2020年9月20日日曜日

ロゴスと言葉 6 -批判的検討

  鈴木孝夫は自らの立場を〈一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。〉と表現し、〈ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている〉と言う。

 一方、山鳥重は〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉〈まず心があり、ことばがそれを追うのである。〉と言う。

 「言葉=名前」が先か、「ものの認識=観念=表象=心」が先かを巡って、鈴木と山鳥は一見正反対の主張をしているように見える。なぜこんな、あからさまな食い違いが生ずるのだろうか。

 言語学者である鈴木が「言葉が先」と言い、精神・脳神経学者である山鳥が「心が先」と言っているんだな、と考えれば、なんだか図式的にはまりすぎていて、ある意味で腑には落ちるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問が残る。


 議論をかみ合わせることはとても難しいと、どのクラスの議論をきいていても感ずる。

 鈴木は「ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだ」という。

 それに対し山鳥派が、そんな馬鹿な、受け入れられない、というのは実感に照らして無理もないことだ。言葉がなくても犬と猫の区別はできるだろう、どうみても。

 一方鈴木派はそれを受け容れているのである。なるほどそうだと思っているから「言葉が先」理論を支持しているのだから。

 だがこれでは水掛け論である。互いが、自分の感覚に基づいて主張し合っているだけである。といって根拠を言おうと思うと、単にその説を繰り返してしまうばかり。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や反論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。


 例えば、山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後で、必ずタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。自分で作るのか。

 山鳥派はどう答えるだろう?


 一方山鳥派はこう問う。

 「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 授業者の想定している結論は、鈴木説、山鳥説、どちらでもない。

 ただ、どちらかというと山鳥の記述に甘さが目立つ、とは思う。

 上記の様に「表象が先で言葉が後」と言ってしまうと、まるですべての名前=言葉は、それぞれの人間がそれぞれの場面でいちいち作り出したものだとでもいっていることになってしまう。

 だがそれでは言葉が他人同士を媒介するコミュニケーションの道具にはなりえない。言葉とは個人のものではなく、共同体のものである。言葉とは何より、すべての人間にとって基本的に所与の(しょよ=与えられる所の)ものである。我々はこの世に生まれて、既に存在する「言葉」達に次々と出会っていくのである。そういう意味でまさしく「言葉」は「先」にあるのである。


 例えば丸山の「デンシャ」のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。

 山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」という表象を作って、それを「人間」と名付け、「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を作って「人形」と名付けたということになる。さらに「デンシャ」という言葉より前に「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ったということになる。

 これはあまりに高度な哲学的思考である。幼い子供の脳裏に、高度な抽象化思考によってそんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無茶だ。

 しかもそうした表象が生じたところに、折良く「デンシャ」という言葉がもたらされたというのである。

 これが言葉を獲得する際に起こることの一般的なモデルだなどと、どうして信じられるだろうか?

 それよりもこう考えるのが現実的なはずだ。

 まず「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されたのである。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通した「ソレ」という感覚的イメージに結びついていく。そうした感覚的イメージこそが「表象」だ。

 さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化される。

 少女の身に起こったことを想像するならば、こうした描写が自然ではないだろうか?

 山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。


 一方で鈴木が次のように言うのも怪しげである。

日本人にとって、水や湯や氷がそれぞれ独立した、いわば別個のものであるのは、「水」「湯」「氷」のような、互いに区分が明確で、それぞれが独立した存在であることばの持つ構造を、現象の世界にわたしたちが投影しているからなのである。ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。


 前半は「言葉が先」と言っているようだが、後半で「価値があると認めた」というのは山鳥の言う「心のはたらき」ではないか?

 とすれば先に「切り離」された「表象」が先にできたのではないか?

 前半と後半では論理が逆転しているような感じだ。


 つまりどちらの記述にも「ツッコミどころ」がある。

 ではどう考えたらいいのだろう?

2020年9月16日水曜日

ロゴスと言葉 5 -白黒つける

 言語論をめぐる複数の文章を読み比べている。

 丸山圭三郎、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章である。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。

 だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。

 明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのである。たとえ一次的な判定・判断であるにせよ、ひとまずは白黒つけようと考えてみるべきなのだ。


 一方で、白黒つける必要はない、という意見も出た。二人の言っていることは見かけのように相反するわけではないのだ。現に共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木・丸山と重なってくるような印象もある。

 そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違が見られるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。

 また、二人の述べている「言葉の働き」は、違ったフェーズ(位相)を対象としているのであって、矛盾することなく同居するのだ、という解釈も提出された。丸山はそれを「一次的機能」「二次的作用」としてどちらも認めていたではないか。

 だがそれでも、どちらを本質と見なすかにおいてはやはり見解の相違は否定できないのではないか?


