四十三章の夜及び翌朝のエピソードについて、Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す、という解釈を示した。
この解釈は、このエピソードが書かれる必要性と、遺書に「墨の余りで書き添えたらしく見える」文句があることの必要性を、相互に支え合って最も強い必要性を感じさせる。それぞれが互いのエピソードによって、「真相」に辿り着く路を開き、辿り着いた時に最も強くそれが書かれることの必要性を納得させる。
この「書かれる必要性」という考え方は、「作者」や「小説」「読者」といった枠組みを外から眺めた時に初めて可能となる。登場人物と同じ目線では考えることができない。
ところで、このエピソードについての一般的な解釈「Kがこの晩に自殺しようとしていたことを示す」(仮説A)は、先述の通り、授業者には賛成できない。
だがその近親解釈としての「自殺の準備」説は、「遺書が書かれていた」と矛盾しない。
とりわけ「謎の記述」の②「近頃は熟睡できるのか」という問いについては、遺書を書いた上で、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。
Kにとってそれほど意図的な質問でなくとも、関心の方向が自殺の決行に向かっていたことは認めてもいい。
だがそれは仮説Aを認めるということではない。②についての解釈の可能性を認めるということであって、仮説Dに比べると、「この晩」という条件を付けない仮説Aはほとんど「エピソードの意味」としての重さはないと思う。
したがって問2「Kは何のために『私』に声をかけたのか」についての仮説a「『私』の眠りの深さを確かめようとした」も賛成できない。
問2については前述のとおり、仮説bcを合わせて考えるべきだと思う。すなわちKは「私」に何か話しかけたかった、だが具体的な話題は想定されていない、と。
仮説Dが①「落ち着いていた」にとりわけ整合的なのは前述の通りだ。
③「強い調子で否定する」はどうか?
③は仮説Bの根拠となっている。Kのこの態度によって「覚悟」の解釈が変わったのである。
だが物語の展開を推進する機能があるというのは、③が書かれる必要性があるということではない。結果的にそうなった、ということであって、やはりKにとって「そうではないと強い調子で言い切」る必要があったことについての納得が必要である。
まずはこう考えれば説明はつく。
「そうではない」は「私」の「あの事件について何か話すつもりではなかったのか」という問いかけに対する返答である。この指示語が曲者である。
これが間接話法だとすると、「私」はこの問いかけを具体的にどのような表現でKに投げかけたのだろうか?
もしもそれが「お前は昨夜、まだお嬢さんのことを話すつもりだったんじゃないのか」などと問われたとすれば、Kは明確に「そうではない」と言うはずである。
確かにKが前日に話したかったのは「そう(お嬢さんのこと)ではない」。「あの事件」とは「私」にとってはお嬢さんの話なのだと認識されている。だがKが上野公園で話したかったのは自らの信仰の迷い、己の弱さのことだ。
そしてこの食い違いがKの強い否定となって表れているのである。
さらに仮説Dに拠れば、より納得できる説明が可能だ。
Kにとって、昼間口にした「覚悟」は「薄志弱行で到底行く先の望みはない」自分への決着のつけ方としての自己所決の「覚悟」だ。Kにとって「覚悟」とは、その言葉にふさわしい重みをもっている。
そしてさらにKは既にそのことを記した遺書さえ書き終えているのである。それはKにとっての「覚悟」の自己確認にほかならない。
一方「私」はKの「覚悟」を「お嬢さんを諦める覚悟」の意味だと捉えつつ、「独り言」「夢の中の言葉」から、なおもKに迷いがあるように感じている。だから「話」を止めることができない。
だがKには、もはや昼間のようにくだくだしい「話」をするつもりはない。
「僕はばかだ」の後もそうだ。Kにとってこの言葉の重さがわかっていない「私」は、これを「お嬢さんに進む」という「居直り強盗」的宣言なのかと思って「話」をやめることができない。Kが「悲痛」な声で「やめてくれ」と言っているのに。
二つの場面は同じだ。Kにとっての言葉の重みが、「私」にはわからない。
このすれ違いが「私」のしつこい詮索に対するKの否定の強さに表れている。
この記述に対する違和感が注意を喚起し、読者をそうした考察にいざなう。
さて、仮説Dの信憑性は高いと思われるのだが、実は仮説Aにおいて提起した疑問は、仮説Dで解決したわけではない。
なぜ自殺をしようとしていたのに、その後12日間は行動を起こさなかったのかという疑問はそのまま、なぜ遺書まで書いたのに実行しなかったのかという疑問につながる。
なぜ襖を開けて自殺したのか、という問題も未解決だ。
だがこれらは次節「Kの自殺の心理を考える」で再考する。
ただし、なぜ「私」の隣室で自殺したのか、という問題も仮説Aに対して提示したのだが、これは、Kの自殺の実行が「私」の眠りの深さには関係ないと考えれば、そもそも疑問にはならない。
Kは遺書の中で「私」に片付けや、奥さんへの迷惑に対する詫びを頼んでいる。これはKの中で既にこの時点で、隣室で自殺することが前提になっていることを示す。
考えてみれば、どこか他所で自殺すれば、知らない他人に迷惑をかけることになる。そんなことをKが望むはずはない。申し訳ないと思いつつ知り合いの世話になることをKが選ぶのは何の不思議もない。
さて、重要な会話の交わされた上野公園の散歩の夜のエピソードについて、Kの自殺につながる重要な解釈をしてきた。
この解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。
果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。
そしてそれを考える妥当性とともに、その必要性についても注意を喚起する。
例えば、自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間。
例えば、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間。
これらの時間のKについて想像することの妥当性と必要性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。
小説の描く物語は、そこに描かれていない時間をも含んで成立している。