2021年10月19日火曜日

舞姫 4 執筆の契機

 「舞姫」が「石炭をばはや積み果てつ。」という一文で始まることを、どう納得することができるか?


 さて

船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった

とは何を意味しているか?

出航が間近だ

ということだ。「間近」とはいつのことか?

明朝

であろう。なぜか?

「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。

 だから何だというのか?


 上は「…とすると?」という自問自答に基づく思考によって考えを推し進めている。

 一方で、思考は方向を定めずに展開するばかりではなく、到達点を仮設してその間を架橋するようにも展開する。

 この授業展開は、先述の読み進める際の区切りの一つ目、教科書の2頁ほど、形式段落で三段落「いで、その概略を文に綴りてみん。」までの千字弱(以下「第一章」)を読んだ段階で実施している。

 だから「舞姫」全体を読了した上での解釈は発想できないが、一方でこれは第一章の内容全体を参照する必要のある問題でもある。この情報がどういう意味を持つかを、納得できる論理の中に位置付けるには、第一章が読者に伝えている情報の中においてこの一文が持っている意味を捉える必要がある。

 第一章で最終的に読者が把握しなければならない情報は何か?


 第一章の終わりは「ああ、いかにしてかこの恨みを銷せん。(略)今宵は辺りに人もなし、(略)いで、その概略を文に綴りてみん。」である。これは「要約」の時に確認した、この段落の要点の一つだ。

 つまり語り手はある「恨み」を消そうとして文章を書こうとしているのである。

 だが筆は進まない。「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。

 こうした状況把握が、上の思考と双方から呼び合い出会う。


 物語が始まるにあたって、筆者は「書きたい、だが書けない」状況にある。

 これが一章の終わりで「さあ、書こう」に決着するための いとぐち が冒頭の一文なのである。

 この両者を架橋する論理をどのように想定すればいいか?


 一文目に続く二文目には「静か」とあり、三文目に「舟に残れるは余一人のみ」とある。この情報は一章の終わりで「今宵は辺りに人もなし。」と繰り返される。

 つまり燃料の積み込み終了は文章を書き出すのに恰好な状況を必然的に作り出しているのである。

 どういうことか?

 作業が終わったから「静か」になったのだろう、と考えることはできる。だが「一人のみ」は?

 ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな おか で過ごすのが習いなのだ。だから船客だけでなく最小限の船員を除く乗員のほとんどが下船しているということなのだ。

 だから、単に今「静か」になったということではない。夜はいつでも「静か」だろう。だからここは作業が終わったから「静か」になったと言っているのではなく、皆が舟を下りてしまっている今晩のうちは「静か」なのだ。

 こうして情報は関連させることで「意味」を生ずる。


 それだけではない。「明日には出航する」という状況はさらに、書き出すことへの必然性を用意する「意味」を持っている。

 少々誘導する。

 この港はどこにあるか?

 →「セイゴン」とある。

 どこの国か?

 → 脚註でベトナムとわかる。

 直前の寄港地はどこか?

 → 「ブリンヂイシイ」だ。同じくこれはイタリアである。

 ここまでにどれほどの日時がかかっているか?

 → 「二十日あまり」とある。

 そもそもどこから旅立ったのか?

 → 留学先のドイツだ。スイスに言及しているので陸路でイタリアに向かい、そこから船に乗ったのだろう。

 どこへ向かうのか?

 → 日本だ。

 そしておそらくここは日本に向かう最後の寄港地であろう。「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来しころは」の一節は、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったことを示していると思われるし、ヨーロッパ―アジアの位置からしても、そう解釈するのが自然である。

 この地理関係から何が言えるか?


 日記を買ったのは「途に上りし時」だ。つまりドイツ出発時だ。

 つまり、日記を買ったものの書けないまま一ヶ月ほどが経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。

 この文章がある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれることが望ましい。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからである。

 「明日には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出す契機を与えているのである。


 「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いに対して授業者が用意している答えはつまりこういうことだ。

 セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導しているのである。

 そして語り手が書こうとしている手記こそ、この「舞姫」という小説そのものである。

 つまりこの冒頭の一文は、そこから始まる小説がまさに存在を始めるための契機に必然性を与えているのである。

 冒頭に置かれることがまことに腑に落ちる一文である。

2021年10月12日火曜日

舞姫 3 冒頭で提示される情報

 「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。


 班で検討しているうち、まずは「何のことか」についての了解が共有されるはずだ。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつくのである。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。

 さて、何のことか? 答えは次の通り。

船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わったということ

 話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではないのだ。確かに情報としてはこの一文ではまったく不充分だから、推測によって補う必要がある。


 「石炭をば」の「をば」は、現代語では、対象を示す格助詞「を」と題目を示す係助詞「は」が付いたものだから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭積み終えた」であるとともに「石炭積み終わった」というニュアンスでもある。

 「石炭を」だと、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。

 実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上でなお、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。

 だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。

 そして、「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭もう積み終わった。」のだ。

 同時に、「船は」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船石炭もう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとり」「熾熱灯の光晴れがましきも」と、実は主語が語り手ではない。


 さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分で自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。

 だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。

 問いというのは往々にしてその求める思考の範囲が曖昧なものだが、「なぜ」という問いもまた、限界がない。理由らしきことを言ってみても、それについてさらに「なぜ」という問いを発することができるからだ(子供のように。あるいは哲学者のように)。「なぜ」という問いは、問う側が納得してそれ以上の答えを制止することによって、元々求めていたものを示すしかないのである。

 「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いも、その問いの意図しているところが何なのか、どこに向かうべきか、どこに決着すべきかはわからない。

 そこでさらに問いを言い換える。

 「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと作者は言いたいのか?

 あるいは、この情報はどの情報と結びつけるとどういう「意味」を生むか?


 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次の2点。

  1. 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  2. 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。


 これらは面白い「鑑賞」でもあるが、同時に恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 例えば1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出すに船内を歩き回って、作業の終了を「視た」ことがありえない、と断ずることはできない。夕方、作業が終わったのを見届けて船室に戻り、手記を書き始めたのかもしれない。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れているのだし、食堂に行くくらいのことはあったろうから、そこから2~3時間ほど部屋にいたら、それをも「閉じこもっている」と言うべきだろうか。

 2について言えば、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由である。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なのではなく、「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかを考えようとしているのだから。


 冒頭の一文は、なぜここに置かれたのか? その意味する情報によって、読者にどのような解釈を迫っているのか?


2021年10月11日月曜日

舞姫 2 石炭を積み終える

 「舞姫」全編を、2頁ほどで区切って章立てし、各章を3文で要約しながら読み進める。

 だが最も難しいのは最初の章段だ。物語が動き始めてしまえばずっと楽になるのだが、最初はまず物語の世界設定の把握に難渋する。


 例えば冒頭の2頁程でいうと、次のような要約が考えられる。

  1.  筆者は港に停留した船の中でこれ(日記)を書いている。
  2.  ドイツから日本に向かっている船である。
  3.  筆者にはある「恨み」があり、それが筆がすすまない原因でありながらも、それこそを消そうとして筆を執っている。

 もちろん要約に正解はないから、これ以外の内容を含む3文になってもいい。

 とはいえ、この章の要約は難しい。上のような要約をすらすらと思いつくのは相当な国語力の持ち主だ。三つのトピックとして何を選ぶか。特に、三つ目の内容は容易には出てこないだろう。要約として思いつくかどうか以前に、そうであることを読み取るのが難しいかもしれない。

 だがこれは重要な要件でもある。

 ここで「日記」と呼ばれているものが「舞姫」という小説自体であり、つまりここまでは「舞姫」という小説を支える基本設定が述べられているのである。その中で三つ目は、いわば執筆動機だ。その重要性は論を俟たない。


 さて、読み進めながら、そこまでの時点で考察すべき問題については、随時考察をしていく、と述べた。

 その最初のテーマは、「石炭をばはや積み果てつ。」という冒頭の一文である。

 この冒頭の一文は何のことを言っているか?

 なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


 実はこの問いは、もともと授業者が生徒から質問されたものだ。問われて初めてこの一文が何を意味しているかについて、自分がまるで考えていなかったことに気づいた。それまでに何度も「舞姫」を読んだことがあったばかりでなく、複数学年で授業をしたことさえあったのに、である。

 といって、まったく意味がわからないと感じるのであればそれはそれで読者の注意を引く必然性が生ずるから、授業者とてそれなりの「意味」を受け取っていたには違いない。わかっている「つもり」になっていたのだ。

 「意味」というのは、口語訳、ということではない。口語訳は「石炭はもう積み終えた。」ほどにしておく。文末の「た」は過去ではなく完了だ。

 問題はこれがどのような事態を示しているか、だ。

 授業者はこの一文から、船室に石炭ストーブがあって、燃料として各室に割り当てられている石炭を置き場所に積み上げるか、すべてストーブに入れてしまったというような状況をイメージしていた。もちろん「積む」という動詞が「ストーブに入れる」というような意味に解釈できるかどうかは知らず、そこは当時の言い回しとして現代語との違いがあるのかも、などと自らを誤魔化し、つまり曖昧なままその解釈を放置していたのだ。