 さて、両者の主張を検討しよう。

 だがどちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。みんなの話を聞いていても、山鳥支持を唱えようとして、単に山鳥説を説明するだけにしかなっていない、といった場合が多い。それはそうだが、それが彼の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。

 白黒つけるためには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の主張を等分に見比べる必要がある。


 たとえば次の部分。

ヒトはなぜことばを使えるか

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


ものとことば

ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。


 同じことを言っているように見える。

 ではこれらと、下の記述を比較するとどのようなことが言えるのか。


ものとことば

英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。


ロゴスと言葉

具体的にいえば、日本語を母国語とする人々に、「犬」と「狸」が別の「動物」であるような意識を生ぜしめたり(フランス語ではいずれもchienと呼ぶ)…すること、さらにはメタ的レベルにたつ「動物」とか「昆虫」というクラス名で、それぞれ「犬」と「狸」、「蝶々」と「蛾」を同一カテゴリーにまとめることを可能にするものは、言葉の力以外のなにものでもない。


 上の二つと下の二つをそれぞれ可能な限りシンプルに言い換えて、両者がどのようなことを言うための例かを明らかにする。

  • 前者は、同じ「モノ」を言語ごとに違った言葉で表わしている。
  • 後者は、言語ごとに意味の切り分けの幅が違うことを示す。

 まだ比較しにくい。共通する言葉を使って大胆に言い換えてみよう。


名前が違っても同じモノを指している

/名前が違ったら違うモノである


 この二つの事例はそれぞれ、前回に確認した以下の山鳥/鈴木の主張を、どのように根拠づけているのだろうか?


 表象が先で言葉が後/言葉が先で表象が後


 このように、比較のための基準を揃えてはじめてその是非が検討できる。


 同じように山鳥の紹介する次男のエピソードと丸山の電車内の少女のエピソードを比較して、どのようなことが言えるか?

 すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。自然科学はもちろん、社会学や経済学などの人文科学も同様である。

 仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則によって、天体の運行を説明する。相対性理論によって宇宙の成り立ちを説明する。それが人々を納得させたとき、その仮説が定説となる。

 つまり、山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみるのである。

 また鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。

 どちらかが不自然だということはあるか? どちらに説得力があるか?

2020年9月11日金曜日

ロゴスと言葉 4 -ヒトはなぜことばを使えるか

  さらに、山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」を読み比べる。

 ここにもまた「差異化」「ラベル」「範疇化(=カテゴリー化)」などの用語が登場する。内容的にも「ものとことば」「ロゴスと言葉」のあちこちを連想させる部分は多い。

 だがこの文章を読み比べる時に浮上する最大の問題は、共通点よりは相違点である。

 どの一節を読み比べることでどのような相違点が指摘できるか?


ヒトはなぜことばを使えるか

まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。(14~16行)

まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。(20~21行)


ものとことば

ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている(32~33行)

わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。(40行)。 


 上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。

山鳥 心が先で言葉が後

鈴木 言葉がものをあらしめる


 「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」を同じものだと認めていいか?

 そちらも比較のために共通する言葉に言い換えてみよう。

 鈴木の言う「もの」とは、物理的な存在ではなく、その存在を「もの」として認識するかどうかという問題である。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉に対応している。

山鳥 表象が先にできて言葉が後から貼り付けられる

鈴木 言葉が先にあって表象が後から存在できるようになる


 では丸山はどういう立場か?

 丸山が鈴木と同趣旨のことを述べている部分については前回指摘した。ただ、全面的に鈴木と同じ主張をしているかというと、それには留保が必要である。

同じ名づけと言っても、カテゴリー自体を生み出す命名作用(世界の分節)のような一次的機能と、生まれた犬に「ポチ」と名づける二次的命名作用(ラベルの貼付)としての機能の二つがあるのである。(99頁7行~)

 鈴木孝夫が述べているはたらきは上の「一次的機能」にあたり、山鳥が述べているのが「二次的作用」にあたる。丸山は両方があると言う。

 だが「ロゴスと言葉」ではこの「一次的機能」について主として述べているので、鈴木孝夫との共通性が強く感じられるのは間違いない。


 3人の文章だけ読んで多数決でもあるまいから、相反する主張がなぜ生じたのか、またそれらの主張についてどう考えるべきか、考察を深めたい。

 それぞれの論の根拠は何か?

 どのような論理で自らの主張を正当化しているか?

 その論理に整合性はあるか?

