2021年1月22日金曜日

「である」ことと「する」こと 5 「宿命的」な混乱

 168頁まで「である/する」という対比を表わす表現をマークしながら読み進める。そして何事かを考える際に、必要に応じてマークされた表現を駆使する。


 さてその上で169頁下段の次の一節について考察する。

日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。


 ここで考察に値するのはどこか?

 「セメント化」に引っかかって、これを疑問として挙げた者がどのクラスにもいたが、むしろこれは大した問題ではない。「セメント化」という見慣れない比喩に惑わされているだけで、単に「固まっている」と言っているに過ぎない。

 これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。

 「『する』原理をたてまえとする組織」の例は?

 「『である』社会のモラル」とは?

  組織を「セメント化」するとは?


 「組織」の例は前の章の「会社」が簡便だ。

 「『である』社会のモラル」も既にマークされている表現の中から選べばいい。

 会社組織における人間関係は「する」論理、すなわち「仕事の側面」だけのものであるはずなのに、「先天的」な「身分」のような「まるごとの人間関係」といった「である」論理が関係性を決める、会社の上役がプライベートにまで口を出してきたり、社長だから偉いと決めつけたり。そのような人間関係が変えられないような日本の習慣を「セメント化」と表現しているのである。

 あるいは会社での評価は「業績」=「する」論理で決められるべきはずなのに、年齢=「である」論理で給料が決まっているような状態を挙げてもいい。


 それよりもこの一節の問題は前半にある。

 「一方/他方」は重要な対比なのだが、これが問題であることは意識されにくい。「一方で~他方で~」という一節が、既に述べられていることだ、と思えるだろうか?

 どこで?


 この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。

 ではさらに、ここで考察すべき問題は?


 問題は「日本の近代の『宿命的』な混乱」だ。

 「混乱」の内容は以下に述べる「ところに発している」あれこれで、そのいくつかは本文でも既に、またこの先でも挙がっている。

 それよりも問題は、なぜこの混乱は日本にとって「宿命的」なのか、だ。

 わざわざ括弧が付された「宿命的」に、丸山はどのようなニュアンスを込めているのだろうか?


 「混乱」の原因は以下の「猛烈な勢いで浸透する」ことと「根を張る」ことの衝突によるのだが、衝突するとなぜ混乱するのか、とさらに問うてみよう。

 これを説明するのに丁度いい記述が既にある。

 直前の168頁からは次の一節。

領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい


 165頁からは次の一節。

制度と思考習慣とのギャップ

 混乱を生じるのは、これら「落差」「くいちがい」「ギャップ」があるからである。

 さらに、これらはなぜ起こるか?


 168頁、上の一節に先立つ次の一節がその理由を述べている。

「する」社会と「する」論理への移行は、具体的な歴史的発展の過程では、全ての領域に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えてゆくものでもありません。

 したがって「ギャップ」「落差・くいちがい」が生じ、それが「混乱」を生む。

 だがこれがなぜ日本にとって「宿命的」なのか?

 日本の「宿命」とは?


 「『する』社会と『する』論理への移行」という言い方には見覚えがある。前の記事の「近代」とは何か? の答えだ。「近代」という概念の一つの側面を、この文章では「である」から「する」への移行として捉えているのだった。

 つまりこの「混乱」は日本が近代化する過程で生じているのだと言える。

 では日本における近代化はどのようにして行われたか?


 ここでその一つの説明として有効なのが、教科書298頁~の夏目漱石「現代日本の開化」で述べられている考え方だ。

 ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。

 漱石は日本の近代化がどうだと言っているのか?

 また、その考え方を利用して、丸山が言う「宿命的」な混乱はどのように説明できるか?


 漱石はこの「開化」が「外発的」だったという。

 「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。

 だが明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。

 一方、「ギャップ」「落差・くいちがい」とは「制度と思考習慣」「組織の論理と人々のモラル」の「ギャップ」のことだ。

 ここまで揃えば完璧な説明までもう一歩だ。


 近代化に伴う変化は、まず「制度・組織の論理」を「する」論理に基づくように変える。だが人々の「思考習慣・モラル」はまだすぐにはかわらず「である」論理をひきずっている。そこに「落差」「くいちがい」「ギャップ」がある。そうした「落差」が混乱を生む。そのようにして生じた「混乱」こそ、丸山が「宿命的」という言葉で表現している日本の近代化の特殊性だ。

