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最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。
それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。
「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。
だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。
とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。
そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。
今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。
豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。
第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。
近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。
主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。
これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。
これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。
ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。
皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。
前述の『人身御供論』の中で、大塚は通過儀礼の物語と、「鶴女房」「蛇女房」「猿婿入り」などの民話に見られる「異類婚」のモチーフを結びつけ、〈移行〉期における随伴者としての「異類」の存在を「移行対象」のアナロジーで考察している。
『移行対象(transitional object)』とは、絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である『移行期(6ヶ月~1歳頃)』に現れてくる物理的な対象のことである。それは単なる物理的なモノというだけではなく、今まで一方的に依存していた母親のもとを離れようとする幼児の孤独や不安を和らげる魔術的な力を持ったぬいぐるみやおしゃぶり、玩具、毛布、ハンカチなどのことを指す。(「分かりやすい“心理学用語事典・学術用語事典”のブログ!Keyword Project+Psychology」)
幼児は成長する過程で、いったんは「移行対象」に依存し、その後再びそれを捨て去るのであり、これが、「異類」との別離が必須である理由だと大塚は分析する。
先の『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、「ハク」と呼ばれる川の精霊に助けられて、異界での〈移行〉期を過ごす。だが、通過儀礼の物語の最終的な段階である〈再統合〉のためには、千尋は「ハク」との別れを経験しなければならない。
そして「異類」との別離は、時として殺害という形で表現されることもある。あるいは主人公によって、あるいは物語そのものの力によって、「異類」は通過儀礼の供儀として殺される
グリム版「赤ずきん」では、森へのお使いが〈分離〉および〈移行〉のプロセスに対応し、帰還が〈再統合〉に対応している。だとすれば、森という異界に住む狼が、赤ずきんにとっての「移行対象」である。ベッドに潜んで赤ずきんを誘惑し、「食べて」しまう狼に性的な比喩を読み取ることは容易だ。つまり狼は赤ずきんにとっての「異類婚」の相手である。そして主人公は「移行対象」である「異類」を殺すことによって、通過儀礼の物語を完遂する。
「羅生門」の老婆もまた、下人によって手荒く蹴倒されることによって、「移行対象」としての役割をまっとうしたのだといえる(そうした観点からは『千と千尋の神隠し』における〈移行〉期の随伴者は「ハク」及び「カオナシ」「湯婆婆」の三者に分離しているというべきかもしれない。子ども向けの作品としては随伴者の殺害といった物騒な展開にするわけにもいかないだろうから、「ハク」とは別れのみを体験させ、「殺害」に相当する闘争の相手として「湯婆婆」を置いているのかもしれない。「カオナシ」の存在はまた奇妙な謎に包まれていて、ここでは分析しきれない)。
こう考えてみると、「舞姫」の物語が、なぜエリスの発狂という、読者にとって不全感を拭いがたい形で完結しなければならなかったのかという疑問にも、ひとつの解答が得られる。
それは「舞姫」という物語が、豊太郎を近代日本という社会に〈再統合〉させる通過儀礼の物語だからなのだ、という答えである。
エリスという「異類」は、そのための供儀として殺されなければならなかったのだ。
通過儀礼とは、当人にとっては共同体への参入の資格を得る機会であり、それが「成長」というビルディングス・ロマンの形式にも比せられる理由だが、一方で通過儀礼を要請するのはあくまで共同体の側である。
共同体は、内部の秩序を成立させるために、異物を作り出してそれを外部に排除する必要がある。「一寸法師」や「桃太郎」における鬼ヶ島の鬼たちも、そうして殺される「供儀」である。
老婆が着物を剥ぎ取られたうえで蹴倒されるのも、エリスが発狂したうえで捨てられてしまうのも、狼や鬼などの異界の住人が当然のように腹を裂かれ討ち滅ぼされてしまうことを考えれば、やむを得ない物語上の要請があったからだと考えるべきかもしれない。
それは主人公による主体的選択などではなく、物語が強いる構造上の必然だ。そこでは登場人物の豊太郎もまた、近代的「個人」として行為の起源を担うことはできない。
「舞姫」と「羅生門」それぞれに、通過儀礼の構造を見つけることは難しくない。
「舞姫」では、豊太郎の洋行がすでに〈分離〉の形式を成していることは明らかだが、さらにここに「母親の死」と「免官」という要素を加えて、鷗外は豊太郎を日本、及びその安定した社会構造から念入りに〈分離〉する。
一方の「羅生門」の下人もまた「主人から暇を出され」ることで社会的秩序から〈分離〉されている。
〈分離〉はまた、異界への越境である。たとえば千尋が神々の世界に迷い込む際にトンネルを通過する場面は、〈分離〉の形式を、「境界を越える」という空間的な移動として象徴的に表現したものだ。
「羅生門」における越境を空間的に展開したのが、もとより境界上に存在する門としての「羅生門」という舞台設定であると一見したところ見えなくもない。
だが下人は千尋のように門を通って都の外へ出るわけではない。そもそも「羅生門」が隔てている「洛中」と「洛外」は、〈洛中のさびれ方はひととおりではない〉以上、それほど明確なコントラストを描いているとはいえない(むしろ初出によれば、下人はこのあと京都の町、つまり「洛中」へ舞い戻るのだ)。
したがってここでの越境は、羅生門の上層へ下人が登ることによって表現されていると言える。
一方「舞姫」における越境について考えるには、「山月記」「檸檬」との比較において考察した「舞姫」の空間把握が参考になる。
すなわち大きなスケールでいえば日本→ドイツが〈分離〉=越境であるには違いない。
だが、豊太郎にとってドイツは異国ではあるが、ウンテル・デン・リンデンに立つ豊太郎はまだ社会的秩序から断ち切られているとは言い難い。豊太郎にとって本当に異界であるのは、ここまでも空間的な対比として捉えてきた、反ウンテル・デン・リンデン的空間であるクロステル巷だ。異界としてのクロステル巷へ足を踏み入れた豊太郎は、そこで異界の住人であるエリスに出会い、エリスに伴われてその家へ足を踏み入れる。
つまり「舞姫」において〈分離〉の形式は、先に「檸檬」との比較で考察した西洋的秩序への忌避感や母親の死と免官といった心理的な〈分離〉とともに、空間的には「ドイツ」→「クロステル巷」→「エリスの家」という入れ子状の「異界」への空間的な越境によって表現されているのである。
こう考えてみると、うち捨てられた死体の転がる羅生門の上層への梯子を登る下人と、父親の死体の横たわるエリスの部屋への石の梯を登る豊太郎の姿が、奇妙に重なって見えてくる。
「異界」は「彼岸=あの世」でもある。二人はともに「異界」への越境という形で、通過儀礼における〈分離〉を果たす。
これまでKや檸檬と対比されてきたエリスは、ここで老婆に比せられる。
二人は豊太郎や下人が〈移行〉期を過ごす「異界」の住人だ。エリスとのつつましやかな同棲生活が豊太郎にとっての、また老婆との会話の戯れが下人にとっての〈移行〉期である。下人はここで本当に、それまで彼を捉えていた「観念」から〈分離〉される。
とすれば、豊太郎と下人の〈再統合〉はいかにして行われるか?
最後に「羅生門」と「舞姫」を読み比べてみよう。
今年度の授業は「羅生門」から始まった。最後の教材「舞姫」の読解を「羅生門」との重ね合わせで終わるのも妙な巡り合わせではある(もちろん普通は1年生の早い時期に「羅生門」を読むので、つまりこの2作品は高校の国語科授業の最初と最後を飾る小説だといえる)。
この読み比べによって期待するのは、なぜエリスはあんなに酷い目に遭わねばならないのかという疑問に対する一つの説明である。この疑問に対する別の解答は「こころ」との比較において考察した、豊太郎を日本に帰すという結末を前提として、豊太郎の性格造型との整合性を持たせるため、という心理的な機制である。一方ここでは文化人類学的な知見を応用した、別の説明を試みる。
さて、両作品を比較する端緒は何か?
共通するキーワードは「通過儀礼」である。
「通過儀礼」 出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(「Wikipedia」)
「イニシエーション」 人類学用語。「成年式」「入社式」とも訳される。社会的に一人前の成人として認知,編入されるための一連の手続きのこと。広義には,ある社会的カテゴリーから他の社会的カテゴリーへの,集団的あるいは個人的加入を認可するための一連の行為体系をさし,秘密結社への加入やシャーマンなど宗教職能者の地位の取得なども含まれる。通過儀礼を伴うことが多い。(「コトバンク」)
長らく国語教育界では「羅生門」を「極限状況において人間が持たざるを得ないエゴイズム」を主題とする小説として扱ってきた。だが今年度の最初に読んだ「羅生門」はそのような小説ではなかったはずだ。
ここでは詳述しないが、授業で提示した読解によれば、「羅生門」とは自らの「観念」から脱却する話だ。とすればそれは下人にとって一種の成長譚と捉えることができる。
そしてこれを通過儀礼の物語として読もうというのが、ここでの読み比べの手がかりである。
一方、「舞姫」を通過儀礼の物語として読む可能性については、前述の前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」に言及が見られる。
さて、「舞姫」と「羅生門」を通過儀礼の物語として読むためには、もう少し準備がいる。それは通過儀礼の基本構造を押さえておくことである。
通過儀礼がその構造上、三つのプロセスに分けて考えることができるのは文化人類学の定説である。まず儀礼の当事者は彼がそれまで帰属していた社会的立場から〈分離〉する。そしていったん、彼は日常的な社会秩序から解き放たれ、非日常的な時空を象徴的に生きる。この状態を〈移行〉期と呼ぶ。やがて彼は再び社会に〈再統合〉されるが、その段階では彼はそれまでその支配下にあったのとは全く異なる社会的秩序のものと組み込まれているのである。(大塚英志『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』)
古くからの民俗や習俗にとどまらず、多くの民話・神話、童話やファンタジーなどの物語をこの〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という基本構造によって分析する試みが、これまで文化人類学や民俗学で行われてきた。
たとえば、旅をモチーフとする、いわゆる「行きて帰りし物語」は基本的に通過儀礼の構造をもつものとして把握できることが知られている。
「桃太郎」「一寸法師」「白雪姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」などの民話、あるいは「ナルニア国物語」「指輪物語」「ゲド戦記」「ハリー・ポッター」などのファンタジーにも同様の構造が見られる。
たとえば人口に膾炙した宮崎駿監督によるジブリ・アニメの諸作品も、多くはそうした構造をもっているといっていい。
中でも最も典型的なのが『千と千尋の神隠し』だ。現実の世界では中学生である千尋は、トンネルを抜けて迷い込んだ神々の世界で父母と離れ名前をはぎ取られて(分離)、湯屋の下働きとして働き(移行)、やがて元の世界へ帰る(再統合)。そこには主人公の成長を描こうとする、明瞭に意図された通過儀礼の構造があからさまに見て取れる。
さて、以上の予備知識をもとに「舞姫」と「羅生門」について考察する。
「檸檬」と「舞姫」に見出せる対比構造を表わす抽象語を考えてみた。
外面/内面
社会/個人
公的/私的
秩序/混沌
中心/周縁
する/である
近代/非近代
西欧/日本
均質/感性
これらの対立に基づいて読むことの妥当性を考えることが、すなわち「檸檬」や「舞姫」を読むことだ。上のどれかが「正解」などということもなく、ましてそうした「正解」を教わることに意味があるわけではない。
妥当性は作品の読解によって保証される。読解に資するものであればいい。
こうした構図に基づいて引き続き、最初に提示した「檸檬」の謎を解こう。
画集を積み上げて檸檬を置くという行為は何を意味するか?
柄谷の論が参考になる。画集が象徴しているのは、外国から輸入された、公的に価値を認められた秩序体系だ。本来は秩序を破壊する力を持っているはずの芸術を、規格化された体裁に収めて年代順かアルファベット順に並べることで秩序に馴致させたものが画集である。またこうした全集に収録されることでそれらは権威づけられ、収録されていない作品・作者群との間に中心(権威)/周縁という秩序を構成する。
主人公は、こうした秩序体系において価値を認められている画集本来の価値を無効化して、あたかも積み木のように用い、その秩序を壊して「ゴチャゴチャに積み上げ」る。
そして、公的なヒエラルキーを逆転して、その頂上に檸檬を置く。それはつまり先ほどの構図の、下の領域による、上の領域の価値の転倒である。
だが、いっときヒエラルキーの逆転に満悦したとしても、狂態の後で再び画集を元通りに棚に戻したのでは、秩序は回復してしまう。
その時主人公の頭に第二のアイデアが浮かぶ。秩序を回復することなく、檸檬爆弾によって秩序を丸善諸共破壊してしまう、というだめ押しである。
つまり「檸檬」という物語は、右の領域による、左の領域の秩序の破壊という欲望を形象化しているのだ。(ということで下の写真も、東大京大の赤本青本の上に絵本を置いて、てっぺんに檸檬を乗せるところにヒエラルキーの逆転の意図を読み取ってほしい)
このまま物語の結末も解釈できるだろうか?
「舞姫」が左から右へ移行して最終的に左へ帰還する物語であるのと対照的に、「山月記」は右に(虎の世界に)行って終わる物語だった。では「檸檬」は?
授業で聞いてみると、最後の一文を、そのまま右側に留まっていると解釈する者が多かったが、檸檬爆弾など所詮妄想に過ぎないのだから、結局は左側に戻るしかないと考える少数派がいないわけではなかった。授業者にはアイデアのない例の「現在」を、「舞姫」における、手記を書いている豊太郎と同じ位置にいるものと考え、回想という体裁で語る共通点から、「檸檬」もまた秩序に戻るしかない「舞姫」と同じ結末を意味しているという解釈を語ってくれたのはB組のWさんだった。
最後の一文の解釈は、「京極を下がる」という行為における「京極」とか「下がる」を手がかりに考えるより、明らかに「活動写真の看板画が奇態な趣で街を彩っている」という描写・形容に重点がある。これをどのようなイメージで捉えるべきか?