2020年9月10日木曜日

ロゴスと言葉 3 ものとことば

 問いを立て、要約した。
 これらは、文章の全体を把握しようとする頭の使い方である。
 これまでもやってきたように、読解は、全体の把握と細部の考察が補い合うように進む。では次は細部の考察か。
 この文章ではこれを最後に回す。その前にまずはいくつかの言語論を扱った文章を読んで、言語論の基本的な考え方を把握する。
 「わかりにくい」と感じられる細部の言い回しをいくらこねくり回しても、その文章の内部では自家中毒に陥るばかりで、結局ピンとこないことになりかねない。それよりも、同じ考え方に基づいた文章を読み比べて、同じ考え方が別の表現で述べられているそのバリエーションに触れてから、戻って、その厄介な箇所を考察する方が有効なのである。

 最初に読み比べるのは鈴木孝夫の「ものとことば」である。
 これは1学年で使っていた「国語総合」の教科書に収録されているので、はじめて読むわけではない(ただ、収録部分がズレてはいる)。
 同じ内容を述べていると思われる部分を探し、対応する表現を指摘する。

 最重要箇所は以下の2カ所。

ものとことば
それは、ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめているという見方である。(32~33行)
客観的に存在するものを人がことばによって表現するというよりは、ある特殊な見方、現実の切り方が集約されたものとしてのことばが、わたしたちに、そのような特徴、性質を備えた事物がそこに存在すると思わせると考えるほうが、妥当のようである。(77~79行)

 これと対応する内容を「ロゴスと言葉」から挙げる。

ロゴスと言葉
ロゴスとしての言葉は、すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼り付けるだけのものではなく、その正反対に、名づけることによって異なるものを一つのカテゴリーにとり集め、世界を有意味化する根源的な存在喚起力として捉えられていた(97~98頁)

 これらはいずれも、結論を述べている箇所であり、抽象度が揃っている。
 そして対応が認められる最大の要因は、三カ所とも、文の途中が逆接していることである。「ではなく」または「よりは」によって、その前後を逆接させており、前後それぞれぞれの内容が対応しているのである。
 逆接するということは、その前後が対比されているサインである。筆者が主張したい内容を言う前に、それと対比的な考え方を言っているのである。
 これらに共通する対比を、なるべくシンプルに表現してみよう。


  • ものが先/言葉が先
  • 先に存在するものに言葉をつける/言葉によってものが存在するようになる


 「ではなく」「よりは」などの対比を表わすサインに注目すれば、対比されている二項対立そのものが、二つの文章に共通していることがすんなり腑に落ちよう。

 さらに。

ものとことば
ものとことばは、互いに対応しながら人間をその細かい網目の中に押し込んでいる。(18行)
ロゴスと言葉
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。(101頁)

 ここでは「編目」「網の目」という言葉の共通性が目を引く。
 この二つの文が同じ内容であることを示すために、まずは両者が同じ文型になるように言い換えてみよう。
 述語の能動態と受動態をあわせる。
・ことばは人間を網目の中に押し込む。
・ことばは人間の本能図式に認識の網の目をかぶせる。
両者は同じことを言っていると感じられるだろうか?
 「認識の網の目をかぶせる」という比喩は、そうした「網の目」のフィルターを通して世界を見るような認識の中に人間を「押し込む」ことにほかならない。「網の目」を「かぶせられた(受動態)」人間の認識は「編目」の中に「押し込まれる(受動)」のである。

 さらに、次の一節は目を引きやすく、なおかつ重要である。
ものとことば
ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている。(53~54行)

ロゴスと言葉
世界のロゴス化とは、それまで分節されていなかったマグマのごとき生体験の連続体に区切りを入れて、これを観念なり事物なりのカテゴリーとして存在せしめることなのである。(98~99頁)

 どちらも「切れ目のない」「連続体」に「区切りを入れ」「分類する」という言葉の働きを述べている。
 この働きを何というか?
 差異化・分節である。

 これらの言い回しが二つの文章で似ているのは、つまり元ネタがあるからである。二人ともこの文中ではふれていないが、この元ネタは、この一連の言語論読解で後ほど登場することになる。

 次の文に語られている「虚構性」は重要な概念なので考えてみる。

ものとことば
言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、ものやことの集合であるかのような姿のもとに、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っているのである。(54~56行)
 主語述語を確認すると「言語は虚構性を持っている」である。あるいは「言語による分節は虚構である」と言い換えてもいい。
こうした内容は「ロゴスと言葉」ではどのように語られているか。

ロゴスと言葉
言語習得によって身につける分節線は、そういう自然の生物的な区切りではなく、まことに非自然的な画定である。(100頁)

 前者の「虚構性」が後者の「非自然的」に対応している。
 ここにさらに、要約過程で「非自然」と「文化」が対応していることにも触れていたことを考えるならば、次のような対比が明らかになる。

    現実/虚構
 本能・感覚/言語
    自然/非自然
    生物/人間
  種がもつ/文化
自存的・実体/関係
    モノ/コト

 こうした対比図は、左辺と右辺それぞれをまとめて通観することが重要である。
 左辺的な認識モデルは「自然界にある実体としてのモノを生物が持つ本能的な感覚で捉える」というものである。
 これに対して、これらの文章が提示しているのは右辺的な認識モデルである。言語による認識は「非自然的で文化的で虚構的」なのである。