 今となっては馬鹿馬鹿しいこうした解釈がなぜ成立したかについては自分なりに推測できる。

 まず、冒頭の一文で述語となる「積み果てつ」に含まれる「積む」という行為の主語を語り手であると想定するからである。省略された主語が「私」=語り手であると想定するのは自然だ。

 それだけではない。解釈とは基本的に文脈において生ずる意味を捉える思考だ。冒頭の一文に続くのは「中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。」という船室の描写である。だから石炭を積み終えるという事態も、船室で生じた出来事、つまり語り手のいる場所で為した何事かの行為であろうと考えたのだ。


 石炭ストーブの燃料を棚に積んだ(もしくは、全てくべてしまった)から何だというのか?

 それはつまり、やがてそれが燃え尽きた後の寒さが予感されている、ということなのだろう、というのが漠然とした理解だった。

 だが生徒の問いを前にしてあらためて考えたときに、そうではない、と気づくのは、それでは「意味」が充分にはわからないからだ。この「意味」とは、もっと広い「文脈」におけるそれだ。

 問いの「何のことか」と「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」は、この「文脈の中で生ずる意味」についての考察を要求している。「何のことか」についての仮説は「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」まで結びついたときに納得に変わる。「船室の石炭ストーブ」解釈は、その文脈を見出せないことによって挫折する。


 これら二つの問いは、去年の「こころ」でいえば、上野公園の散歩の晩のKの謎めいた言動について、次の二つの問いに分けて考えたことに似ている。

  • Kは何のために「私」に声をかけたか?
  • このエピソードは何を意味しているか?

 また、今年で言えば「羅生門」における次の二つの問いにも。

  • 下人はなぜ引剥ぎをしたか?
  • この小説は何を主題とするか?

 階層の異なる二つの疑問は相補的である。互いがそれぞれ相手を支えるようにして整合的な論理を組み上げたときに、腑に落ちるように納得されるはずである。


 果たして「舞姫」冒頭の一文は何を意味しているか?


2021年10月1日金曜日

舞姫 1 読み進める

 後期は、今年度最後の授業までかけて森鷗外の「舞姫」を読む。

 漱石の「こころ」も、同じくらいの時間をかけて読んだ。あの難問群の数々を考察するためには、それだけの時間が必要だったのだ。そうした考察を積み重ねて、最後に見えてきた光景が、最初の時とはどれほど違ったものになったか、みんな覚えていると思う。
 「舞姫」もまた、考えれば考えるほどに問題が発見されるはずの、同様に濃密なテキストではある。だが、その扱いは「こころ」とは些か異なる。
 授業前に全文通読を指示した「こころ」と違って、「舞姫」は授業中に全文に目を通す。
 ほぼ現在の口語と変わらない「こころ」と違って、それより四半世紀近く前に書かれた「舞姫」は、擬古文と呼ばれる文語文で書かれている。
 当時、言文一致運動は試行の直中にあり、鷗外もまた言文一致体=口語による文章も書いていたが「舞姫」は試行中の口語文ではなく、歴史のある文語の規則に従って書かれている。
 仮名遣いこそ現代仮名遣いにあらためたものが教科書に載っているのだが、この長さの文語文をすらすらと読み進めて内容を把握するのは、正直キツいはずだ。
 そこで、授業中に全文を通読する
 勿論、自主的に時間を設けてあらかじめ通読してから授業に臨むのは結構なことだ。だが全体としては授業中に冒頭から順に本文を読み進めて、途中、そこで考察すべき問題をその時点で考察する。全体を読んでいる前提で、本文の順にとらわれずに考察すべき問題を全体の中から取り上げた「こころ」とは、読解の手順が随分違う。

 といって、細かい意味を解説していくとなると、ほとんど古文の授業のようになってしまいかねない。文語文法に正確に則って書かれた「舞姫」は、むしろ文語助動詞現古異義語禁止の副詞係り結びの逆接用法など、古文の学習教材として恰好な素材とさえ言ってもいい(一橋出題の近代文読解の練習にもなる)。
 だがそれには「舞姫」は長すぎる。ここはあくまで小説読解の教材として「舞姫」を扱いたい。授業者による解説を最小限にしつつ、できるだけ早く内容把握を促し、考察したい問題に焦点を絞りたい。
 そこで、次のような手順で本文を読み進める。