授業者のイメージでは、「活動写真の看板画」の印象は「あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火」や、画集を積み上げた「そのたびに赤くなったり青くなったり」する「奇怪な幻想的な城」に近いように思える。活動写真=映画の虚構性も、「想像・錯覚」に浸る主人公の精神状態に近しい。
それが「奇体な趣で街を彩っている」のは、檸檬による爆破によって下の領域(たとえば「混沌・周縁」)が上の領域(「秩序・中心」)に溢れ出している、といったイメージではないだろうか。「活動写真」という虚構の世界を現実に重ねる「想像・錯覚」が、この一文のイメージなのではないか。
とすれば結末において主人公はどちらの領域にいるのか、という問題ではなく、二つの領域の境が融け出して、全てが混沌に陥っている街を、主人公は悠然と闊歩しているのかもしれない。
一昨年の授業で以上の解釈を語った時に、それは『Joker』だ、と言った生徒がいた。ちょうどその映画を劇場で観ていた授業者は、そう言われて、はたと思い当たってしまった。なるほど。
アメコミ・ヒーロー、『バットマン』のレギュラーのヴィラン(悪役)であるジョーカーの誕生を描いた同映画では、社会の周縁にいる弱者である主人公が、思いがけず悪のヒーローとして暴徒に祭り上げられる。まさしく周縁が中央に反逆し、混沌が秩序を破壊せんとする物語なのだ。
ゴッサムシティが暴動に包まれるクライマックスと「檸檬」の結末が奇妙に重なって見える。
『Joker』では、しかしその暴動が実はジョーカーの妄想なのかもしれないという不確かさで描かれているのだが、「檸檬」の結末の「奇体な」イメージもまた、主人公の妄想の中だけなのかもしれない。そのあやういバランスもまた似ている。
それだけではなく、ビジュアルイメージとしても奇妙な類似がある。
CMでは階段でジョーカーが踊るシーンが使われているが、軽い仰瞰で捉えた階段を「檸檬」の画集の山に見立てると、檸檬がジョーカーなのだ。(0:20過ぎ)
パトカーとは当然「秩序」の象徴であり、破壊されたパトカーの上にジョーカーが立つというのは、比喩とさえ言えないほどあからさまにヒエラルキーの逆転を意味する。とすればパトカーは乱雑に積み上げられた画集であり、その上に乗るジョーカーこそ檸檬なのだった。
豊太郎が法律の勉強より文学や歴史にうつつをぬかし、官長を軽んじたり同郷の留学生を疎んじたりしてエリスと関わった結果、官職を罷免されるにいたる乱心も、「檸檬」の「私」が丸善で見せた狂態と同様に考えることでその意味がはっきりする。豊太郎もまたジョーカーと化したわけだ。
日本にとっての近代化とは西欧化にほかならない。そうした近代的体制の中でエリートとしての地位にいた豊太郎はいわば、漱石の言うところの「外発的」な文化に酔っていたのだといえる。だがそれがいつしか「宿酔」として豊太郎をそうした価値から遠ざける。その時惹かれていくのがクロステル巷であり、エリスだ。
「西欧/日本」という対立は「相沢・天方/エリス」という対立と転倒しているように見える。だが相沢や天方大臣は「西欧」的な体制の中心に属している。一方のエリスはドイツ社会における貧困層として、いわば「中心/周縁」における「周縁」に属している。エリスは日本人の豊太郎にとって異人であるとともに、ドイツ社会からも周縁化された存在だという二重性を帯びている。
そういえば同様に、下の領域にあると考えられる檸檬が、よりによってカリフォルニア産だというのも理屈に合わない。だが果物屋も、「にぎやかな通り」である「寺町通り」にありながら「もともと片方は暗い二条通りに接している街角になっているので店頭の周囲だけが妙に暗い」のだ。
そうしてみると、檸檬もエリスも、単に下の領域に属しているとだけ単純化して捉えるべきではなく、二つの領域をまたぐトリックスター的な機能を帯びているというべきかもしれない。
トリックスター (英: trickster) とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。(「Wikipedeia」)
トリックスターは「中心/周縁」を横断することで秩序を破壊するのだ。道化師=ジョーカーが典型的なトリックスターだというのは偶然だができすぎている。
基本構造は同様に捉えられる二つの物語は、しかし最終的には違った展開を見せる。「檸檬」においては下の領域にある檸檬が上の領域にある丸善・画集を破壊して終わるのだが(もちろんそれは主人公の想像においてのみだが)、「舞姫」では逆に、上の領域にある相沢が、下の領域にあるエリスを、いわば「破壊」して終わるのである。
こうした結末の違いを、まだ近代化の途上にあった明治に書かれた「舞姫」と、文化の爛熟期を迎えた大正末期に書かれた「檸檬」の違いとして説明するのはいささか牽強付会になるだろうか。
また「舞姫」の結末における悲劇の意味については、次の「羅生門」との読み比べにおいて、「通過儀礼」という概念を通して再考する。
さて、そもそもここまでの考察の発想には元ネタがある。前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」と、柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」だ(かなり短縮したものをプリントした。元の形に近いものをTeamsにアップしてある)
授業者の「舞姫」および「檸檬」の読みの端緒は、これらの論に拠っている。
太田豊太郎がエリスと出会うクロステル街は、ウンテル・デン・リンデンとはまったく異質な空間として意味づけられている。ウンテル・デン・リンデンの大通りが、へだたりとひろがりをもったモニュメンタルな空間であるとすれば、こちらは内側へ内側へととぐろを巻いてまわりこむエロティックな空間である。
前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」
非常に単純化していうと、『檸檬』で梶井が〝爆破〟しようとしているのは、「交換価値」によって、あるいは「概念」(意味されるもの)によって体系づけられている世界である。
柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」
前田論は「舞姫」を空間的な対比構造によって読み解いている。実は先に「山月記」との比較の際にも用いたこうした対比構造は、前田論から借りた。
そこに柄谷の「檸檬」論を結びつける。
これらの論から、「舞姫」と「檸檬」についてどのような読みが可能か?
たとえば最初に共有した「檸檬」の謎のうち、物語の冒頭から主人公を「始終おさえつけてい」る「不吉な塊」について考えてみる。
これを「青春期にありがちな漠然とした鬱屈」だとか、「頽廃した生活がもたらした倦怠」などと説明してはならない(いずれも教員向けの評釈書からの引用)。あるいは芥川の「ぼんやりとした不安」などと同一視してはならない。
これらは冒頭の「えたいの知れない」に惑わされて考えることを放棄し、その後で「酒を飲んだあと」の「
では「酒を飲む」という比喩は何を意味するか?
構造把握に基づいて考えれば、それが「生活がまだ蝕まれていなかった以前」、「蓄音機」で「美しい音楽」を聴いたり、「丸善」に出入りして「オードコロン・香水瓶」を見るのに小一時間も費やしていたことに該当するのだとわかる。
やがて〈酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる〉。ある量までは美味しいと思って飲んでいた酒が、そのうちに肝臓で分解しきれなくなって体が受けつけなくなる。そうした宿酔の状態が、丸善に対する現在の主人公が感じている「嫌悪」である。
そんなときに一杯の清涼な水を欲するように、主人公は「裏通り」にあるあれこれ〈みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられ〉〈慰め〉られる。
「不吉な塊」が「宿酔」であることが一般的に考慮されないのは、冒頭でそう表現されても、その時点ではこの作品の構造が見えてはいないし、「酒」に相当する丸善でさえ2頁程読み進んでからでないと登場しないのだから、故のないことではない。
語り手の言う「えたいの知れない」を言葉通りに受けとって思考停止してしまうのだ。
とすれば豊太郎にとって、〈模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて〉勇んで公務に取り組んだり、ベルリンの大都会の景物に目を奪われたりすることが「飲酒」に該当しており、やがて「宿酔」になった豊太郎は〈歴史文学に心を寄せ〉、クロステル巷で〈心の恍惚となりてしばしたたず〉んだりするのである。
「山月記」との比較では、豊太郎もまた虎になったのだ、という認識が導き出されたときにあらたな「舞姫」の把握が実感されたのだが、「檸檬」との比較によって今度は、豊太郎もまた「宿酔」になっていた=「不吉な塊」を胸に抱えていたのだ、という認識に至ったことになる。
だがこの「不吉な塊」は「嫌悪」をもたらすだけでなく「焦燥」とも表現される。かつて主人公を酔わせ、今や「我慢がならなくなった」世界は、ただそこから逃げ出せばいいというものでなく、そこから脱落した者に焦燥感を与えるべくすがりついてもくるのである。
両者を一時酔わせ、やがて宿酔に追いやる〈酒〉とは何か?
二つの領域の対立はどのようなものか?
以前/その頃
東大生/落魄れた
美しい詩・音楽/想像・錯覚
表通り/裏通り
丸善/果物屋
画集/檸檬
(以前)/3年経って
エリート/免官
法律/歴史・文学
ウンテル…/クロステル巷
カイゼルホウフ/エリスの家
相沢・天方伯/エリス
つまり「檸檬」と「舞姫」は、左右の対立をめぐる物語だ。豊太郎は左の世界から右の世界に移行し、結局は左の世界に戻っていく。
「檸檬」の主人公もまた左から右へ移行するのだが、その結末はどうなっていると考えればいいのだろう?
対立がどのようなものであるかを把握するために、両辺を表わす対比的な形容をいくつか挙げてみよう。
新しい/古い
明るい/暗い
広い/狭い
真っ直ぐ/いりくんだ
これらの形容が冠せられるのは、どんな概念・理念・価値か?
この問いは無論、難題だ。だがこういう「正解」のない問いに対して、互いにあれこれ答えを提示してみて、それに授業参加者全員で検討しあうことこそが授業の意義だ。
多くのクラスで「理想/現実」が挙がった。だが、左右が逆転した「現実/理想」も挙がったのは面白かった。どちらにあてはめようとしてもそれぞれに肯ける面と、腑に落ちない面とがある。
他にいくつか候補を挙げてみる。
外面/内面
社会/個人
公的/私的
秩序/混沌
中心/周縁
いくつかのクラスで発想されたのは「する/である」の対比だ(最初に思いついたのはG組のK君)。
すなわち次のような対比が挙げられるのだ。
近代/非近代
確かに、明治という、近代化のただなかにあって豊太郎を「エリート」たらしめているものは、「公的社会秩序」における有用性=「する」価値だ。つまり豊太郎は「役に立つ」のである。そうであることに疲れた主人公たちが、あらためて自分にとっての「である」価値に目覚めているということだということか。
日本にとっての近代化とは、西欧文化の流入だ。そういえば丸善に並んでいるきらびやかな品々はどれも舶来品だし、「美しい詩」は、おそらく和歌などではなく翻訳詩であり、蓄音機で聴く音楽は西洋のクラシック音楽なのだろう。つまり「近代/非近代」という対比は次の対比でもある。
西欧/日本
また、柄谷の言葉を借りれば、左は「『交換価値』によって、あるいは『概念』(意味されるもの)によって体系づけられている世界」なのだから、それを次のような対比としてみるのは無理な飛躍はない。
均質な空間/感性的な空間(「場所と経験」より)
こうした対比に基づいて、「檸檬」と「舞姫」を読み解こう。
「檸檬」と「舞姫」には、対比的な心理状態によって区切られる、時期の対比がある。
以前/その頃
(以前)/3年経って
エリート/落魄・頽廃
この対比構造に、さらに作品中の要素を対比させて書き加えていこう。
実は「檸檬」と「舞姫」を比べよ、と指示した段階で、気づいた者もいた。「檸檬」の時間的な対比構造は、「山月記」との比較の際に考察した「舞姫」の空間的な対比構造と、対立軸を同じくするのである。
ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷
ホテル・カイゼルホウフ/エリスの家
ということは「檸檬」にも同じような空間的対比があるのだろうか?
わかりやすいのは「ホテル・カイゼルホウフ/エリスの家」という対比に対応するものとして「丸善/果物屋」という対比が見つかることだ。
そしてもうちょっと大きな空間として「ウンテル…/クロステル」の対比に「表通り/裏通り」という対比が重なることがわかる。ウンテル・デン・リンデンはベルリンの目抜き通り、中心的な表通りである。
そしてクロステル巷が裏通りに対応していることは、何よりその描写の印象から感じ取れることだ。
実際に本文で該当箇所を読み比べてみよう。
なぜだかそのころ私はみすぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣のある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり…
クロステル巷の古寺の前に来ぬ。余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、頰髭長き猶太教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は穴蔵住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引き込みて立てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚となりてしばしたたずみしこと幾度なるを知らず。
寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上りて、四階目に腰を折りて潜るべきほどの戸あり。
双方に洗濯物が登場するのは偶然とは言え、崩れかかった街のイメージは,驚くほど似ている。
また「丸善」と「カイゼルホオフ」及びロシアの宮殿の描写を読み比べる。
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。しゃれた切り子細工や典雅なロココ趣味の浮き模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶。煙管(きせる)、小刀、石鹼、たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
余が車を下りしはカイゼルホオフの入り口なり。…久しく踏み慣れぬ大理石の階を上り、中央の柱にプリユツシユを被へるゾフアを据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。
ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾、ことさらに黄蠟の燭を幾つともなく点したるに、幾星の勲章、幾枝のエポレツトが映射する光、彫鏤の工を尽くしたるカミンの火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなど…
印象が似ていることに驚いてほしい(授業者は最初ずいぶん驚いた)。梶井基次郎がそれを意識したとは思わないが、これらはまるで示し合わせたように対応していると感じないだろうか。
さて、「エリスの家」にエリスがいるように、檸檬は「果物屋」で購ったものだ。
「相沢・天方伯/エリス」という対比は明らかだが、檸檬に対比されるのは、香水瓶? 石鹸? 小刀?
檸檬との絡みで考えるならば画集こそがふさわしい。
画集/檸檬
相沢/エリス
カイゼルホウフ/エリスの家
もう一つ、こうした対比のセットで、「舞姫」と「檸檬」に対応するものを挙げてみよう。
豊太郎は右の時期において「歴史文学に心を寄せ」るようになる。とするとそれに対応して左に置かれるべきものは?
「法律」である。豊太郎は法律の勉強のためにドイツに留学を命ぜられたのだった。だが今や法律は「枯れ葉」と表現される。
同じような対比が「檸檬」の「私」にも認められるだろうか?
「美しい詩・音楽」を左辺に挙げたい。それは「以前私を喜ばせた」ものであり、今は「辛抱がならなくなった」ものだ。対応する右辺は?