 これ以外にも各クラスではそれぞれ何カ所もの対応箇所が指摘された。
 「対応している」と言うためには解釈を要する箇所であり、解釈しているうちに「そういえば対応しているといえないこともない」などと論理がつながってくるのも、国語的訓練として有意義なことだ。
 さらに、こうした読み比べによって、言語論の基礎的な考え方に馴染むことが期待される。
 次の文章でもまた同じような考え方が登場するはずだ。

2020年9月4日金曜日

ロゴスと言葉 2 -要約する

 次は要約だ。今度は口頭で終わらず、文章に書き起こす。テキストを見直してもいい。教科書解禁である。
 要約には条件をつけるのが効果的だ。国語力というのは言語による情報操作の能力のことだから、目的に合わせた様々な条件で操作する練習をするのがいい。
 簡単な条件は字数だ。
 休校中に100字要約と200字要約をしたのはそういう狙いだ。

 今回の条件は「4つの大段落それぞれを一文で要約する」だ。さらにそれぞれの一文は単文(主語と述語が一組の文)であること、という条件をつけた。
 単文にしたのは、なるべく文の構造をシンプルにすることが頭の整理に有効だからだ。日本語として最低限意味を成すような3~4文節くらいの一文にする。
 もちろんそれだけでは説明不足に感ずるだろうが、かまわない。必要に応じて説明できるように、背後には複雑な論理が感得されているとしても、とりあえずなるべく簡素な文構造の一文にする。把握のためには把握した形自体の情報量が多くない方がいいのだ。圧縮率を上げようとすることが理解を押し進める。

 要約しようとするとき、本文中から、そのまま文章の内容をまとめた言い方になっていると思われる一節が見つかることがある。見つかったならそれでもいい。だがいつもそういう一節が文中にあるとは限らない。
 むしろ要約をするには、細部に目を凝らして探すより、全体をボンヤリ眺める方が良い。視野を広くもって、細部を濾して除去してしまうフィルターのような意識で、全体の構造や「大事なところ」を感じ取ろうとする。
 そしてまず主語を決めてしまう。何を主語にするかを考えることは、その段落の主題、最重要モチーフが何かを考えるということだ。実際には主語だけでなく、ほとんど主語と述語の組合わせとして認識されるはずだが、とりあえず「主語を決めよう」と思って全体を眺めると、取り上げるべきキーワード(主語)と、それがどうしたというのか(述語)が意識されるはずだ。
 そこに最低限の目的語や形容をつけくわえて5文節以内くらいに収める。

 例えば1段落を次のように要約するのはどうか?
・言葉の本質はロゴスにある。
 もちろん正しい。だが望むらくは「ロゴス」という言葉を使わずに要約文を考えた方が良い。
 要約の効用は、要約の「正解」を知ることではなく、要約しようとすることが思考の整理になるということだ。これもまた目的ではなく手段、である。
 それならば「ロゴス」という言葉を使って筆者が言いたかったことこそを一文にしようとした方が目的に適っている。「ロゴス」という言葉はまだブラックボックスのようなものだから。開いてしまった方が良いのだ。
 「ロゴス」とはカテゴリー化する=取り集める働きのことだ、と本文にある。したがって、次のような要約が考えられる。
・言葉は事物をカテゴリー化する。(3文節)
・言葉には物事を取り集めるはたらきがある。(5文節)
 2段落はどうか。
 言うべきことは1段落と重なっているように思える。実際にどう要約しようとしてみても、それは両方の段落で触れられているトピックであるように思える。
 だが敢えてそれぞれの段落のトピックに重み付けをして、要約文を書き分けてみよう。
 選ばれる言葉は「存在」「分節」「差異化」あたりだろう。
・言葉による分節で物事の存在が認識される。
・命名は外界の差異化である。

 このように、それぞれの段落を一文にしたら、それぞれの内容の展開の論理がたどれるかどうか通観する。それぞれの段落を表わす一文を、バラバラなままにしておかないで、一続きの論理で把握する。
 例えば1、2段落の要約を、ひと繋がりの論理展開として捉えてみよう。
 「カテゴリー化」は「分節」と同じことだ。とすると、そのまま1,2段落の要約文は1文に書き換えられる。
・言葉によるカテゴリー化によって物事が認識される。
 実際に1文に書き換える必要は必ずしもないが、とにかく論理の繋がり・展開を意識するのは有益だ。
 「差異化」はここではまだ説明が足りていないので、保留にしておいてもいい。「取り集める」ことと「差異化」がどうつながっているのかは後で考えよう。