  1. 予め授業者の方で「舞姫」全体を14の章に分割しておく。各章は内容的に切りのいい、2頁程度の長さ。
  2. 授業者が口語訳を朗読する。みんなは朗読を聴きながら本文を目で追って、文語と口語を対応させる。
  3. 1章分2頁程度の口語訳を読み終えたら、その章の内容を3文の箇条書きで要約する。

 3の「要約」は、なるべく簡潔な、単文にする。「単文」というのは、主語述語の組合わせが一つだけの文のことだ。主語述語に、必要な形容や目的語などを加えて、5文節くらいにまとめる。あるいはノートで1行くらいの見当にしておく。
 これを三つ、3文で各章を要約する。本文2頁をノートに3~4行。

 これはつまり、その2頁ほどの内容から、重要と思われるトピックを三つ選べ、という課題だ。
 「物語の展開」「状況説明」「登場人物の行動」「心理」などの小説を構成する要素のうち、その2頁ほどの長さの文章中で押さえておくべき要素は何と何かを判断し、三つを選んで文にする。
 むろん「三つ」という限定は少なすぎると感ずる。だが、とにかく、優先順位の高いトピックを三つ選ぶ。その優先順位を勘案しようとすることが、その該当部分の全体を捉えようという思考になる。だから要約文としての完成度は必ずしも高くなくて良い。言い足りないままでも良い。

 要約文は、頭の中で考えるだけでなく、必ず書く。3行×14章=42行、大学ノートは1頁に40行近く罫線が引かれているから、充分な余白を設けて、後から書き込みができるようにしても、最終的にノート2頁くらいで、「舞姫」全文を要約することになる。

 各章の要約を始めたら、みんなが3文を書き終わらないうちに誰かを指名して1文ずつ発表させる。的確な3文が並んだら、3人が発表して終わりだ。押さえておきたい内容が出揃わなかったら4人目、5人目を指名する。
 発表を待って自分の要約を書くのではなく、発表と並行して書き進め、3文が出揃うまでに自分も書き終えるようにする。
 2~3頁につき、このサイクルを15分程度で繰り返すと、1時限で3回、7~8頁読み進めることになる。そうして「舞姫」を読み終えるのに、正味4時限程度を要する。
 だが先述の通り、全文を通読してから読解するのではなく、読み進めながら、その時点で考えるべきことを考えていく。例によって「部分的な読解」だ。
 いくつかの場面でこうした読解/考察をはさんでいくと、最終的に全編を読み終えるまでに10時限くらいかかる。

 それからやっと「舞姫」という小説全体を考察する。

 授業で読み進めている部分より先を自主的に読み進めるのは、むろんかまわない。
 むしろ、授業時に口語訳を聴くときに初めて本文を見るのは勿体ない。先に自分で原文を読んでおいた方が学習になるのはもちろんだ。なるべく速度を上げて文語文に目を通し、かつ的確に意味を把握する訓練は、多いほど良い。
 そこで、せめて各授業の前の休み時間には、授業で読んだところの続きに目を通しておく習慣を作ってほしい。
 5分でいい。その姿勢が、授業の学習効果を高める。

 ずっしりと手応えのあるこの文学史上に残る記念碑的作品を、長い時間をかけて読み進めていった先に、今度はどんな光景がひろがるか。
 みんなで一緒にそれを見たい。

2021年9月27日月曜日

虚ろなまなざし 8 主張

 「暴力的な主体化の問題性」というフレーズには、この文章全体で語られる問題群が凝縮している。だから4~5回の授業は、この問いについて考えるだけで終わった。

 だが、前々回で示した「暴力」と「主体化」と「問題性」の因果関係の循環構造そのものを岡真理が示したかったとすると、この文章はあまりにわかりにくすぎる。

 すなわちそれはこの文章が、それそのものを読者に提示することを目的にしていないことを示す。

 読者の方で再構成したのが前回の構造図であって、それを読者に示すつもりなら、岡真理はもっと手際よく、わかりやすく書くはずだ。

 つまりこれは岡真理の主張の背景となる認識であって、この文章の主張そのものではない。

 では何を主張しているのか?


 しかしこれは、今回のシリーズの第1回で言及したように、うっかりすると安易な解釈の罠にはまってしまう。

 例えば、「私たち自身の加害者性を隠蔽する」ことが問題だと岡真理は言う。ということは、私たちは自らの加害者性を自覚することが大切なのだ、と岡真理は主張していることになるのか?

 それは確かに間違ってはいない。だが彼女はそのように表現されるお説教くさいお題目を唱えたいのか?

 あるいは世界のニュースを「他人事のように忘却している」姿勢が批判的に述べられている。ならば、少女についても自分のことのように考えるべきなのか?

 だがそのような主張がカメラマンを死に追いやる「文字どおりの暴力性」を生んだのではないか?


 「虚ろなまなざし」という奇妙な題名の文章が何を主張しているかということは、実は授業者にとっても難問だった。というか正直に言えば、以前、授業で取り上げる前には、この文章は何が言いたいかわからないと感じていた。

 それが腑に落ちたのは柄谷行人「場所と経験」と近い時期に読んで、両者が結びついたときだった。

 二人がそれぞれの文章で主張していることは、実は同じなのだと気づいたのだ。


 柄谷の主張を端的に言うならば「視たものだけを視たと言え」である。

 これを言い換えると「視たものにもっともらしい意味づけをするな」である。

 岡真理は何を主張しているか。

 「『それ』を恣意的に主体化するな」である。

 「それ」の主体化がカメラマンを殺し、私たち自身の加害者性の隠蔽を招いているのである。

 両者は同じことだ。つまり 意味づけ=主体化 である。

 物言わぬ少女に声を当てることは、恣意的な「解釈」(小林秀雄)である。つまり、声を当てる=「主体化」は、「解釈」=「意味づけ」なのである。


 とすると、題名の「虚ろなまなざし=それ」は「場所と経験」では何にあたるか?

 いったん比較してみようという目で眺めてみれば、「虚ろなまなざし」の中の例えば〈私たちは「それ」を、この世界の中に、私たちとの関係性の中に―肯定的であれ否定的であれ―位置づける〉などという表現が、「意味づけ」「解釈」などといったかたちで柄谷、小林によって繰り返されていたことがただちに見てとれる。

 柄谷は「意味づけ」の動機を〈もっともらしさを確保したい〉と言うが、それを岡は〈まなざしのその「虚ろさ」、意味の欠如、それが私たちを不安にする。〉と強調しながら反復する。

 〈そこにあってしかるべき、『恐怖』や『苦痛』といった感情が表明されていないこと〉に耐えがたい我々は〈語れない少女に代わって〉少女の感じているであろう「恐怖」や「苦痛」を語らずにいられない。そうして語ることは、柄谷のいう〈知ったような気になっている〉ということだ。

 ということは、〈私たちが読み取り、同一化することのできるような、いっさいの意味を欠いていること〉=〈「それ」がまさに「それ」でしかないこと〉=「虚ろなまなざし」は柄谷の文中の「生きた他者」に他ならない。

 「他者」とは「こちらの理解を超えた相手」という意味だ。

 つまり「虚ろなまなざし」の持つ「他者性」が、我々に「暴力的」に「トラウマ」を与えるのである。トラウマを負った者は、少女を「主体化」して、その声を代弁することで何とか快復をはかろうとする。「それ」と対峙する不安に耐えられない我々は「暴力的な主体化」によって立ち上がる。「暴力」を受けた者が、その「暴力」を避けようとして、気づかずに「暴力」をふるう側に回る。

 そうした「主体化」を拒む者こそ「視たものだけを視たという」者である。つまり岡真理の言っているのは、単純に言ってしまえば、こうした「暴力」に負けずに「それ」を直視せよ、ということだ。

 そして〈そこから出発するほかに、どうして「文学」が可能だろうか〉と柄谷が言うように、アラブ文学者である岡真理もまた「それ」を「それ」のままに描くことこそが「文学」だと言うにちがいない(「棗椰子の木陰の文学」はそう言っているのだ)。

 柄谷「場所と」や小林「無常と」の中ではこの苛烈さは特に強調されてはいないが、その困難に向かって柄谷も小林も声を上げていることは間違いない。柄谷が「視たものだけを視たと言え」というのも、小林が「解釈せずに思い出せ」というのも「『それ』を『それ』として見ろ」と岡が言うのと同じことだ。それを実行する困難こそ、これらの論者が共通して言挙げしていることなのだ。


 ここでもまた、それぞれの文章の主張を同じ型の文におさめることで、それらがそれぞれに違った言葉で、同じことを言っていることが感じ取れる。

 これは決して単なる言葉遊びでもなければ牽強付会でもない。こうして語りながら、不断に元の、それぞれの文章との比較によって生ずる違和感を測りながら細かく修正していく。そのとき、読み比べることはそれぞれの原文の真摯な読解だ。

 同時に、そうした読み比べによって、始めてこれらの論者の問題意識が確かな手応えで捉えられるのである。


虚ろなまなざし 7 加害性の隠蔽

 一つのフレーズから文章全体を把握するという方法で「虚ろなまなざし」を読解してきたが、「問題性」の一つとして取り出した「私たち自身の加害性の隠蔽」は、若干立ち入って考察する必要がある。

 一方でこれは、文中では殊更に詳しく説明されているとも言い難い。わかる人はわかるはずだ、という、読者に対する筆者の信頼が、余計な説明を省いている。

 例えば説明と言うより言い換えにあたるのは次のような表現だ。

他ならぬ私たち自身が「それ」の苦痛の元凶である

 これだけの前振りを元に「私たち自身の加害性」を理解するのは難しい。

 だがこれより後でもう一度次のように言い換えられる。

南北構造を固定化する世界システムの中で飽食している私たち自身の姿

 ここで「なるほど」と思えなければ、もう文中の説明によってはこれ以上この表現を理解することはできない。

 つまり問題を「南北構造」で言うならば、豊かな「北」側に属する我々は、搾取される「南」側に属している人々、例えば写真の「少女」に対して、自覚の有無にかかわらず「加害者」なのだ、と言っているのである。構造的な加害ー被害の関係の中で、我々が加害側にいる、ということだ。

 これは国語科の問題というより社会科の扱うべき問題だ。


 さらに、なぜこの加害者性が「隠蔽」されるのか?

 こちらは国語科の問題だ。この文章から読み取らなければならない。

 「隠蔽」は「かき消されてしまう」と言い換えられているから、その文の前半「難民の少女に被害者として同一化して、カメラマンを非難することで」がその機制を説明しているわけだが、これがどうして「隠蔽」につながるのかは、またしても読者の理解に委ねられていて、これ以上に詳しい説明はない。

 だがむろん、こんなことはわからなければならない。

 だが求められる「国語力」とは、これを「理解」することより「説明」することにある。

 この点については授業で、想定外の「説明」が提示された。「カメラマンを非難する」からだ、というのだ。どういうことか?

 つまりカメラマンを「加害者」として攻撃することで、自分たちの「加害者」責任が転嫁される、というのだ。

 だがなぜカメラマンが「加害者」なのか?

 つまりこのカメラマンは「傍観者」なのだ。なるほど、傍観者も加害者の仲間だ、などという言い方は、「いじめ」についての言説の中でしばしば目にする。

 とすると、私たちもまた「傍観者」に過ぎないという点でカメラマンと同じだったはずなのに、そのカメラマンを非難することで、自らの「傍観者=加害者」性を忘れてしまう、と。

 なるほど。理屈は立つ。

 だがこれは想定外の「説明」だった。まっとうな「説明」はこうではない。

 むしろその前半「難民の少女に被害者として同一化して」の部分こそ、この文章が取り上げている問題である。

 この文章の肝は「主体化」だ。

 前述の通り「主体化」はいくつもの意味を重ねて含み持つが、さしあたって「少女を語る主体にする」のことだとしよう。

 だが実際は少女は語っていない。少女が語っているかのように当てられているのは、実は我々自身の声だ。

 つまり我々は少女を「主体化」することで自身を「被害者として同一化して」しまうのだ。自分が「被害者」になってしまうのだから、「加害者」であることは見えなくなる。

 これが「加害者性の隠蔽」を生む機制の、端的な「説明」である。

 この「説明」に向かって、まっすぐに言葉を組み立てられた者こそ、高い国語力をもっているといえる(それぞれのクラスでそれをなしえた者たちこそ)。

 学習とは「わかる」ことではない。「できる」ようになることだ。


虚ろなまなざし 6 継起順に並べる

 「暴力的な主体化の問題性」を考えるにあたって、「主体化」を解釈する上で分岐する3つの意味、「問題性」を解釈する上で分岐する3つの意味、「暴力的」を解釈する上で分岐する4つの意味について確認した。


主体化

①「それ」が私たちを語る主体にする

②「それ」が私たちを行動する主体にする

③私たちが「それ」を語る主体にする


問題性

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


暴力

ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち

イ 状況(世界)→少女

ウ 運動(私たち)→カメラマン

エ 私たち→少女


 これらはそれぞれ、文章全体のあちこちで反復される。だからどれも無視することはできない。筆者はそれぞれの言葉にそれぞれの意味を含意していると考えられる。

 では、問題の「暴力的な主体化の問題性」というフレーズを全体として説明するために、どのような方法が可能か?


 アイデアの一つが、これらを因果関係によって継起順に並べてみよう、というものだ。

 その際、起点に置くべきなのは主体化? 問題? 暴力?


 粘り強くこれらの因果関係をたどってみれば、「暴力」のイがこうした複雑な事態の出発点にあることがわかるはずだ。

イ 状況(世界)→少女

 暴力を受けた少女から「それ」=「虚ろなまなざし」が生まれる。

 カメラマンがそれを写真に収め、世界に発信する。

 それを見た我々がトラウマを受ける。

       ↓

ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち

 私たちは耐えきれず「それ」を語る主体にする(③)。

 だがそれは彼女たちの声を奪うことに等しい。

エ 私たち→少女

B.少女の声の可能性の抑圧

       ↓

 同時に、少女を主体化することは実は私たちが彼女に代わって主体になることに等しい(①)。

 かわいそうな少女に代わって語る主体になることは、ただちに彼女を救うための行動する主体になることでもある(②)。

 そして、そうした運動の中で、時にはかわいそうなカメラマンを追い詰めてしまう。

       ↓

ウ 運動(私たち)→カメラマン

A.文字どおりの暴力性

       ↓

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


 こうして、すべての「暴力」「主体化」「問題性」を網羅した因果関係をたどった果てに置かれるCは、出発点のイにかえっていく。なぜなら「加害者性」というときの「加害」こそイの「暴力」なのだから。

 出発点のイが隠蔽されることで、この構造は解決に向かわずにループする。

 「暴力的な主体化の問題性」という一節が示すのは、以上のような循環構造である。

 それで、どうだと岡真理は言うのか?


虚ろなまなざし 5 様々な「暴力」

 さて、問題の一節で「主体化」に付せられた「暴力的」という形容も、何のことかわかりにくい。

 何らかの暴力が存在するとして、その暴力は「主体化」にとってどのような関係になっているのか? どのような関係になっていることを「~的」という形容で表わしているのか?

 「的」とは曖昧な形容だ。「暴力」と「主体化」の関係をどのように考えたらいいか。

 さしあたってこう考えよう。

 その暴力の「方向」(文法でいう「敬意の方向」的な)を明らかにしよう。それは誰の誰に対する暴力なのか。

 また、その暴力は「主体化」という変化に対して、「原因」となるのか「結果」なのか、あるいは「主体化」というプロセス自体が「暴力的」と形容するしかないような変化なのか。


 授業では、さしあたって三箇所の「暴力」の記述について注目し、それぞれがどのような暴力なのか(誰の誰に対する暴力なのか)を確認した後、その継起の順番を考えた。次の三箇所だ。


a 難民の子どもの、その虚ろなまなざしである。そのような視線にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に。

b そのまなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいるからではない。

c なぜ私たちは、意味づけられない空洞が、かくも耐えがたいのか、一人の人間を暴力的に死に追い込むほどまでに?


 それぞれの「暴力」の方向を確認しよう。

  • ア 「それ(虚ろなまなざし)」→私たち
  • イ 状況(世界)→少女
  • ウ 運動(私たち)→カメラマン

 aの「暴力的」はその「主体化」が引き起こす結果としての暴力、すなわちcをも指している形容だとも考えられるが、さしあたりcとは別の、原因となる暴力をとりあげている。またcの「耐えがたい」はaの「トラウマ」を生み出す情動だが、ここでの「暴力」はカメラマンを「死に追い込む」ものを指していると捉えておく。


 これらの「暴力」は先の「問題性」ABCとどのように対応しているか?

A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽

 Aはウのことだ。

 Bはアイウのいずれでもない。だが「抑圧」と言い、「可能性を全て奪う」という表現で繰り返されているBもまた明らかに「暴力」だと筆者には捉えられているはずだ。これをエとして取り立てておこう。

エ 私たち→少女

 Cの「隠蔽」は暴力ではないが「加害者性」の「加害」は暴力を指しているから、Cはつまり暴力が隠蔽されるのは「問題」だと言っていることになる。そしてその「加害」=「暴力」はイのことでもある(ここは直観的に「そうか」と思えることが求められる。同時に、「なぜ?」という保留も必要だ)。

 アはABCいずれの「問題」にも対応していないが、この一節の「暴力的」という形容は実はアを最も強く念頭に置いて付せられているとも言える(これは、ここを考える上での本質的な問題なので、後でまた論ずる)。


 さて、これらの「暴力」と「問題」、そして「主体化」は、どのような関係になっているか?


2021年9月12日日曜日

虚ろなまなざし 4 様々な「問題性」

 「暴力的な主体化」という表現を解釈するために、文中に現われる「主体」「暴力」といった表現を追ってみた。それらは単一の解釈を容易には成立させてくれない。


 まず「主体化」という名詞が「主体になる/主体にする」という二つの解釈の可能性に分岐し、それぞれの主語と目的語が2つずつ考えられることから、4つの解釈ができると先に述べた。

 だが「AがBを主体にする」ことは「Bが主体になる」ということだから、実はこの「なる/する」は裏表で一つと考えられる。となると問題は主語の二択だ。

 そしてどのような行為の「主体」なのかという点で「語る/行動する」という解釈の分岐の可能性が見えてきた。

 となると主語の二択と行為の二択で、組合わせはやはり4通りだ。

①「それ」が私たちを語る主体にする

②「それ」が私たちを行動する主体にする

③私たちが「それ」を語る主体にする

④私たちが「それ」を行動する主体にする

 このうち④はどのような事態なのかを想定することはできない。したがって、実際に考えられる「主体化」の分岐は①~③の3つだ。


 さらに「暴力的な主体化の問題性」を解釈する際には次のような問題がある。

 「…問題性とは」に続く部分を段落末まで読んでみる。

 すると「…というだけではない。」というフレーズがある。並列を表わす表現だ。そこに並列されているはずの論点の一つ目は明らかだ。

  • 人を時に死に至らしめるほどの、文字どおりの暴力性

 さらに「というだけではない」というだけではなく、そのあとにまた「と同時に」という語句による並列が示される。

 つまり「暴力的な主体化の問題性」とは、「 A というだけでなく B と同時に C でもある」といっているのだが、この二重の並列をどう整理するか?


 ひとまずは「と同時に」に示される並列を整理してみよう。

B 私たちが恣意的に投影した私たちの声が「それ」の声となってしまうことで、もしかしたら、そうではないかもしれない、ほかのさまざまな声の可能性を抑圧してしまう

C 私たちが被害者として同一化することで、もし、私たち自身が加害者であった場合に、その加害性を都合よく隠蔽することにもなってしまう


 「というだけではない」の前の部分をAとし、上記BCの抽象度を高めた表現を考えて、並べてみる。


A.文字どおりの暴力性

B.少女の声の可能性の抑圧

C.私たち自身の加害者性の隠蔽


 さて、これらABCの「問題」は、どのような関係になっており、それは「暴力的な主体化」とどのような関係になっているか?


虚ろなまなざし 3 様々な「主体化」

 「暴力的な主体化の問題性」とは何か?


 まず「主体化」の意味を捉えるために本文の他の部分を参照する。

 同じページのここより前の部分に「少女に代わって、少女の恐怖を語る主体になる」という一節がある。

 「主体になる」のは誰か?

 「私たち」である。

 何の「主体」?

 「語る主体」である。

 そして問題の箇所を前から引用すれば、次の通りである。

 「それ」による私たちの暴力的な主体化の問題性

 ということは、「それ」が「私たち」を「主体化」するのである。少女の声を「語る主体」にするのである。

 ここにどのような「暴力性」を見出すべきか?


 文章中の文言の解釈は、前の部分からのみ為されるべきものではない。後ろの部分との整合性もまた保障される必要がある。

 次のページには次のような一節がある。

(アフリカの難民の子どもの、その虚ろなまなざし)にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。そして、私たちを主体化する――暴力的に

 ここでもやはり「それ」が私たちを「主体化」する、という。そしてその主体化が「暴力的」なのだ。なにせ「トラウマとなる」のだから。


 だがその直後には次の表現もある。

その(少女の)まなざしが、自分の身にふりかかる圧倒的な暴力に対して耐えがたい苦痛を無言のうちに叫んでいる

 この「暴力」は少女が状況からふるわれる「暴力」だ。暴力を受けているのは少女だ。

 この「暴力」は先の「私自身の加害者性」に通じるように思えるが、そうなると上の「私たちを主体化」することが「暴力的」だというのとまるで違っているように見える。


 だがまた一方でその直前には次の表現もある。

  • 私たちを突如、行動する主体へとかりたてる

 「語る主体」と「行動する主体」は同じと見なしていいのか?


 さらに引用する。

  • 「それ」が、それ自身の、語りの主体になってくれること
  • 「それ」が決して主体―Subject―主語の位置を占めないこと
  • 私たちが「それ」に、声なき声を聴き取ることで、「それ」は「それ」であることをやめ、主体化される

 これらは全て「語る主体」のことだが、ここでは語るのは少女である。

 さっきは私たちが語るのではなかったか?


 そういったそばから次のような表現が頻出する。

  • 「それ」を主体化すべく私たち行動する
  • 私たちをこのように行動する主体に駆りたてる

 ここでは「行動する主体」のことであり、行動するのは「私たち」だ。


 いったいどうなっているのだろう?