ここに「花火・びいどろ」を挙げるのは不揃いだ。確かにそれらは右辺に置かれるべきものだが、それに対応して左辺に置かれるのは具体物である「香水瓶・石鹸」などだろう。
精神活動の対比として、「想像・錯覚」がふさわしいと思う。街を二重写しに見る幻想や、最後に檸檬を爆弾に見立てる想像癖は、右辺にある主人公の心理的な特徴の一つだといえる。
法律/歴史・文学
美しい詩・音楽/想像・錯覚
「檸檬」と「舞姫」は、時間的にも空間的にも、そして主人公の心理的状況的にも、きわめて似通った対比構造をもっている。
そうした直観を可視化するため、「舞姫」と「檸檬」の対比構造を全体として図示しよう。
例えば、「檸檬」と「舞姫」を左右に振り分けて横軸を類比対応とし、上下は対立関係にある項目を挙げる。
上記3点に加え、さらにそこにある物品、それぞれに付された形容などを探して、対比図に書き込む。
これが「檸檬」と「舞姫」の時間・空間、事物や形容などに見出される対比構造だ。
こうした座標軸の中で、確かに檸檬とエリスは同じ位置にあることが確認できる。
この構造把握に基づいて両作品を読解してみよう。
さて、問いは立ててみたものの、それに答えるために何を考えたらいいかは、依然としてよくわからない。檸檬とは○○の象徴だ! などという「答え」は天から「降りて」くるようにして閃くものかもしれない。だがそれを当てにしていたのでは授業はできない。皆でひたすらただ黙って考えてみるにしても、皆が真剣に考えているのか、ただぼーっとしているのかも判然としない。
授業では、みんなが一斉にやれることに取り組もう。
まずは情報の、バランスの良い把握と整理だ。そのために、ともかく何かの引っかかりを見つけて、それを手がかりに、まずは読むことを進めるしかない。
どんな手がかりがあるか?
最初の問いを立てる段階で、そこに注目している人はあちこちにいた。この小説では「かつて好きだったもの」と「今好きなもの」が対比的に列挙される。そうした対比を整理するのが有効なのではないか?
良い着眼点だ。ともかくも頭を構造化することは、ある種の「理解」にとって必須の作業だ。そして、そのための標識として使える手がかりがもう一つある。これも指摘した人がいた。
この小説には、「時期」を示す言葉が頻出している。そしてその「時期」の区分は、上記の対比と同一軸に並ぶのである。
まずは時間・時期を示す表現を文中から探して、それらをマークする。
この作業によって「檸檬」という小説を読むための構えができる。
この作業から次のことがわかる。
ひとまずはこの対比構造の把握が必要だ
「その頃」といい「以前」といい、時間には実際には何の区切りもないのだから、それをどう把握するかは、ある観点・視点、つまり意識の変化に拠る。この場合は、これらが対比的であることが、それを区別されるものとして把握させているのである。
この時間の整理は「檸檬」という物語そのものの構造把握につながる。
ただ、3については物語中で一箇所、突然浮上するのだが、この回想が何を意味しているかについては、申し訳ない、授業者にはアイデアがない(この点についての解釈を語ってくれた人がいたので、それについては後述)。
さてもう一つの手がかりは、そもそもの授業の流れであるところの「舞姫」との比較だ。
これまでの読み比べの作法に従えば、それぞれの作品に対応する要素を探す、ということになる。すると、「エリス=檸檬」説も、早い段階で発想されてもいい。そもそも「檸檬」には「私」以外の登場人物がいないのだ。「私」と豊太郎を対応させて、その後はもう「エリス=檸檬」くらいしか考えようがない(一方で「相沢=檸檬」説もとび出した。これがどんな結論を導くかは、提案した班の手に委ねる)。
だが繰り返すが授業は「正解」を求めているのではない。要求しているのは根拠と論証だ。そしてそうした対比が可能にする作品の読みだ。
その直観の根拠となるのは「主人公が心を惹かれるもの」といった共通点であることはすぐに思い浮かぶ。だがその先に考察を進めるのは容易ではない。
なぜ主人公は「エリス=檸檬」に惹かれるのか?
そうした設定が意味しているものは何か?
既に対比として捉えた「檸檬」の構造を「舞姫」にも適用してみよう。
最初はぼんやり見えてくる。そのつもりで読んでみると次第にはっきりしてくる。「檸檬」の「以前/その頃」に似た対比が「舞姫」にもあるではないか。留学後のある時期までと、3年経ってからの時期だ。
- 檸檬 以前/その頃
- 舞姫 (以前)/3年経って
どちらも左から右へ、主人公の
どちらも、似たような変化によって、「時期」を分けることができるらしい。
それぞれの時期に属する要素を、さらに対比的に列挙してみよう。
次は「檸檬」と「舞姫」。
「檸檬」も教科書小説教材の定番だ。有名だし好きな人も多い作品だが、それは教科書に載っているからでもある。
授業者も高校の授業で読んだ。だがもちろん何を言っているのか、ちっともわからなかった。当時の教師が何を言っていたのかは覚えていない。ただ、良いだろ、これ、というような「文学的」な享受を生徒に期待していたような気がする。高校生としては、主人公の抱える憂鬱もなんだか文学っぽいポーズのようなものとしてしか受け取っていなかったし、檸檬が爆弾だとかいう想像もまるで理解も共感もできなかった(だがこれに共感できるという人は世の中にはいっぱいいるらしい。A教諭とかG組Y君とか…)。
ただ、授業でそんなものを読んだことは覚えていない、などと言うつもりはない。むしろ印象は強い。
授業者にとって、高校生の頃に読んだ「檸檬」は、ただひたすらに「描写」の小説だった。とりわけ、檸檬を購ったかの果物屋の描写の美しさには感嘆した。
そういった文学享受のありようも否定はしないが、今回授業で取り上げるにあたっては、ある読解の決着点を目指す。
全ての文章の読解は、まずは「この文章は何を言っているか?」を当面の目標とする。
もちろんそれではとりつくシマもないと感ずるから、それぞれの文章で、それを考える上で有効と思われる問いを細分化して立てる。「羅生門」ならば「下人はなぜ引剥をしたか?」だし、「山月記」なら「李徴はなぜ虎になったか?」だし、「こころ」なら「Kはなぜ自殺したか?」…。さて「檸檬」では?
話し合いの中で提出された問いは、さまざまな抽象度のものが混ざっているだろうから、そこから精選して、次の問いを全体で共有しておく。
これら諸点について、当時の教師がどのように語ったのかはまるで覚えていないが、少なくとも授業者にそれが理解されなかったことは確かだ。
だが、今授業の読解は、これらの問いに答える、つまり「檸檬」とはどのような物語かを、いささかなりと語りうる方途を見出すことを図る。
さしあたって、これらの問いの関係を概観しておく。
1と2は対になっている。「不吉な塊」と「檸檬」が対立的な意味をもっているらしいことはわかる。
物語に、何のことだが腑に落ちないことは山ほどあるが、それを例えば2のような抽象度の問いとして発想できるようにすることは、2年間の授業を通しての一つの目標ではあった。「不吉な塊」は最初から比喩だから、それが何を喩えているのかと考えることは自然だが、檸檬という具体物を、ここでは象徴として読む必要があるのだと明確に意識できるかどうかが、小説を読む上での一つのスキルなのだ。
そして、檸檬の色、形、重さ、冷たさが念入りに描かれているから、それら何の意味があるのかと気になるが、それらは2を考える上でほとんど有効でないこともわかってほしい(いや、単に授業者が思いついていないだけで、これらをヒントとする読解も可能なのかもしれない)。
ではどうするか?
3から考えるのである。2は3からしか考えられないし、3に答えられるということは2がわかるということだ。つまり2と3は相補的な問いなのである(檸檬を手にしているとなぜ丸善に入る気になるのか、とか、なぜ画集を見ることに疲れてしまったのか、といった疑問もこれに付随する)。
4はその上でもう一歩、自由度の高い小説の解釈の愉しみを味わいたい。
「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を倫理的に批難しているようには見えないからである。
だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。
鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのである。
さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現とともに、「無作為による悲劇」という表現を提示した。
ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。
「不作為」は「しないこと」である。「私」と豊太郎の罪は「選択」という「作為=したこと」にあるのではなく、「言わない」という「不作為=しなかったこと」にある。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、実は主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入である。
奥さんと相沢、二人が為したのは、物語の決定的な悲劇をもたらす事実をそれぞれの犠牲者に告げる役割である。だがそれはことさらに「作為」のあるようなものではないように見える。
奥さんにしてみれば当然、友人であるKに対しては、「私」の口からとうに婚約成立の事実が告げられているはずである。
また相沢にしてみれば当然、エリスと別れるという豊太郎の約束はエリス本人にはとうに告げられているはずである。
二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずである。
二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態がもたらす③の悲劇を描いているのだと言える。
そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。
「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。
だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。
奥さんと相沢の介入は本当に「無作為」なのだろうか?
奥さんにとって、親の遺産を相続して東京に出てきた帝国大学生である「私」は、娘の結婚相手として申し分のない相手である。そして当の「私」が娘に気があるのは、恐らく母親にも筒抜けである。一方同じ帝大生とはいえ、親元から勘当されて金に困っているKは条件において劣るという判断は、娘の親としては当然である。
当のお嬢さんはそうした条件に左右されてはいないだろうが、どうもこの母子は、なかなか煮え切らない「私」をその気にさせるために、Kをいわば当て馬にしているふしがある。少なくとも、結婚相手として「私」が話題に上がっていたであろうという想定は、結婚の申し込みに対して母親が二つ返事で「本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」と承諾しているところから充分に読み取れる。
さて、めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉というのだから、それでも何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kにこのことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。
もちろん奥さんは、友人である「私」の口からKさんへはとっくに伝えてあるはずだ、という逃げ道を確保してある。あまつさえ〈あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは〉と「私」を責めることで自らの責任を回避し、その「作為」を隠してさえみせるのである。
一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。
当の豊太郎はエリスとの関係について〈この情縁を断たんと約し〉はしたものの、実際の行動の上からはどうもはっきりしない。そこで病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣るのである。
もちろんここでも相沢は、「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。ここでもその「作為」は巧妙に隠されている。
二つの悲劇は、奥さんと相沢という第三者の「無作為」の介入によって起きた、と一見したところ見えているのだが、実は二人は、自らの利益のために邪魔者を排除せんとする「作為」によって、この「無作為」に見える介入をしたのだ、と読むことも可能である。
断定はできない。二人は本当に「無作為」だったのか? 自らの「作為」を自覚していたのか? 自らの「作為」が悟られないはずだという計算のもとに「無作為」に見える行為を実行したのか?
二人の行為には「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作為」のある疑いがある。
二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えているのである。
さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。
D
① 私 ―豊太郎
②お嬢さん―相沢
③ K ―エリス
E
① 私 ―豊太郎
② 奥さん―相沢
③ K ―エリス
Dの対応から見えてくるのは、「こころ」と「舞姫」を「①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る物語」だと捉える読解である。だがこれが作品を適切に捉えていないことは、最初から皆感じ取っていたはずだ。
ではEの対応はどのような作品把握に基づいているか。
①と③はDと同じ。①は主人公というだけでなく、語り手という特権的な位置を占めているし、③が悲劇の犠牲者であることも、その対応には十分な必然性がある。
ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。
「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を〈選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)〉とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。
みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。
悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。
だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。
授業者が提示したいのは次の表現だ。
不作為による悲劇
無作為による悲劇
これらはどのような把握を意味しているか?
まず「不作為」と「無作為」の語義を捉える必要がある。
「不作為」→すべき行為をしないこと。
「無作為」→作為がないこと。意図的でないこと。
Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。
二つの物語における〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。
そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うのが②奥さんと相沢である。
この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。
もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?
Kの恋心の告白とは、実は自らの「道」に対する迷いの告白だ。恋が信仰の妨げになるという信条に反するから、恋心はKにとって罪である。だが「私」が自分の恋心を告白していれば、Kにとっては自分の恋心が相対化され、その罪の深刻さは軽減されるはずである。
また、婚約の件をKに伝えることは、Kの自殺を食い止める決定的な契機になったはずだ。奥さんから婚約の件を聞いた時の〈変な顔をしていた〉〈最もおちついた驚き〉と表現されるKの反応の裡に読み取るべき心理は、「私」が考えるようにお嬢さんを失う絶望でも、裏切った友人への怒りでもない。Kの関心は自らの求道の行方であり、だからこそ友人とお嬢さんの婚約は寝耳に水の展開ではあるが、それは決して直ちにKの怒りや悲しみや絶望を引き起こすものではない。Kは自らの関心の外にあるこうした展開に、どうとも反応できずにとまどっているだけである。
やがて「二日余り」の間に徐々に納得が訪れる。自分の悩みを聞いていたはずの友人の中で、自分の悩みとはまるで関係のない煩悶が繰り広げられていたことが、ようやく分かってくる。だがそうしたすれ違いに、自分も、友人も、まるで気付かずにいた。ならば「理想と現実の衝突」という問題はただ自分が解決するしかないのであり、〈覚悟〉していた自死という決着は、とうに自分独りで実行に移すべき処断だったのだ、とKは思い至る。
遺書の最後に書き添えた「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という述懐に込められた心情、また、「私」が後に考える〈Kが私のように淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうか〉というKの心理はそのようなものだ。
端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。
とすれば、「私」がKに自らの思いを告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。
つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのである(Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しい。詳しくはブログの昨年度の記事を参照されたい)。
一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ〈友に対して否とはえ答へぬが常なり〉とか〈余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり〉などと言い訳がましい説明をしては、目の前にいる者に恭順してしまう。
だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。前述の通り、作者鷗外はそのつもりで豊太郎を描いている。
とすれば、なぜ豊太郎は発狂したエリスを置いて日本に帰るような非道な行いをしたのかと問うべきではなく、むしろエリスが発狂することによって豊太郎は日本に帰れたのである。
あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。
エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。
とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。
「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。
にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることはなぜ不適切だと言えるのか?