 さて3段落には子供のエピソード、4段落にはヘレン・ケラーのエピソードが登場するが、これらの具体例はこの一文要約においては捨象しよう。論理展開を追えるように、1,2段落と抽象度を揃える。
 3段落は1,2段落の内容を、具体例で説明し直しているだけのようにも見える。
 それでもそこで具体例を通してあらためて明らかになったことはないか考える。
 段落の末尾は次の通りである。
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。
子供のエピソードを通して示される認識がこのように表わされているとして、これをシンプルな一文に書き換えてみよう。
 「命名を通して」は「言葉による」と同じことだ。「繰り返し、繰り返し」とか「刻一刻と密になる」は大胆に伐り払って「命名を通して本能図式は再編成を強いられる。」としよう。
 「本能図式」が何のことかわかりにくいし、実は「本能図式」が直に「再編成」されるわけではない。そこには「繰り返し」があり、「刻一刻と密になる」過程がある。実際には「本能図式」が言葉による「象徴化」を受け、その「象徴図式」とでもいったものが「刻一刻と密になる」のである。そう考えてみれば勘の良い者は「象徴図式」とは1段落の「カテゴリー」のことだと気付く。
・言語によるカテゴリーは成長の過程で再編成される。
他に「分節線は非自然的な画定である。」を挙げたグループもあった。これも重要な要素ではある。「分節線」はカテゴリーの輪郭のことだから、「成長の過程で再編成される」時に「非自然的」に「画定」されるということだ。
 「非自然的」とはどういうことか? 同段落にある言い換えの言葉を探し、「文化」がそれに近いという感触を得た。
 だがこの要素は4段落でも述べられるので、そちらに入れることもできる。

 4段落はさらに厄介だ。「ヘレン・ケラーのエピソードも同じである」と言っておきながら、どう「同じ」なのか、にわかにわからない。
 手がかりとなるキーワードを決めてしまおう。
 重要なことは繰り返し述べられる。この段落で繰り返される言葉は「文化」「関係」「差異化」である。それぞれを一文にしよう。
・指向対象は文化の中で決定される。
・指向対象は関係の中で決定される。
・指向対象は実体ではなく差異化によって生まれる。
それぞれに、こうした一文にすること自体が、そもそも難しい。「指向対象」が「カテゴリー」とどういう関係になっているかも、現状では理解し切れていないはずだ。
 この三文はどれも同程度に適切だが、その関係を表わすのは、これはこれで現状では難しすぎる。「文化の中で」と「関係の中で」が同じ構文に入っているが、どうしてこういう言い換えが成立するのか?
 「差異化」は1,2段落で言っていればそれでよし、むしろ1,2段落で「差異化」を使わずに、4段落で使うという手もある。
 ついでに最終段落の「関係づける」と「差異化」が同じことであることについて考えた。
 差異化するということは、境界を引いて二つのカテゴリーを分けるということだ。そのとき、その二つのカテゴリーは「関係づけ」られている。比較され、違うものでありかつ隣接すると認識される。「関係づける」ことは二つを「差異化」することなのである。

 例えば4段落を、展開が見えるようにつなげてみよう。
1 言葉は事物をカテゴリー化する。
2 カテゴリー化することで物事の存在が認識される。
3 カテゴリーは成長の過程で文化的に再編成される。
4 カテゴリー化とは、カテゴリーの内と外を差異化することだ。
この4文の流れは「カテゴリー化=ロゴス」を使って論理展開を統一してある。

 現状ではここまですっきりした要約は無理だろう。
 要約は、完璧な要約を「教わる」ことに意味があるのではなく、要約しようと「考える」ことにのみ意味がある。要約しようと頭を使い、ある要約に辿り着いたときに感じるスッキリ感が味わえれば良い。
 あるいは、試行錯誤した要約文を発表して、授業者の反応(よしよし、とか、そうかなあ、とか)をみて、それぞれの要約の適切さについての反省と検討をすることに意義がある。

2020年9月1日火曜日

ロゴスと言葉 1 -問いを立てる

 夏休み明け、第2回の定期考査前まで7~8時限、言語論を読む
 まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。

 「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
 つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
 国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
 今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
 と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
 だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
 「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。

 まずは「ロゴスと言葉」を読む。
 授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
 これができることは、記憶力が高いということではない。
 何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
 そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
 つまり情報の圧縮解凍とは、国語における理解表現にあたる。
 その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
 文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。

 次は、読解のためのメソッドを使おう。
 まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
 どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
 どのような問いが適切か?
そう考えてみるだけで有益だ。
 そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
 ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
 授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
 みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
 たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
 だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
 題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。

  • 「ロゴス」とはどのようなものか?
  • 「言葉」とはどのようなものか?