 「外発的」に近代化した日本は「宿命的」に「混乱」せざるをえなかったのである。


2021年1月18日月曜日

「である」ことと「する」こと 4 近代

 2~4章(165~168頁)で、対比項目としてマークしておきたい主な表現を挙げておく。

身分・ドグマ・権威/現実的な機能と効用

to be/ to do

血族・人種・出生・家柄/行動          

先天的       /具体的な貢献やサービス

 「分」に安んずる/          

既定の間柄     /未知の人との多様な関係

            /会議の精神・赤の他人の間のモラル

儒教・縦の上下関係/ 横の関係

家柄・同族・素性に基づく/ 業績・機能集団

         /特定の目的活動

    君主   /会社の上役

まるごとの  /仕事という側面についての


 これ以外にも、既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。これ以降は、読みながら自分でその都度マークしていく。


 さて、第2章で何より難物なのは、章の終わりの次の一節だ。

(「である/する」図式を想定することで)例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる

 ここを「疑問/考察したい点」として挙げた者は各クラスにいた。適切な疑問だ。

 この一節はきわめて抽象度が高い。実際のところ、ここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。

 つまりここは、先に言及した、「全体」の論旨が集約されている「部分」なのである。

 したがってここではこの部分の解釈を完全に行うことはしない。

 ただ、この段階で考察できることもある。何か?


 この部分の解釈の難しさは、「ある面/他の面」と「非近代/過近代」が、それぞれに集約的で抽象的であることに因っている。

 難しいのはどちらか?

 見慣れない「非近代/過近代」ではない。「ある面/他の面」こそ、この段階では捉えるのが難しい集約的な表現だ。したがって「面」については読み進めて全体を振り返ってから再考する。

 一方「近代」については考えようがある。

 「近代」というのは様々なことを考える上で、また多くの評論を読む上できわめて重要な概念だ。あらかじめある程度の知識としてもっていることも期待されるのだが、ここでは文中からそれを読み取ろう。

  • 債権は行使することによって債権でありうるというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしは物事の判断の仕方を深く規定している「哲学」にまでひろげて考えられるでしょう。(164頁)
  • 身分社会打破し、あらゆるドグマ実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックス
  • もしハムレット時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえる(165頁)

 これら3箇所の「近代」に共通しているのは、簡単に言うとどのような意味合いか?


 平たく言うならば、近代とは「である」から「する」に価値の重点が移動してきた時代だということだ。

 とすれば「非近代」とは? 「過近代」とは?

 「非近代」とはまだ「する」への移動が充分ではないということであり、「過近代」とは「する」に移動し過ぎている、ということになる。

 さてそのようにいえる「ある面/他の面」とは何なのか?

 これは後ほど再考する。


「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 「『である』ことと『する』こと」という文章は、様々な話題が「である/する」という対比に沿って整理される。

 冒頭2頁までで挙げた先の対比項目に、追加すべき語がある。「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、決して語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。

 すなわち「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 「物神化」は語注がある。それだけではない。既に挙がっている項目との関連性・親和性も感じられる。どれ?

 「置き物」「祝福」である。

 「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だ。


 では「自己目的化」は?

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」の「歴史的教訓」を説明してみる。

 164頁の問題の箇所は、シンプルに言うと、民主主義は「である」ではなく「する」ことが大事だ、ということになる。それは同時に163頁の「教訓」でもある。

 ということは上の例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのである。どういうことか?


 「自己目的化」を説明するために考えるべきことは何か?

 既習事項だ。「自己目的化」とは「元々手段に過ぎないものが目的に置き換わり、本来の目的を忘れること」だった。

 つまり「目的」と「手段」を明らかにしなければならない。

 ここでの「目的」と「手段」とは?


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「どちらも漢字二文字で」と言ったところ「自由」と「制度」が挙がった。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だというのは正しい。だがここでの目的は「自由」?


 民主主義という制度の「目的」は国民の「自由」を保障することだ、というのは間違っていない。だがこの文脈で「民主主義」の「目的」を素直に表現するなら「国民に主権があることを保障する」といったところだ。「民主」とは「国民主権」の意味だ。つまり独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。「自由」も「主権」に伴って保障される権利の一つである。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起するとよい。

 何を想起すべきか?


 例えば「立憲主義」とか「法治原則」なども候補として挙がるが、ここでは「選挙」が想起されるとわかりやすい。

目的―民主(国民主権)

手段―制度=選挙


 さて説明のお膳立てはできた。

 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段だという建前に則っている。

 だがそれがやがて「自己目的化」する。「選挙」という「手段」が「目的」にすりかわってしまい、本来の目的「民主」が忘れられる。それが民主的な制度であることに「安住」して、人々が選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうち何が起きるか?

