2020年12月29日火曜日

国語に正解はない?

 「国語に正解はない」という言説をしばしば目にすることがある。「解釈は人それぞれ」などともいう。
 こういうことを門外漢が言う分には罪がないのだが、しばしば国語教師がそういうことを言うこともあり、経験上そういう人は国語教師として誠実か不誠実かどちらかだ。

 国語のテストの問題に正解はあるか?
 しばしば大学入試の問題にも、その正解をめぐって批判が寄せられることがある。多くの場合はその出題の妥当性、解答の限定力の弱さをめぐる批判だが、極端な場合は選択問題でさえ、どれが正解かをめぐって意見の相違がある(そこでは作問者でさえ特権的な立場ではいられない)。
 確かに国語という教科は、そうした問題となる「問題」を完全に払拭することはできない。そういう意味で確かに「国語に正解はない」。
 だがテストにはマルバツがつく。つけねばならない。

 とはいえ「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」という言説は、多くの場合テストに対してではなく、授業を対象にして使われる。さらに言えばそれは評論よりも文学作品を対象にした(とりわけを扱った)授業に対して使われることが多い。
 そうしたときに上記の様な言説が不誠実に発せられていると思うのは、しばしば「正解はない」「人それぞれ」と言うことが、厳密な解釈をしない口実として使われているからだ。
 そういう教師こそ、一方でテストでは、躊躇なくバツをつける。それは「国語に正解はない」という言説と一見相反するようにみえる。
 だが国語に正解はないと言いつのることと、予定された正解以外の答えにあっさりとバツをつけることとは、実は論理的に同じことだ。どちらも厳密な解釈をしようと努力しないという姿勢の表れなのだ。

 だがもちろん「国語に正解はない」し、「解釈は人それぞれ」だ。
 そもそも国語の「正解」って何だ?
 国語の「正解」とは多数決で決まるような、最大公約数的な解釈だ。投票権があるのは「国語力が高い」と想定されている人ばかりだとはいえ、多数決なのだから、少数の反対意見はいつだって残る。それを指して「解釈は人それぞれ」ということもできる。

 一方で、テストが正解不正解を振り分けることを目的とするなら、「正解」を定めないわけにはいかない。
 だからテストで問うことができるのはとても単純なことだ。少数の反対意見が残ったりしないような(可能な限り、ではある)。
 だから文学作品、とりわけ詩の作品としての解釈などテストで出題できない。「正解」など定めようもないし、定めることよりも、解釈は人それぞれであることの方が面白い。
 だからといって「解釈は人それぞれ」でいいのか?

 一般に「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」といった言い方で表されていることには、次の3点の要素が混ざっている。

  1. テクスト(=言説)は意味を一つに限定できない(テクストには多義性がある)。
  2. 読解という現象はテクストと読み手の間で起こる。
  3. 人の好みは人それぞれ。

 テクストは多義性をもっている。
 例えば、アンデルセン童話「醜いアヒルの子」の題名は、二つの意味に解釈できる。「醜い」という形容が「アヒル」に係っているか、「子」に係っているか、どちらと見做すかによって、このテクストは意味を変える。
 主人公であるアヒルの雛は他のアヒルの子供たちと違って一羽だけ醜いのかもしれない。
 だが、醜いお母さんアヒルから生まれた雛が主人公ならば、彼はたぶん可愛いのだろう。
 さらに「醜いアヒル」という係り方に限定してみても、その親アヒルが醜いと言っているだけなのか、アヒルという鳥は一般的に醜いと言っているのかは決定できない。
 「醜いアヒルの子」という言表は、それ自身が複数の異なった意味を発生させてしまい、彼が可愛いのか醜いのか(アヒルが一般的に醜いのか否か)を確定させない。
 もちろんテクストの意味は文脈の中で確定されることがある。テクスト内情報相互がそれぞれの「文脈」として互いを有意味化する。だからこの童話の題名が意味するところは、内容と合わせて考えればどちらか判断できる。彼は雛のうちは他のアヒルの雛よりも醜かったのだ。そして美しい白鳥の成鳥になったのだ。
 そうした、文脈の中で意味を捉えようとする思考を「読解」というのである。