「舞姫」においては、豊太郎が「故郷+栄達」と「愛情」の選択に悩んでいることは、本文に明らかな記述がある。
だが、「舞姫」という物語において、結局のところ主人公による選択はされなかったと言うべきである。
豊太郎は相沢にしろ天方伯にしろ、目の前にいる人物に対してとりあえずの恭順を示してしまう。エリスとの縁を切れと言われても、日本に帰ろうと言われても、「はい」と答えてしまう。
一方でエリスに対してもロシア行から帰った時〈故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕の思ひは去りて、余は彼を抱〉いてしまう。
つまりどちらが選ばれるかは後出しジャンケンのようにして決まるといっていい。どちらにも豊太郎の主体的な選択のニュアンスはなく、だから時間的に後にきている、天方伯への帰国の了承の返答も、その後でエリスとの対面があればたやすくひっくり返りそうな気配がある(鷗外自身が「『舞姫』論争」でそのことを認めている)。
したがって、エリスの主観からすれば、選択されなかったことによって発狂したのだとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだ、と言えるのである。エリスが冷静に豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。
つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズム〉による選択によるものではないのである。
一方「こころ」についてはどうか。
まず、K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまったく違った構造において成立している。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけである。
さらに「私」が天秤に掛けているのは②と③ではない。
通常はこの選択肢は「友情/愛情」であるように語られる。もうちょっと気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。
だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。
そう、「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていないのだ。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのである。
では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?
物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。
それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?
「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。
この葛藤はむろん「友情か愛情か」という選択とはまるで無関係だし、巷間「こころ」のテーマとして語られる「倫理観とエゴイズムの葛藤」とも違う。
「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのである。
言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。
いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の対象になってはいない。
「こころ」と「舞姫」を
①が②と③の選択に迷い、
②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る
と把握することはまちがっている。豊太郎は相沢を選んでいないし、「私」はお嬢さんとKの選択に迷っていないだけでなく、最終的に何かを選んでさえいない。
それでは二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?
BCは意外なアイデアだった。とはいえそれらは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。
それに対して、次は授業者から提示したい対応関係だ。
D
②お嬢さん―相沢
③ K ―エリス
Dの対応を発想した者は必ずしも多くなかったのだが、実はこれこそが、最も一般的な「こころ」把握であり「舞姫」把握であることを認めなくてはならない。そしてDのような把握には「王道」とも言うべき強い必然性がある。
①「私」と豊太郎はいずれも主人公であり、物語の語り手である。
また③Kとエリスは、両者がどちらも物語のクライマックスを為す悲劇の犠牲者である。
一人称の語り手によって、登場人物の自殺と発狂がいわば物語の最大の「山場」として語られるような二つの物語を比較するうえで、①と③をこのように対応させることには強い必然性があるのである。
ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?
「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能である。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。
だがさらに一般的なこれらの小説の受容のあり方から言えば、次のように言うのが自然だろう。
①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る
「こころ」において、「私」はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。
一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。
D
②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)
↑
主人公による選択
↓
③ K ―エリス(選択されなった悲劇)
一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と出世の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。
だがこうした把握は間違っていることは、ここまで授業を受けてきた皆にはすぐにわかる。
だがなぜこれが間違った物語把握だと言えるのか?
にもかかわらず、なぜこのような対応による物語把握が一般的にはなされるのか?
間違っていることを説明することの方が容易かもしれない。「一般的」といいながら、むしろDを発想した者はそれほど多くはなかった。それは健全なことだ。「不適切」と言っているのだから、それが発想されないことはむしろ両作品を適切に捉えている証拠ではある。
だが上に述べたように、Dの把握には強い必然性がある。主語を主人公にすることも、物語の帰結としてKとエリスの悲劇をおくことも。
だがそれだけではない。これらの物語には、そのように読者に捉えさせる強い方向付けがなされているのである。それは何か?
二人の主人公の共通点は、彼らが手記の語り手だという点だ。二人は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?
一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている。
さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」と「後悔・悔恨」である。
「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。
一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。
そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。
「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白である。「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。ここには相沢に対するいわゆる「恨み」も含まれていようが、むしろ自らの行為に対する「悔恨」、つまり「罪悪感」が述べられていると見る方が適切だ。
一人称の語り手でもある主人公たちのこうした言明は、読者にとっても殊更に無視できない重さを持っていて、それが物語の「主題」を形成すべく読者を誘導する。それがすなわち「エゴイズムの罪」である。二人は自らのエゴイズムによる選択が引き起こした悲劇の罪を抱えて生きていくのである。
つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造としては適切なのである。そして一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。
ではこうした把握がなぜ間違っていると言えるのか?
読み比べ二つ目は、夏目漱石「こころ」。
「山月記」ではまず主人公を一致点として、そこに袁傪と相沢を重ねることで見えてくる物語の構造を捉えた。
ここでも「こころ」と「舞姫」の登場人物を対応させてみる。
A
①私(先生)―豊太郎
② K ―相沢
③お嬢さん―エリス
④ 奥さん―老媼
これはどのような対応を示しているか?
①は主人公。
②は主人公の友人。①にとって東大の学友でもある。
③は物語のヒロイン。
④はヒロインの母親。
まずは人物関係の設定としては見事な対応を見せている。
「山月記」比較の経験から、人物造型の共通性を考えてみる。
「私」と豊太郎は、似ていると言えなくもない。その性格については共通点も指摘できるだろう。そして、二人ともある選択を前に葛藤する。その葛藤から浮かび上がる人物像には共通した印象がある。
それだけではない。そうした人物像とは別の層で、二人には共通点がある。
それは、それぞれが手記の語り手(書き手)だという点である。一人称の語り手は自らの心の裡を語るからどうしても内向的に見えがちだ。人物像に共通した印象が生ずるのも、そうした要因がある。
二人のヒロインもまた、ともに半ば冗談として「悪女」説が唱えられるような「あざとい」魅力をもっている。そしてそれが二人の賢さ故であって、その清純を疑うには至らない、といったバランスで描かれている。
奥さんとエリスの母は、悪巧みをしていそうな雰囲気が似ていなくもない。もちろん二人とも生活上の知恵としてそうしているのであって、悪人というわけではない。
そして二人のヒロインはともに皆と同じ17歳くらいで、なおかつ主人公の二人は25歳くらいだ。
ここまで、共通点を探してはみたが、実はこの対応はこの先に何らの発展的な考察を生まない。主人公の二人には共通したものも感じられるが、お嬢さんとエリスの印象はかなり違う。
さらに、Kと相沢の対応には強い違和感がある。人物としての共通性は「優秀」くらいで、その人物造型は似ても似つかないし、何より物語上での役割が違いすぎる。
登場人物を対応させるのは、物語の構造を対応させるためだ。物語を重ね合わせようと考える思考と、登場人物の印象を重ねようとする思考を相補的にはたらかそうとすれば、このような対応はむしろ思いつかない。
では、物語の構造を表現することを目的として人物を対応させるには、どのような組合わせが考えられるか?
Aに示した4人を入れ替えて全員を対応させるのは難しい。3人の対応でいい、どのような対応が可能か?
対応関係が整理できたら、そうした人物の対応による物語把握を、①~③の番号を用いて、「こころ」「舞姫」両者の要約として読めるような一文で表現してみよう。①~③に、それぞれ二つの物語の登場人物名を代入すると、それぞれの物語を表現していることになるような一文だ。
例えばAを「①が③をめぐって②とライバル関係になる」というのは「こころ」については言えるが、「①豊太郎が③エリスをめぐって②相沢とライバル関係になる」わけではない。
「舞姫」について「①が②によって③から遠ざけられる」と表現することはできる。豊太郎は相沢によってエリスから遠ざけられる。これを「こころ」で代入して「①私は②Kによって③お嬢さんから遠ざけられる。」としても意味をなさない…と書こうとして、全く無理ではないではないかもしれないと思い直した。「私」は、Kの死によってお嬢さんと結婚してからも、本当には心を開けなくなって死に至る。図らずもKは「私」をお嬢さんから「遠ざけ」たことになるかもしれない。だがこれは穿ち過ぎとも言える。
4人の中から3人を選び、それぞれに対応させるとすると、組み合わせは24通り。Aも含めて、授業では5~6種類の対応関係が皆から提示される。
毎年誰かが思いつく対応関係のアイデアを二つ紹介する。これらはどちらも授業者には発想できなかったものだ。
これらはどのような物語把握に基づいた対応だろうか?
B
① K ―豊太郎
② 私 ―相沢
③お嬢さん―エリス
「私」と相沢を対応させるという発想は実に意外だった。
こうした物語把握を表現する一文は、例えば「①が③に心惹かれて求めようとするのを②が妨害する」というような文が考えられる。あるいは「①が『道を外れている』状態にあり、友人である②が、その原因である③を遠ざけて道に引き戻そうとする」などといった表現も可能だ。
①②③にそれぞれの人物を代入すればそれぞれの物語の要約になる。
- 「こころ」ーKがお嬢さんに心惹かれて求めようとするのを先生が妨害する
- 「舞姫」ー豊太郎がエリスに心惹かれて求めようとするのを相沢が妨害する
ここでは②の動機についての共通性もある。②は純粋に①のためを思って③を遠ざけるわけではなく、そこには私利があることも指摘できる。
次の対応はどのような構造を示すか。
C
①お嬢さん―豊太郎
② 私 ―相沢
③ K ―エリス
Bに比べ、「こころ」の①と③が入れ替わっている。
この対応をたとえば「②が①と③の関係を妨害する」などと表現することは可能だが、同時にこの表現はBにもあてはまる。BとCでは「こころ」の①と③が入れ替わっているだけだから、「①と③の関係」ではどちらでも同じことになってしまう。
だがKと豊太郎を対応させる把握(B)と、お嬢さんと豊太郎を対応させる把握(C)が同じであるはずはない。別の表現が可能なはずだ。
ではどう表現するか?
可能なのは次のような表現だ。
- ③が①を求めて②に阻まれることになる。
- ①をめぐって②と③が対立関係にあり、②が勝者となり、③が敗者になる。
- ②が①を自分の意に沿うようにするために③を排除する。
Kとエリスの悲劇は、いずれも排除される敗者の悲劇である。
「舞姫」を、豊太郎が虎になる話、と捉えてみる。
〈虎〉とは何か?
「まことの我」、つまり「自我」の象徴だ。
ここから少々理屈をこねてみる(以下のくだりは授業では時間がなくて割愛している)。
豊太郎は「本当の自分=自我」を見出すことで自由になったと錯覚したが、結局は相沢や天方伯とエリスとの綱引きの間で、何ら主体的な選択をしないまま流され、エリスを発狂させるにいたる。
これは「本当の自分」などというものがそもそも幻想なのではないかという主題を示してはいないだろうか?
李徴が虎になるのは、いわば自我の暴走である。制御を失った「解放」の中で、結局は本来の自我であったはずの〈人間〉が消滅してしまうのである。
とすると、正反対の結末を迎える二つの物語が、実はどちらも「本当の自分=自我」(という幻想)の挫折を描いた物語だということになる。
ここで「『本当の自分』幻想」!
とすると、「舞姫」という作品は、近代化の入口に立った日本から西洋を見た鷗外が、西洋から流入する「近代」に対する違和を語った小説だとは言えないだろうか。
これは実は「こころ」の主題にも重なる。
「こころ」は選択の物語のように見えるが、実は「先生」はほとんど選択の余地などなく、そのようにしかできないといったふうに運命に流されている。これは「主体的な選択をする自我をもった人間」などという近代的な人間観に対する漱石の違和を語っているのではないか、という考察を、昨年の授業の最終盤でした(ことを覚えている人はあまりいないだろうが、まあしたのだよ)。
図らずも「こころ」との比較を先取りしてしまったが、こうした考察に導かれるのもまた一興ではある。
あるいは袁傪と相沢という登場人物の比較を考察の糸口としてみよう。二人を比較すると、どのようなことが考えられるか。
袁傪と相沢の共通点は何か?
二人がそれぞれ主人公の旧友であることは指摘できる。だがそれだけではない。象徴的には二人をどのように捉えればいいか?
二人はともに現在も官職に就いている。つまり二人は李徴と豊太郎が失っている「故郷」と「エリートコース」という二つの世界を象徴する人物なのである。物語は、〈虎〉になった李徴/豊太郎に対して、〈人間〉を象徴する袁傪/相沢が再会する、という共通の構図において展開する。
こうした比較はどんな考察を可能にするか?
たとえば、袁傪が山中に消えてゆく虎=李徴を見送るのに対し、相沢は豊太郎を日本に連れ帰る。こうした対応の違いはなぜ生じたか?
このことについて考えるため、物語中の空間を「人間の世界/虎の世界」という対比で捉えてみる。
「山月記」において上の対比は「人里・街/山の中」と表現できる。物語はほとんど山中で展開し、「里・街」は直接は登場しないが、そこに李徴の妻子がいるはずの場所だ。
では「舞姫」では? 入れ子状に大中小の対比を挙げてみる。
まずはすぐに「日本/ドイツ」という対比が挙がる。これが大。
「官舎/エリスの家」などという対比も挙がるが、「エリスの家」に対置するならば、文中に度々登場する「ホテル・カイゼルホウフ」の方が適切だ。これが小で、中は?