 彼らは徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。

 これが歴史上起こった「制度の自己目的化ー物神化」の一例だ。


 こんなふうに、考えるためにも、説明するためにも対比を意識することは有効だ。

2021年1月13日水曜日

「である」ことと「する」こと 2 対比

 何をすべきかは、自分で思いつかなければならない。どのように読んでいくことが有効なのかは自覚しておくのが有効だ。

 この文章を読む上で有効な方略は、もう一つの既習メソッド、対比だ。


 この文章はどうみても対比的に考察が進んでいる。そうした対比を示す言葉が文中に散らばっている。それらを取り上げて整理し、通観する。

 探すため、また整理のためには、対比される領域にラベル=見出しをつけておくと便利だ(ラベルはある程度ピックアップが進んでからでもいい場合もある)。

 どんなラベルが適切か?

 明らかである。「である/する」だ。

 本文から、「である/する」のどちらかに分類できる表現を探し、本文にマークするとともに、ノートに書き出す。どちらも必要な作業だ。マークしてあれば、本文を読むときに頭が整理された状態で内容を把握できるし、ノートに書き出しておくと、一覧してその共通性が把握できる。


 さてしばらくはそうした頭の使い方に慣れるために、実際にやってみる。

 ポイントは、どちらかに振り分けられる特徴的な表現かどうかを判断することである。それは語義的に判断されたり、文脈的に判断されたり、さまざまな場合がある。

 まず冒頭の162ページから挙げてみる。下段に「債権者である/請求する」は「である/する」に傍点がふってあるから、明らかにそうした対比を表している。

 だがそれよりも、ここでマークしておくことに価値があるのは「債権者であることに安住していると」の「安住する」だ。これはもちろん「時効を中断する」と対比されているからそちらもマークしてもよい。だが「時効を中断する」は汎用性がない。「する」論理を表すには表現が限定的すぎる。それに比べて「安住する」は次の163ページにも使われる。

 「安住する」に比べて「債権者」は「である」論理を表しているわけではない。「である」がついているから「である」なのであって、「債権者である」と同様に「債権者する」状態を想定することもできるからだ(日本語としては不自然だが趣旨はわかる)。「請求する行為によって時効を中断する」はまさに「債権者する」ことである。その意味で「債権者」という言葉はそれ自体ではどちらにも振り分けられない。

 それに比べて「安住する」が「する」論理を表すことはない。だからこの言葉を「である」論理を表現しているとみなしてマークしておくことは有意義なのである。

 次ページ上段ではこの「安住する」が「行使を怠る」と言い換えられるから、逆に言えば「行使」は「する」だ。

 さらに下段では「行使」が「祝福」と対になる。


 同様に「不断の努力」を「する」に、「置き物」を「である」に挙げておきたい。「不断の」といった形容や、「置き物」のような比喩も、対比を示す重要な要素だ。

 そして章の見出しである「権利の上に眠る者」の中の「眠る」もまた「である」状態を示す比喩的な動詞である。


 個別の箇所の判断は、詳述していけば上記の様に、なぜどちらかに振り分けられるかの説明がつくが、実際には読みながら、何となくわかる、といった程度で構わない。挙げていくと、その共通性からどちらかであることが判断できるようになる。

 次の164ページからも探して、一度整理してみよう。

である/する

眠る/ 

安住する/行使する

祝福する/行使する

  置き物/不断の努力

惰性を好む/    

ひとにあずける/      

よりかかる/立ち上がる

   /点検・吟味・認識・判断・警戒・監視・批判

「属性」として内在する/そのつど検証される

定義や結論/プロセス


 こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。

 ここまでは、我々の「姿勢」とでもいったような感じだ。「である」姿勢がどうなのか、「する」姿勢だとどうだというのか?


「である」ことと「する」こと 1 全体と部分

 今年度の授業は、年が明けて10回ほどしかない。この中で「『である』ことと『する』こと」「市民のイメージ」「南の貧困/北の貧困」「『贅沢』のすすめ」を読む。

 メインは「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」だが、後の二つはそれぞれと結びつけて読む。

 そして最終的には「『である』~」と「南の貧困~」を結びつける。

 そのために、さらに他に二つほどの文章を読みたい。

 正直、かなりきつい。

 まともな考察をするためには、まずテキストの情報を(表面的にではあれ)ひとまず把握するために、既に長い時間が必要になる。

 そこでそれぞれは冬休みに読むことにして、それを促す課題を出した。

 若干の未提出者がいるとはいえ、それらはシステムの不具合で提出できなかっただけだろうから、授業は、皆が既に上記の文章を読んでいて、それについて課題に答えるだけの考察もしてある前提で展開する。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 今回は事前の授業準備に、「疑問点・考察したい点」を挙げよ、という課題を出しておいた。受身で授業に臨むのではなく、自分で問題意識をもっておこうというわけだ。

 それらの疑問は、文章全体の主旨にかかわるものと、部分的な表現にかかわるものとがあった。

 授業での読解は、これまでの評論教材でも、この「全体/部分」を行き来する形で読み進めていった。どちらかだけを先に完了することはできない。わかりにくいと感じられる「部分」を適切に理解したり説明したりするためには「全体」に対する見通しが必要だし、「全体」は「部分」の集積でできている。だから「行き来」が必要だ。これはどんな文章の読解でも鉄則である。

 とはいえ、とりあえずどちらかに手をつけるしかない。まず通読した。「部分」だ。では次に「全体」を?