 それでもテクストの意味はどこまでも確定しきれるわけではない。関連項目が増えれば、多義性一方で収束し他方で拡大する。消滅はしない。
 加えて、そもそも「読解」するときの「文脈」はテクスト内情報だけに限らず、読み手自身の持っている情報をも含む。どんな人がいつ読むかで、テクストはその意味を変える(1年の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、それが劇的に展開する物語だ)。
 つまりテクストの「意味」は、テクストの中に元々あるのではなく、読者の中で、その都度作られるものなのだ(ここで「『である』ことと『する』こと」のプディングの味の喩えを思い出そう。プディングの味はプディングに内在するのではなく、食べる時にその都度作られる)。
 だから読解とは必ず一回性の、個別的なものだ。
 これは「読者論」「受容理論」として知られた考え方だ(皆が読んだはずの『寝ながら学べる構造主義』にロラン・バルトの思想として紹介されていたのではなかろうか)。

 「解釈は人それぞれ」という言い方には、こうした1と2の考え方が曖昧に混ざっている。それは否定すべくもなく正しいが、だからといってそれでいいのか?
 この言葉は、多くの場合使い方が間違っている。授業とは、そもそも「人それぞれ」であるような解釈を持ち寄って検討し、そこに合意を作ろうとする場なのだ(もちろん「正解」を教える場でなどあるわけがない)。「解釈は人それぞれ」だから統一しなくていい、ではなく、「解釈は人それぞれ」だから合意を形成しよう、であるはずだ。
 だが「解釈は人それぞれ」という言説は、往々にして合意をはかる努力を怠る方向にはたらいている(中国や韓国との間で度々揉める歴史解釈の問題もそうだ)。
 そして「国語に正解はない」と言うことは、テクストの意味の多義性、もっといえば可能性を本気で探ろうとはしない姿勢に結びつく。

 だが「人それぞれ」でいいのは「解釈」ではなく「好み」なのだ。
 好みこそは「人それぞれ」であっていい。あるしかない。
 厳密な解釈の上でそれでも残る多義性については、それぞれの読者が好みで選べばいい。


 我々は、みんなが集まった授業という場において、こうした、テクストの多義性に潜む可能性最大限探ることと、それらの妥当性についての合意を形成することを目指しているのである。だから本授業者の提示する読解は「正解」ではないし、それに異論を提起することは、本当に有益だ。
 もちろん少数意見が残ってもいい。ましてそれぞれの好みの違いはそれぞれであっていいに決まっている。
 だがそれぞれの好みは、それぞれの解釈の妥当性を厳密に探ろうとした果てにしか本当には尊重されない。それぞれの解釈の違い放置することは、尊重ではなく軽視だ。

 だから議論が1,2,3のどの局面に関わるものなのかを意識しつつ、多様性を認めることと合意を形成することを同様に目指すべきなのだ。
 そうした姿勢を指して「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」というのなら、それは国語教師として誠実だと思う。


2020年12月25日金曜日

こころ 54 補遺「死んだ血潮」

 第3回の定期考査の後に出した課題は、時間のないところだったが、皆よく取り組んで回答したと思う。

 とはいえその回答の多くは、想定の範囲内でもある。

 Kの自殺の動機にしろ主題にしろ、問題はそこまでの材料集めで、お膳立てが済んでしまえば、できあがりまではあと一歩だ。Kは淋しくて死んだのだ、という五十三章の一節を紹介してしまえば、それでもうそのまま答えになってしまう。

 だが皆がそれを出し合って初めて「Kは二日間、私が話すのを待っていたのか」「『もっと早く』とはいつのことか」といった問題点が思いがけず浮かび上がり、「淋しさ」をKの死因として提示することの問題点があらためて授業者には認識されたのだった。

 「こころ」を、「エゴイズム」を主題とする小説だと読むことと、心のすれ違いを主題とする小説だと読むことは全く違った読解体験だと思う。だがそれが、作者のミスリードにしたがって読むのか、授業者の「ミスリード」にしたがって読むのか、という違いでしかないようなことには、どうかなってほしくない、と思う。

 長い読解過程でも、作者のミスリードを指摘しつつ、何度も授業者自身が意図的に「ミスリード」をして、それをひっくり返したりした。

 そうした過程で、どうか、自分で読むという姿勢をあらためて皆がそれぞれ自覚してほしいと思う。


 さて、Kの自殺の動機にしろ主題にしろ、予定されたところに皆が至るだろうことを想定した上で、それ以上のものを提示してやろうとの野心から「もう一つの主題」を考えておいて、それを提示して授業を終えた。

 だが、ここまでの考察を終えて、さて振り返って最初の課題でKの自殺の動機と主題を考えた時に、意外なほど最終的な結論に近いことを最初から言っていた者がいるのも面白い。本人には自覚があるだろうか?

 聞いてみると大抵本人には自覚がない。

 だが、そう表現されているその認識は、こう表現されているこの認識とどう違うのか(同じなのか)に対して皆もっと敏感になってもいい。

 たとえば国語のテストの記述問題であれ選択問題であれ、問われているのは、その正確さへの鋭敏な感覚なのだし、自分の考えと他人の考えが同じなのか違うのかを判断することは、大げさに言えば「生きる力」でもある。たかが一文学作品の読解の問題ではない。


 さて、授業で検討しきれなかった問題を提示してくれた考察を紹介する。


 Kの自殺を「現実と理想の衝突」つまり道を貫きたいけど外れてしまったことをひとつの理由だとして重点的に考える。Kは道を貫きたいがために「尊い過去」(P193下段2行目)にとらわれている。「私」もまたKとの過去にとらわれている。私は天皇が崩御し乃木大将が殉死したのをきっかけに新しい時代、未来が始まる前に自殺をする。Kも奥さんに結婚のことを聞かされたことをきっかけに私とお嬢さんの結婚生活、大きくいえば新しい時代、未来が始まる前に自殺をする。こう考えると私がKと同じ道を歩んでることがはっきりと分かる。尊い過去=道を貫ぬいてきた今までの自分だとすると、Kは未来が始まる前に過去に留まることで最後まで道を貫こうとしたのではないか。


 H組のOYさん。

 もちろんこれに続けて「淋しさ」についても考察しているが、上に示されたようなKの姿勢を、彼女は10月の最初の課題や「覚悟」の考察の時から一貫して主張していた。

 ここで示されるKの姿はいわば「孤高」である。もちろんそれは「孤独」でもある。だが「淋しくて死んだ」というような言い方でイメージされるKに比べて、ここに示されるKはなんと誇り高いことか。


 もう一つ。

 Kは孤独で死んだのだという説明に、授業後に異論を唱えてきたB組のTMさんの問いかけは実に興味深い。

 Kの自殺の動機を「たった一人で淋しい」と「私」=先生は考える。そして「Kの歩いた道を、Kと同じように辿(たど)っている」とも考える。ということは二人の自殺の動機はともに「孤独」ということになる。

 だが一方で奥さん(遺書の中のお嬢さん)に話せない先生は孤独だとは言えるが、大学生の「私」(「上」「中」の語り手)に対しては「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」ではないか。それを受け止める相手がいるのに、なぜ自殺するのか?

 なるほど。鋭い指摘だ。

 どう考えればいいのか?


 連想したのはH組のYAさんの次のような考察だ。

 別のプリントで配られた二章に「私はその時心のうちで初めてあなたを尊敬した。」とある。そしてその後「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、暖かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。」と続く。ここから、生きた心臓を立ち割り、血潮を啜ろうとする行為が「私」の中で尊敬に値するものだと捉えられていることが読み取れる。それは一体何故か。「私」がKに対して行っていない行為だからではないだろうか。「私」からKに対してお嬢さんのへの恋心という血潮を注ごうとしたことはある(その際はKに弾かれたと感じている)。しかし逆に「私」からKに対して自ら血潮を啜ろうとしたことはなく、それは「私」から襖を開けることがなかったことと同様にKに孤独感を植え付ける要因の一つとなっているのではないか。

 この直後に「その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」とある。この時の血潮と「私」からKに注ごうとしたお嬢さんの恋心という血潮とを合わせて考えてみる。この小説の中では生きている時に注がれようとする”生きた血潮”が相手に届くことはなく、Kや「私」が自ら心臓を立ち割ったあとの”死んだ血潮”のみ相手に届いている。そう考えるとそれも互いに分かり合えない自閉した「こころ」を表しているようで悲しく感じる。


 ここにある「死んだ血潮」という表現からさらに連想したのは、画期的な「こころ」論で有名な小森陽一(東大名誉教授)の論考にあった指摘だ。今手元にないので引用できないのだが、趣旨は次のようなものだ。

 先生は大学生の「私」に求められ、心を動かされて秘密を明かす気になるが、その時「私」は父親の病気のために郷里に帰っている。それで先生は遺書を書き出す。この遺書が「こころ」第三部「下」だ。

 もしも先生が、遺書に書いたのと同じ内容を直接「私」に話していれば、先生は自殺していないだろうと小森氏は言う。直接話すのではなく、遺書を書いてしまったから、先生は自殺するのだ、と(尤も、この遺書の中で、あなた=「私」が東京に戻る頃にはもう私=先生は自殺してこの世にいないだろうと書かれているが、小説はそこまでの結末を場面として描くことはなく、遺書の終わりとともに小説自体も終わるから、「私」が先生の死の間際に東京に帰り着き、先生の自殺を止めるというハッピーエンドを夢想することはできる)

 この指摘には胸を衝かれた。なるほど。

 「話す」ことと「書く」ことは違うのだ。

 あれだけの告白をするには相当な時間もかかるだろうし、それを聞く相手は相鎚を打ったり問いを発したり、時には反駁もするかもしれない。そういう相手に面と向かって話した先生はきっと死んだりできないはずだ、と。

 書いている間、相手は目の前にいない。想像の中での読者は、自分が想像した、自分の「こころ」を投影した相手でしかないかもしれない。


 考えてみればKもまた「私」=先生に「話」していたのだった。「恋の自白」も上野公園も、Kが話しているのは自らの「薄志弱行」についてだが、それを話している間は「行く先の望みがない」という結論を実行に移すことはなかった。

 だがそれを遺書に書いてからは、Kは「私」にそのことを話すことはない。

 つまり直接話すことはYAさんのいう「生きた血潮」でありうるが、遺書という形で伝える思想は「死んだ血潮」に過ぎないのだ。遺書では「生きた血潮」を「浴びせかける」ことはできないのだ。

 とすると、Kの「孤独」は、木曜日以降の二日間にのみ生じたのではなく、遺書を書いた、前の週の月曜日から、12日をかけてKの裡に醸成されていったということになる。話すことは問題の根本的な解決になるわけではないが、話していれば、その問題を自閉した意識の中で「一人で」抱え込むことは避けられるのだ。

 だから、直接話す機会を逃して遺書を書くことになってしまった先生=「私」は、やはり「自意識の牢獄」に囚われていたのである。


 ということで、こんなことを「書く」のも授業者としては不本意ではあります。授業で直接皆に話したかった。尤も、上記の考察はTMさんと話している間に思いついたので、そこでは直接話すことができたのですが。

 年明けの授業では、また皆と「話」し合いたいと思います。


2020年12月13日日曜日

こころ 53 もう一つの主題「遅れ」

 恋の自白の場面と自殺の場面に共通する「ほぼ同じ」「感じ」とは、「私」とKの「こころ」が断絶し、それぞれが「たった一人」になった瞬間が突然訪れたということだ。

 こうした「黒い光」を「孤独」の象徴として見る解釈は、「こころ」の主題「意思疎通の不全」と捉えることとも整合する。

 それはKの自殺に至る心理の考察から導かれた結論と一致する。


 確かにこの瞬間、二人は断絶し、「孤独」が決定づけられた。

 だが、「私」にはそのことがこの時直ちに認識されたのだろうか?

 そうした認識は後から徐々に形をなしていくのではないか?

 Kの自己所決に「二日余り」が必要だったように、「私」がそうした認識にいたるのにも10年あまりの時間が必要だった。

 これらの瞬間に「私」を襲った「感じ」、すなわち「しまった」「先を越された」「もう取り返しがつかない」の感触は、直ちに「孤独」と言うだけにとどまらない、ある切迫感がある。

 「私」はこの時、何事か致命的な境界を越えてしまったことが瞬間的に感知される、ある不気味な裂け目を覗きこんだのだ。

 それがどのようなものかを解き明かすためのキーワードが「遅れ」である。


 二つの場面で「私」はなぜその瞬間に「もう取り返しがつかない」と認識することができたのか。

 それは、どちらの場面も「私」は単なる受け身の状態で不意打ちを食らっているわけではなく、「私」自身は自分がすべきことを自覚しているからだ。

 三十六章では、房総旅行以前から、Kよりも先に「私」こそお嬢さんへの思いを相手に伝えなければならないと思い続けていたのだし、Kの自殺の前にも四十七章では、「私はどうしても前へ出ずにはいられなかったのです。」とKへの釈明に迫られている。

 こうした強迫意識が、どちらの場面でもいわば意識下の「予覚」のような形で迫ってくる。後ろから追われているような焦燥感が、事態の展開への予感のようなものとして感じられている。

 だからこそ「私」にはその先に陥る窮境が、聞いた刹那にわかってしまう。Kから恋の告白を聞いてしまった以上、もう自分からは言えない。Kの自殺を発見した場面でもKや奥さんお嬢さんに釈明する機会は永遠に失われてしまったのだ。

 意識下でそうした展開を恐れていたからこそ、そうした悟りは、刹那におとずれる。


 注意すべきなのは、だからといって、そうなることを予め知ることはできない、という点だ。そうなって初めてそうした状況におかれることの意味がわかるのである。「まるでなかった」のは、Kの告白を聞かされる「予覚」というばかりではなく、聞かされた後に訪れるこうした状況の意味する、致命的な身動きのとれなさに対する「予覚」である。

 そうした「予覚」をもてなかった「私」は、事態の展開に致命的に「遅れ」ている。


 この認識は、保留にしていた、なぜ「私」はKの告白に続けて自分のお嬢さんに対する思いを告白できなかったのか、という問題に対する一つの解答を可能にする。

 Kには敵わないと思うから、実は自分も、と言い出せないのだという説明は、おそらく間違ってはいないが、「利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。」という不可解な記述と微妙に食い違う。

 衝撃のあまり言い出せなかったのだ、というのも間違いではないかもしれないが、そのことがなぜ重要なことなのかを説明していない。 

 問題は、なぜその時言い出せなかったか、というだけではない。なぜその後も言い出せないのか、だ。

 Kに敵わないという認識は変わっていないのだから、告白の瞬間に限らず「言えない」状態は継続する。

 また、Kが死んでしまっては「言えない」ことに何の不思議もない。

 だがそれだけではない。次のような記述は、この「言えない」に、複数の場面で共通する性質があることを物語っている。

私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が遅れてしまったという気も起こりました。なぜさっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手ぬかりのように見えてきました。せめてKの後に続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。Kの自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じことを切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。(三十七章 182頁)


要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばかものでした。…しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。(四十七章 202頁)


 二つの記述に共通する構造は何か?


 四十七章の「足を滑らした」は「言わずにいる/言えなくなる」ことを指していると考えられる。とすれば、どちらも「言わなければいけないが、言えない」理由が述べられている。

 両者に共通する「言えない」理由を端的に表現するならば、前に言わなかったから、だ。

 この先言うためには、なぜあの時は言わなかったのか、という疑問に答えなければならなくなる。つまり「言わなかった」こと自体を隠さなければならない。


 これはいわゆる悪循環である。言わなかったという結果が言えなくなることの原因になるという、循環した因果関係をつくっている。

 だから「言えなかった」という事実が「利害を考えて黙っていた」のではなく、「ただ」「言えなかった」のだという三十七章の説明は、この場面で「言えなかった」ことに必然性を認めるような理由があったのだという説明よりも、この「遅れ」の感触を強調している。

 同様に、上に引用した四十七章の「足を滑らした」に「つい」という、見ようによっては無責任な副詞が冠せられているのも、同じニュアンスだと考えると腑に落ちる。

 「私」は「正直な道を歩くつもり」だったというが、そのような「つもり」がどこに存在したというのか。

 だが「私」の自覚としてはそうなのだ。そして「足を滑らした=黙っていた」ことは「つい」なのだ。

 まずとにかくそのことが起こる。そしてそのことのもつ意味は「遅れ」てわかってくる。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 先にも引用した一節だ。

 これは主に奥さんへの談判を指していると思われるが、上記の状況に重ねて言うならば「私」は「いや考えたんじゃない。言わなかったんです。」とでもいうことになる(「談判」もまた「言わずにやった」のである)。


 だが、「言わなかった」ことが「もう言えない」になることを、「私」は予め知ることができない。そうなってから「遅れ」て、そのことを知るのだ。

 そしてこの「遅れ」が何をもたらすかも。


 「私」はこの時、自らも恋の告白を口にできなかったことで、この後のお嬢さんをめぐるKとの争いは決定的に困難な状況におかれることになる。これ以降、Kに対する秘密を抱えたままで全ての行動をおこなわなければならない。

 それは、「私」にはもう正当な手段でお嬢さんを手に入れることができないということを意味する。

 といって人知れずお嬢さんへの思いを断ち切ることはできない。それは愛するお嬢さんを失うというだけでなく、Kに対する敗北をも意味するからだ。

 つまり「私」は、自身の選択に決定的な制約を受け続ける事態の中で、しかし断念することもできずに宙吊りにされるのである(D組では「ジレンマ」と表現された)。


 また、Kが自殺してしまった今、Kに対する謝罪は勿論、後に妻になるお嬢さんにすら、このことを釈明することはできない。Kに謝罪できないままKに死なれてしまうということは、損なわれてしまった「倫理的に正しい自分」という自己イメージを取り戻せないということであり、しかもそのことをこの先、自分の妻に告白することもできないまま生きていかなければならないということである。お嬢さんとの結婚が実現に向かって進んでいくにもかかわらず、そのことを公明正大に喜ぶことはできないのである。

 ここでも、可能性の喪失はすぐさま完全な断念に決着せずに宙吊り状態におかれることになる。


 この宙吊り状態も、悪循環の再帰性も、「山月記」の李徴の陥っている状況に似ている。李徴もまた、エゴイスティックになろうとしながら、まるで自由にはなれなかった人だった。


 恋の自白も自殺も、Kがそれをすることに対する「予覚」が無論あるはずはないが、それよりも問題はそれによって引き起こされる事態への「予覚」である。「私」はそのことについて周囲の人に「言えない」状態に陥るが、同時にそれは常に中途半端な宙吊り状態として「私」を捉え続ける。

 もちろん常に「言えばよかったのに」とは言える。そのことが潜在的であれ、予想ができていたのなら、そんなことは事前に充分に想定しておくべきだったのだ、などと「私」を断罪したり侮蔑したりすることもできる(そういう言説を目にすることがある)。

 だがそれは、人間の理性に対する過度の要求だ。

 「私」は事態の展開に致命的に「遅れ」ている。「遅れ」は、その事が終わってから、つまり「遅れ」たという事実が生じた後に確定されるしかない。


 この「遅れ」は不可知であり、それゆえ不可避である。

 にもかかわらず、もっと早く行動を起こしていれば良かったのに、という後悔は猛然と襲ってくる。前もってそうした展開を想定すべきだったのではないかという非難が、誰知らず聞こえてくる。

 「私」はこの時、いわば相手がゴールした後で、実はそれまで競走をしていたのであり、それはもう終わってしまったのだということを初めて知らされたのである。

 後には永遠に敗者となるべき結果だけが示されている。

 確かに走っていた自覚はある。だがそれがゴールの設定された、対戦相手の存在する競走であることは知らされていない。ただゴールも意識されぬまま「早く」という焦りだけが「私」を動かしていたのだ。そして相手がゴールした後で、もっと急げば良かったという後悔が襲ってくる。

 だがこれは実はKとの競走でもない。「先を越された」のは、Kに、ではない。Kは「私」よりも早く告白しようなどとはしていないし、先に告白したことによる何らの利益も得ていない。

 Kもまた敗者だったのであり、誰を勝者とすることもなくただ「もう取り返しがつかない」結果だけが走者たちの前に投げ出されるのである。

 「予覚」もないところに「後悔・悔恨」を想定するのは暢気に過ぎる。競走の自覚のなかった走者たちには、レースの終了は不意打ちでしかないのだから。


 こうした考察からは「黒い光」をどのように捉えられるか?


 「取り返しがつかない」というのは、レースの終了によって「私」が陥る状況を指すのだから、恋の自白の場面では、先にKに自白されてしまったことによって恋の競争において決定的な劣勢におかれてしまうことであり、自殺の発見の場面では、Kやお嬢さんに対する釈明の機会を失ったことである。

 そして先に見た「黒い光」=「自意識の牢獄」に囚われてしまうことである。

 物語の構造から考えてみた時、この「黒い光」が象徴する未来への影は、単なる「罪悪感」として「私」一人が背負うべきものでなく、登場人物すべてに投げかけられた、不可避的な運命の決定不能性に対する人間の無力さ、とでもいったようなものだ。

 この「黒い光」は、恋の自白の場面や自殺の場面だけでなく、無論、奥さんがKに婚約の件を話してしまったことを奥さんから聞く、土曜日の昼間の場面にも射している。それだけではない。上野公園の散歩の最中の会話の中でも、夜にKに声をかけられた時にも、談判をした時にも、夕飯の席でそのことを言えなかった時にも、常に「黒い光」はかすかに「私」を照らしている。我々は常に状況に縛られて、そうせざるをえないようにふるまっているのであり、事態の展開に常に「遅れ」ているのである。


 「エゴイズム」が主題だと考えるということは、「私」が自らに利するように何事かを選択し、行動しているとみなすことだ。

 だが「私」の行動は、いつも事態に「遅れ」、それに縛られるようにして決定されていく。

 とするとすれば「こころ」という小説は、主体的な選択をする自律した近代的個人のエゴイズムを描いているかのように見えながら、その実、運命に弄ばれるようにして事態の展開に「遅れ」続ける人間を描くことで、大げさに言えば「近代理性への疑義」を表明しているのである。

 これが「こころ」という作品から見出される、もう一つの主題である。


2020年12月11日金曜日

こころ 52 「黒い光」とは何か

 ここまで考えて、「黒い光」について一つの結論を出そう。


 「Kの歩いた路」とは何か。引用部分から指摘するなら「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した」である。これが「この友だちによって暗示された運命」であり、またこれが「私の前に横たわる全生涯」であるとすると、それを照らす「黒い光」とは、「たった一人で」あることに他ならない。「黒い光」は「私」ばかりかKにも射している。

 この「黒い光」は端的に表現すれば「孤独」である。自分の「こころ」を他人に対して正直に打ち明けることができない、登場人物それぞれが、「たった一人で」自閉している、自意識の牢獄に射す光こそ、Kや「私」を死に追い詰める「黒い光」なのである。


 「黒い光」はKにも射しているのだから「罪悪感」ではありえない。

 同様に、前に、「黒い光」が自殺の場面同様、Kの恋の自白の場面にも射しているはずだという解釈を示した。これもまた「黒い光」が「罪悪感」ではありえないことを証しているのだが、だとすれば、「孤独」としての「黒い光」は恋の自白の場面にも射しているのだろうか?


 恋の自白の場面とは、「私」がKを自分の「敵」として位置づけてしまう決定的な転換点である。

 それまでもお嬢さんをめぐっては、Kは疑心暗鬼の対象だし、「私」は充分には言いたいことが言えずに迷っている。

 だがKが「敵」として立ちはだかることを宣言するならば、その後「私」はいよいよKに手の内を見せることなく策略をめぐらすしかなくなる。

 「私」とKの意思疎通の断絶が決定づけられたのは、まさしくこの瞬間だったのである。


 この場面にはそのことが作者によってあからさまに書かれている。

私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした

 先にも一度引用したが、「私」はKの話をよく理解していない。

 これはまた、Kの方でも同じなのである。

私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上にはっきりした字で貼りつけられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。

 二人はそれぞれ自分のことに囚われて、相手のことを見ていない。話をしていても、二人の意思疎通は断絶している。


 これ以降、Kの「こころ」は「私」の目からは完全に見えなくなる。

 続く三十七章は「襖」への言及が頻出する(183頁)。二人を隔てる襖は「いつまでたっても開きません」。

 そうして「彼が解しがたい男のように見え」た揚句、「彼が一種の魔物のように思え」(184頁)てくる。

 二人が「黒い光」に照らされているのは明らかだ。


 とすれば、Kと「私」の断絶が決定づけられ、その後の自意識の牢獄に足を踏み入れた瞬間として、恋の自白の場面にもやはり「黒い光」は射しているのである。


 この「黒い光」は、この瞬間だけでなくなぜその後も射し続けるのか?

 「私」はKを「解しがたい男」と言いながら、一方で「罪のないKは穴だらけというよりむしろ開け放しと評するのが適当」(189頁)だなどと、すっかりKがわかっているつもりになってもいる。

 そこで「私」が見ているKは、「私」の恋の行く手に立ちふさがるかもしれない強い「敵」だ。

 だが実際のKは、自らの信じてきた道を進むことができずに苦悩する弱い男である。

 「私」にはそれが見えない。

 それは相手に自分の「こころ」を投影して、わかっているつもりになっているからだ。

 この「つもり」は自覚できないから、そうした錯覚から逃れることはできない。「私」は自分の影を相手に無意味な画策をしつづける。

 「わかっているつもり」は「わかりあえない」ことと表裏一体だ。

 「私」は「黒い光」が照らす自意識の牢獄から出られない。


こころ 51 「もう取り返しがつかない」

 Kの自殺したこの場面を読む読者には、「もう取り返しがつかない」という表現は、Kの命が失われたという事態の重大さに釣り合っているように感じられる。

 だが先述の通り、「第一の感じ」が「しまった」に言い換えられていることを認めるならば、「もう取り返しがつかない」もまた(程度問題としてそこまで重大でないとしても)恋の自白の場面に適用されるはずである。

 「先を越され」ると、何の「取り返しがつかない」のか?


 前の問いで前提状況を確認した。どちらも「私」は、Kに何事かを言おうとして言い出せずに迷っていたのだった。

 とすれば、「取り返しがつかない」とは、Kに「先を越され」て「しまった」から、この先はもう言えなくなって「しまった」ということだと考えるのが素直な帰結だ。

 どうしてそういうことになるのか?


 Kに先に恋の自白をされてしまうと、もう「私」には自らのお嬢さんへの思いを表明することはできない。この心理は容易に共感できるが、それがなぜかを説明することは容易ではない。だって気まずいじゃん(「Rの法則」の雛壇女子高生)では説明にならない。

 なぜ、もう言えなくなるのか?

 自らもお嬢さんが好きだということは、既に潜在していた三角関係を顕在化することになるからである。

 「私」はKに敵わないと思っている。Kの方が頭が良く、意志が強く、背も高いし顔だって良いような気がする。「私」は、三角関係が露わになってしまえば自分が敗者になるであろうことを予見しないではいられない。

 したがって三角関係であることは表面化してはならない(G組の「同じ土俵には上れない」はうまい表現だった)。

 だからもう「私」が言うことはできないのである。


 だがこの説明は、次の一節と微妙に不整合だ。

Kの話がひととおり済んだ時、私はなんとも言うことができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいるほうが得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。また言う気にもならなかったのです(182頁)。

 上記の説明は「利害を考えて黙っていた」のだということにはならないか?


 「私」が黙っていたことに理由をつけるならば、上記のように言うのはおそらく間違っていない。

 にもかかわらずなぜ上記の一節が書かれなければならないのか、という問題は、意外に深いところにつながっていそうだ。

 この点については後で再説する。


 一方、四十八章では、「私」はKを出し抜いたことについて、Kに釈明しなければ、と思いつつも踏み出せない。201頁から202頁にかけて、「五、六日」の間、蜿々と逡巡する、言い訳じみたくだくだしい思考が続く。

 そうするうちにKの自殺によってその機会は永遠に失われてしまう。

 このことはなぜかくも重大なのか?


 それまでの「卑怯な」ふるまいを自ら告白していれば、一時の恥辱を耐えれば再び「倫理的に正しい自分」を回復することができる。

 Kのいない今、その可能性は断たれてしまった。となれば「卑怯だった自分」を抱えて生きていくしかない。

 とはいえそうした痛みも、時間が経てばなし崩し的に忘れていくこともできるかもしれない。

 だが問題はそれだけではない。

私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。(「下/五十三」プリント参照)。

 先にも引用した一節だ。

 「言えない」はKに対してだけではない。Kの死という重大な結果を招いた以上、それをもたらした(と「私」が思っている)自らの行動については、これ以降、後に妻になるお嬢さんや奥さんに対しても「言えない」ことになるのである。


 どちらも、自分から言う前に「先を越され」ると、もう言えない

 「取り返しがつかない」とはこのことである。


 「ほぼ同じ」という、既視感にも似た共通性は抽出できた。

 「ほぼ同じ」「感じ」を説明するために、「私」の反応の共通性を挙げても意味がない。問題は「私」に同じ反応をさせる状況の共通性である。

 状況とは、直接的なKの行動のことではない。「恋の自白」と「自殺」という行為そのものの共通性を挙げても、状況の共通性は明らかにはならない。

 この瞬間の前後の変化、この出来事が及ぼす影響にこそ、「私」が看取した「ほぼ同じ」「感じ」の核心がある。


 ここから「黒い光」をどのように表現したらいいか?

  そしてこのことが示す「こころ」の主題とは?


こころ 番外編 第3回定期考査

  定期考査も3回目、漢字テキストから出題する例の問題形式にも慣れたろうか。

 こうした出題の趣旨については一度書いたことがある(7月15日記事)。

 メッセージをシンプルに言うと、ただ覚えようとしないで考えろ、ということだ。

 漢字の意味を考え、共通する部分のある漢字と結びつけ、連想の働くようにしつつも意識的に区別する。

 問われているのは暗記力や単なる努力ではない。語彙力、すなわち言語的思考力と日常の言語生活、つまりは国語力だ。


 「こころ」文中の語彙の意味を選択する問題は、意外に正答率が低い。上記語彙問題とともに、返却後にしっかりと見直すべし。


 さて最後の記述問題について少々。

 5点満点の評価をしたのは6クラス240人中、4人。B組のTMさん、HAさん、D組のKMさん、H組のYAさん、以上。

 あの時間内に的確にその趣旨を読み取って、そのことを的確に表現するのはかなり難しかったはずだ。素晴らしい。


 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。たしか十月の中頃と思います。私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。


 下線部、履物についての言及がなぜあるのか、という問い。

 「いつもと違うことが起こることを暗示している」は、出来事を小説内の機能という面から捉えようとする読解は、それなりに授業の学習効果の賜物とも思えるが、ここでは考えすぎ。この出来事がそれほど特別なものとはいえない。

 「私が急いでいた(焦っていた)ことを表わす」は、間違ってはいないが、あまりにそのまますