2021年5月21日金曜日

「本当の自分」幻想 1 共通点と相違点

 ここに平野啓一郎「『本当の自分』幻想」をぶつける。

 1学年の「国語総合」の教科書に収録されていた文章だが、授業で詳細に読解したというわけでもないらしく、皆、見覚えはあるが内容はどうだったか、といった曖昧な反応だった。


 題名の通り、これは「自分」論だから、鷲田-斎藤ラインには載ってくるが、丸山真男にはやや縁遠い。とはいえ「である/する」は考える/語る枠組みとして使い回せばいいのだ。


 対応関係を探るというのが毎度のパターンだが、読んでみると、今回は相違点が意識されてこないだろうか?

 特に主張の方向性が見易い斎藤「『キャラ』化した若者たち」と比較したい気がする。

 とはいえ「相違」として意識されるのは、共通した土俵で比較するからだ。だからまずは共通点、共通認識を明らかにして、その上で相違点を探る。


 共通点/相違点、どちらも抽象化の能力が問われる。それぞれの文章の言葉のままでは、同じとも違うとも言えない。

 むしろ、同じ言葉が使われていても、それが文中の使われ方によって定義される意味合いが違えば、そのままで「相違」とも言えるし、だからといって主張が「相違」しているとは言えないのだ。

 例えば平野は

キャラという比喩は…インタラクティブでない印象を与える

というが、斎藤は

「キャラ」を維持させてくれるのが、コミュニケーションの力なのである

という。

 「インタラクティブ(相互的)」と「コミュニケーション」を同じ趣旨だとみなすと、まるで正反対のことを言っているように見えるが、これは見解が相違しているというより、「キャラ」という言葉の文中での使い方が違うのだと感じられる。

 平野の文中から、上の斎藤の言葉に近い意味合いの一節を抜き出すなら「分人は…相手との相互作用の中で生ずる」だろう。

 ここでは「コミュニケーション」と「インタラクティブ・相互作用」を同じものとみなしているのだから、斎藤の「キャラ」と平野の「分人」が対応していると考えられるわけだ。


 上の認識の前提として、次の記述を共通性として挙げた班があった。

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない

 そこから次の認識に至るわけだ。

平野 「分人」は他者との相互作用で生ずる

斎藤 「キャラ」は相手とのコミュニケーションで維持される


 ここでの抽象化とは、文型を揃えて、そこで対応する成分を交換可能と見なせるかどうかを検討するということだ。

 これらの対応を認めるならば、まずは二人には共通した認識があるということになる。


 さてその上で相違点をどう抽象化するか?

平野 「分人」は流動的・可変的

斎藤 「キャラ」は同一性の維持こそが目的(固定化を指向する)


平野 「分人」こそ自分自身

斎藤 「キャラ」は偽の自分


 さらに平野は「分人」という概念を肯定的に提起しているが、斎藤は「キャラ」の負の面を描写している。


 まずはこうした共通点と相違点の把握が妥当なものかを疑うことも必要だ。抽象化の過程で、不適切な言い換えをしていないか?

 そのうえで、これを認めるとして、次はこの相違について、皆の賛否を問いたい。

 もちろん心情的な共感というだけでなく、それぞれの論の論理をたどり直して、その適否を問題にするのである。

 そこに何が見えてくるか?


2021年5月14日金曜日

「キャラ」化する若者たち 4 「再帰的」とは?

 さて、大きな認識の枠組みとして、斎藤・鷲田・丸山に共通する構造があることを見てきた。

 近代化する中で見失われそうな「自己」への不安が、他者とのコミュニケーションを求める。他者の承認によってかろうじて「自己」が確かめられる。

 そうした「自己」を安定させるコミュニケーションを、斎藤は「再帰的コミュニケーション」と呼ぶ。

 再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するとはどういうことか?

 そもそも「再帰的」とはどういう概念か?