「ベルリン」とすると「東京」だが、これは「ドイツ/日本」という対比と変わらない。
それよりも「舞姫」において象徴的な空間の対比は「ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷」だ。ドイツに着いてすぐのウンテル・デン・リンデンの描写と、三年経って度々出入りするようになるクロステル巷の描写を読んでみよう。それが対比的であることは明瞭に感じられるはずだ。
左辺は李徴と豊太郎が元々所属していた世界を象徴する空間・場所であり、右辺は言わば異界である。
そして袁傪と相沢は左辺に属する人物である。
先の要約によれば「山月記」は左辺から右辺に行って-異類となって-終わる話であり、「舞姫」は右辺に行った主人公が再び左辺に戻る-異類となった主人公が人間に戻る-話だ。
さて、物語中、袁傪と相沢はそれぞれどこで主人公と会うか。
袁傪が李徴に会うのは山中、つまり〈虎〉の世界である。〈虎〉になった李徴を目の当たりにしている袁傪にとって、李徴を人間界に連れ戻すという選択肢が最初から無い。
一方相沢が豊太郎と会うのはどこか。カイゼルホオフだ。つまり〈人間〉の世界なのである。
だから相沢には、そもそも豊太郎が〈虎〉になっていることが見えてはいない。それは相沢と豊太郎の置かれている位相の差がもたらす認識のずれだと言ってもよい。
このことは、最初の通読の際に考察した、カイゼルホオフに向かう前の豊太郎の身支度の場面に象徴的に表われている。
この場面はいわば、エリスのいる〈虎〉の世界から相沢のいる〈人間〉の世界へ越境するために豊太郎が変身する場面だといえる。
身支度を整えた豊太郎を見てエリスが「何となくわが豊太郎の君とは見えず。」と言う。虎の娘であるエリスには人間の姿になった豊太郎は「私の豊太郎さんではない」のである。
一方で相沢の目に映る豊太郎は単なる〈人間〉でしかない。だからこそ相沢は疑いもなく豊太郎が日本に帰るものと決めてかかるのである。
また、〈人間〉の世界に妻子を残してきた李徴に対し、豊太郎はいわば〈虎〉の世界に妻子をつくったのだといえる。
李徴は〈人間〉の世界に妻子を残して〈虎〉になってしまう。また豊太郎は〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子を残して豊太郎が〈人間〉の世界に戻る。それぞれに方向は反対だが、悲劇の構図としては同じだとも言える。
〈人間〉の世界に残してきた妻子の面倒を請け負う袁傪が「良い人」に見えてしまうのに対し、相沢は悪役の印象を免れない。だが、相沢もまたエリスとお腹の子に対して相応の手当をしているし、なにより豊太郎の家族が日本にいたとすれば(母親が生きていたならば)、豊太郎を日本に連れ帰った相沢は恩人となるはずだ。読者が〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子に感情移入してしまっているがゆえに、「舞姫」が悲劇になり、相沢は悪役の汚名を被ってしまうのである。
あるいはこんな想像をしてみるのも面白い。
公務でドイツのベルリンを訪れた袁傪は、夜になって、治安が悪いから気をつけろと忠告されていたクロステル巷に足を踏み入れる。残月の下歩いていると、街角で出会い頭にぶつかりそうになって謝る一人の男の声に聞き覚えがあってその姿をよくよく見ると、それはすっかりユダヤ系ドイツ人と見まごう姿をした旧友、李徴だった。久闊を叙したあと、どうしてそんな姿になってしまったのかを李徴は袁傪に語り出す…。語り終わった李徴は故郷に残してきた妻子の面倒を袁傪に託し、ドイツ語で何やら一声叫ぶと、朝まだきクロステル巷の薄闇の中に消えてしまう…。
これが「山月記」という物語である。あるいは「舞姫」かもしれない。
こうした比較が学習にもたらすものは何か?
そもそもそうした比較が可能なのかを検討すること自体が、それぞれの作品を「読む」ことになるのだ、とまずはいえる。同じだとか違うとかいう結論が重要なのではない。
さらに、そうしてそれぞれの物語を透かして見たもう一方の物語に、新たな光をあてるのだ、といってもいい。
「舞姫」とは豊太郎が虎になる話だ、というフレーズが浮上した瞬間、授業者には、「舞姫」が新しく目に映ると同時に、何か腑に落ちるものがあったのだった。
読み比べの効用は、共通性を見ようとすることによって、細部を削ぎ落とした構造を浮かび上がらせることにある。
大きく考えよう。「山月記」の主題に直結する問題は何か? 「山月記」とは何を言っている小説なのか?
もちろんこれは既習事項でもあるが、素朴な読者として考えてみてもすぐにわかるはずだし、大方の読者には同意される。
「山月記」とは切り詰めて言えば「男が虎になったことを語る話」である。虎になった経緯や原因、現在の心境を語る物語である。すなわち問題は「李徴はなぜ虎になったのか」だ。
それに答えようと努め、そうした目で「舞姫」を眺めてみよう。
前回の二人の経歴の重ね合わせは妥当だろうか?
李徴 「官吏→詩人→官吏」
豊太郎 「官吏→通信員→官吏(?)」
「山月記」では、この展開の後に虎になる。そして虎になることこそが「山月記」の核心だ。
これを豊太郎の物語に合わせると、どこにあたるか?
上の流れに沿って言えばエリスを棄てて日本に帰ることになってしまうが、そう重ねて何が言えるだろう(もちろん言えることはある。どちらもある意味で自由の喪失である、といったような)。
それよりも、物語全体の印象を大づかみにするならば、最初の免官こそが、豊太郎にとって「虎になる」ことだと感じられるはずだ。李徴が虎になることは、経歴からすると最後の局面だとも言えるが、小説にとっては、李徴はほとんど冒頭近くで虎になっている。豊太郎が物語の序盤で免官になることを重ねることはそう考えれば無理なことではない。
つまり「舞姫」は、〈豊太郎が虎になる話〉なのだ。
こうした見立てが妥当であるかどうかは、あくまで本文に基づいて判断されるべきである。具体的にどこを読み比べるかというと、李徴が「虎」になった時のことを場面を具体的に語る場面、袁傪との
今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた。
「舞姫」からは次の箇所を引こう。
かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらん、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるがうれしさに怠らず学びし時より、官長のよき働き手を得たりと励ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。(…)今までは瑣々たる問題にも、きはめて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやく蔗を嚼む境に入りぬ。
二つの記述に似たような印象を感じないだろうか?
闇の中から李徴を呼ぶ声は、何か超自然的なものでも、外部にあるものでもないだろう。李徴自身の心の声であることは素直に感じ取れる。
とすればそれは、ドイツ留学後三年経って豊太郎に〈やうやう表に現れ〉た〈奥深く潜みたりしまことの我〉ではないのか。
声にいざなわれて闇の中に駆け出す李徴は〈なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行〉く。こうした描写には何か充実感とともに解放感のようなものが感じられる。
一方で豊太郎は学問の脇道に逸れつつ、官長に対しては、本質さえわかれば細かいことは一挙に片づくなどと尊大な態度をとる。
これらは裏返して言えば、二人にとってそれ以前の生活が
李徴は妻子を養うために再び就いた地方官吏の職に満足できずにいたのだし、豊太郎は官長や母の期待を今更ながら抑圧と感じている(自分が受動的な機械のような人間だったと振り返る)。
虎になって束の間の解放感と全能感に酔っていると、気がついたときにはこれまで手にしていたものを失っている。「虎になる」ことは二人にとって、桎梏と抑圧からの解放であるとともに喪失でもある。
李徴は闇の中に駆け込んで、視界に入った兎を知らずに喰っている。豊太郎もまたクロステル街に駆け込んで、気づいた時にはエリスを喰っていたのだ(というフレーズが図らずも授業中に飛び出したのは見事だった)。
とすると「舞姫」は主人公が〈人間〉からいったんは〈虎〉になり、再び〈人間〉に戻る話であり、「山月記」は〈虎〉になりきる話だ、と要約することができる。
〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。こうした主題の在処が結末の違いに表れていると考えることもできる。
比較読解の最初にとりあげるのは中島敦「山月記」(「えー、覚えてない」と言うのをやめなさい。今年度も「再帰性」を説明するのに思い出した)。
評論の読み比べでも毎度、まず何を考えるかといえば共通点だ。
まずは共通点を探してそこをピン留めして、その周囲に拡がる構造を徐々に重ね合わせていく。そうすることで双方の構造が明らかになっていく。一方で重ならないところ=違いが明らかになっていくところも、それぞれの文章の読解として有益だ。
読み比べは、読み比べることによってそれぞれの文章が、ある姿で立ち上がってくる読解のメソッドだ。
さて「山月記」と「舞姫」、両作品を思い浮かべ、その共通点が何かと考える。すぐにわかる。主人公のキャラクターがあまりに似ている。
まずはその人物設定の共通性を具体的な表現の中で跡付けていく。そして、きわめて似通った性格をもった主人公がどのような物語の中に置かれているのかを考察する。
文章中から必要な情報を探して目的に沿った再構成をする力というのは、必要とされる国語力の中でもとりわけ基本的であり、重要なものだ。李徴と豊太郎の人物造型の共通性を述べるためには、どのような設定、どのような挿話、どのような形容を物語中から探し出して併置すればよいか?
授業では「属性」「性格」「言動」「経歴」などとタグ付けして項目立てることを提案した。これらは排他的な項目ではない。きれいに分類せずとも、あれこれ考えるための手がかりにすればいい。
二人はともに優秀で、いわゆるエリートである。
李徴は〈博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた〉。
豊太郎は〈旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたり〉。
二人はともに高級官吏となるが、やがてその職を辞する。
二人はともに強い自尊心をもっている。
李徴は最初の任官の折は〈自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった〉ために官を退き〈詩家としての名を死後百年に遺そうとした〉がかなわず、二度目の奉職の折は〈彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない〉としてついに発狂する。
一方豊太郎は、官命により〈わが名を成さんも、わが家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて〉、洋行したがひそかに〈幼き心に思ひ計〉っていた〈政治家になるべき〉道にすすむこともかなわず、三年もたつと〈このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ〉と尊大な態度をとったり、免官されたあと、新聞社の通信員となると〈今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ〉と同輩を軽侮する。
一方で二人はともに自尊心と表裏一体の
李徴は〈己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった〉と告白する。
豊太郎は留学生仲間と〈勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし〉と告白する。
これらの「弱さ」が、どちらも物語中で重要な自己発見として語られるのも共通している。
「山月記」で李徴を表わす最重要フレーズ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」は、まったくそのまま豊太郎をも表わしている。
こうした性格故に、二人とも人づきあいが悪い。友達は少ない(が、重要な友人が物語中に配されているところも共通している)。
二つの物語の主人公は、できすぎではないかと思われるほど似ている。
主人公が似ているということは、そうした主人公を中心とする物語に、共通した構造がある可能性を示している。物語を「~が~する話」「~が~となる話」などと要約するとき、その主語は述語に必然性をもたせるように造型されるはずだ。
そう考えたとき、「山月記」と「舞姫」を重ね合わせることが可能になる。
例えば二人の経歴を重ねてみる。李徴の「官吏→詩人→官吏」という経歴と、豊太郎の「官吏→通信員→官吏(?)」という経歴を重ねると、何が見えてくるか?
こうした経歴は一見似たような軌跡を辿っている。だが最初の転職は李徴にとって辞職だが豊太郎にとっては免職である、といった差違は指摘できる。
それよりも、二度目の官吏への復職の際の二人の葛藤を重ねてみよう。
李徴が復職しようとするのは「詩人としての名声/妻子の生活」という選択の上で後者を選んだからだ。同様に豊太郎は「名誉の回復/エリスとの生活」という選択で前者を選んでいるように見える。
そしてこのように考えたときに、二つの物語の共通性よりもむしろ違いが見えてくる。一見したところ、二人が選ぶものがともに官吏への復職であるにも関わらず、それは逆の価値観に基づいているようにも見える。一方、両者とも「実生活」に重心があるいう点では共通していると言えなくもない。
だがそれよりも相違として指摘したいのは、一つは、豊太郎の復職の可能性が、豊太郎自身の選択によるものであったか、という問題と、もう一つは、棄てられたものの意味合いである。前者の問題は「こころ」との比較で検討するので措くとして、後者の問題において比較されるのは何か。
李徴にとっての詩と豊太郎にとってのエリスの意味である。
李徴にとっての詩の意味とは何か?
世の中の「山月記」論の中には、李徴の発狂を詩への執着に起因すると論じている徒らに「文学的」なものも多いが、李徴にとっての詩とは、文学=芸術としての詩ではない。
下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした
俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。
これらは李徴が良い詩を書きたいというより、名声を得たいと思っていることを示している。つまり李徴にとって詩は、それ自体が目的なのではなく名声を得る為の手段に過ぎないということだ(去年の授業でこのことは確認した。「目的ではなく手段」という書き込みが教科書にあったという証言があちこちで聞かれた)。
それ以外に、李徴が本当に良い詩を書こうとしていたとか、詩の魅力に取り憑かれていたと読めるような記述はない。袁傪が李徴の詩に「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」と感じたという「山月記」の重要な論点の一つを、ここから説明することも可能である。
一方豊太郎にとってのエリスの意味は、「舞姫」全体の主題把握に関わる大きな問題であり、「檸檬」との比較で論ずる予定なのでここでは深く立ち入らないが、上記のように把握される李徴にとっての詩とはまるで印象が違う、とは言える(ただし、エリスもまた目的ではなく手段だったのだ、という言い方は、また新たな「舞姫」論につながりそうな予感もある。が少なくともその「目的」の方向性はまるで違う)。
共通性よりも相違の方が強く感じられるという意味で以上の考察は授業者の意図したものとは違っているが、それでもこのような考察を可能にするという意味では、それ自体が比較読みの意義ではある。
さて、ここまで10時限ほどかけて、全編を読み終えた。
「舞姫」は、高校の国語科授業にとって「羅生門」「こころ」「山月記」に次ぐ「定番」小説教材だ。授業者も高校時代に授業で読んだ。
だがこの小説は、その文体と長さから読むに難渋するわりには、物語にカタルシスがなく、むしろ不快と言ってさえいい。「舞姫」が近代文学の出発点に位置する、文学史的に価値の高い作品であることをいくら喧伝されても、単にエンターテイメントとして享受するにはコストとベネフィットのバランスが悪すぎる。
だがこうして途中に考察をはさみつつ時間をかけて読み進めてきた過程は、それなりに面白かったはずだ。みんなで考察し合うことは楽しい。
だがそれは日常で「小説を読む」行為とはだいぶ違う。半ばは勉強と思って粘り強く取り組むうちに、じわじわと感じられてくるような面白さだ。
ここまでは、そうして読み進めること自体に楽しみを見出してきたが、ここからいよいよ「舞姫」という小説を全体として捉える。
「舞姫」という小説の主題は何か? 「舞姫」というのは、何を言っているテクストなのか?