 この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
 「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
 それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
 この、そう思って全体を見直してみたときスッキリ感を実感してほしい。

 さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
 さらに読解を続ける。

2020年7月15日水曜日

2学年現代文B 一斉テストについて

 今回のテストにおける大問1、2は、その出題形式と配点の大きさにとまどったかもしれません。この点についての出題者の考えを述べます。

 授業者は、そもそもこうした出題を「漢字問題」だと思っていません。「語彙力問題」だと思っています。
 「語彙力」とは、文脈体験の豊富さのことです。
 「言葉の意味」とは、辞書にあるような説明(テキストに朱文字で書いてあるような「意味」)のことではなく、文中での使用例の集合体です。
 つまりこれらの問題は、「暗記」された「漢字の読み書き」の知識ではなく、どれほど多くの言語体験があるかを問うているのです。
 したがってこれは「漢字テスト」なのではなく、「国語のテスト」なのです。

 また、今回の40点は、前年度の未実施だった試験範囲を含めているせいでもありますが、基本的にこうしたテキストからの出題は、毎回30点前後の配点をするつもりです。
 定期テストは、純然たる「国語力」を測定しているわけではなく、言わば「学習の成果」に対する評価でもあります。「意欲」も評価対象なのです。
 国語はもともと学習とテストの点数がストレートには結びつきにくい教科です。
 その中でも、比較的「やればできる」部分の割合をなるべく大きくしたいと考えています。
 今回の「山月記」は例外で、今後は授業中に読んだ文章を出題することはありません。テスト勉強は、予定されたテキストの範囲を勉強してください。
 出題形式は今後も、今回のような「語彙力」を問う問題です。
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213

 以下蛇足と言わず読んで。
 今回のテストは時間に余裕があったと思いますが、大問の1、2は、時間のある限り見直してほしいところでもあります。
 昔、こういう問題は覚えているかいないかなんだから、時間をかけたり見直したりしたってしょうがないと言った人がいました(教員で)。
 それは違うと思います。知っているかいないかはそうかもしれません。しかし覚えているかいないかは、それほどはっきりした違いではありません。
 人間は、一度触れた情報を基本的には忘れない、という説があります。問題は思い出せるかどうかです。「思い出せない」ことを慣用的に「覚えていない」と言っているだけで、一旦考えて浮かんでこないことでも、じっくり考えているうちに突然何かに結びつく、ということがあります(「知らない」でさえ、実はその瞬間「思い出せない」だけかもしれません)。
 そして「思い出す」とは、何かの刺激によって、それに関連する情報が活性化される状態です。活性化される頻度が高いほど容易に思い出すことができ、関連する情報が多いほど思い出す可能性が高まります。
 ことさらに勉強せずにテストを受けていても、日常生活においてそれらの言葉に触れたことがまったくないわけではない、ということもありえます。
 したがって、時間のある限り、様々な方向から記憶を探って、これでピッタリだ、と思える言葉を、漢字を探し当ててください。

 また、こうした考え方からすると、勉強する際にも、例えば所謂「漢字練習」でも、有効な方法は、「考える」ことです。
 「漢字練習」は「暗記」で、「暗記」とは考えずに覚えることだ、と思っていませんか?
 勉強は「覚えよう」とするよりも「思い出そう」とする方が効果的です。これは心理学の実験で確かめられています。
 そして刺激に関連していない情報は活性化されません。つまり、関連する情報が多いほど、思い出しやすくなるわけです。
 「漢字練習」でも、どうしてその熟語がその漢字の組合わせなのかを、一瞬でも考えることで、関連ができます。
 そのためには、それぞれの漢字の意味を考え、その組合わせとしての熟語の意味を考えてみてください。ああなるほど、と思えれば、その納得が(もしくはどうして? という疑問が)、思い出すための関連となります。
 だいたい、「漢字テストではなく語彙力テストだ」とか言ってるわけですから、そもそも言葉の意味がわからないまま漢字だけ覚えるなど、話にならないのですが。

 また、どこで間違いやすいか、何と何を区別すべきかといった判断も、「考える」ことによって印象づけられます。
 
 たとえば
 「疲弊」の「」と、「貨幣」の「」は違います。
 コロナのニュースで「終息」と「収束」の違いを意識しませんでしたか?
 ニュースで「コロナ」が「コロナ」「コロナ」になったという笑い話がありますが、「災禍」の「」は「しめすへん」、「胸襟」の「」は「ころもへん」です。「神様関係のしめすへん」「衣服関係のころもへん」と覚えます。意味を考えればどちらかの判断ができます。
 「比肩」は「肩を並べる」ことです。「比見」=「見比べる」ことではありません。
 「難行」は「なんぎょう」です。「難航する」は「航行が難しい」ことです。
 「符合」「符号」「付合」はそれぞれ違う言葉です。
 「相好」「必定」「席巻」はそれぞれ「そうごう」「ひつじょう」「せっけん」です。「そうこう」「ひってい」「せっかん」じゃないんだなあ、と思う瞬間が大事なのです。
 「耽溺=たんでき」は「沈弱(ちんじゃく?)」ではありません。「耽(ふけ)り溺れる」ことです。
 「要」は「ようし」、「造」は「ぞうけい」です。
 「美的(たんびてき)」「参(さんけい)」という言葉に見覚えはありませんか?