 なんとページを捲った22ページに語注がある。なぜ初出の20頁に置かない? 余白の問題だろうか。

 ともあれ、ここには「自己言及的なコミュニケーションのこと」とある。辞書的な説明はそうだ。

 だが「自己言及的」も同様にわかりにくいのではなかろうか。語注のそれ以降の説明もちょっと怪しい。

 付属の解説小冊子でも、「再帰的自己同一性」について「他者とのコミュニケーションの中で自らそのキャラを演じ続けるという自己言及」などと説明しているが、これが間違っているとは言わないが、どうも「自己言及的」の「自己」を、演じる本人、「自分」のことだと思っているんじゃないかという感じもする。怪しい。


 「再帰的」も「自己言及性」も、昨年の「山月記」で触れている。李徴が「虎になった」メカニズムを説明する際に使った概念だ。各クラスでこれをすぐに想起できたのは数少ない人たちだけだが、学習が定着していて嬉しい。

 補助線として「鶏が先か、卵が先か」のパラドクスや、フラクタル図形の作り方を「再帰的」の例として参照することもヒントとした。


 「再帰的」「自己言及性」「鶏が先か、卵が先か」「フラクタル図形」の四つに共通する性質を2点挙げる。

 こういう時に必要とされるのがまたしても抽象化の能力だ。


 上の四つに共通する性質は次のように表せる。

結果が原因に帰って循環する。

 結果が原因に「帰」って、「再」び原因となる。原因も結果もそれ自身の一部だから、それを指して「自己」と言っているのであり、原因が結果を一部として含んでいることを「言及」と言っているのだ。

 卵から鶏が生まれるのだから卵が「原因」、鶏が「結果」だが、その鶏が卵を産むのだから、鶏が「原因」で卵が「結果」だとも言える。循環の中ではどちらもが原因とも結果とも言える。

 図形の細部に、図形全体と同じ形のミニチュアが描き込まれている。ミニチュアの細部にはさらに小さな全体図が描き込まれている。どれが元(原因)なのかコピー(結果)なのか決定できない。細部にそれ自身の全体が再現されている(自己言及)。フラクタル図形とはそのような図形だ。

 このメカニズムを上記の「キャラの同一性」に適用する。


 あるふるまいを相手に「お前って陰キャだよね」と言われる。そうか、と自分でも思う。そうするとその相手には「陰キャ」としてふるまうようになる。そうするうちに「お前って陰キャだ」と言われ…。

 ふるまいが先か、キャラ認定が先か。


 「山月記」の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」もそうした再帰性をもった循環をつくる絶妙な設定だった。尊大だからこそ臆病になるのであり、そうした羞恥心が自尊心の満足を阻害する。互いが互いの原因であり結果であり…。


 再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するという仕組みを、スッと受け取るためには、こうした理解が予め必要であり、斎藤環はそれを読者に要求している。

 これは読者に対して不親切か?

 いやむしろ読者への信頼かもしれない。


「キャラ」化する若者たち 3 鷲田と斎藤の共通点

 対比図を画くことは、思考や議論の整理のためにきわめて有益だ。

 文中の語をマークするのは、文章を読み返す便を高めるが、ノートなどに書き出してレイアウトするのにはまた別の便益がある。全ての論理操作を頭の中だけでやろうとするのは無理がある。とりわけ、他人との議論においては、共有できる視覚情報があると便利なのは間違いない。

 そして、これは自分で画かなければならない。対比図を画くこと自体が学習だからであり、できあがったものは、まあそれを「使う」ならば良いが、それを「理解する」などというのは国語学習の目的ではない。したがって、黒板に画かれるのを待ってノートに写すなどというのは本末転倒である。


 さて、丸山の「である/する」図式は、左から右への移行を「近代化」と捉えていて、この推移は鷲田にも斎藤にも共通だ。

 尤も斎藤がそれを「近代化」と呼ぶ保証はない。文中では「多くの若者が(必然性への)〝信仰〟を捨てつつある」「諸般の事情から『すべては偶然』教の勢力が優勢である」という言葉で、左辺から右辺への移行を表現しているが、これを「近代化」と見なすのはこちらの解釈の仮説だ。


