解釈する。
 次に「まつすぐにすすんでいく」を「ひとりで生きていく」の意味でとるならば、それぞれが「ひとり」だという点で「も」の並列はとれるのではないか?
 つまり「わたくしも」の並列が「いく」に係っていると考えるときには、死にゆく妹と生きていく兄を並列には解釈できないが、「ひとりで」に係っていると考えれば、兄と妹の並列が解釈できるのではないか?

 これは「Ora…」を関連させて考えることで可能な論理ではあるが、22行目を読んでいる時点ではこのような解釈には無理がある。22行目までに「ひとり」であることが示されている詩句はないからだ。

 結局、「(Ora Orade Shitori egumo)」を「まつすぐにすすんでいく」と関連させる解釈は「Ora…」をどちらに解釈するにせよ、いずれも行き詰まってしまった。
 「ミスリード」の所以である。

 だがこうした考察を誘発する「Ora」が誰を指しているのか? という問いは、世の「永訣の朝」の授業では不問に付されている。

 確かに結論ははっきりしている。これはとし子の言葉である。
 だがそうだと「わかる」のは、連作「松の針」の中で「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか/わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と書いてあるからだ。つまりテクストの外部情報によってである。「永訣の朝」の中で妹の言葉であることが確定できるわけではない。
 「松の針」を皆が読んでいるとは思えないのに、この言葉がとし子の言葉であることは、なぜか疑われない前提とされている。
 「Ora」が誰を指しているのかを問いとして提示する授業案は存在しないのは、国語の授業が「正解」の提示にこそ意味があると考えられていることの裏返しであり、はじめから結論のわかっている問題には考察の意義がないと考えられているからかもしれない。
 だが今我々が臨んでいる授業という場は、あらかじめ結論の出た「正解」を周知する場ではなく、テクストを読解することによる合意を共有する場であるはずだ。

 なぜか世の国語教師は始めから妹の言葉だと決めてかかって、「誰の言葉か?」ではなく「なぜローマ字で書かれているのか?」を問う。
 この問いについては、たとえば、「独りで逝きます」という妹の言葉を受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという解釈が定説だ。これは上記の「松の針」の一節が発想の元になっているのだろう。
 だがこんな解釈は、否定はしないが魅力的でもない。なるほど、と思えない。
 賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所のとし子の言葉もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという(残っている草稿の調査からこういうことがわかる)。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。
 あるいは作者が関心を持っていたラテン語やエスペラント語らしい響きにしたかったからだ、などという解釈もある。だがそんなことはテクスト読解の範疇ではない。大学あたりで研究としてやるのなら、そういう考証をしてもいいが、それは高校生にとっての国語の学習ではない。
 やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのである。

 そして、これがローマ字であることの効果について、授業者は特別な見解をもってはいない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。
 というか、註がなければわかるはずもない。たしかにそれは、にわかには意味のとれない呟きのようなものとして感じられる。
 だが、それならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。
 ともかくも、すぐにはわからない、という、読解に負荷をかけること自体に意味があるのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが「独りで行く」ことの痛みを読者に感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
 少なくともローマ字といい、方言といい、回想の丸括弧といい、語りの階層を意図的に分けることで、重層的な、立体的な語りの構造を作っているのだろう、とひとまずは思う。
 こうした詩の技法や効果自体についての考察は、「永訣の朝」という悲哀に満ちた詩を読むという行為の重みに対して、少々「浮いて」しまう感じも否めないが、といって否定する気にはなれない。
 作者は間違いなく死者を悼み、慟哭にふるえている。
 だが同時に、詩人としての賢治が詩の表現技法について自覚的であることもまた、間違いないことなのだ。


 これを賢治の言葉だと捉えることに対する違和感として授業で提出された二点を記しておく。

 まず、前後の「もうけふおまへはわかれてしまふ」「ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」との落差だ。前後は悲痛な内容なのに、ローマ字部分は前向きに感じる、というのである。
 だが、落差があってもいい。そのために語りの階層を変えているのだ、とも言える。また、落差はそのようなものではない、とも言える。「おまへはわかれてしまふ」は悲痛ではあるが、冷徹な事実の確認とも言え、「ひとりでいきます」は前向きと言うより、それこそが悲痛な決意かもしれない。
 いずれにせよ、語りの階層を変えることで重層的な心の複雑さを表現しているのだと考えれば、これを賢治の言葉と捉えることはまだ可能である。

 もう一点は、賢治ととし子が二人兄妹ではないとしたら、妹の死をもって「ひとり」というのは他の家族をないがしろにすることになってしまって、へんだ、という。
 なるほど。よく考えられている。
 実際に二人には弟がいる。だが、そういった事実よりも、この詩の中では「二」という数字が頻出し、その一方が欠ける喪失感を詠った詩として、「ひとり」という兄の感傷性を許容することはやはり可能ではある。

2020年7月27日月曜日

永訣の朝 9 -「から」の謎

 語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程をもった考察であった。
 全体を捉えること。細部を見つめること。詩を読むためのアプローチはさまざまな角度から企図されていい。
 とはいえ、言わばこの詩の「定番」といえるいくつかの問題点については、すべてに触れるわけではない。

 たとえば「永訣の朝」を授業で扱う際に言及されることの多い「二」という数字の意味については、筆者には何のアイデアもない。確かに「二」はどうみても意味ありげに繰り返される。だが、なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである。何か、認識が更新されるような感慨がおこらない。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。
 つまり「永訣の朝」を「教える」ことが目的なのではなく、何かしら意義ある言語活動をしようとしているのである。授業者自身がそこに手応えを感じていない論点については、扱うことはできない。「まがつたてつぱうだまのやうに」や、後で言及するローマ字表記などもそうである。

 最後に扱うのは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。

 27行目「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」に返っていく。こういうのを何と言う? と聞いてみる。すぐに挙がる「倒置法」は、詩に多用される修辞法として中学以来お馴染みである。
 このように、句読点のない詩を読むとき、我々は、倒置されている可能性も含めて係り受けを判断しながら文構造を把握している。どこかの詩行は文の途中であり、どこかの行は文末である。
 この問答を枕にして、次の問いである。

 では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこに係るか?

 23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24.25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味がわからない。その後にも22行目を受ける詩行はない。
 一方「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。だがこれも見つからない。
 つまりこの「から」はどこにも続かない。係っていない。といって「から」は終助詞ではないから通常の「文末」とは思えない。では何だ?
 つまり文末が省略されているのである。
 では「~から」の後には何が省略されているのか? 「から」の後に何と補う?
 無意識にそれを補っているからこそ「から」が宙に浮いてしまっていることにも、とりわけ違和感を覚えずにいるのである。
 「安心して逝きなさい」「心配しないでおやすみ」「安らかに成仏してくれ」など…。

 さて、ここからが問題である。
 「から」理由を表す接続助詞である。何が何の理由だと言っているのか?
 「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことが「安らかに成仏してくれ」と言いうる理由になっているのである。

 では「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?