 残りの大問についての解説は省略しますが、字数だけでなく「一文節で」「二文で」などの問題で指定されている解答の条件を見落としている回答が多かったのは残念です。
 それと「瀟洒(しょうしゃ)=すっきりとしてあかぬけしたさま。」「瓜実(うりざね)=面長」を読めた者は、驚くほど少なかった。
 「瀟洒なレストランで夕飯」などという表現は日常でしばしば目にします。また、昨年読んだ「夢十夜」の「第一夜」で死ぬ女は「輪郭の柔らかな瓜実顔」と描写されていたではありませんか!

 7月の残りの授業では「永訣の朝」を読みます。国語の授業で詩を読むのはこれきりになるかもしれません。
 9月には本格的な評論「ロゴスと言葉」を読みます。「ミロのヴィーナス」は評論と言うより随筆です。「ロゴスと言葉」ではそれよりはるかに抽象度の高い認識と論理性が要求されます。

2020年7月10日金曜日

山月記 7 李徴はなぜ虎になったのか?

 「山月記」読解の大詰めである。以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことである。

 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が再帰的に循環するとは、どのようなことか?

 「尊大」であることは「臆病」であることの原因である。プライドが高いから、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」を抱くのである。プライドが高ければ高いほど「危惧」は強まる。つまり「臆病」になる。
 「臆病」になると他人とのつきあいが悪くなる。
 人との交わりを断つことは「自尊心」にどのような影響を及ぼすか?
 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
 満たされない自尊心は燻ったまま蓄積する。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。他人に認められないから自尊心が満足されないのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられないのである。
 結果原因帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。
 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。

 また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
 「自尊心」が「臆病」からの脱出を妨げ、「臆病」が「自尊心」の満足を妨げている。決定不能の状態に止め置かれたまま、どちらへも進めない。心の平穏は永久におとずれない。

 悪循環にせよジレンマにせよ、どうすればこの地獄から逃れられたのか?
 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
 だがそれは、「李徴は狷介だったから=傲岸だったから虎になったのだ」ということの裏返しでしかない。それは間違ってはいないが、「虎になる」という現象の仕組みを一面的にしか言い当ててない。「悪循環による暴走」というシステムを説明していない。

 授業者が現在用意している表現は「やりきる」である。李徴は「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのである。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。
 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。

 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。

 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?

 両者を結びつける言葉は「我執」「自意識」である。
 「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。

 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。

山月記 6 結論に向けての再検討

 虎を「孤独」を象徴するものとしてみる、あるいは「強さ」の象徴としてみる。これらは李徴の性格を特徴付けるものとしても、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の表れとしても、可能であるとともに適切な想定だ。
 だがそれは「なぜ虎なのか?」を納得させるものではあるが「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。
 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題である。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業である。

 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。

 まず、虎の象徴性についての再検討だ。
 虎のイメージは「孤独」と「強さ」という二面だけで言い表せているだろうか?

 「猛獣」と表現される虎は、確かに「強さ」の象徴ではある。冒頭の「名を虎榜に連ね」の「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。つまり「科挙の合格者」=「優秀な者」を表わす比喩である。
 だから李徴が虎になることは、李徴にとって、かつての栄光に満ちた自分に戻ることを意味するのだ、という解釈もあり得る。つまり、実は李徴は虎になりたかったのだ(これは「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに対して、かつて或る生徒が答えた解釈だ。大いに感銘を受けたのだった)。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きがわからない。

 確かに虎は「強さ」の象徴ではある。虎という猛獣は、他人に恐怖を与え、他人から避けられたり他人を傷つけたりする存在だ。そして李徴はもともとそのような人物である。
 つまり彼は人間であった時から虎だったのだ、と言ってもいい。

 だがそう言ってしまうと「なった」ことの説明がつかない。
 では?

 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。
 だが「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」と見なすには不適当である。それは「比喩」だ。
 では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものである。
 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見るとき、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとってすら脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。
 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
 もちろんこれらの「性情」が李徴を虎にしたのだ。だから「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」ことができれば良かったのだ。
 だがそんなことができるのなら、はなから悲劇は起こらない。
 それよりも「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という精妙な性格造型に、不可避的に暴走を引き起こすメカニズムが設定されているのではないか?

 このメカニズムは「悪循環」という言葉の印象によく似ている。
 これを説明するために再帰的」という言葉を使おう。悪循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましからざる傾向が強まっていくことだ。
 「再帰的」とは何か?