高校生であった頃の授業者には、授業において提示された「愛か出世かの選択」というテーマ設定は凡庸なものに思えた。積極的にそうではないと考えていたわけではなく、まあそうなんだろうと思いつつも、それが自分の身に迫るような問題として捉えられたりはしなかった(もちろん「羅生門」の〈生きるために為す悪は許されるか〉とか、「こころ」の〈友情か愛情かを巡るエゴイズム〉などといったテーマも、同様につまらなかった。現在ではこうした把握自体が間違っていると思っているわけだが)。
そもそもこうしたテーマとして「舞姫」を描くなら、結末は次の3通りにしかならないはずだ。
とりわけ3は、豊太郎がドイツに残るという、ヒロインにとってのハッピーエンドのはずの結末が最悪のかたちで実現するという、ギリシャ悲劇的、「こころ」的アイロニーを醸し出しているともいえる。
ところが「舞姫」の結末はどれでもない「発狂した女をおいて帰国する」という不可解な決着を迎えるのだ。
この結末が選択されていることの不全感は、西洋列強に伍して立国していこうとしている明治という状況をいくら勘案して、豊太郎にとって「やむを得ない選択だった」という判断に落ち着こうとしても、到底無理だった。
だから「舞姫」をテキストとして「自分だったらどうするか」を問うのは的外れだ。自己を豊太郎の立場において問うのなら先の3択のうちの1・2であり、どうにもならない悲劇を享受するという意味では3の読書体験もありうるが、いずれにせよ、この小説が示す結末は選択に迷うような釣り合いにはない。
ではこの小説をどう読めばいいか。
アカデミックな「舞姫」研究の多くは、鷗外の伝記的事実から「舞姫」の執筆動機や主題を考察するものだが、そうした、テクスト外部の情報を「教える」ことが高校の国語科授業の使命ではない。興味があればネットでも「国語便覧」でも調べられる。
小説は、それが小説という虚構として書かれる以上は、いくら「私小説」「自伝小説」などと言おうが、現実からは独立したものとして受け取られなければならない。「永訣の朝」もそうだ。あれは宮沢賢治が妹を亡くした実体験に基づいて書かれたものだという知識があることはかまわない。だがその詩はそこにあるテクスト自体から読み取らなければならない。宮沢賢治の伝記的事実を並べて、こういう人がこういうメッセージを込めているのだ、などと読むべきではない。
とはいえ、「舞姫」を読むための構えとして、知っておくべき最低限の基礎的知識はおさえておこう。
「舞姫」が鷗外の実体験に基づいているということは、たびたび触れてはいた。そうした事実と小説の相違を知っておくと、この小説に感ずる不快感はいくらかは減ずるかもしれない。
まず豊太郎が19歳で東大を主席で修了したことは、鷗外=森林太郎の実話だ。東大開校以来のことだという。その後豊太郎は法律を扱う省庁に勤めるが、典医の家に生まれた林太郎は医学を学んで陸軍軍医となる。その後、豊太郎は法律を、林太郎は医学を学ぶためドイツへ官費留学する。時期も大体事実に基づいている。
天方伯爵は山県有朋のことで、その大陸視察旅行も事実に基づく。もちろん相沢謙吉のモデルらしき人物も同定されている。
そして林太郎と恋愛関係にあったエリスもまた実在する人物、エリーゼ・ワイゲルトをモデルとしている。本人と思われる写真も見つかっている。
一方で、豊太郎は一人っ子で早くに父を亡くし、物語中で母を亡くす。頼りになる親族はいない。だが林太郎の両親は健在で弟妹もいる。
そして現実のエリーゼは、帰国した林太郎を追って来日するのである。名前を記した船員名簿が見つかっている。
つまり、実在のエリーゼは発狂してはいない。妊娠もしていないかもしれない。
来日したエリーゼは横浜のホテルに一ヶ月ほど滞在する。その間、森家の説得により、諦めてドイツに戻る。
翌年、林太郎は軍関係者の娘と結婚する。
史実が小説ほど酷いことにはなっていないと知ったことで、読者の不快感はいくらかはいくらか減じるかもしれないが、そのぶん、ではなぜ小説をこのように描いたのか、という謎はいっそう深くなる。
その謎がすっきりと解けるという保証はできない。そもそも問題は、なぜ鷗外は「舞姫」を書いたか、ではなく、「舞姫」という小説をどう読むか、だ。
ここからは、評論でも用いた「読み比べ」という方法を使う。
その相手は、高校の国語の授業で読む小説としては「舞姫」以上の「定番」と言っていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」である(「羅生門」は時間次第)。
これまで述べたように、この手紙によって豊太郎が日本に帰れる可能性に初めて気づいたのだと考えるのは難しい。
ではこの手紙の核心はどこにあるか?
ここで先の「否」による逆接の考察が活きる。この手紙に書かれているのは残される不安に対するエリスの積極的な姿勢だ。「我が愛もてつなぎとめではやまじ。」には強い意志の表明がある。
だがこれだけならば一通目の手紙にある、不安と裏返しの愛情の延長上にある。
問題はそれに続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば」からの、豊太郎の帰国に対する具体的な方策の記述である。ここには路用と母親の処遇についての解決の見通しが書かれている。つまり、豊太郎が日本に帰る場合、エリスが日本に着いていくというのだ。
この手紙がここに引用されてることの重要性からすると、この方針は二人の間で、この手紙によって初めて示されたものだと考えられる。そのような可能性は、豊太郎にとってこれまでは想定外だったということになる。
エリスが日本に着いてくるという可能性は豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?
こう考えてみよう。
豊太郎はどのような選択肢の前に置かれているか?
ここまでの豊太郎にとっては、未来は次の二択として捉えられている。
a エリスと共にドイツに残る。
b エリスを棄てて日本に帰る。
そしてこの手紙によって示された新たな選択肢は次のようなものだ。
c エリスを連れて日本に帰る。
三つ目の選択肢が加わったことは豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?
abの選択に迷っているのなら、cは最も喜ばしい選択肢のはずだ。イイトコドリではないか。
にもかかわらず、cが豊太郎にとって最も避けたい選択肢であることは、読者には直感的にわかる。なぜか? ここが説明できれば、ここで「明視し得た」「我が地位」を説明できる。
豊太郎はabの板挟みになっている「我が地位」について自覚していないわけではない。だがそのことについて本気で「決断」せずにいられたのは、それが相手任せにできたからだ。事実、大臣に「東に帰るぞ」と言われれば「承りはべり」と答えてしまうし、ロシアからドイツに帰れば「低徊踟躕の思ひは去」ってエリスを抱きしめてしまう。豊太郎はそのような人物として描かれている。
このab二択の帰趨は、言わば他人任せの成り行きで決まる。決まった後の、選ばなかった相手からは逃げてしまえばいい。
だがこの手紙に示された可能性は、そのような他人任せの二択では済まされない。
エリスとともに日本に帰るとすれば、まずは「エリスと別れる」と言った相沢との約束が嘘だったことを告白し、あらためて外国人の卑しい舞姫を日本に連れ帰ることを大臣や相沢、日本での生活で関わる全ての人々に受け入れさせなければならない。そのための強固な意志に支えられた自己主張と説得が必要になる。
それができずエリスと別れるとなれば、エリスに直接別れを切り出さなければならない。黙ってドイツを去るだけでは片付かない事態になったのである。そこにもまた同じ強固な意志による主張と説得が必要になる。といってエリスの妊娠が明らかになった以上、そのような意志を持つことは豊太郎には絶望的といっていい。
いずれにせよ、相手に任せた成り行きで事が決し、その後は、選ばなかった相手とは関わらずに済む(と思えた)abの二択では済まされない事態に陥ったのである。
cの選択肢は、豊太郎の弱点を確実に衝いている。
むろんabの選択においても本当は既に「強固な意志に支えられた自己主張と説得」は必要だったのだ。だが「逆境」におかれた豊太郎は、そのことを敢えて見ないようにしていた。この手紙によって示されたcの可能性が、自分が置かれた「地位」を、今こそ豊太郎の眼前にさらけだしたのである。
単に選択の前に置かれている、というだけでなく、選択するためには相手に「否」を言わなければならないという「立場」を。
通読に伴う大きな考察ポイントはこれが最後で、あと3章は一気に読み切る。そうしたらいよいよ小説全体を捉える読解に進む。
11章では、手紙と関係してもう一点、考察したい問題がある。この手紙の直後の「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり。」という述懐である(332頁)。
ここで述べられている「我が地位」とはどのようなものか?
ただちに思いつくのは、自分が大臣に重く用いられるようになるということは日本に帰れる可能性が高まってきたということであり、そうなるとエリスを棄てなければならず、どちらをとるかという選択の板挟みになるという状態を指しているのだ、といった説明である。
これは、次の段落の次のような記述と対応している。
大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。(332頁)
「ここに心づ(いた)」が「我が地位を明視し得た」に対応していると考えれば、帰国の可能性と、それ故に生ずる板挟みに「心づいた=明視した」のがこの時だったということになる。
だがこうした説明に素直に納得することはできない。このような状態であることは、とうにわかっていたことではないのか。今更「明視し得たり」などと言うことなのか。
いや、わかっていなかったわけではないのかもしれない。ただ「胸中の鏡は曇」っていたのだ。心の奥底で「わかっていた」としても、それが今初めて「明視し得た」、つまり明らかに自覚されたのだ。
だがこのような説明でも腑に落ちない。この場面より2ヶ月ほど前の天方泊と相沢の訪独の際、身支度を整えている場面において、豊太郎の「不興なる面持ち」が示すものは、既にそうした未来を予想してのものだと分析したではないか。
また実際に相沢と再会した際にはエリスと別れることを相沢に口約束していた。そしてホテルを出る時に「心の中に一種の寒さを覚え」ているのは、約束に従うことでエリスを棄てて東へ帰る可能性が心に兆しているからではないか。
では「今ここに心づきて」という記述は嘘なのだろうか?
「初めて我が地位を明視し得たり。」の続きの文章を検討しておこう。
次の一節における「逆境」とはどのような事態を指すか?
余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
この「逆境」は「我が地位」と同じ状況を指している。「逆境」において「胸中の鏡は曇」っていたため「我が地位」が見えなかったが、エリスの手紙によって初めてそれを「明視し得た」といっているのである。
だがそうだとしても、エリスを棄てて日本に帰る道とエリスと共にドイツに残る道、自分が大臣とエリスのどちらを選ぶかという板挟みになっているという状況のことを指して「逆境」と言っているのだと考えることは容易い。また、それを指して「我が地位」と言っているのだと考えることも。
だが、繰り返すが豊太郎がそのことに気づいていないはずはない。
なのになぜ今さら「明視し得た」「心づいた」などと言っているのか?
この記述には一面の真実と自己弁護的な嘘が混ざっていると考えられる。この手記には読者が想定されているのだ。
確かに豊太郎は、大臣から与えられる「職分」に対して、積極的・能動的に「未来の望みをつなぐこと」は意図していなかったかもしれない。だが消極的・受動的であれ、結果的にそうなる可能性について、本当に「思い至ら」なかったのかといえば信じ難い。カイゼルホウフでの相沢との再会から二ヶ月に及ぶ天方伯との関わりの中で、その可能性に全く気づかないなどということはありえない。エリスは既に最初の手紙に「独り後に残りし」不安を書いていたではないか。それがロシア旅行だけにとどまらない可能性について気づかないなどということがありえない。
だから、当然わかっていてもいいその可能性について敢えて考えないようにして、自らに対し、気づかないふりをしていた、といったところであろう。「絶えて思ひ至らざりき」というのは、告白的な手記における欺瞞なのだ。
問題は、それがなぜこの手紙によってその「ふり」ができなくなったのか、である。この手紙のどんな情報が豊太郎の自己欺瞞に孔を穿ったのか。この手紙には、それまでの手紙にはないどのような情報が書かれているのか。
エリスの手紙のどのような内容によって、豊太郎はどのような「我が地位」に気づいたのか?
天方伯爵の訪欧に随行してきた相沢との再会後、文書の翻訳を依頼された豊太郎は伯爵らが宿泊するホテル、カイゼルホウフへ出入りすることが多くなる。一月ほど過ぎたある日、天方伯は豊太郎にロシア訪問の通訳としての随行を依頼する。例によって豊太郎は咄嗟に肯うことしかできない。
ロシア旅行の間、エリスは毎日豊太郎宛に手紙を書き送る。11章(331頁)には、最初の一通目と、出発後二十日ほど経ってからの手紙についての記述がある。後者の手紙は「否といふ字にて起こ」されている。
この奇妙な(そして重要な)手紙について考察したい。
どのような問いを立てるか。「この手紙にはエリスのどのような心情が表われているか」などという問いでは、手紙の内容の、不必要で不正確な同語反復になるばかりだ。ポイントを絞る必要がある。
何といっても奇妙なのは冒頭の「否」である。ここを問う。
何が「そうではない」といっているのか? 何に対する否定か?
「いいえ」「そうじゃない」「違うわ」…、口語訳はいくつも考えられるが、いずれにせよ否定する前部がないのに否定の言葉から始まる文章の奇妙さにもかかわらず、この書き出しが持つ切迫感は確かに読者にも感じ取れる。
体育科のA教諭は、話し始めに「いや」と言う口癖があるという。それが何を否定しているかをいちいち考える必要はないだろうが、といって「さて」とか「えー」などという無意味な発語と完全に同一視することもできない。「いや」が選ばれるには、何かしらそこに前後の逆接をともなっているはずだ。それはごく曖昧な微弱な論理かもしれないが。
ここでも、その論理を語るには慎重に本文を追わねばならない。
直前に記述されているのは一通目の手紙であり、これとただちに逆接するわけではないことは確認する必要はある。一通目は豊太郎の出発の翌日に書かれており、問題の手紙は「二十日ばかり」経ってからの手紙である。そして手紙は「日ごとに」書かれている。つまり二十通目前後の「ほど経ての書」なのである。
とはいえ、二通目以降も同じようなことが繰り返し書かれていたとすると、この一通目に対して「否」という逆接でつながる論理を説明すればいいのかもしれない。
また、豊太郎からの返信に対する逆接かもしれない、とも考えられる。その頻度は明らかではないが、豊太郎もまたエリスに手紙を書いている。「書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば」と、ロシアでの通訳の仕事ぶりについて、エリスに知らせている。これらの返信の内容に対する反対の意志表明なのだろうか。
だとすればこの逆接から、豊太郎の手紙の内容を推測すべきなのだろうか?
おそらくそうではあるまい。「否」から豊太郎の手紙の内容を推測させるような迂遠な論理を読者に期待しているとは考えにくいからだ。
実際には、手紙を書き出す前にあれこれと考えをめぐらせ、それを自分自身で否定したのがこの冒頭の「否」なのだろう、とは思われる。
ではエリスの頭にはどのような思いがよぎったのか。
論理の組み立て方のアイデアは一つではない。視野をどのくらい拡げて考えるか?
まず一つは、「否」に続く書き出しの一文「否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。」を素直に逆転させるアイデア。
a 今までも豊太郎を思う心については充分その深さを知っていたつもりだった。だがその思いがこんなにも深かったのだと今初めて知った(今まで自分でも知らなかった)ということ。
エリスの手紙は、一通目から「あなたが恋しい」ということを訴えているに過ぎない。それは自分でも自覚している。だがこれほどとは思わなかった、と言っているのである。いつも通りに「あなたが恋しい」と書きそうになり、それでは足りないと思う思考が「否」に表われているのである。これはすこぶる論理的な説明だ。
もう少し視野を拡げる。続く手紙全体の内容の趣旨を抽出した上で、それを逆転させる。これには、悲観的な方向と楽観的な方向が考えられる。
一通目の手紙に示されているのは、豊太郎との別離の不安である。それは問題のこの手紙にも通底している。だがこの手紙に表明されているのはむしろ、そうした不安に対し「わが愛もてつなぎとめではやまじ」という積極的な意志だ。あるいはそれに続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに行かん」という具体的な対抗策の提示である。そこから考えられる逆接は次のようなものだ。
b 豊太郎の帰りを待つ不安が心に兆して、つい弱気な泣き言を書きそうになる。それを打ち消し、自らを鼓舞して強い意志を表明している。
c 不安の裏返しとして安易な希望的観測(「大丈夫、あなたはきっと帰ってくる」など)にすがりそうになるのを自ら打ち消し、自分の意志で事態を変えることを宣言しようとしている。
bは「悲観的」という誘導にしたがったものであり、cは「楽観的」な方向だ。このb不安とc希望は表裏一体である。したがって両者は基本的には同じ心理がそれぞれの表現型をとったものである。
授業では、「否」を挟む逆接を、対照的な言葉で示せ、と指示して、多くの班で「知っているつもり/今知った(=知らなかった)」と「待っています/着いていくわ」という表現に至った。
さらにこの逆接を示す対比的な抽象語を挙げよと要求して、各班ともに「受動的/能動的」という言葉を挙げたのは適切だった。
これらの説明には、論理を整理して語ることと、表現のニュアンスに気を配ることが求められる。
繰り返すが、入試で問われるのもそれなのだ。
ところで、話題に挙がっていた班もあったようなので附言する。
最近ではコロッケによる物まねで有名な美川憲一という歌手に「さそり座の女」というヒット曲があり、その歌い出しが「いいえ」で始まるのである。
いいえ 私は さそり座の女お気のすむまで 笑うがいいわ
あなたはあそびの つもりでも
地獄のはてまで ついて行く
思いこんだら いのち いのち
いのちがけよ
そうよ私は さそり座の女
さそりの星は 一途な星よ
この歌詞を考察したとあるサイトでは、この前に男が星座の話題をふったのだろうと考えている。つまり「君の星座を当ててみよう。乙女座かな?」などというチャラい問いかけに対して「いいえ私はさそり座の女なのよ」と答えているのだ、というのである(これを美川憲一の声で言われたところを想像すると怖い)。
しかし1番の歌詞全体を見ると、「笑うがいいわ」「ついて行く」などから、何を否定しているかが見えてくる。
男は、棄てようとしている愚かな女の思いを軽く見ているのである。あなたは気軽な遊びのつもりでたやすく棄てられると思っているかもしれないけれどお
「地獄のはてまで」って!
エリスって、「さそり座の女」だったのか。
豊太郎の「不興なる面持ち」は、読者に読み取られるべき「意味」をもっている。そしてその「意味」は読み取れるはずだ。
その「意味」は、文中に関連要素をもっているはずである。
また、その理由を問われた豊太郎が、なぜか答えなかったことに必然性を持つ必要がある。
また、エリスが「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」契機としてこの顔つきがある。その「意味」はエリスに伝わっているはずだ。
条件はまだある。「関連要素」の確認はまだ不十分だ。
実は「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」=「正装が窮屈だ」も、それがどのような意味であるかを明らかにすれば、完全に間違っているとも言えない。それにはまず以下のように考える必要がある。
この「不興なる」はいささか唐突に語られているともいえる。だから何とか解釈しようとして、前後を見回し、上のような二つの解釈を思いつく。
だがもうちょっと視野を拡げることができれば、この言葉は先立つこと1頁ほど(教科書では前の見開き)にある次の言葉を受けていることに気づく。
(エリスの体調不良は)悪阻 といふものならんと初めて心づきしは母なりき。ああ、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし。/今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。
それ以降には直接「不興」と関連しそうな情報がない(だからいたずらに不要な解釈をするしかなくなる)ことを思えば、豊太郎の「不興」は「心は楽しからず」を受けていると考えるしかない。
だが、エリスの妊娠が引き起こした憂鬱を、この場面で唐突に豊太郎が顔に出したと考えることはできない。とうのエリスを前にして、妊娠が憂鬱だなどという心の裡を顔に出していると考えるのはあまりに不自然だ。
またこれでは、妊娠発覚の後1頁程の、相沢の訪独の展開が考慮されていない。
エリスの妊娠と相沢の訪独。この二つを結びつけて、豊太郎の「不興」を説明すべきなのだ。
逆にここから豊太郎がエリスの妊娠になぜ「心は楽しからず」思ったのかも考えることができる。
とはいえわざわざ考えるまでもなく、恋人の妊娠を「楽しからず」思う心理には疑問はないようにも思える。だが敢えて挙げるなら、どのような不満や不安があるのか。
ここで生活の困窮などを挙げてはいけない(だが授業で聞いてみるとこの答えが意外なほど多い)。確かに現在の日本の少子化問題などを考えるときに挙がるのは、子どもを作らないのは収入の不足であるように語られたりもする。
だがそれではエリスの心理の変化に対応していない。
それよりも、端的に言えば豊太郎は逃げたいのだ。後に天方伯に帰国の意志を問われて承諾した時にも「本国をも失ひ、名誉をひきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり」と述べている。エリスの妊娠はこれまでの過去の栄誉を棄て、未来の可能性を限定してしまうことになる。それが豊太郎を「心楽しからず」させる。
そこに手紙が届く。
以前にも自分の窮状を救ってくれた相沢の訪独と大臣への謁見は、自分の「名誉を回復する」可能性を示している。エリスさえその可能性に思い至っている。相沢の手紙に書かれているそのことを、豊太郎が意識しないはずはない。
ここまで条件を並べてしまえば「不機嫌」であることに何らの疑問もない。ただ説明のための条件を揃えることが少々難しかったのだ。
説明とは抽象化の過程が必須であり、抽象化するためには、それを表わす言葉を用意する必要がある。各班でその言葉を挙げよ、と指示した。
多くの班で挙がったのは、「迷い」「決断への怖れ」「葛藤」などといった言葉だ。
日本への未練を棄てることは憂鬱だが、それを受け容れるしかないとなれば、なりゆきでそうならざるをえない。
だがそこから逃れる可能性が示されてしまったら、却って迷ってしまう。どうするのかという決断を迫られることになる。
相沢や大臣に対する度重なる
そうした決断が迫られるのが憂鬱なのだ。
もう一つの方向は「罪悪感」「良心の呵責」「自己嫌悪」などの表現だ。
本心では、失ったエリートコースや日本での生活に未練があるが、それを諦めざるをえないと思っていたところに「名誉の回復」の可能性が示される。思わずエリスを棄てて日本に帰る可能性に期待してしまう自分の卑しさを自覚してしまうことが「不興」なのだ。
豊太郎の「不興なる面持ち」は、豊太郎の「迷い」や「罪悪感」を示している。豊太郎の頭に「名誉の回復」の可能性がちらついているということは、エリスのA→Bの変化と整合しているし、エリスに問われて答えられないのも当然だ。
そしてここまで分析できれば「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」もあながち間違ってはいない。このように考えている豊太郎はエリスの甲斐甲斐しい世話を「煩わしい」というより「後ろめたく」思うはずだし、混迷を深くするかもしれない大臣への謁見は憂鬱だ。正装が窮屈だというのは、こうした状況を象徴している表現だとすれば正解の範疇だ。
ここまで考えれば「微笑」の説明も些かの修正が必要となる。
それは確かにエリスの不安を
読者は「『〈豊太郎の心理〉に気づいたエリスの心理』に気づいた豊太郎の心理」に気づかなければならない。
こうした説明には、誰もが納得するはずだ(授業では「葛藤」を提案した班が多かった)。
だがそうした説明を的確に組み立てるのはそれほど容易ではない。
「わかる」ことより、わかったことを客観的に捉えて他人に伝えることは、格段に難しい。
だがそれを求められる場面は多い。
入試のようなペーパーテストでさえ基本的にそうした力を試されているのだ。
豊太郎の「不興なる面持ち」が示す心理を「エリスの世話焼が煩わしい」「大臣に会いたくない」と考えることには、なぜ腑に落ちない不全感があるか?
これは、逆に言うとどのような条件を満たせばここでの心理の説明として納得できるのか、ということでもあるのだが、こういう「自然とそう感じられる」ことの論理を自覚するのは難しい。実際には授業者も、このような条件を考えてから、さて豊太郎の心理は、と考えたわけではなく、先に心理を説明してみてから、それが上のような候補とどう違うのか、と考えたのだが。
D組のMさんからは、「不興なる面持ち」についてエリスから問われたのに豊太郎が答えないということと整合的であるべき、という条件が示された。
なるほど。この心理を説明するためには、「なぜ豊太郎は答えないのか」に答えなければならないのだ。
豊太郎は、エリスの指摘・問いに対してなぜ答えないのか?
「歯痛・腹痛」説はこうした点でも条件から外れる。「ネクタイが苦しい」も。
「不興なる面持ち」は、「エリスからそう見えているだけだ」説も同様に否定される。そうならば豊太郎は「そんなことはないよ」と答えるか、地の文で読者に対して訂正される必要がある。
「久しぶりの正装が窮屈だ」は実は「大臣に会いたくない」の象徴的な表われだと言ってもいい。そしてともに、この条件から否定される。エリスの科白が終わった後に、エリスの不安を払拭するために結局言っているのだから、なぜ問われたときにすぐに答えないのかわからない。
「エリスの世話焼が煩わしい」はこの条件をクリアしているとも言える。確かにそんな本音は本人には答えられない。
だが上記のように条件をつけて、発想される諸説を選別していくというのは、読解に負荷がかかりすぎて現実的ではない。読者はそんなに立ち止まって考えたりはしない。
この「不興」についての解釈は、もっと自然になされるべきだ。それはどのような条件によって可能になっているか?
「不興なる面持ち」が示す豊太郎の心理は、AからBに推移するエリスの心理に対応している。だからこそそれは読者に読み取れるはずなのである。
エリスが「容をあらため」た契機は、「不興な面持ち」しか考えられない。つまりエリスは豊太郎の心の裡を感じ取ったのだ。むろんそれは論理的な明晰さなどなくともかまわない。だがそれがエリスの誤解であったのなら、その釈明が必要となる。その釈明が文中にない以上は、豊太郎の「不興」が示しているものと、エリスに「容をあらため」させたものは一致していると考えるべきなのである。
読者はそのようにして「不興」を解釈するはずだ。鷗外はそれを読者に期待しているはずだ。
AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう(この考察のアイデアは元々H組のYさんの疑問だ)。
この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?
A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」
B「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」
Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。したがって、BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。
AとBはどのような意味で逆接しているか?
こうした問いに答えるには、毎度言っている「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。
Aに寄せてみよう。
A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ(行けないのは体調が悪いから)。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。
Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。
つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。
最初の分析で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機に「不興なる面持ち」がある。
だがまだそれだけで「不興なる面持ち」が解釈されるわけではない。
エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。
8章(326頁)で、カイゼルホオフに赴く身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。
「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。わが病は母ののたまふごとくならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
ここではエリスと豊太郎の心理を分析しよう。
エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。
A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」
↓ 少し容を改めて
B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」
↓ また少し考へて
C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」
そして豊太郎。
次の二つの描写はそれぞれどのような心理を表わしているか?
「不興なる面持ち」「余は微笑しつ」
そして、これら二つの形容の間の齟齬・矛盾・変化をどう考えるか?
分析の容易なのはエリスの心理だ(といって「わかる」ことより「分析」の方がはるかに難しい。それを的確に言葉に表すのも)。
A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う
B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる
C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する
Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。
一方、豊太郎の心理は少々難しい。
これは、読み取るのが難しいということではない。大抵の読者はここでの二人の心理を正しく読み取っている。だがそれを適切に表現するのが難しいのだ。
それでもそれなりに表現できるのは「微笑」だ。
BCのエリスの不安を
エリスの科白によって「不興なる面持ち」をした豊太郎の様子を読者に知らせておいて、なのにその内面を、地の文では解説しない。
だがこの「不興なる面持ち」は、わざわざ書かれている、と思わざるをえない。となれば「書いてあることには意味がある」の法則に従って解釈しないわけにはいかない。
だが「意味」とは何か?
豊太郎の「不興なる面持ち」とはどのような心理を表わしているか?
例えばこれを、たまたま歯に挟まった食べ滓が取れずに気になっていたのだとか、朝から腹を下し気味だったのだとか考える者はいない。
だがそれらは文中でそうではないと否定されているわけではない。にもかかわらずなぜそれを誰も支持しないのか?
解釈が妥当であるかどうかという判断は、それが置かれた文脈が、その可能性についてどのような限定をしているかに依存する。限定がなければどんな解釈をしてもいいということではなく、むしろそれはそもそも解釈の必要がないということだ。
だから文脈が解釈の範囲を限定する。文脈の中でその妥当性を判断する。
「食べ滓」「腹痛」説を誰も支持しないのは、そう考えることの妥当性を示す標識が文中にないからだ。関連する要素がみつからないのである。
では、エリスの締めるネクタイがきつすぎて苦しかったから顔をしかめたのだ、というのは?
これは科白の直前にある情報から導かれる解釈だ。だから文脈に依存しているという点では「食べ滓」「腹痛」よりはマシだ。だがやはり依然としてそれを本気で支持する人はいまい。なぜか?
そうしたことをなぜ文中に載せるのかという必然性が腑に落ちないからである。例えばこの身支度の様子をコミカルに描きたいのだ、などという意図が感じ取れるなら、その必然性はわかる。だがそのようにも見えない。
久しぶりの正装が窮屈だったのだ、は?
これが単に身体的な感覚のことを言っているのではなく、心理的な抵抗感を示しているとすると、「ネクタイが苦しい」よりも必然性が高い。
具合の悪いエリスの体調を心配しているのだ、という解釈は?
これも本文中に関連する情報はある。エリスを気づかう豊太郎の心理が表わされているのだと考えれば「意味」もあると見做せる。
あるいは「不興なる面持ち」は、エリスからそう見えているだけで、豊太郎にとっては別に意味はなく、これはむしろエリスの心理を表わしているのだ、という説もちらほらと聞こえた。これは去年の「こころ」の読解が活かされた発想だ。
これらの諸説をどう考えればいいか?
実際に授業で提案されるのは主に次の二つの解釈。
エリスの科白の前の部分と結びつけるならば、
エリスの甲斐甲斐しい世話焼がかえって煩わしい
という解釈が可能であり、後の豊太郎の科白から引用すれば、
大臣に会いたくない
という心理を表わすものだと解釈できる。
それぞれに文脈に依存した解釈ではある。
また、エリスの世話が煩わしいとか大臣に会いたくないとかいう解釈は、豊太郎がそれらの人物に対してどのような感情を抱いているかを表わしているのだと考えれば「ネクタイが苦しい」よりは有用な情報であると見なすこともできる。
だがこれら、簡単にとびついてしまいそうな説明は、まだ腑に落ちない、と考えるべきである。
なぜか?
公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙である。
この母の手紙の内容について考えてみよう。
その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたということは、母の手紙が、その死の直前に書かれたということを意味する。遺書なのだ。
そこには何が書かれていたか?
母の死自体もまた悲しいに違いないが、その内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているから、問題は内容だ。
不慮の死であったというのは、「わざわざ書かれるべき特別な事由」にあたるから、そうでないとすれば母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたということになる。それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えられるか?
病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だ。
ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。
そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。
もう一つ、母の死が自死である可能性について考えた人もいるだろう。これもまた遺書であるという可能性から考えられる一つの死因である。
授業では「
諫死とは、死をもって主君に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待する息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。
問題は、免官の宣告を受けた一週間のうちにこの手紙が届いたことだ、と授業では言った。
当時は航空便もなく、船便による郵便は日独間で1ヶ月以上かかったという。母親が、豊太郎の免官を知って諫死したのだと考えるのは無理だ、といって、悪評程度を仄聞するくらいで諫死までするだろうか?
自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられるのだが、この、情報の伝達のタイミングの不整合が容易には腑に落ちない要素ではある、と注釈した。
電信の発達・普及がどうなのか、という問題もある。実はこのころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電報を送ることが可能だった。
だがもちろん現在のように気軽に連絡ができるわけではない。一留学生の罷免について、わざわざ電信を使って日本からドイツに知らせる必然性があるとは考えにくい。まして豊太郎が舞姫と遊んでいるようだ、というような報告が、電信を使って伝えられるべきこととは思えない。
したがってこれらは文書をもってやりとりされたはずだ。
とすれば、母親からの手紙は、いつ、どのような契機で書かれたものなのか?
だがこうした疑問は、以下の記述についての浅はかな勘違いに基づくものだった。
…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、わが官を免じ、わが職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…
さらさらと記述されているが、実際には「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」に、それぞれ文書の船便で1ヶ月以上の時間が経過しているのだ。
独公使館からの報告を受けて日本にいる官長が豊太郎の罷免を決めたことは、正式にか、周囲の人からの忠告でか、母親にも知らされたのだろう。それを知った母親が死をもって不甲斐ない息子を諫める。
その時に書かれた遺書と、それを知らせる親族の手紙は、官長による豊太郎罷免の通知を追いかけるようにして日本からドイツに海を渡ったのだ。そして免官の宣告を受けた豊太郎に、その宣告に追い打ちをかけるように、母の死の報せが届いたのだ。
母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの淡い交際に胸をときめかせ、浮かれて日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。
あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。
この場面について、さらに興味深い解釈を紹介する。かつて本校にいたM教諭によるものだ。
皆はこの一連の出会いの場面を読みながら、一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのかが気になったりはしなかったろうか?
エリスは清純なのかあざといのか?
敢えてどちらかというと、でいいからと挙手させてみると、小説の裏を読んで面白がりたい高校生たちには「あざとい」説が優勢だ。
「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写からである。
G
H
Gは豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写、Hはエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う
この二つの描写をどう読むか?
Gの「覚えず」というのは本当か?
Hの目遣いの効果について本人は自覚的なのか?
どちらと答えるによせ、実はそう考える根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。
だがHでは作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?
考える緒は次の疑問に答えることだ。
「わがそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?
往来で泣いていたことに、初めて気づいたのか?
見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたのか?
そう考えることを否定するわけではないし、読者にはまずそのようにしか読めない。
だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。
Gの場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている家を飛び出してきたからである。といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「わが肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。
それが、何らかの契機がエリスに「初めて我を見たるがごとく」豊太郎の存在を捉えなおさせ、「恥ぢてわがそばを飛びの」く動作をさせたのだ。
M教諭の解釈は次のようなものである。
エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。
ここからHに至るエリスの心理を推論してみよう。
それでもエリスは豊太郎にすがることを決める。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。
家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?
もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」である。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのである。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。
豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋である。
母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げるのである。
エリスの科白を分析しよう。
まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。
そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。
なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのである。
こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。
このように考えると、Hの「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」はGに比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。
エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。
だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。
そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。
以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かである。
そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのである。
エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?
ここからその「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。
「体を売る」のは、具体的には、いつ、どこでか?
上の問いに対する答えを念頭に置いてD「母親の態度」、E「衣服」、F「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。
答えは「今晩、エリスの家で」だ。
「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。
場面は、仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」である。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。
「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Eのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。
では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?
現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。
だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。
例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。
あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。
もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。
そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?
その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。
こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。
では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?
それこそがFの室内の描写である。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。
「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をFの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった。
これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいるのである。
a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。
その中で最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」なのだ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定されるのである。
室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。
では「価高き花束」の出所については?
花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。
だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。
それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。
そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。
お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。
それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。
さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者がほとんどだったのは奇妙だった。
de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。
だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。
つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。
だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。
「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。
D「母親の態度」がそれを示している。
母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。
それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。
母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからである。だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。
当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。
一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。
家の中には父親の遺体がある。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎えるのである。そしてその準備は母親がしているのである(これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた)。
また、上の想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!
この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。
だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。室内の描写を根拠としてまず「エリスの家で」説を採るべきなのであり、この家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーの方が解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。
そう考えることで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。
そして母親はこの場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をしたのだ、と考えるべきなのである。
恐るべき変わり身!
この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。
Eの「衣」について、後段の舞姫という職業についての説明の中で、舞台では「美しき衣をもまとへ」と言及されていることと結びつけ、この「衣」は舞台衣装ではないかという推測を語った者がいた。
確かにテキスト内情報は関連づけることで有意味化するものであり、そうした意味づけを「読解」と呼ぶのだが、この解釈はただちに認定することはできない。舞台衣装を街中で着ていることの異様さに、Eの時点で言及しないのが不自然だからである。
だがもちろんこの舞台衣装が「垢つき汚れたりとも見えず」程度の形容を許容するとすると、この晩にわざわざ舞台衣装を着ることを要求したのは、やはりエリスのファンであるような、今夜の予定の客であると考えるのが妥当とも言える。
結局「なぜそこにいたか」は、最初の選択肢ではaが最も近いが、母から逃げ出したというよりも、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきた、つまり「家から逃げて」とでも言った方が的確である。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。
そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。
さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?
この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。
時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。
主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像するためである。
いくつかのストーリーの類型を提示した。
○なぜ路上にいたか?
上記のような各ストーリーの背景に、以下のような想定の相違がある。
○「身体を売る」相手
○場所の意味
少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。
例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?
「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。
この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。
さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。
D.母親の態度
E.エリスの衣服への言及
F.室内の描写
これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定している筋書きを明らかにする。
どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?
主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?
議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張した筋書きに支持が集まっていく。だが最初の段階ではクラスによっては一人も支持していなかった。「どこ」の確定と、なぜ行かずに止まっているかを説明しなければならないというハードルがあるからだろうか。
さて、どのようなストーリーか?
相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオである。
家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。
一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。
このストーリーには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。
路上で泣いているエリスに主人公が出会う場面は、どのようなストーリーの、どのような時点か? 出会う時点までにどのような出来事があり、この後、どのような展開になる予定だったのか?
さしあたって「体を売ることになる相手」と「場所の意味」という観点から、ストーリーの背後にある想定のバリエーションを提示した。
だがそれでも実はまだ組み合わせによっていくつかの整合性のあるストーリーが描けるということが確認されたに過ぎない。
その中でどれを選ぶか、どのような読解が適切なのか、鷗外はどのようなストーリーを想定しているか、といった判断は、本文との整合性に拠る。
本文の記述は、どのストーリーと不整合であり、どのストーリーを支持しているか。
次の記述内容は既に考察に組み込まれ、班で検討の俎上に上っていただろうか?
D
この記述はどのようなストーリーを支持しているか?
母親の態度が豹変したのは、この東洋人から資金的援助が得られるというエリスの主張を受け容れたからだということはわかる。「言い争うごと」き話の内容はエリスによる説得だろう。
だが最初にドアを「あららかに」開け、「待ち兼ねしごとく」「激しく」閉め、豊太郎を閉め出したのはなぜか?
次の描写は何を意味しているか? これらの描写からはどのような推論が可能か?
E
小説の中に書かれていることには必ず意味がある、というのは小説読解にとっての大前提だ。人工的に創造される虚構は、作者がそう書かなければ存在しない。全ての断片は、書かれる意味がなければ書かれない。
Eのエリスの服装についての描写は単に、豊太郎及び読者に、エリスに対する好印象を抱かせる目的で言及されているだけかもしれない。
だが一方でこの言及もまた、ここでのストーリーを構成する断片かもしれない。それによって支持されるのはどのようなストーリーか?
F
この描写の中で、とりわけ注意を引くのは花束の存在だ。
花束だけならば、その前のテーブルクロスや書物などとともに、豊太郎の目に映る室内描写の一つとして看過できたかもしれない。だが「ここに似合わしからぬ価高き」という形容は、この花束の存在について、意識的な解釈を読者に要求している。これを無視することはできない。
この花束はなぜここに置かれているのか?
死者に手向ける花ではないかと推測する者もいる。
ここでは部屋の構造を確認しておこう。父親の遺体が寝かされているのは、入って正面の一室である。一方、花束の置かれているのは、左手の
花束を死者に手向けられたものであると解釈させるには、それらを別の部屋にすることの必然性がわからない。したがって、これは死者に手向けられたものではなく、「体を売る」という状況と結びつけて考えるしかない。
そして、その出所を問うならば、エリス家が用意したか、誰かから贈られたか、しかない。
エリス家が用意したものだとすると、それによってストーリーは限定される。それはどのように帰結するか?
一方、贈られたものだとすると、それは体を売ることになる相手から贈られたものであることを示しているのだと考えるしかない。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるには、まだ明らかになっていない道筋がある。
エリスが、身体を売らねばならない窮境に陥っていることを、いくつかの記述を結びつけて推測した。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるにはさらに何段階もの推論と説明の手順が必要だ。
「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの抽象度の状況把握で、「その時そこにいた」というのはさらに細かい状況の把握を必要とする。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。
さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?
授業で出てきたアイデアを分類する。
a.母親から逃げ出してきて
b.助けを求めて
c.身を売る相手を探して
d.どこかに行く途中で
e.どこかから帰ってきて
こういった諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。
たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。
さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。
deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。
最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけている。
だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていたはずだ。
だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いているストーリーと、誰かが語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。
上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?
こうしたストーリーの違いは、その背後に、想定の相違を秘めている。
たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?
これは必ずしも一致していないはずだ。
さしあたって解釈の可能性は次の三つ。
まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐するから、都合三つの可能性が考えられる。
そしてこれら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。
世に出回っている「舞姫」評釈書では、三つとも目にすることができる。
たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。
別の評釈書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。
あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある。当然相手は「不特定」だ。
だが、寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。
これらいわば「愛人強要説」と「売春強要説」は、どちらも両論併記ではなく、どちから一方のみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。
自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。
そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。
ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。
また、「そこ」とはどこか?
端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」である。
では、この教会はどこにあるか?
エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのである。とすると単に「家の前」という意味かもしれない。
重要なのは「教会の前」であることか? 「家の前」であることか。?
それはa~eの議論にどう影響するか?
上で言えばbは「教会の前」であることに意味があると考えているはずだ。無意味な路上ではなく、教会に「助けを求め」たのだ。だが扉は閉ざされていた。だからそこで泣いていたのだ。
またdeは「家の前」で止まっていたといっていることになる。
aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。
cは?
まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。
「4章」で、ようやくヒロインたる「舞姫」=エリスが登場する。
この、語り手=豊太郎とエリスの出会いの場面について考察する。
豊太郎とエリスとの出会いに続いて、交際が始まってからしばらく、4~6章までの6頁ほどを読み進めたら、戻って考察したいのは次の問題である。
エリスはなぜそこで泣いていたか?
この場面でエリスの置かれた状況を的確に捉えることは、この後のエリスと豊太郎の関係を捉える上で重要であるばかりか、それ自体、考察することに手応えのある問題でもある。
この問いは、例によって二つの問いを含んでいる。
「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。
先に解釈が進んで、班員に合意が形成されるのは「なぜ泣いていたか」だ。
本文のどこからどんな情報を読み取れば、エリスが泣いていた事情が推測できるか?
推測の根拠となるのは次の三カ所である。
A(317-318頁)「なぜ泣いていたか」として語られるべき事情を推測するための情報として、この3カ所はいずれも欠かせない。3カ所が揃ってはじめて充分な事情が推測できる。
まずAから、父親が死んだこと、エリスの家庭が貧しく葬儀さえ出せないでいることはただちにわかる。
次にBから、座長に経済的援助を申し込んだところ「(座長が)人の憂ひに付け込みて、身勝手なる言ひ掛け(=提案・要求)」をしたとある。さらにAの「彼のごとく酷くはあらじ。またわが母のごとく」「母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。」から、母が座頭と結託してエリスにそれを強いていることがわかる。そして「言い掛け」は「酷」いものなのだ。
さらにAの「恥なき人とならん」とCの「賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなり」「エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。」から、「言い掛け」の内容が推測できる。
このABC三カ所は必ず出揃わなければならない。三つ全てを総合して初めてこのような推論が可能になる。どこが論拠なのかを自覚しなくても推論結果を語ることはできるかもしれないが、重要なのは結論ではなく根拠と推論の過程だ。
これで「なぜ泣いていたか」が一応は把握できた。シヤウムベルヒが葬儀の費用を出す代わりにエリスに体を売るよう強要し、嫌がると母親が殴るのである。酷い話だ。ヒロインはこのように追い詰められた状況で物語に登場するのである。
これでエリスの置かれた状況の把握はできたと考えていいだろうか?
これ以上の推測はできないか?