 「ぬくみ」の対比図と「『キャラ』化する若者たち」の対比図が、同じ軸に基づく対比なのだと見なせるなら、2人の認識は共通していると考えていいわけだ。

 例えば「キャラ」とは、友人との関係における「資格・条件」なのだと言えるのでは? 免許という資格があることによって自動車の運転が許されるように、ある人は「いじられキャラ」認定という「資格」を得ることで友人関係への参加が許されているのかもしれない。


 対比図とその対応が見渡せたことで最初の問い、二つの文章の主旨が共通していることが言えるかどうか、あらためて考える。

  • 若者はつながりを求めている。
  • 若者は「キャラ」化している。

 両者が共通していることを示すため、同じ言い方で両者に適用できる表現を考えてみる。

 上の二つの、原因は何か? なぜ「つながりを求めている」のか? なぜ「キャラ」化しているのか?

 もちろん「近代化」が原因だといえば共通していることになるのだが、「近代化」だと抽象度が高すぎて、まだ距離がある。「近代化」と上の二つの文をつなぐ抽象度の表現を考えたい。

 話し合いの断片を聞いていると、どちらかの文章の言葉をそのまま使っていて、「どちらでもない・どちらでもある」ような共通した表現にならない人もいるようだ。

 両方の文章の論理を辿って「つながりを求める」「『キャラ』化する」の直前に、共通する状況を表現してみる。次のような表現が想起できれば良い。

安定した自分の存在を見失っているから。

 「自分の存在」を「自己」「自我」「アイデンティティー」などの言葉に置き換えてもいい。

 こうした表現を案出する抽象化の能力は、思考力の重要な要素だ。


 もう一つ。上の二文に表われた鷲田と斎藤の認識が共通していることを示すため、それぞれの文が、実際にどのような「症状」の相似があるかを言い表してみよう。

 この問いは趣旨がわかりにくい。答えを一つに絞るような問いの形を提示できない。考える皆も、何を言えばいいか迷っている。

 「つながりを求める」「『キャラ』化する」が似ていると読者が感じるのはなぜか?

 読者は「近代化」という背景が共通しているから似ているなどと考えるわけではあるまい(そもそも斎藤は「近代化」などと言っていない)。2人の筆者が捉える若者の姿に、ある共通した気配を感じるから、2人の言っていることが共通していると、まず感じるはずなのだ。その相似に潜む共通性を言葉にしてみる。

 たとえばこんなふうに。

他者の承認を通じて自分の存在を確認しようとしている。

 実際にこれが二つの文章のどのような表現から読み取れるのか?

 「ぬくみ」でいえば「他者の意識の宛先として自分を感じる」「『自分の存在』を、私を私として名ざしする他者との関係の中に求める」といった一節が指摘できる。

 「『キャラ』化する」でいえば、「コミュニケーション」という語の頻出がそれを表わしている。「コミュニケーション」によって「自分の存在」を確かめようというのは、他者を通じた自己確認だ。

 これはひっくり返して言えば、どちらも、自分の存在を自分自身では確信できずに不安になっている、ということだ。これが「近代化」によって人々が陥っている状況だという認識において、二人は共通しているのである。


「キャラ」化する若者たち 2 対比図を作る

 鷲田の言う

若者は他人とのつながりを求めている。

と、斎藤の言う

若者は「キャラ」化している。

は、共通した認識を示しているのだろうか? また、それを「である/する」図式で語ることは可能だろうか?


 例えばこれらの文を「つなげる」ことはできる。言い換えたり、「つまり」「なぜなら」などの関係を示したりすれば、両者は容易につながる。

 だがそれが「つなげる」ことを目的とした恣意的な変形でないと、なぜ言えるのか? 関係づけることが自己目的化した短絡かもしれないではないか。

 一方で、それぞれの文章の論理をそれぞれの文章中の言葉で語ったら、それらは別々でしかない。表われた外見は違っている。確かに。

 だがそれらは本当に、単に関係のない別々の認識を示しているだけなのだろうか? 同一の構造の、別の断面を示している可能性はないのだろうか?


 例えば、上の二つの文の背景は、それぞれの筆者にどう把握されているか?

 それぞれの文を「症状」として見たとき、その「病因」はどのように語られているか?


 「ぬくみ」については、「『である』ことと『する』こと」との比較によって、その背景について、ある程度把握している。問題は今回読む斎藤だ。

 斎藤は「『キャラ』化する若者たち」で、若者たちが「キャラ化」するのはなぜだと論じているか?


 問題を構造化しておくと考えが整理され、語り合うためにも便利だ。

 ということで「『キャラ』化する若者たち」の対比をとろう。

 最初の2頁の見開きから、目立つ対比的キーワードを3組探そう。

 さらに、その対比軸にそって、いずれかの領域を特徴付ける形容や条件を挙げる。いつもの対比図作りだ。


 まずは3組。

    必然/偶然

   固有性/匿名性

キャラクター/キャラ


 これは文脈の論理から、いわば機械的に抽出できるはずだ。できなければならない。

 ここにさらにこの対比を特徴付ける形容を加えていく。一方に特徴的な形容が文中から見つかったら、もう一方は対義的に補う。

取り替えきかない/きく

   記述不可能/可能

   世界が一つ/複数

 これ以外に「運命/確率的」というのが対比的ではないかとの意見が各クラスで出た。離れたところにある二つの言葉なので、これを対にして挙げた者は論理の把握力が強い。これらは言葉の意味的にはまるで対義的な言葉ではないが、確かに文中では対比的な意味合いで配されている。

 一方「根拠がない/ある」と「信仰」も候補に挙がった。これらは冒頭で左辺を特徴付けるように読める。しかし次頁まで読むと、「いずれの信仰にも根拠がない」と言っているので、左辺/右辺によらないのだと読むべきだろう。

 もう一つ、気がつく者が少ないが、取り上げたかった言葉がある。各クラスでこれを挙げた者は誇って良い。

 幸福/不幸

である。

 本文では「必然」を信じられるのは「幸福」だと言っている。つまり右辺は「不幸」なのだ。


 さて、みんな薄々気づいているだろうが、この対比図は、「である/する」の対比だと理解することができる。

 とすれば「ぬくみ」の対比図とも、向きを揃えて並べることができるということになる。

 コンテキスト/自由な個人

このままの自分/資格・条件


 対比図を整理したら、鷲田と斎藤の認識が共通していることを語るのも大分楽になったはずだ。

 「このままの自分」は「『である』ことと『する』こと」の「かけがえのない個体性」との共通性を確認した。これはこのまま「取り替えのきかない固有性」と同じだと見なせる。

 「自由な個人」が「全てが『偶然』教」とどう共通しているのかは、にわかには語れない。が、そこに通じるものがあることは感じ取れるだろうか?

 また、「キャラ」と「資格・条件」が対応していることには容易に気づくが、それをどう変形していくと両者の共通性が示せるか?


2021年5月7日金曜日

「キャラ」化する若者たち 1 斎藤環参戦

 鷲田清一「ぬくみ」を、丸山真男「『である』ことと『する』こと」の枠組みを援用して読み解いてみた。

 ここに、「ちくま評論選」から、斎藤環の「『キャラ』化する若者たち」を加えて、さらに問題を考察してみよう。


 鷲田と丸山の論考の大きな違いは何か?

 見解の相違ということではなく、論点の重心の違い、といったようなものである。

 前項の通り「丸山=モダン/鷲田=ポストモダン」という相違がまずある。

 それ以外に、丸山が論じているのは社会の仕組みであり、鷲田の論じているのは個人の内面についてだ、という相違も挙げられる。

 この「社会/個人」という相違は、丸山が政治学者であり鷲田が哲学者であるという専門分野の違いからすればなるほどな感じがする。

 さて、斎藤環は何者か。精神科医である(ついでに筑波大の医学群の教授でもある。サブカルにも堪能で、もちろんエヴァ論もある)。

 ということでまずは当然鷲田の論との近親性が感じられる。

 だが、何事かを語るには「である/する」図式がやはり便利だ。言葉がシンプルで、かつ包括的だからだ。そうなると丸山との関係も視野に入れる必要がある。

 そして「近代」についての認識が共通していれば、それをベースにそれぞれの認識を比較することができる。


 さて、読み比べれば、様々な方向で、様々な切り口で、様々な論点について考察できる。たっぷり時間をとって話し合いをさせて、なるべく多くの発表をききたい。どこにどんな可能性があるか、それらをつぶさに見たい。


 が、共通した論点を示さないと授業としてはまとまりが悪い、とも言える。話題がそれぞれにばらばらでは噛み合わないかもしれない。

 そこでこちらで問いを立てる。


 「ぬくみ」を次のような一文で表現してみよう。

若者は他人とのつながりを求めている。

 同じく「『キャラ』化する若者たち」を一文にする。題名をそのまま文章の形にする。

若者は「キャラ」化している。

 もちろんこれは斎藤の論の入口に過ぎず、文章全体の趣旨を充分に酌んでいるとはいえないが、一文という限定の中ではまずまずの表現だろう。


 さてこれら二つの文を「つなげて」みよう。どちらから出発してもいい。言い換えたり、「なぜなら」や「つまり」で前後を補ったりしていくと、もう一方の文にたどりつくだろうか?

 それができるということはつまり、それぞれの一文で示された認識は、表われ・切り口は違うものの、同じ認識を示していると考えていいのだろうか?


ぬくみ 4 新たな「である」

 「ぬくみ」と「『である』ことと『する』こと」の語句の対応関係が出揃ったところで、「ぬくみ」の趣旨をもう一度「である/する」図式で語りおろしてみよう。

 近代は封建社会にあったさまざまな社会的コンテキストから人々を解き放った。そこではかつて「である」論理に人々を結びつけていた中間世界が消失して、人々は「自由な個人」となる。だが自由な社会で「資格・条件」といった「する」価値が求められるようになった人々は、かえって「このままの」自分の「である」価値を認めてもらいたくて、他人との「つながり」を求めるようになる。

 前項で挙げていない「中間世界」を使ってしまったが、これは何か?

 何の「中間」かといえば、社会と個人の「中間」ということだ。「中間世界」が社会と人々を結びつけていたのだから、これは「社会的コンテキスト」の言い換えであることがわかる。

 具体例は?

 「社会的コンテキスト」は例えば「地縁・血縁」なのだから、村落共同体や親族、職種毎の組合組織(古い起源の農協や漁協、職人組合)、宗教組織(教会や檀家)などを考えればいいだろう。

 つまり「社会的コンテキスト」=「中間組織」は、そこに所属することで人々にアイデンティティーを保障していたのだが、それが消失すると、「個人はその神経をじかに『社会』というものに接続させるような社会になっていった」。そのような個人は「漂流する」。


 こうした事態において何が起こるか?

 次の一節は、やや読みにくい印象もあるので、考察してみよう。

 この部分を「である/する」図式にあてはめるとどのように言えるか?

 そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化という形で大規模に、緻密に組織されていかざるをえず、そして個人はその中に緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。つまり、自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できないのだ。社会の中に自分が意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であって自分にとっての意味ではないらしいという感覚の中でしか確認できなくなっているのだ。

 「『自由な個人』が群れ集う都市生活」は、丸山が「赤の他人」が集まっていると表現する近代社会のことだし、社会が「システム化という形で大規模に、緻密に組織されてい」くというのは、「する」化しているということだと考えていい。

 なのにそこで起こる「つまり」以降のような事態は、奇妙に「である」論理に見えてこないだろうか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できない」も、わかったようなわからないようなモヤモヤ感がある。

 例えばここに、後から言及される「資格」の問題をからめて説明してみる。

 どんな資格を取るかは個人の自由な選択に任されている。だが、実は資格とは社会がその人の能力の適否についての決定権をもっているということなのだ。どのような能力を「資格」として認定するかも、どのような能力を求めるかも、社会側の都合だ。個人はそれに合わせるしかない。だからどの資格をとるかの選択権が個人の自由だとしても、結局は資格によって個人の価値が定められることは、「社会のほうから選択されている」ということなのだ。


 この、「する」化の果てに見えてくる光景がなぜ「である」社会のように感じられるのか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されている」の「つもりで」が逆接であるとすると、「自分で選択している」が「する」論理なのだから、「社会のほうから選択されている」が「である」なのではないか、それに「選択されて」という受身形も「である」論理っぽい、と言ったのはH組のYさんだ。鋭い指摘だ。

 丸山の「である」論理とは、封建的な身分制に代表されるような、既存の社会システムが所与のものとして人々にもたらされる状態を言っていた。そこに「安住」することなく、「不断の行使」によってそれを実効性のあるものとして機能させることが「する」論理だ。そこでは社会は創造したり変革したりするものとしてイメージされる。

 鷲田が上の一節で描写する社会のイメージは、そうしてみると随分と「である」的だ。社会が「する」論理になるほど、個人にとって社会は「既存・所与」のものであるような「である」的なものとして立ち上がってくる。

 このねじれはどう考えたらいいのか?


 これは、この部分の全段落の「中間世界の消失」からの論理の流れを読み取る必要がある。

 「中間世界の消失」は、個人に、直接社会と対峙することを強いる。

 そのとき、複雑化し、巨大化した社会は、個人にとって動かしがたい支配的な存在となる。そこには個人の自由はない。こうした「支配的」で「不自由」な存在は、かつての封建制や身分社会、村落共同体のように「である」論理によって人々を抑圧する。

 とすれば、そこに組み込まれていかざるをえない「社会システム」は、確かに「する」原理によって構築されていったはずなのに、個人から見ればやはり既存の存在であり、「不断の努力」などで我々「市民」が作り上げていくようなものではない。

 とすれば、これは「封建的」な「身分制度」に替わる、新たな「である」システムなのだと言ってもいいのかもしれない。


 こうした論点は「『である』ことと『する』こと」には見られない。

 それは、丸山がモダン=近代の問題を論じているのに対し、鷲田がポストモダン=現代の問題を考察しているからだと考えてはどうだろう。

 つまり、近代はプレモダン=前近代的「である」論理から「する」論理への移行を目指したが、その末に新たな「である」論理が台頭しているのが現代の状況なのだというのが鷲田の認識だと考えればいいということかもしれない。


2021年4月28日水曜日

ぬくみ 3 近代という問題

 具体的な手がかりとして、まず「『である』ことと『する』こと」と「ぬくみ」に共通する「近代」という言葉がどのような意味で使われているかを確認する。


 「『である』ことと『する』こと」における「近代」はもう充分馴染んでいるだろうか。

 165頁や169頁下段の記述から、「である」価値・論理から「する」価値・論理への移行を意味していると捉えられる。

 一方「ぬくみ」では次のように言っている。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、「封建的」と言われたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、あるいは証明しなければならない社会を作り上げてきた。少なくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会を目指して、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的コンテクストから自由な個人ということだ。

 「近代(化)」を共通項としてこれら二つの文脈を重ねてみる。

 何が言えるか?


 「封建的」な社会が「である」社会であることは「『である』ことと『する』こと」で述べられている。つまりそこにある「血縁・地縁」などの「くびき」「社会的コンテクスト」は丸山の言う「である」論理である。

 鷲田はそこから「身をもぎ離」すことが「近代化」だという。

 丸山の「『である』ことと…」の「近代化」は上記の通り「である」から「する」への移行なのだから、丸山と鷲田、二人の言う「近代」は一致していると見なせる。

 「身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも」という羅列は見事に「である」論理を列挙していて、それらに「囚われない『自由な個人』」とはつまり「する」論理にしたがって動く存在だということだ。

 「自由」が「する」論理に基づくことは「『である』ことと『する』こと」でも述べられている。つまり「自分が誰であるかを自分で証明しなければならない」とは「不断の検証・行使」が必要だということだ。


 さらに、「ぬくみ」から「する」論理・価値を表わす言葉を探そう。何か?

 勘の良い者はすぐに指摘した。「資格」や「条件」である。

 「である」論理から解放された「自由な個人」はむしろ「寂しい」。人々は「資格」や「条件」といった「する」価値を示し続けなくては社会に存在し続けることができない。それに疲れた人々は、むしろ「このままの」自分(223頁)=「である」価値を認めてほしいと思っている。


 整理してみよう。

である/する

 左辺から右辺への移行が近代化である。

    封建社会/近代社会

 血縁・地縁、身分・性・民族/個人

 社会的コンテキスト/個人

 これらは一対一対応になっているわけではない。大体左辺か右辺かが示されている、というくらいだ。

 さてこうして「する」化=近代化が生み出すのは、大規模にシステム化された社会だ。

 そこでは、個人は「資格」「条件」が求められる。

    /システム化

    /資格・条件

 これらはなぜ「する」論理なのか?

 説明のために「する」価値・論理の言い換えのバリエーションから適宜選ぶ。

 たとえば「機能」「業績」「実用の基準」「効率」などが想起されれば良い。

 「システム化」された社会は「実用の基準」に基づいて「効率」的に運用される「する」論理で動いているし、「資格」はそうした社会で個人が持つ「機能」のことだ。

 そうした「不断の検証」に疲れた人々は「このままの」自分を認めてもらうことを欲する。これは「『である』ことと『する』こと」の「それ自体」「かけがえのない個体性」などと対応される。

 「このままの」自分/

      それ自体/

かけがえのない個体性/


 「ぬくみ」は単独では対比が見えにくく、それが趣旨を理解しにくい原因のひとつなのだが、こうして「である/する」図式を援用することによって、鷲田の捉えている現代社会のあり方が対比構図にはまってくると、その主張が明瞭になる。


ぬくみ 2 読み比べる

 ところで「ぬくみ」とは何か?

 本文中には一度も「ぬくみ」という言葉が登場しない。

 とりあえず「ぬくみ」という単語はどういう言葉なのか?

 「甘み」と「甘い」という関係から「ぬくみ」は「ぬくい」という形容詞の名詞形であると推測される。「ぬくい」は関西圏で使われる傾向のある言葉で、関東圏にとっては「あたたかい」の方が馴染みがある。それを名詞化するならば「あたたかみ」あるいは「あたたかさ」であり、「ぬくい」も、「ぬくみ」よりは「ぬくもり」という名詞の方に馴染みがある。

 本文中に登場しないこの言葉を、先ほどの一文要約に使ってみる。

 既に作った文によっては操作は難しくない。「現代の人々はつながりを求めている。」を、そのまま「現代の人々はぬくみを求めている。」と言ってしまえばいいのだ。


 実は「ぬくみ」という文章は、教科書の2部の冒頭に収録されているからという理由だけで読み出したのではない。

 前項の通り、部分的に難しいと感ずるところはなく、なのにつかみ所のない文章だ。読解によって何かが明らかになっていくわけではないから、単体では取り上げる気にはならなかったかもしれない。

 だが、年度始めに取り上げる意義はある。読み比べには使える文章なのである。

 読みながら、それを想起していただろうか?


 お相手は「『である』ことと『する』こと」である。

 考え方の基本方針は了解されているか?

 本文から根拠を引用して、と指定すると、似た趣旨のことを言っていると感じられる箇所をそれぞれの文章から指摘する、というのがとりあえずの発想になってしまうが、それがなぜ似ていると感じられるかは、全体の論旨の中ではじめて納得される。

 したがって、考え方の基本方針は、昨年度の読み比べでもやったように、「である/する」図式に、「ぬくみ」の論旨を位置付ける、という方向で論を立てることである。

 「ぬくみ」のどこがどのように「である/する」図式に対応するのだろうか?


 それでもとっかかりが掴めなかったら、直截的な手がかりとして、共通する語彙に注目する。

 何を取り上げるか?


 もちろん重要な語彙、いわゆるキーワードでなければ手がかりにはならない。

 そうした条件にあてはまるのは「近代」という語である。


ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。


2021年4月23日金曜日

羅生門 11 主題

 以上のような授業者の結論は、先にも言ったように、ここまで述べてきたような問題設定に基づく論理の積み重ねによるものではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が表しているものを何とか言葉にしようと考えているときに不意に、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはそのせいだったのだと気づいたのだった。それが「観念としての悪」「幻想としての悪」という表現として形になった時、「行為の必然性」に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が拓けた。

 だから「なぜ勇気が出なかったのか?」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題だ。

 だがみんながそれを意図的に考えるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにする必要がある。「なぜ引剥ぎをしたのか?」が解き明かすべき謎であることは考えてみればすぐに皆に共有される問題でもある。最終的な到達地点がどこなのかを見据えた上で、そこにいたる道筋をみんなで辿る。

 授業とはそうしたものだ。結論の提示や、その理解が重要なのではなく、そこに到る道筋を、周りの皆と、ひたすらテキスト情報を検討し、論理を構築することで辿る過程こそが学習なのである。


 二点つけ加える。

 「羅生門」の読解においてはこれまでも、下人の頬の「面皰」が解釈の対象とされてきた。このことはいくつかのクラスで問題点として提案された。

 この「面皰」は、いうまでもなく象徴だ。面皰という具体物は、何らかの抽象概念を表わしているとしか読めない。

 これをどのような象徴であると解釈するかは、「羅生門」という小説をどのような小説であると解釈するかということと整合的でなければならない。

 「エゴイズム」論によれば、面皰が象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人は良心を棄てて、悪にはしったのだ。

 そして先の結論によれば、面皰はそのまま「空疎な観念」(=幻想)の象徴だということになる。

 頬に面皰をもつ下人は「空疎な観念」に支配された人間であり、その象徴たる「面皰」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。

 また「面皰」を「若さ・未熟さ」の象徴であると見なす解釈も古くからある。これは「エゴイズム」論とセットだったから、つまり、古い道徳を棄ててエゴイズムを受け入れることこそが人間の成長だといっているのである。

 だが「空疎な観念」こそ「若さ・未熟さ」の特徴だ。現実を正しく認識せずに幻想の中で希望を抱いたり絶望したり憤ったり悲しんだりすることこそ若者の特権だ。

 その意味で、面皰から手を離すことは、やはりある種の成長を意味しているのである。


 現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」はどう受け取ったらいいのか?

 その不確定な未来にひらかれた余韻を味わう以上に、徒らな解釈をすべきだとは必ずしも思わない。

 ただ、「下人の行方」に待ち受ける「黒洞々たる夜があるばかり」の闇もまた、幻想の潰えた後の苦い現実認識を示しているのだろうか。


 引剥ぎという「行為の必然性」は、それを容認する「老婆の論理」によって保証されるわけでも、「極限状況」の深刻化によって保証されるのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。

 これはいわば、空疎な観念による幻想から覚めて卑小な現実を認識する話、である。