 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
 だが、「自己言及的な繰り返し」がなぜ「悪循環」を生じさせるのか?

 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそうした意味を表わす。また結果も原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
 いよいよ考察は最終段階である。
 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?

山月記 5 李徴にとって詩とは何か

 もう一つ、考える手がかり&条件として、次の点も指摘しておく。
なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか
 これはどうみても気になる表現である。
 ここで述べられている、李徴の詩に「欠けるところ」とは何か?
 もしくは、作者はなぜ李徴の詩に「欠けるところ」があるなどと感じさせているのか?

 これら「何?」「なぜ?」もまたさまざまなバリエーションで表現される。いずれにせよ、一貫した説明の中に適切に位置付けられる表現を発想することが肝要である。
 まずはあれこれアイデアを出し合ってみたい。

 最も素直な答えは、李徴の才能がその程度であることが端的に表現されているのだ、という解釈である。
 とすると、なぜ作者はそうであることを読者に伝えているか、という点が問題だ。李徴の才能は「第一流」には届かない。そのような設定は、どのような論理に組み込まれるべきなのか?

 だが、そういうことではない。袁傪が言っているのは、「素質」は「第一流」だが、「作品」が「第一流」には「欠けるところがある」ということだ。
 「素質」が「作品」に結実しない、どのような事情があるのか?

 だが、この謎への解答は、次頁の次の一節が言わば種明かしになっていると考えられるはずである。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
 つまり厳しい鍛錬の場にさらされていないのである。本人の才能だけでは到達できない修行の跡が見られないのである。

 さらに、一つの方向性として、李徴が自作の詩の伝録を袁傪に依頼した場面の次の記述から、この問題を考えてみる。
 次の二つの記述からわかることは何か?

  1. 作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
  2. 恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 もちろんここからは李徴の詩への強い執着が読み取れる。
 だがとりわけ後者に注目してみると、その執着の方向について、ある表現ができそうである。これを次のように表現してみる。
李徴にとって詩は  ではなく  である。
 これもまた、対比を用いて捉えるべきことを明確にするメソッドの応用である。
 
 「詩への強い執着」を読み取ろうとすると、  には「夢」「願望」などという言葉が想起されるが、それでは  に入る言葉が思いつかない。そもそも「夢」では強いのか弱いのかもわからない。
 話し合っているうちに、李徴は純粋に良い詩を書きたいと思っていたのではなく、名声がほしかっただけなのだ、といった分析を語る者が表れる。
 適切な分析である。
 これを、このブログの最初の頃の言葉を使って表現するとさあ…、と促すうち誰かが狙いどおりの言葉にたどりつく。
李徴にとって詩は目的ではなく手段である。

 この認識は李徴の詩の「欠けるところ」についての考察にも一つの解答を与える。
 つまり李徴は詩を道具として扱っているのだ。芸術としての詩に真摯に向き合っていない。そうした姿勢が袁傪をして「欠けるところ」があると感じせしめているのである。

 世の中には「山月記」の悲劇を、詩への執着によって心を狂わせた悲劇として捉える論考がある。
 確かに文学者や芸術家が、自死や発狂といった悲劇に向かう例は歴史上数多くある。李徴の悲劇をそれらと並べ、芸術至上主義や、言葉や文字の憑依といった方向から捉え、同じ「古譚」作品群の一つ「文字禍」と結びつける。
 だがそれは「山月記」という小説から遊離した妄想である。
 李徴の詩への執着は、芸術創造への耽溺ではなく、名声への妄執なのである。

 さて、李徴にとって詩が手段であることと次の一節には奇妙な矛盾がある。何か?
自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。
 李徴の詩への執着という点から見れば、伝録を依頼する事情として読み流してしまいがちだが、問題は「もとより、まだ世に行われておらぬ」という一節である。
 どこに矛盾があるか?

 これはつまり李徴は自らの詩をほとんど発表しなかったということだ。
 これは先に引用した一節とも符合する。李徴は「師に就いたり、求めて詩友と交わっ」たりすることをしなかった。そんな者の詩がどうやって他人に読まれるのだろう。インターネットもない時代に。
 つまり李徴は独りでせっせと詩を作り、それを発表もせずに死蔵していたのだ。
 詩が、真摯な自己表現というより名声を得る為の手段だというのに、である。

 この矛盾の原因を「なぜか」と問うのなら答えは簡単だ。
 「臆病な羞恥心」と「尊大な羞恥心」はそのまま李徴のそうした振る舞いを説明している。詩は「自尊心」を満たすための手段でありながら、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」から、発表ができないのである。
 だがむしろ、このことは、李徴を虎にさせたメカニズムの表れであるとみなすことはできないだろうか。
 つまり、こんなことをしているから「虎になった」のだ。
 どういうことか?