 だが「『である』ことと『する』こと」は、この「全体」の把握がそもそも難しい。「ミロのヴィーナス」や「空白の意味」が一読しただけで、とりあえず「全体」の主旨がわかったようには、この文章は把握できない。

 例えば「全体」を把握しようという思考を促すためのメソッドが「問いを立てる」である→。 この文章の主旨を掴もうとし、それがどのような問いに対する答えなのかを想定する。その問いを「~か?」の形で表現する。

 だがこれが「『である』ことと『する』こと」では容易にはできない。ちょっと考えてみればわかる。「ホンモノのおカネの作り方」「ミロのヴィーナス」「ロゴスと言葉」に比べてもはるかに難しい。


 ではやはり、引き続き「部分」を?

 だが実は皆が疑問として挙げた「部分」の多くは、「全体」の主旨が凝縮した表現なのだ。

 その意味で目の付け所として適切ではあるが、ということは「全体」の把握ができなければ、その「部分」については考察も説明も議論もできないのである。「ミロのヴィーナス」でも「ロゴスと言葉」でも、そういった「部分」の考察は最後に回したのだった。

 さてどうするか?


 ということで、当然のことだが、まずは全体に関わる核心的な「部分」ではなく、冒頭から読む。そして段落ごとに把握する。

 このための思考が、各章一文要約である。「全体」を捉えるために、各章はなるべく短く圧縮しておく。

 これを例年は授業時に行っていたが、今回は冬休みの課題とした。

 そして、その範囲で考察できる部分的な「部分」を考察していく。

 つまり小さい範囲での「全体→部分」を繰り返していくのである。ある意味で授業の読解の常套手段だ。

 そのうえで、文章「全体」につなげていくための読解として何をすべきか?


2020年12月29日火曜日

国語に正解はない?

 「国語に正解はない」という言説をしばしば目にすることがある。「解釈は人それぞれ」などともいう。
 こういうことを門外漢が言う分には罪がないのだが、しばしば国語教師がそういうことを言うこともあり、経験上そういう人は国語教師として誠実か不誠実かどちらかだ。

 国語のテストの問題に正解はあるか?
 しばしば大学入試の問題にも、その正解をめぐって批判が寄せられることがある。多くの場合はその出題の妥当性、解答の限定力の弱さをめぐる批判だが、極端な場合は選択問題でさえ、どれが正解かをめぐって意見の相違がある(そこでは作問者でさえ特権的な立場ではいられない)。
 確かに国語という教科は、そうした問題となる「問題」を完全に払拭することはできない。そういう意味で確かに「国語に正解はない」。
 だがテストにはマルバツがつく。つけねばならない。

 とはいえ「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」という言説は、多くの場合テストに対してではなく、授業を対象にして使われる。さらに言えばそれは評論よりも文学作品を対象にした(とりわけを扱った)授業に対して使われることが多い。
 そうしたときに上記の様な言説が不誠実に発せられていると思うのは、しばしば「正解はない」「人それぞれ」と言うことが、厳密な解釈をしない口実として使われているからだ。
 そういう教師こそ、一方でテストでは、躊躇なくバツをつける。それは「国語に正解はない」という言説と一見相反するようにみえる。
 だが国語に正解はないと言いつのることと、予定された正解以外の答えにあっさりとバツをつけることとは、実は論理的に同じことだ。どちらも厳密な解釈をしようと努力しないという姿勢の表れなのだ。

 だがもちろん「国語に正解はない」し、「解釈は人それぞれ」だ。
 そもそも国語の「正解」って何だ?
 国語の「正解」とは多数決で決まるような、最大公約数的な解釈だ。投票権があるのは「国語力が高い」と想定されている人ばかりだとはいえ、多数決なのだから、少数の反対意見はいつだって残る。それを指して「解釈は人それぞれ」ということもできる。

 一方で、テストが正解不正解を振り分けることを目的とするなら、「正解」を定めないわけにはいかない。
 だからテストで問うことができるのはとても単純なことだ。少数の反対意見が残ったりしないような(可能な限り、ではある)。
 だから文学作品、とりわけ詩の作品としての解釈などテストで出題できない。「正解」など定めようもないし、定めることよりも、解釈は人それぞれであることの方が面白い。
 だからといって「解釈は人それぞれ」でいいのか?