 とはいえ「まつすぐにすすんでいく」というのはそれだけで何やら良いことのように思われるポジティブなイメージの表現だ。だから、それで妹が安心すると言われても別に不審を覚えたりはしない。
 問題は、「まつすぐにすすんでいく」とは具体的に何を意味しているか、である。
 「まつすぐにすすんでいく」は比喩である。これがどのような事態を喩えたものかを明らかにして、それが妹を安心させることになると賢治が考える論理を説明する。

2020年7月25日土曜日

永訣の朝 8 -「ふる/沈む」の違い

 語り手が最初から「おもて」にいるという読解は、詩の前半の読みに決定的な変更を迫る。
 それを「ふつてくる/沈んでくる」の違いという点から考えよう。

 「ふつてくる/沈んでくる」の違いとして挙げられた諸点を確認しよう。
  1. 降り方が 速い/遅い
  2. みぞれが 軽い/重い
  3. 視線の向き
  4. 時間の経過
  5. 心情表現の程度

 このうち、語り手のいる場所「室内/屋外」から導かれた「違い」を修正する。

 1「降り方」や2「みぞれの様子」の違いは、印象としてはあるが、それが時間の経過による、実際のみぞれやその降り方の差を表わしていると考える必要はない。
 3「視線の向き」と4「時間の経過」は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。
 5「心情」はどうか? 4が否定されるのにともなって、「変化」を読み取る必要はなくなるが、表現される「心情」に違いを読み取ることは可能ではある。だとするとそれはどのような違いか?

 時間や場所に違いがないとなると、違いは「降る/沈む」という動詞そのものの違いが生むということになる。
 「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
 日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり違いはわかっている。
 だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。
 「降る」「沈む」という言葉の意味を、日本語に不案内な外国人に説明してみよう。
 これがまずは第一の課題である。

 動詞自体の意味は次のように説明できる。
 まず、「降る」は空気中を下降することであり、「沈む」は主に液体中を下降することである。これがそれぞれの動詞の本義である。
 この説明を適切にすることのできた者は、意外に少ない。「降る」「沈む」という言葉は当たり前に使えているのに、である。
 自分が「わかっている」ことを他人に分析的に語るのは難しいのである。

 「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのが第二の課題である。

 賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか?
 だが賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先に述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に作者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
 ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのである。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。
 それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。
 だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化すだけのもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解、テクスト理解を目指しているのである。

 まずはみぞれの粒と降り方の印象の違いである。
 「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
 だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいいのである。
 とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とも言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。

 では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。
 やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。
 そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。
 とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈んで」いく変化は詩句の中からは認められない。
 だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。

 だが上の二点よりも重要なのは以下に述べるイメージだと、個人的には思う。

 「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみよう。
 通常、「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われる。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底」である。補助動詞をつけるならば「空から降ってくる/底沈んでいく」である。
 だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。
 「降る」については通常の文型だから、問題は、本来「沈んでいく」という補助動詞をつけるのが自然であるような、下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるかである。

 「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなければならない。
 一方で「沈む」という動詞は、「沈んでくる」と表現される語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。つまりはみぞれの落ちてくる空を見上げながら、同時に「底」にいる自分を広い空間から見下ろしている、という視座をも獲得することになる。
 動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのである。カメラは一台ではない。
 「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言っていい。「『沈んでくる』ように『降ってくる』」のである。
 比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法である。視点は一つではない。

 こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?

 答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。
 14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。
 とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。そのうえでそれを水面から底までの、液体の充満した空間―海かプールか水槽―のようなイメージと重ね合わせるのが「沈む」という動詞である。
 そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天」と響き合うことに気づく。
 逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないかと考えると腑に落ちるものがあるのではないだろうか。
 みぞれは、水の中を、底に佇む自分向かってゆらゆらと沈んでいく。同時にそうして沈んでくるみぞれを、庭先で見上げているのである。

 「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。
 だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。
 この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。

2020年7月23日木曜日

永訣の朝 7 -「わたくし」は「おもて」にいる

 「わたくし」は窓から「おもて」を見たりなどしてはいない。「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」という一節を語る時、語り手は既に屋外にいて、みぞれをその身に浴びている。
 授業者の経験に拠れば、クラスに一人二人は最初からこうした読みをしている。
 そしておそらく、そのように読んだ者も、「語り手はどこにいるか?」という問いかけによって、はじめて最初から外にいる語り手の姿が想像されているという自らの読みを「発見」するのであろう。そしてその発見が自覚的でない場合、最初の自分の読みを忘れてしまうか、大多数の、室内にいるという声に押されて黙っていることが多いのである。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」である。

 では「庭先にいる」ことの妥当性の根拠はあるか?
 現在まで、筆者の授業で生徒から出された根拠は以下の通りである。
a 室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然。
b 12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない。これは「飛びだした」が回想であることを示している。
c 12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」の「この」という連体詞は、すでに語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然。
d 9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」の「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示している。「これら」を除いてみると、今しも手にしつつある印象になる。
e 6行目の「びちよびちよ」という形容は、視覚的なものというより触覚的なものである。したがって直に「みぞれ」に触れているような印象がある。

 これらは「庭先にいる」ことを積極的に示す根拠ではなく、冒頭が「室内にいる」ことが不自然であると感じられる根拠、8~12行目が回想であるように感じられる根拠である。
 そしてこれらは「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。
 例えばaでは、窓の外を見ながらでも「ふつてくる」と言うことはできる。どういう場合か? 自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのである。
 bでは「た」という助動詞が過去と完了の区別ができないという口語文法の事情ゆえの解釈の不確定性に拠っている。過去ならば回想に感じられるが、完了だと考えれば、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の描写であるとも読めるのである。
 cdeもやはり決定的とは言えない。
 とはいえ、それぞれに、少なくとも「どちらが自然か」を考える上で説得力のある根拠ではある。

 だが「語り手は最初からおもてにいる」と考えるべき最大の理由は他にある。
 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。
 どのようなシミュレーションがなされるか?

 かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからである。
 だがこの想像は、よく考えると不自然である。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。
 とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのである(一旦冷凍庫にでもしまうつもりなのか?)。
 こうした想像は辻褄が合わず滑稽である。
 といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり不審である。

 それよりもこう考えるのが自然なはずである。
 語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに「おもて」に「飛びだした」のである。「てつぱうだまのやうに」という比喩の切迫感は、採ってきた雪を妹に食べさせることを想定していることを表わしている。だから語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。
 妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。
 その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点である。
 これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、1分程のことであろう。
 そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」のである。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の不安定な心情を感じさせるが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。
 「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、それほどの時間経過があるわけではなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程の出来事であろう。

 こうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。そして、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。
 「あめゆじゆ…」から冒頭の「けふのうちに…」までが1分程だという推定は間違っているとは思えないが、一方で、この科白の、まるで「回想」性とでも呼ぶべきリフレインのニュアンスは、作者がこの詩を実際に書くまで、あるいはその後、妹のことを思い出すたび、あるいは今我々がこの詩を読むたびに、繰り返し何度も遙かな過去から響いてくるようでもある。
 そのニュアンスを感じ取ることと、詩の中の出来事の時間感覚をリアルにシミュレーションしてみることは、別の思考ではあるが、しかし決して矛盾するわけではない。
 フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。
 少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのである。

 こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのである。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。
 この妥当性は誰にも納得されるはずだ。

 ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?
 そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを明示しなければならない、という意識すらしていない。
 だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのである。

2020年7月22日水曜日

永訣の朝 6 -室内か屋外か?

 「永訣の朝」の語り手は、最初室内にいて、病室の窓から、庭先に降るみぞれを見ているように読める。

 だが、こうした読みに異を唱える人が一定の割合でいる。 

 彼らは次のように読んでいる。

語り手は、詩の最初から屋外にいる。

 おそらくこの可能性は、ほとんどの者にとって全くの想定外で、あまりに突飛な、唐突な「トンデモ」解釈に見えるはずである。出版社が「公式」な解釈として世に流通させているのは、上記に見たとおり「最初は室内にいる」という解釈である。
 どちらが正しいか、を考えるより先に、まずは両方の読みを確実に掴むことが重要だ。
 想像してみよう。
 熱に苦しむ妹の病床の傍らで、賢治が己の無力さをかみしめつつ「いもうとよ」と呼びかける。窓の外を見て「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」と心の中で妹に語りかける(これらの詩句が、直接口に出され、妹に語りかけられたものだとは考えにくい)。窓の外の空を見上げ、みぞれが降ってくる様子を語り、それから「陶椀」を手にしてみぞれを採りに「おもて」に飛びだす。
 一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿である。
 「わたくし」は暗い雲の下に佇んで、そこから室内の病床に横たわる妹に「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と語り始めるのである。今しも「おもて」にいる語り手が、さっき明るい室内から見た時の印象と違ってここは「へんにあかるいのだ」と表現しているのである(庭先から語りかけているのだから、こちらももちろん心中語である)。
 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?

 実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来ながらく、前者のような光景だった。
 それから30年あまり経って、授業者に後者の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった(数年前のことだ)。授業でこの問題について議論してきた息子が、家に帰ってその話をしたのだ。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思えるんだよね」と言う。
 それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。
 驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は、他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。

 だが問題は結論ではない。語り手は最初から外にいる、などと「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討である。

 最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として想起するのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節である。外にいたら「おもては…のだ」とは言わないのではないか?
 これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのである。
 「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。テレビの中継放送の「現場リポート」のように、「おもて」にいる「わたくし」が、病室に向かって「おもて」の様子を伝えているのである(「現場の賢治さん、そちらはどうですか?」「はい、おもてはへんにあかるいです」)。

 一方、室内であることの積極的な根拠として挙げられるのは11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。
 語り手が最初から屋外にいると読むためには、この部分をどう考えるのか?

 これはつまり回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、「みぞれのなか」にいるのである。
 「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んでいるわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像に整合するように「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という論理を構築している、というのが実際のところなのだ。

 このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの積極的な根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけである。

 授業者も先述の通り、以前は疑うことなく語り手が室内にいるものと捉え、妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る屋外を見ているという状況を想像していた。
 だがそれは、語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。
 授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。
 だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。
 少数の「語り手は始めから外にいる」という読みをした読者もまた、実は自身が少数派であることを知らずにいる。
 そして議論をしてみると「外にいる」と感じていた者も、周囲の多数派の「室内にいる」という疑いのない前提に触れると、たちまち自分の「外にいる」という感じを撤回して(あろうことかそれを忘れてしまいさえして)、「室内にいる」前提の議論に巻き込まれてしまう。
 それは残念なことだ。
 どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきである。

 そして、二つの「読み」を検討するため、あらためてそれらの「読み」を念頭に置いてテキストを読み返す。その妥当性が、テキストのどこからどのように納得されるかを考察する。それこそが国語科の学習である。どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。

2020年7月21日火曜日

永訣の朝 5 -どこからみぞれを見ているか?

  • 語り手はどこにいるか?
  • 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?

 まず、後者の問いについての考察の成果を聞く。こちらの問いの方が答えの自由度も高く、あれこれ言い易い。
 どのクラスでも挙げられる「違い」は、まずみぞれの降り方の印象である。
 「ふってくる」の方が、みぞれは軽く、速く、「沈んでくる」の方が相対的に重く、遅い。整理して言えばこんなところで一致するだろうか。
 また、視線の向きについての言及も多い。
 「ふってくる」の方が視線が上向きで、「沈んでくる」の方が下向き
 これには異論もある。視線の向きは「横向き」だとか、「沈んでくる」の方がむしろ「上向き」だという意見もある。
 また「ふってくる」は視覚的で、「沈んでくる」は体感的な表現だという意見もある。
 これらはみな、どうしてそういうことになるのか、を考えることが重要だ。

 もう一つ、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈んでくる」の方が、妹を思う気持ちの悲壮感がこめられているのだ、と。
 こうした解釈の妥当性の根拠は何か?

 「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。だから、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いくのだ、と解釈できるのである。
 確かに文学作品においてはしばしば、文中に描かれた情景を心情表現として読む必要がある。

 上記の違いの中には、語り手のいる場所に基づいた違いもある。
 「ふってくる」と「沈んでくる」における、視線の向きやみぞれの感触の違いは、語り手のいる場所の違いから生じていると考えられるのである。
 二つの問いを並行して投げかけているのはこのためだ。
 その場合、語り手はどこにいると想定されているか?
 つまり「語り手はどこにいるか?」という問いの答えは、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、ということなのである。そのまま詩の終わりまで室内に戻った様子はない。
 この想定が、「ふってくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。

 「ふってくる/沈んでくる」の違いについて、前に言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。
「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)
 
「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)
 
(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)
 
「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房)

 4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外に少なく、「ふつてくる/沈んでくる」の違いは、主として語り手の視座の違いとして説明されている。
 そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。

 「ふってくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。
 これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」である。

 だが本当にこの「答え」には、全員が賛成しているのか?
 そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?

 こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるのである。
 語り手は本当に「そこ」にいるのか?

2020年7月18日土曜日

永訣の朝 4 -語り手はどこにいるか?

 すべての言葉には「語り手」がいる。その存在感の濃淡には様々な程度があるが、すべての言葉は、誰かから誰かに対して発せられたものである(独り言でさえ!)。
 語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)である。
 小説や詩などの場合、語り手はさしあたり作者かもしれない。受け手もさしあたり読者だと言っていいが、想定される読者層はさまざまである。子供向けなのかビジネスマン向けなのか。
 例えば一人称小説の「私」が作者であるとは限らない。うら若い少女の「私」を創造した作者は、中年の男性かもしれない。
 さらに、例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かである。
 つまり「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。

 ほとんど作者その人であろうと想定される「私」が語る詩でも、その作者は何歳頃の作者なのだろうか? 老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。
 「永訣の朝」において、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事であった。
 だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」である。
  この詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか?

 たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?
a.彼は部屋の中に入ってきた。
b.彼は部屋の中に入っていった。
c.彼は部屋の中に入った。
三つの文で示される事態は同一である。違うのは「語り手」のいる場所である。
 この文言を語る「語り手」は、aは室内で、bは室外(廊下?)にいる。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。
 ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなイメージだ。
 一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。

 だが「c.彼は部屋の中に入った。」でも、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
 だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる視座のことではない。cの語り手は、この事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄である。

 それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」は、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいると感じられる。それはどこか?

 並行してもう一つの問いを投げかけておく。

 次の二つの表現はどう違うか?
6行目 みぞれはびちよびちよふつてくる
15行目 みぞれはびちよびちよ沈んでくる
5・6行目「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と14・15行目「蒼鉛いろの暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は内容的にも文構造的にも共通しているから、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは比較して考えることができる。この表現の変更は何を意味しているのか。
 ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。考察の対象が「作者の意図」に向かうと、考察のいとぐちを、作者についての情報、いわばテキストの外部に求めることになりかねない。それは国語の学習ではない。今なそうとしているのはあくまでテキスト解釈である。
 読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いが作者の表現したかったものであるかどうかを検討する。テキスト解釈とはそうした行為である。
 だから「なぜ作者は二回目を『沈む』にしたのか?」ではなくまず「『沈む』だと『ふる』とは違ってどのような印象になるか?」と問わなければならない。
 その後で、それが作者の意図したものであったかどうかを考えるのである。

 言うまでもなく、二つの問いは関係づけて考えなければならない。
 実はそれはある種のミスリードでもあるのだが、間違った方向に誘導されてしまうことになろうとも、この二つの問題は関係づけて考えなくてはならない。テキストを文脈において解釈するとは、そういうことである。

  • 語り手はどこにいるか?
  • 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?

2020年7月17日金曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、妹がみぞれを採ってきてくれと頼むにあたっての想定としては以上でいいと思う。だが注意すべきことは、あくまでこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らないということだ。
 また、仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図に気づいたこと自体のせいでもある(またしても入れ子状!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。
 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
この一節から、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとるのは自然である。
 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹にとって切実でありさえすれば、どんな依頼でもよいということになる。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからである。
 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。
 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのである。

 こうした指摘は、少数ながらいくつかのクラスで提出された。貴重な指摘である。

 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ。
 「死に水」「末期の水」とは、今しも死にゆく者の最期に飲ませる水のことだ。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭う。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だというから、仏式の葬儀の作法である。
 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」となっている。
 その雪は、どのようなイメージを帯びたものとして描かれているか。
 具体的に詩の中の表現を挙げよう。
  • 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん
  • わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの
  • この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ
  • あんなおそろしいみだれたそらから/ このうつくしい雪がきたのだ
  • 聖い資糧
これらの形容は、この「雪」にどんな印象を与えるか。
 そのまま詩中の語を使えば「うつくしい」である。
 だがそれとともに、「まつしろ」「そらからおちた」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。
 「雪」はいわば、聖なるものの「象徴」である。
 それが、妹の死を浄化するように感じられるのである。
 読者にも、そして兄にも。
 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。

 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことすらも、それが兄を救うための妹の気遣いであったと言っているのである。
 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた雪のイメージが兄になにがしかの救いをもたらしているという詩の論理は捉えておきたい。

永訣の朝 2 -なぜ頼んだのか?

 「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。
 兄がみぞれを採りにおもてに出るのは「あめゆじゆとてちてけんじや」という妹の依頼によってである。
 ここからがいよいよ考えるべき問題である。
なぜ妹は兄に、みぞれを採ってきてくれと頼んだのか?
 これも特に難しい問いではない。だが答えを聞く前に更に条件をつける。
次の条件に合う理由をそれぞれ挙げること。
①詩の中に書かれてあることから間接的に推測される理由。
②詩の中に直接書いてある理由。
 「なぜ頼んだのか?」という問い自体は殊更に難しい問いではない。詩の中で語り手が為す最も大きな行為を発動させた依頼が、どのような動機によるものなのかを理解しないまま読むことなどできない。
 だが「理由」を二つ挙げるとなると、さらにしばらくは考えざるを得ない。

 さて、二つの答えはそれぞれ次のようなものである。
① 高熱にあえぐ喉を潤すため。
② 兄を一生明るくするため。
①は、とりあえずは「食べるため」とも言える。「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(10行目)」からの抽出である。その場合はさらに、どうして食べたいのかと問い返して①の形に収める。
 兄が妹の頼みでみぞれをと採ってくるという行為は、兄に、また病室にいる人々に、どのように了解されているか。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれを採りに走るわけではない。なぜ妹がみぞれを採ってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたがっているのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているはずだ。兄がそれを訝しんでいる様子がないからである。そうした当然の了解を確認したい。
 推測の根拠はどこか? 例えば「おまへがたべるあめゆき」「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」等…。
 ②は、そのまま詩の一節を指摘する。18行目の「わたくしをいつしやうあかるくするために」である。

 二つの答えが出揃ったら、最初に問われた時に思い浮かべたのはどちらの答えだったのかを聞いてみる。どのクラスでも必ず両方に手が挙がる。全体としてどちらが多いとも言い難い。
 教科書の出版社は、教師用の教材の解説書を用意している。授業のやり方なども書いてある。その中に「なぜ頼んだのか?」という発問例が掲げられていることも多い。
 そしてその解答例として挙げられているのは、出版社によって①だったり②だったりする。
 だが常にそのどちらかでしかない。当然のことだ。普通、どちらかの答えが頭に浮かんだら、それ以上には考えない。
 だが現実に二つの答えを挙げる者が同程度にいる。そして解説書にはその二つの解答例は用意されていない。どちらかだけが「正解」のように用意されている。

 さてここからが考察のしどころである。どちらが正しいか、ではない。どちらも正しい。ではなぜ二つの答えが挙がってしまうのか。問題を次のように表現しよう。
二つの理由はどのような関係になっているか?

 この問いは抽象的でわかりにくい。だがまずはこうした大きな問いを投げかけておいて、考察の向かう道筋の見当をつける。

 結論に至る途中で次のような問いに答えておく。
「みぞれを採ってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?

 この因果関係の機制は、必ずしも「わからない」わけではないはずだ。読者には、ある納得がある。
 だが同時に説明にはもうワンクッションの課題があるはずだ。正解を求めているわけではない。その納得の内容を語り、相手に同意を得ることができるかを要求しているのである。

 「死の瞬間を兄に見せたくないから、兄を外に行かせた」というような珍妙な答えが出てくるところも、授業の賑わいである。そんなタイミング良く死ぬ想定なの? と返してみんなで笑い合う。

 ではどう説明したらいいだろう?
 この「なぜ」はこんなふうに説明できる。妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感を、いくらかなりと救うのである。その小さな救いが、それ以降の兄の一生を明るくする、と妹は考えているのである。

 さてでは、こうした妹の心理に基づく答②と答①がどのような関係になっているのか、再び問う。
①と②を対照的な語で表すとすると、どんな対比で表せるか?

 「肉体的/精神的」「生理的/心理的」「表面的/内面的」「利己的/利他的」「自分のため/相手のため」…。
 だがこれではまだ「関係」が明らかになったとはいえない。二つの理由は単に並列なのか? ①でもありかつ②でもある、といったような。
 ①/②が「自分のため/相手のため」であることは明らかだが、となるとつまり一石二鳥といったようなことか?

 並列でないとすれば、二つの理由に、ある階層を想定すべきか。
 「①高熱にあえぐ喉を潤すため/②兄を一生明るくするため」を、「建前/本音」「手段/目的」「口実/真意」、などといった言葉で捉えるのである。
 これには賛同者が多い。
 とすると、先に②があったのだろうか。①はそのために考え出されたのだろうか?

 この説に異論を唱える者は、少ないが確実にいる。
 つまり①こそが「事実」で、②は兄による「拡大解釈」、言ってみれば「妄想」に過ぎないのではないかという意見である。

 これは「正解」を導く問いではない。この詩の中ではどちらかを決定はできない。
 ただ作品における「事実」とは何か、という問題について考える糸口になる。
 ①はおおよそ「事実」と認めていいだろうが、②については、語り手の主観が入っている。だが一人称の小説や詩の作品中で語り手が語ったことは、うっかりすると自動的に作品内の「事実」と見なされてしまう傾向がある。だから②こそ「本音」なのだという解釈が生ずるのだ。だがそこには保留が必要なのである。

 そんな余録にも寄り道をした上で、最初の「関係」については、唯一の答えがあるわけではないので、折を見てこちらから語ってしまう。
 ここには、次のような心理が入れ子状に重なり合っている。
1.みぞれを食べたいという妹の欲求(答①)
2.妹の1の欲求を叶えたいという兄の希望
3.2の希望を実現させることで兄の無力感、罪悪感を軽くしたいという妹の配慮(答②)
4.妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える兄の推理(妄想?)
つまりこの一節から読み取れることは、妹のために何かしてやりたいと兄が思っている、…と妹が考えている、…と兄が考えている、ということだ…。
 授業者の経験では、こうした説明をすると、生徒からは笑いがもれる。この笑いがどこからもたらされるのかはにわかにはわからないが、あるカタルシスの表れであるような感触はある。こうした、互いの心理についての推論の重層構造を、詩を読む我々が明晰に理解しているわけではない。しかしなおかつ詩を読む我々はそれを了解しているのである。
 自分が了解しているものを自覚的に理解すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
 この問いはそうしたことを自覚し、そしてそれを乗り越える国語学習であり、さらに後に続く読解の伏線になっている。

永訣の朝 1 -全体を捉える

 文学史上に屹立する名作として多くの日本人に愛され、教科書教材としても定番といっていい宮沢賢治「永訣の朝」は、一方で教材として豊かな可能性をもったテキストでもある。
 ここでいう「可能性」とは、情操教育のための文学教材としてのそれではなく、国語教育の場たる授業のためのテキストとしてこの詩がもつ可能性である。
 これはテキスト解釈の可能性を経験することのできる、恰好の題材なのである。

 一読してすぐ、最初の問い。
「永訣」とは何か?
辞書は引かない。知識を問うているのではない。誰もが知らないという前提で、この詩の内容から推測するのである。
 「永訣」などという語は別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識である。授業者とてこの詩でしかお目にかかったことはない。
 「永」はともかく「訣」とは何か?
 とりあえず「訣=決」と措定してみる。「永遠の決意」「永続的決心」「永久の決定」? そうしたあれこれの推測を詩の内容と照らし合わせようとすることが、詩の内容を捉えようという思考に結びつけばいい。

 詩には、妹の死が描かれている。これは内容を概観して捉えるべき事柄である。
 では「訣」という字で作れる熟語は?
 何人かが「訣別」という語を挙げる。まさに上の措定どおり「決別」である。これは「訣」が常用漢字ではないため、慣用的に「決」で代用することがあるのであり、本来は「訣別」と書く。
 「訣」は「わかれ」と訓読みできる。つまり「永訣」とは「永遠の別れ」のことだ。
 これは妹との「永遠の別れ」=妹の死をうたった詩なのである。

 続けて問う。
この詩の中で語り手がしている最も大きな行為は何か?

 語り手は詩の中で「空を見上げる」「飛び出す」「茶碗に掬う」「妹のために祈る」「願う」など、大小様々な「行為」をしている。そのうち「最も大きな行為」とは何か。
 「妹のためにみぞれを採ってくること」と答えるのは難しくない。ただ、ページをめくって全体を見回し、それが全体に渡って「最も大きな行為」であるかどうかを検討することに意味があるのである。

 さてここまでで、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩であることが捉えられた。これでこの詩を読むための構えができた。

2020年7月15日水曜日

2学年現代文B 一斉テストについて

 今回のテストにおける大問1、2は、その出題形式と配点の大きさにとまどったかもしれません。この点についての出題者の考えを述べます。

 授業者は、そもそもこうした出題を「漢字問題」だと思っていません。「語彙力問題」だと思っています。
 「語彙力」とは、文脈体験の豊富さのことです。
 「言葉の意味」とは、辞書にあるような説明(テキストに朱文字で書いてあるような「意味」)のことではなく、文中での使用例の集合体です。
 つまりこれらの問題は、「暗記」された「漢字の読み書き」の知識ではなく、どれほど多くの言語体験があるかを問うているのです。
 したがってこれは「漢字テスト」なのではなく、「国語のテスト」なのです。

 また、今回の40点は、前年度の未実施だった試験範囲を含めているせいでもありますが、基本的にこうしたテキストからの出題は、毎回30点前後の配点をするつもりです。
 定期テストは、純然たる「国語力」を測定しているわけではなく、言わば「学習の成果」に対する評価でもあります。「意欲」も評価対象なのです。
 国語はもともと学習とテストの点数がストレートには結びつきにくい教科です。
 その中でも、比較的「やればできる」部分の割合をなるべく大きくしたいと考えています。
 今回の「山月記」は例外で、今後は授業中に読んだ文章を出題することはありません。テスト勉強は、予定されたテキストの範囲を勉強してください。
 出題形式は今後も、今回のような「語彙力」を問う問題です。
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213

 以下蛇足と言わず読んで。
 今回のテストは時間に余裕があったと思いますが、大問の1、2は、時間のある限り見直してほしいところでもあります。
 昔、こういう問題は覚えているかいないかなんだから、時間をかけたり見直したりしたってしょうがないと言った人がいました(教員で)。
 それは違うと思います。知っているかいないかはそうかもしれません。しかし覚えているかいないかは、それほどはっきりした違いではありません。
 人間は、一度触れた情報を基本的には忘れない、という説があります。問題は思い出せるかどうかです。「思い出せない」ことを慣用的に「覚えていない」と言っているだけで、一旦考えて浮かんでこないことでも、じっくり考えているうちに突然何かに結びつく、ということがあります(「知らない」でさえ、実はその瞬間「思い出せない」だけかもしれません)。
 そして「思い出す」とは、何かの刺激によって、それに関連する情報が活性化される状態です。活性化される頻度が高いほど容易に思い出すことができ、関連する情報が多いほど思い出す可能性が高まります。
 ことさらに勉強せずにテストを受けていても、日常生活においてそれらの言葉に触れたことがまったくないわけではない、ということもありえます。
 したがって、時間のある限り、様々な方向から記憶を探って、これでピッタリだ、と思える言葉を、漢字を探し当ててください。

 また、こうした考え方からすると、勉強する際にも、例えば所謂「漢字練習」でも、有効な方法は、「考える」ことです。
 「漢字練習」は「暗記」で、「暗記」とは考えずに覚えることだ、と思っていませんか?
 勉強は「覚えよう」とするよりも「思い出そう」とする方が効果的です。これは心理学の実験で確かめられています。
 そして刺激に関連していない情報は活性化されません。つまり、関連する情報が多いほど、思い出しやすくなるわけです。
 「漢字練習」でも、どうしてその熟語がその漢字の組合わせなのかを、一瞬でも考えることで、関連ができます。
 そのためには、それぞれの漢字の意味を考え、その組合わせとしての熟語の意味を考えてみてください。ああなるほど、と思えれば、その納得が(もしくはどうして? という疑問が)、思い出すための関連となります。
 だいたい、「漢字テストではなく語彙力テストだ」とか言ってるわけですから、そもそも言葉の意味がわからないまま漢字だけ覚えるなど、話にならないのですが。

 また、どこで間違いやすいか、何と何を区別すべきかといった判断も、「考える」ことによって印象づけられます。
 
 たとえば
 「疲弊」の「」と、「貨幣」の「」は違います。
 コロナのニュースで「終息」と「収束」の違いを意識しませんでしたか?
 ニュースで「コロナ」が「コロナ」「コロナ」になったという笑い話がありますが、「災禍」の「」は「しめすへん」、「胸襟」の「」は「ころもへん」です。「神様関係のしめすへん」「衣服関係のころもへん」と覚えます。意味を考えればどちらかの判断ができます。
 「比肩」は「肩を並べる」ことです。「比見」=「見比べる」ことではありません。
 「難行」は「なんぎょう」です。「難航する」は「航行が難しい」ことです。
 「符合」「符号」「付合」はそれぞれ違う言葉です。
 「相好」「必定」「席巻」はそれぞれ「そうごう」「ひつじょう」「せっけん」です。「そうこう」「ひってい」「せっかん」じゃないんだなあ、と思う瞬間が大事なのです。
 「耽溺=たんでき」は「沈弱(ちんじゃく?)」ではありません。「耽(ふけ)り溺れる」ことです。
 「要」は「ようし」、「造」は「ぞうけい」です。
 「美的(たんびてき)」「参(さんけい)」という言葉に見覚えはありませんか?

 残りの大問についての解説は省略しますが、字数だけでなく「一文節で」「二文で」などの問題で指定されている解答の条件を見落としている回答が多かったのは残念です。
 それと「瀟洒(しょうしゃ)=すっきりとしてあかぬけしたさま。」「瓜実(うりざね)=面長」を読めた者は、驚くほど少なかった。
 「瀟洒なレストランで夕飯」などという表現は日常でしばしば目にします。また、昨年読んだ「夢十夜」の「第一夜」で死ぬ女は「輪郭の柔らかな瓜実顔」と描写されていたではありませんか!

 7月の残りの授業では「永訣の朝」を読みます。国語の授業で詩を読むのはこれきりになるかもしれません。
 9月には本格的な評論「ロゴスと言葉」を読みます。「ミロのヴィーナス」は評論と言うより随筆です。「ロゴスと言葉」ではそれよりはるかに抽象度の高い認識と論理性が要求されます。

2020年7月10日金曜日

山月記 7 李徴はなぜ虎になったのか?

 「山月記」読解の大詰めである。以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことである。

 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が再帰的に循環するとは、どのようなことか?

 「尊大」であることは「臆病」であることの原因である。プライドが高いから、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」を抱くのである。プライドが高ければ高いほど「危惧」は強まる。つまり「臆病」になる。
 「臆病」になると他人とのつきあいが悪くなる。
 人との交わりを断つことは「自尊心」にどのような影響を及ぼすか?
 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
 満たされない自尊心は燻ったまま蓄積する。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。他人に認められないから自尊心が満足されないのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられないのである。
 結果原因帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。
 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。

 また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
 「自尊心」が「臆病」からの脱出を妨げ、「臆病」が「自尊心」の満足を妨げている。決定不能の状態に止め置かれたまま、どちらへも進めない。心の平穏は永久におとずれない。

 悪循環にせよジレンマにせよ、どうすればこの地獄から逃れられたのか?
 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
 だがそれは、「李徴は狷介だったから=傲岸だったから虎になったのだ」ということの裏返しでしかない。それは間違ってはいないが、「虎になる」という現象の仕組みを一面的にしか言い当ててない。「悪循環による暴走」というシステムを説明していない。

 授業者が現在用意している表現は「やりきる」である。李徴は「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのである。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。
 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。

 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。

 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?

 両者を結びつける言葉は「我執」「自意識」である。
 「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。

 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。

山月記 6 結論に向けての再検討

 虎を「孤独」を象徴するものとしてみる、あるいは「強さ」の象徴としてみる。これらは李徴の性格を特徴付けるものとしても、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の表れとしても、可能であるとともに適切な想定だ。
 だがそれは「なぜ虎なのか?」を納得させるものではあるが「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。
 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題である。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業である。

 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。

 まず、虎の象徴性についての再検討だ。
 虎のイメージは「孤独」と「強さ」という二面だけで言い表せているだろうか?

 「猛獣」と表現される虎は、確かに「強さ」の象徴ではある。冒頭の「名を虎榜に連ね」の「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。つまり「科挙の合格者」=「優秀な者」を表わす比喩である。
 だから李徴が虎になることは、李徴にとって、かつての栄光に満ちた自分に戻ることを意味するのだ、という解釈もあり得る。つまり、実は李徴は虎になりたかったのだ(これは「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに対して、かつて或る生徒が答えた解釈だ。大いに感銘を受けたのだった)。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きがわからない。

 確かに虎は「強さ」の象徴ではある。虎という猛獣は、他人に恐怖を与え、他人から避けられたり他人を傷つけたりする存在だ。そして李徴はもともとそのような人物である。
 つまり彼は人間であった時から虎だったのだ、と言ってもいい。

 だがそう言ってしまうと「なった」ことの説明がつかない。
 では?

 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。
 だが「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」と見なすには不適当である。それは「比喩」だ。
 では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものである。
 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見るとき、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとってすら脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。
 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
 もちろんこれらの「性情」が李徴を虎にしたのだ。だから「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」ことができれば良かったのだ。
 だがそんなことができるのなら、はなから悲劇は起こらない。
 それよりも「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という精妙な性格造型に、不可避的に暴走を引き起こすメカニズムが設定されているのではないか?

 このメカニズムは「悪循環」という言葉の印象によく似ている。
 これを説明するために再帰的」という言葉を使おう。悪循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましからざる傾向が強まっていくことだ。
 「再帰的」とは何か?

 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
 だが、「自己言及的な繰り返し」がなぜ「悪循環」を生じさせるのか?

 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそうした意味を表わす。また結果も原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
 いよいよ考察は最終段階である。
 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?

山月記 5 李徴にとって詩とは何か

 もう一つ、考える手がかり&条件として、次の点も指摘しておく。
なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか
 これはどうみても気になる表現である。
 ここで述べられている、李徴の詩に「欠けるところ」とは何か?
 もしくは、作者はなぜ李徴の詩に「欠けるところ」があるなどと感じさせているのか?

 これら「何?」「なぜ?」もまたさまざまなバリエーションで表現される。いずれにせよ、一貫した説明の中に適切に位置付けられる表現を発想することが肝要である。
 まずはあれこれアイデアを出し合ってみたい。

 最も素直な答えは、李徴の才能がその程度であることが端的に表現されているのだ、という解釈である。
 とすると、なぜ作者はそうであることを読者に伝えているか、という点が問題だ。李徴の才能は「第一流」には届かない。そのような設定は、どのような論理に組み込まれるべきなのか?

 だが、そういうことではない。袁傪が言っているのは、「素質」は「第一流」だが、「作品」が「第一流」には「欠けるところがある」ということだ。
 「素質」が「作品」に結実しない、どのような事情があるのか?

 だが、この謎への解答は、次頁の次の一節が言わば種明かしになっていると考えられるはずである。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
 つまり厳しい鍛錬の場にさらされていないのである。本人の才能だけでは到達できない修行の跡が見られないのである。

 さらに、一つの方向性として、李徴が自作の詩の伝録を袁傪に依頼した場面の次の記述から、この問題を考えてみる。
 次の二つの記述からわかることは何か?

  1. 作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
  2. 恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 もちろんここからは李徴の詩への強い執着が読み取れる。
 だがとりわけ後者に注目してみると、その執着の方向について、ある表現ができそうである。これを次のように表現してみる。
李徴にとって詩は  ではなく  である。
 これもまた、対比を用いて捉えるべきことを明確にするメソッドの応用である。
 
 「詩への強い執着」を読み取ろうとすると、  には「夢」「願望」などという言葉が想起されるが、それでは  に入る言葉が思いつかない。そもそも「夢」では強いのか弱いのかもわからない。
 話し合っているうちに、李徴は純粋に良い詩を書きたいと思っていたのではなく、名声がほしかっただけなのだ、といった分析を語る者が表れる。
 適切な分析である。
 これを、このブログの最初の頃の言葉を使って表現するとさあ…、と促すうち誰かが狙いどおりの言葉にたどりつく。
李徴にとって詩は目的ではなく手段である。

 この認識は李徴の詩の「欠けるところ」についての考察にも一つの解答を与える。
 つまり李徴は詩を道具として扱っているのだ。芸術としての詩に真摯に向き合っていない。そうした姿勢が袁傪をして「欠けるところ」があると感じせしめているのである。

 世の中には「山月記」の悲劇を、詩への執着によって心を狂わせた悲劇として捉える論考がある。
 確かに文学者や芸術家が、自死や発狂といった悲劇に向かう例は歴史上数多くある。李徴の悲劇をそれらと並べ、芸術至上主義や、言葉や文字の憑依といった方向から捉え、同じ「古譚」作品群の一つ「文字禍」と結びつける。
 だがそれは「山月記」という小説から遊離した妄想である。
 李徴の詩への執着は、芸術創造への耽溺ではなく、名声への妄執なのである。

 さて、李徴にとって詩が手段であることと次の一節には奇妙な矛盾がある。何か?
自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。
 李徴の詩への執着という点から見れば、伝録を依頼する事情として読み流してしまいがちだが、問題は「もとより、まだ世に行われておらぬ」という一節である。
 どこに矛盾があるか?

 これはつまり李徴は自らの詩をほとんど発表しなかったということだ。
 これは先に引用した一節とも符合する。李徴は「師に就いたり、求めて詩友と交わっ」たりすることをしなかった。そんな者の詩がどうやって他人に読まれるのだろう。インターネットもない時代に。
 つまり李徴は独りでせっせと詩を作り、それを発表もせずに死蔵していたのだ。
 詩が、真摯な自己表現というより名声を得る為の手段だというのに、である。

 この矛盾の原因を「なぜか」と問うのなら答えは簡単だ。
 「臆病な羞恥心」と「尊大な羞恥心」はそのまま李徴のそうした振る舞いを説明している。詩は「自尊心」を満たすための手段でありながら、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」から、発表ができないのである。
 だがむしろ、このことは、李徴を虎にさせたメカニズムの表れであるとみなすことはできないだろうか。
 つまり、こんなことをしているから「虎になった」のだ。
 どういうことか?

2020年7月9日木曜日

山月記 4 「虎」の象徴性

 李徴はなぜ虎になったのか?
 この問いに明確に答えることが「山月記」読解の目標だ。
 まずは文中から探し当てた三つの候補について一次的な検討をした。
 さらに、結論に至る経路をさまざまに探ってみる。
 同時にそれは、結論を妥当であると見なすための条件でもある。

 まずは問いに含まれる二つの側面の一方「なぜ虎なのか?」である。
 これはつまり、「虎」が何を象徴しているか、という問いである。
 「象徴」は「ミロのヴィーナス」で既習である。具体物で何らかの抽象概念を表わしているのである。
 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、先の「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」の表れとしてみることができるか、を検討する。

 各クラス、グループワークで話し合わせると、それぞれのグループで多様な「象徴」の候補が出る。もちろん似たような概念・観念にグループ化されるような表現もあるが、とりあえず、バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の表現が提出される。

 虎をどのような象徴と見なすか?
 バリエーションは様々あるとはいえ、どこのクラスにも共通して挙がる表現も勿論ある。また、いくつかの言葉はおおよそ二つの系統に分類できる。
 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージである。虎は群れを作らないで単独行動する動物である。
 もう一つは「強さ」のイメージである。虎は百獣の王である。これはバリエーション豊かにさまざまな言葉で言い表せる。
 この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。
 「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが「虎の威を借る狐」の故事では虎を「百獣に長たり」と表現している。アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ。ついでに言えばライオンはサバンナで群れている。虎は一頭で茂みに身を潜めている。李徴の性質を示す形象として虎はまことにふさわしい。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。
 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージと「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。
 つまり「なぜ虎なのか?」は容易に納得できる。
 だが「なぜなったのか?」は充分に説明されていると言えるだろうか?
 これが「おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまった」と言うのだが、そのメカニズムは明らかだろうか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?
 とはいえこれも、上の仮説から答えることができないわけではない。
 「独り」がいけないのなら、もっと人と交われば良かったのだ。
 プライドの高さがいけないのなら、もっと謙虚になれば良かったのだ。
 確かにそれができれば李徴の不幸は解消するだろう。
 だがそんな身も蓋もない反省で李徴の悲劇は回避することができたのだろうか?
 それができなかったことでただちに「虎になる」という極端な事態に至ったのだと納得すべきなのだろうか?

2020年7月8日水曜日

山月記 3 内なる猛獣

 李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。

 ただこのことは、現時点では充分に「わかって」いるわけではない。 

 そのことについて最終的な考察をする前に、当面「わかる」べきことはわかっておくべきである。

 「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か?

 もちろんこんなことは読めば「わかる」。だが「わかる」ことと明晰に説明できることは同じではない。

 普通の読者はこの奇妙なフレーズを、身に覚えのある、ある共感とともに理解し、かつ靄のかかった引っかかりとともに受け止めるはずである。

 それぞれの表現が指している内容は、さしあたり直後の文に対応しているように見える。
  • 「臆病な自尊心」…己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうとしない
  • 「尊大な羞恥心」…己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできない
 一応確認しておく。「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?
 「瓦」は前の文の「俗物」の言い換えになっているから、そこから「平凡な者」というほどの意味だと考えることができ、対する「珠」は「才能のある者」の比喩だと考えられる。
 「伍する」は?
 「落伍者」という言葉は知っているはずだ。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。

 言葉の意味がわかれば言っていることは「わかる」。
 にもかかわらず、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というフレーズには、あるひっかかりを感ずる。この違和感はどこから生じているか?

 それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。
 「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。
 これが、ちくはぐに組み合わされている。
 形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような情報の重複による冗長さによる違和感があるが)。
 ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?
 そしてなぜそうした形容が可能なのか?

 まずは「臆病」「自尊心」「尊大」「羞恥心」が、後の文のどこに対応しているかを確認しよう。
 前の部分で「人との交わりを避けた」ことが「尊大」だと他人に言われたが、それは「羞恥心」なのだと言っている。とすれば、後の部分の「碌々として瓦に伍する」に対応していることがわかる。
 「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。
 だがそれは「己の珠にあらざることを惧れる」からだと言えば、それは実は「臆病」さゆえである。
 また「己の珠なるべきを半ば信ずる」という「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「あえて刻苦して磨こうとしない」「卑怯な危惧」ゆえの狷介を生ずる。
 つまりこの二つの方向性は相互に循環した因果関係にあるのである。「また」で接続されるのはそれらが表裏一体であることを表している。
 「己の珠なるべきを半ば信」じているような「尊大」さがあるから「己の珠にあらざること(が露顕すること)を惧れる」。「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」が、「碌々として瓦に伍することもできない」という「尊大」なふるまいを生む。
 一見方向性の反対の形容は、実はそれぞれが原因であり、同時にその結果としての表われなのである。
 捻れた形容は、その関係性を巧みに表わしている。

 「山月記」では常に問題となるフレーズだが、整理してみればここまでの解釈はさほど難しくはない(だが世間では上記の展開が授業の山場になっているのが実際のところだろう)。
 問題はそれがなぜ「虎になる」という事態を招いたのかという論理である。

2020年7月7日火曜日

山月記 2 「答え」の重み付け

なぜ虎になったのか?
という問いに対する三つの候補を文中から挙げた。
  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから
 まずはこの3点の関係を考え、重み付けをする。
 どう考えるべきか?

 とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかである。無視していいのか?

 1を問いの答えとするということは、つまりこの小説のテーマをどのようなものだと考えるということか?
 それを言い表すには便利な三文字熟語がある。何か?

 しばらく時間をおけば、誰かが「不条理」という言葉を思いつく(「理不尽」もわるくないが、文学作品のテーマとして使われる頻度は「不条理」の方が高い)。
 確かに「不条理」をテーマとする小説というのはありうる。
 だがそれを結論とすることには、むろん抵抗がある。だがそのように1よりも2を重視すべきであると判断することの妥当性はどこにあるか?
 いくつか挙がる。
 まず情報量として1や3に比べて2がとりわけ詳しく書かれていて情報量が多い。それだけ重視すべきであるように思われる。実にシンプルな話だ。大事なことは詳しく語られる。
 また、1は虎になった当初の混乱の中で発せられた感慨だが、その後熟慮の末にたどりついたのが2だ。
 それを、後出しジャンケンのようだ、と言ってしまうと語弊があるが、後から述べられたことの方をより重視すべきだという妥当性はある。つまり、後ろまで語って結局先に述べた1を結論として重視すべきであると考えるには、2や3で語られる理屈に対する疑義が小説中に置かれている必要があるのである。本人がいくら理屈をこねても、そんなものはあてにはならない、と。
 だがその痕跡は見つからない。とりあえずは。
 見つけられないでいるうちは、素直に2や3を重視すべきなのである。

 では3はどうか?
 1を候補から除外した時と同じ、情報量という点からはどうみても2が優勢である。
 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強されると言っていい。
 「山月記」の元になっている中国の伝奇小説「人虎伝」は、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままである。
 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。「人虎伝」の李徴は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのである。
 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。
 したがって中島敦がこれを「山月記」の肝として書き込んだのは間違いなく、とすれば「山月記」を整合的に解釈しようとすればここを重要視せざるを得ないのである。

 では3は、単なる自嘲癖の一つの表れとして看過すべきか?

 だが「関係」という言い方で考えさせたとき、2と3は、あながち別のことを言っているわけではない、という感触を語る者が現われる。そのような指摘に対し、頷く者も多い。
 最初の「問い」に対して2から形成される「答え」と3から形成される「答え」が同じであるなどということは、どう考えれば可能か?

 検討するにあたっては、当然のごとく「わかる」べきことはわかっておくべきである。
 3は、具体的には何のことを指しているか?
 こうした対応関係が把握されていないと3について適切に考えることはできない。まず確認しておく。
 3は、袁傪に、自らの作った詩を伝録してもらうよう依頼したことを指している。妻子の面倒をみるよう依頼したのは3の述懐の直前だから、「妻子」より先に「詩業を気にかけ」ている、と言っているのである。

 このことは2とどのような意味で「同じことを言っている」のか?

 だがまずは、敢えて2と3が別の方向性を持っているように解釈してみよう。というより最初は、むしろ2と3は違った「答え」の有り様を示している、と感じた者の方が多いはずだ。
 そこでまずは3の述懐から、2には適用できないような「答え」を導き出してみよう。3からは「なぜ虎になったのか?」という問いにどのような「答え」を用意できるのか?

 こうした思考を「抽象化」という。比較のためには、本文そのままの言葉でなく、一度抽象度を上げたレベルに言い換えないと、その関係・異同について考えることはできない。上で「不条理」を想起したのも同様の抽象化の思考である。

 3からは、ある種の利己心、身勝手さ、肉親に対する酷薄さを読み取ることが可能である。つまり人間的な情愛の欠如が李徴を虎にしたのだ。非人間的だから人間以外のものになったのだ。それはある種の神様から下される「罰」のようなものかもしれない。
 この言い方は、上記の「人虎伝」で李徴が虎になった理由にも通ずる。「人虎伝」の李徴の行為は「山月記」の李徴の3よりも遙かに極悪非道ではあるが、人間として許されない行為を「虎になる」ことの理由として考える点では同じ論理だ(「畜生道に堕ちる」などという仏教的な言い方にも通ずる)。
 だがそうだとすると、3は「虎になった」ことの理由として充分な重みをもっているとは到底考えられない。それは「人虎伝」と比較するからこそ明らかな感触だ。

 そしてこのような解釈は、2から読み取れる「答え」とも相容れない。2で語られる論理を「人間的な情愛の欠如」などと表現することはできない。2で語られているのは、実に「人間的」な葛藤だという感触がある。

 では3をどのように解釈したとき、2と整合的になるのか?
 間をつなぐ整合的な論理を見出すことも、それを整理して語ることも、簡単にできるわけではない。
 そのためにも、いったん2について考察を進めよう。

2020年7月6日月曜日

山月記 1 二つの問いと三つの答え

 授業で中島敦の「山月記」を読む。
 いったい何をすべきか。

 小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。

 一方で小説芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。
 娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術は転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みである。

 だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場である。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか。

 一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。

 娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みである。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが可能だろうか。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか。
 一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか。

 国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録である。それを目的にしてはならない。
 道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様である。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのである。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない。

 まずは「読解」である。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。

 「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?
 「わからない」とすれば何が「わからない」のか、「わかった」とすれば何が「わかった」のか?
 それを判定するための試金石は明らかである。次の問いに答えることである。
  • 李徴はなぜ虎になったのか?

 この問いに、今直ちに答えられるだろうか?
 わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。
 おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。
 ここに明確な形を与えることを目標とする。

 この問いには二つの問いが含まれている。
 そう言うとみんなは直ちに何のことか了解する。さほど遠くない過去、「ミロのヴィーナス」において「腕の無いミロのヴィーナスはなぜ美しいのか?」という問いに二つの問いを見出したことがあるからだ。すなわち「なぜミロのヴィーナスは美しいのか?」「なぜ無い部分が腕でなければならないのか?」という二つの問いである。
 「山月記」における上の問いにも、次の二つの問いが隠れている。

  • なぜ李徴は人間でないものになったのか
  • なぜ李徴がなったものは虎なのか

 最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件である。
 これらを説明するためには、それぞれを対比を応用して、考えるべき焦点を明らかにすると良い。
 すなわち「なぜなったか」を考えるには「どうすればならずにいられたか」を考える。
 また「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(いや、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味、すなわち、「虎」の属性・象徴性をあきらかにするのである。

 さて、まずは小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。

 「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所である。

  1. なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。
  2. おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
  3. 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

板書はシンプルに

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

とでも書いておく。
 さしあたってこの3点を検討する。

 はたして、李徴はなぜ虎になったのか?