 一般に「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」といった言い方で表されていることには、次の3点の要素が混ざっている。

  1. テクスト(=言説)は意味を一つに限定できない(テクストには多義性がある)。
  2. 読解という現象はテクストと読み手の間で起こる。
  3. 人の好みは人それぞれ。

 テクストは多義性をもっている。
 例えば、アンデルセン童話「醜いアヒルの子」の題名は、二つの意味に解釈できる。「醜い」という形容が「アヒル」に係っているか、「子」に係っているか、どちらと見做すかによって、このテクストは意味を変える。
 主人公であるアヒルの雛は他のアヒルの子供たちと違って一羽だけ醜いのかもしれない。
 だが、醜いお母さんアヒルから生まれた雛が主人公ならば、彼はたぶん可愛いのだろう。
 さらに「醜いアヒル」という係り方に限定してみても、その親アヒルが醜いと言っているだけなのか、アヒルという鳥は一般的に醜いと言っているのかは決定できない。
 「醜いアヒルの子」という言表は、それ自身が複数の異なった意味を発生させてしまい、彼が可愛いのか醜いのか(アヒルが一般的に醜いのか否か)を確定させない。
 もちろんテクストの意味は文脈の中で確定されることがある。テクスト内情報相互がそれぞれの「文脈」として互いを有意味化する。だからこの童話の題名が意味するところは、内容と合わせて考えればどちらか判断できる。彼は雛のうちは他のアヒルの雛よりも醜かったのだ。そして美しい白鳥の成鳥になったのだ。
 そうした、文脈の中で意味を捉えようとする思考を「読解」というのである。

 それでもテクストの意味はどこまでも確定しきれるわけではない。関連項目が増えれば、多義性一方で収束し他方で拡大する。消滅はしない。
 加えて、そもそも「読解」するときの「文脈」はテクスト内情報だけに限らず、読み手自身の持っている情報をも含む。どんな人がいつ読むかで、テクストはその意味を変える(1年の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、それが劇的に展開する物語だ)。
 つまりテクストの「意味」は、テクストの中に元々あるのではなく、読者の中で、その都度作られるものなのだ(ここで「『である』ことと『する』こと」のプディングの味の喩えを思い出そう。プディングの味はプディングに内在するのではなく、食べる時にその都度作られる)。
 だから読解とは必ず一回性の、個別的なものだ。
 これは「読者論」「受容理論」として知られた考え方だ(皆が読んだはずの『寝ながら学べる構造主義』にロラン・バルトの思想として紹介されていたのではなかろうか)。

 「解釈は人それぞれ」という言い方には、こうした1と2の考え方が曖昧に混ざっている。それは否定すべくもなく正しいが、だからといってそれでいいのか?
 この言葉は、多くの場合使い方が間違っている。授業とは、そもそも「人それぞれ」であるような解釈を持ち寄って検討し、そこに合意を作ろうとする場なのだ(もちろん「正解」を教える場でなどあるわけがない)。「解釈は人それぞれ」だから統一しなくていい、ではなく、「解釈は人それぞれ」だから合意を形成しよう、であるはずだ。
 だが「解釈は人それぞれ」という言説は、往々にして合意をはかる努力を怠る方向にはたらいている(中国や韓国との間で度々揉める歴史解釈の問題もそうだ)。
 そして「国語に正解はない」と言うことは、テクストの意味の多義性、もっといえば可能性を本気で探ろうとはしない姿勢に結びつく。

 だが「人それぞれ」でいいのは「解釈」ではなく「好み」なのだ。
 好みこそは「人それぞれ」であっていい。あるしかない。
 厳密な解釈の上でそれでも残る多義性については、それぞれの読者が好みで選べばいい。


 我々は、みんなが集まった授業という場において、こうした、テクストの多義性に潜む可能性最大限探ることと、それらの妥当性についての合意を形成することを目指しているのである。だから本授業者の提示する読解は「正解」ではないし、それに異論を提起することは、本当に有益だ。
 もちろん少数意見が残ってもいい。ましてそれぞれの好みの違いはそれぞれであっていいに決まっている。
 だがそれぞれの好みは、それぞれの解釈の妥当性を厳密に探ろうとした果てにしか本当には尊重されない。それぞれの解釈の違い放置することは、尊重ではなく軽視だ。

 だから議論が1,2,3のどの局面に関わるものなのかを意識しつつ、多様性を認めることと合意を形成することを同様に目指すべきなのだ。
 そうした姿勢を指して「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」というのなら、それは国語教師として誠実だと思う。


2020年9月24日木曜日

ロゴスと言葉 10 構造的同一性

 「部分」の解釈としてもう一カ所。

ロゴスとしての〈名=言葉〉があって初めて世界は分節され、実質的なもろもろの差異が構造的同一性で括られることによって存在を開始するのであるから、ロゴスが生み出したカテゴリーこそが、一見自存的実体と思われていた〈指向対象〉だと言わねばならない。


 前半後半ともに容易には腑に落ちない表現が含まれているうえに、前半と後半の論理的つながりも俄には理解しがたい。

 「構造的同一性で括られる」とは、それらのもろもろのモノのもつ「構造」が同一のものを、それぞれの差異を捨象して一つの仲間としてまとめることだ、と解釈したくなる。

 例えば、「机」という概念で示されるもろもろのモノには、四本の足で支えられる平面があって、その上で何かの作業をする…といった「構造」的な同一性があることによって、材質や大きさや付属物に違いがあっても、一つのカテゴリーに括られるのだ、というふうに。

 だがそうではない。

 「同一性」は「構造的」に決定される「同一性」だ、と言っているのだ。

 何の「構造」?

 対象となっているモノの構造ではない。言語のもつ構造である。

 対象となるモノの構造が同一ならば、それをひとつのカテゴリーに括る、と言っているわけではなく、言語という構造の中で同一のカテゴリーに括られることで、初めてモノは存在を開始する、と言っているのだ。

 この「構造」を喩えたのが「網」という比喩である。

 網目の一枡は、隣接する他の枡目と区切られることによって一つの枡目となる。枡目同士は相互の緊張によって支えられている。こうした枡目の一つ一つが「言葉」(単語)なのであって、それは「網」という構造をつくっている。それが言語体系だ。

 「構造的同一性で括られる」とは、現実的には様々な差異のある「もろもろ」がそうした構造の中にある一つの枡目に入れられることによって初めて「存在を開始する」と言っているのである。

 そのそれぞれの枡目こそ「カテゴリー」であり、それが言葉の指し示す「指向対象」=言葉の「意味」だ。

 現実の「机」は「テーブル」や「椅子」と区別される「机」の枡目の中に括られた時に初めて「指向対象」として「存在を開始する」のであって、それ以前に「自存的」に在ったわけではない(もちろん物理的には存在していても)。


 こうした一節も、言語論の基本的な考え方がわかっていないと、この文章の解釈だけでは適否を判断できない。

 他にも腑に落ちない箇所があれば、いつでも質問に応じたい。納得がいくまで考えよう。

ロゴスと言葉 9 象徴の森という名の文化のシミュラークル

 「ロゴスと言葉」という文章は、ソシュールの言語論に基づく様々な言語論―たとえば「ものとことば」や内田樹の文章―の中でもとりわけ読みにくい。

 とはいえ全体的な論旨の把握や、他の言語論との比較の中で、最初はわからなかった箇所も、それなりに読めるようになってきたはずである。

 が、依然としてすんなりとは腑に落ちない箇所もあるだろう。

 最初に予告した「細部を読む」を最終段階で迎えるにあたって、取り上げたい箇所はいくつもある。最終的な応用課題として、今までの考察を元に、厄介な表現を説明できるようになっているか、チャレンジしてみたいところではある。


 とりわけ厄介なのは以下の一節である。

彼女は次第に象徴の森という名の文化のシミュラークルに入っていく。繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。


 まず「象徴の森という名の文化のシミュラークル」を説明してみよう。

 どういうことを言っているかはもうそれなりにわかっているはずだ。

 問題は、どう説明するか、である。


 この表現を分析するには、「象徴」「文化」「シミュラークル」それぞれに込められた意味合いを捉えるとともに、「象徴の森」という比喩や「名文化」の二つの「の」のニュアンスを捉える必要もある(所有格の「の」には様々な意味・用法がある)。形容句の係り受けの構造もあやふやだ。まったくもって厄介な問題が凝縮した表現だ。


 「象徴」はこのブログでも頻出。というか、すべての文章の読解で「象徴」について考えてきた。「金」「少年」「手」「虎」「雪」…。

 「象徴」とはそれをそれという具体物として捉えず、抽象概念として捉える認識のことだ。「手」は「世界との媒介の手段」、「虎」は「強さ/孤独/制御できないもの」、「雪」は「聖なるもの」…。

 言葉はすべて、特定の具体物を指すのではなく、概念を表している。「机」という言葉は目の前の学習机を指しているのではなく、「机」という概念を表している。一つの机を指して「机」と言ったとしても、その机は「机」という概念の一つの具体的現れとして捉えられている。

 ということは、言葉で世界を捉えるとは、概念として世界を捉えるということである。

 我々が言語を通して見ている世界にはそのような「象徴」が溢れている。それが「森」という比喩で表されている。我々はそうした「象徴」に囲まれている。


 「シミュラークル」は「シュミラークル」ではない。英語の「シミュレーション=模倣」の方が馴染みがあるだろうか(これも「シュミレーション」ではない)。

 教科書の註ではわかりにくいが、とりあえず「コピー」のことだと考えておこう。「本物ではない」という意味だ。

 我々は「象徴」に囲まれている。つまり我々が見ているのは個々の具体物ではなく、概念なのである。言葉を使ううちに、少女は現実の具体物=オリジナルではなく、概念=コピーの「森」の中に入っていく。


 「文化」は第3回「ものとことば」比較の中で考察した。

 本文の趣旨を捉えるためには対比の考え方が有効であり、それはそのまま説明のためにも有効である。

 「象徴」「シミュラークル」も対比で捉えて以下に列挙する。

    動物/人間

 感覚・運動/言語

    現実/虚構

   具体物/象徴

    自然/非自然

    本能/文化

 オリジナル/コピー

      /シミュラークル

 子供は言葉を使うことで左のような世界観から右のような世界観の中に「入っていく」のである。

 対比項目を列挙したら、それを繋げて考える。

 それぞれの項目をどのような順番で繋げてもいい。例えば左辺の項目を繋げて「動物現実世界のオリジナル具体物を感覚で捉える。それは本能に根ざした自然な捉え方だ。」というように。

 右辺を繋げてみよう。

 人間は言葉を通して、世界をそのままでなく、コピーされた象徴として捉える。それは生物にとっての自然ではなく、人間が作り上げてきた文化的シミュラークルに生きているということだ…。


 この対比がわかれば、次の一節も理解できる。

この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての〈モノ〉ではなく、文化の中でのみ意味をもつ〈コト〉として存在し始めたと言えるだろう。(102頁)

 「ゲシュタルト」が鬱陶しいがそこに惑わされずに、これも「ではなく」型の文型で対比を表わしていることを見てとる。左辺を否定的に提示し、右辺を主張しているのである。

 するとこれも、上の対比軸上に並べられる。

 〈モノ〉とは「人間としての種」=動物が捉える具体物であり、〈コト〉は「人間」が言語によって捉える概念的表象である。


 「シミュラークル」には、註によると「オリジナルが失われた」というニュアンスがあるという(『現代文単語』には残念ながらこの重要なニュアンスが説明されていない)。

 ボードリヤールが広めた「シミュラークル」という概念の重要性は、一般的に皆が信じている「オリジナル/コピー」という対立を無効化するところにある。我々が生きている世界は「コピー」だが、といって「オリジナル」がどこかに存在するわけではないのだ。

 丸山がここで「シミュラークル」という言葉を使うのは、左辺のような「オリジナル」な世界すら実は想像の産物でしかなく、我々は右辺のようにしか世界を捉えられないということを強調しているのである。


 また、この考え方は前回説明した「言語の恣意性」にも重なってくる。

 「言語の恣意性」とは「言語は現象と独立した構造をつくっている」ということだった。そしてここでいう「現象と独立した構造」とはそのまま「象徴の森という名の文化のシミュラークル」に他ならない。

 シミュラークルは現実世界と独立してるがゆえに恣意的である。コピーはオリジナルの手を離れて自由なのである。


2020年9月20日日曜日

ロゴスと言葉 8 -どちらが先か?

 言葉と表象、どちらが先か?


 「言葉が先」の鈴木孝夫は先に引用した箇所で次のように言っている。

ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。(75行目~)


 「切り離して扱う価値があると認めた」というのは、山鳥の言う「心のはたらき」がまずあるということだ。それは「切り離」された「表象」が先にできたということではないか?

 だが「表象が先」の山鳥はこう言っている。

心に生成する表象はそれ自体としては心そのものであり、心から切り離すことはできない。その表象に音韻(名前)が貼りつけられると、音韻と表象は一つの構造(言語記号)を作り、心から切り離せるものとなる。(8行目~)


 表象は「心から切り離すことはできない」、名前がついて始めて「心から切り離せる」というのは、「表象が先」にあるわけではないということだ。山鳥自身がそう言っているのである。

 もちろん「心のはたらき」くらいなら、先にあるだろう。だがそれが言語と対応した「表象」になるためには「音韻と表象は一つの構造を作」る必要があるのだ。


 「言葉が先」と主張しているはずの鈴木が、まるで「表象が先」であるかのように言い、「表象が先」と主張しているはずの山鳥が「表象」は「先」にはない、と言っているかのようだ。


 つまりどちらが先だと言おうとしても、それに反するような記述が自分の文中にまぎれこんでしまう。


 では言語論の元祖、ソシュールは何と言っているか?

 「同時だ」と言っているのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉は単なる無意味な発声や模様である。二つが結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する新たな言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。

 言葉と表象は同時にしか存在し始められない。メルロ・ポンティが次のように言うのはそのことである。

事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである。


 だがまだ納得できない人もいるだろう。

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 こうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのである。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのである。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。「まだ名前を持たないもの」という言葉をつけるまでは「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのである(もちろん物理的実体はある。認識の中に「表象」として存在していないという意味だ)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。

 「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 素朴に言えば、そんなバカな、と感ずる。犬と猫の違いは見れば分かる。言葉より先にその違いを認識できないはずはない、と。

 だがそうではない。我々は既に言葉によってカテゴリー化された「象徴の森のシミュラークル」に生きているから、それ以前の認識の状態を想像することが難しい。言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはアレコレの個体差があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きいのである。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のようなズルい仮名の想定も含めて、名付けが必要なのである。


 言葉と表象は同時にしか成立しない。

 そしてまた、どちらもが単独で先に「ある」のも確かである。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥がいうように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導するのである。

 だが一方で、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレが生じるからこそ、新しい言葉が生まれるのである。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めているのである。それを山鳥は「心のはたらきが先」と言っているのだろう。

ロゴスと言葉 7 -言語の恣意性

 授業者が指定した、具体例を論拠として述べている部分の比較から生まれた、有益な議論を紹介する。


 山鳥は次の事実を示して「表象が先」と述べる。

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


 一方で鈴木は次の事実によって「言葉が先」と述べる。

実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。


 この二つの記述それぞれに有効な反論が授業で提示された。

 まず前者、山鳥に対して。

 「同じ表象」「同じ海、同じ空」と山鳥は言うが、それが「同じ」であることはどうしてわかるのか。翻訳を通して、限りなく近い表象であることが両言語話者に了解されていくこともあるだろうが、その表象がずれている例はたちまち見つかる。したがってこの「同じ」は「比較的近い」「大体同じ」であることが言葉の使用を通して推測されるに過ぎない。それを「同じ表象」が「先に」存在しているかのように表現し、それを論拠にしているのは、実は結論ありきで「事実」を捏造しているのである。

 次に後者、鈴木に対して。

 言語によって言葉の示す「表象」がずれていることは、言葉が先であることの根拠にはならない。ある民族は、その風土、自然環境、生活習慣などから、対象を認識し、表現する上で、対象をある切り取り方で「表象」する。それが民族毎に違ったものになるのは自然なことだ。従ってそうして切り分けた「表象」に名前としての言葉を貼り付けるのだから、言葉の示す「表象」が言語毎にずれるのは当然である。言葉の示す範囲・幅がずれていることは、「言葉が先」である証拠にはならない。「表象が先」だからだ、と言っても一向にかまわない。


 山鳥は違った言語が「同じ表象」を「持ちうる」ことを根拠に「表象が先」と言い、鈴木は言葉の示す表象がずれている例を根拠に「言葉が先」という。

 だがどちらにも上記の様な反論ができてしまう(これらの反論を提起した者、鋭い!)。


 両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、フェルディナン・ド・ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が共通しているのも、これらがソシュール言語論に定番の用語だからだ。

 ソシュールについては内田樹の『寝ながら学べる構造主義』で紹介されており、春休みの宿題として皆が読んだはずなので、ここでは説明しない。

 ソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」である。

 「恣意性」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。

 各言語による異なった名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。

 ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対してどういう形態をもとりうる。これが言語のもつ「恣意性」だ。

 これだけ聞くと、どちらかといえば「表象が先」であるような印象になる。

 だが実は「言語の恣意性」は上のような説明でのみ理解すべきではなく、「水/Water」の例のように、対象の切り分け方の「恣意性」のことでもある。どうとでも切り分けていいのだから表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。つまり「言語が先」なのだ。

 山鳥は前者の「恣意性」を「表象が先」の根拠とし、鈴木は後者の「恣意性」を「言葉が先」の実例として用いているわけだ。


 だが二つの「恣意性」は別々の物ではない。それらは同じ原理から派生している。

 それは「言語は現象と独立した独自の構造をつくっている」という原理である。

 独立しているから、現象に対してどのような形態をもとりうる(各言語で違った名称になる)し、現象をどのように切り分けることもできる(各言語で意味の幅が異なる)。

 これがソシュールの言う「言語の恣意性」である。「独立している」=自由=恣意的なのである。

 そうした「言語の恣意性」を唱えた元祖、ソシュールは、この、どちらが先か問題について何と言っているか?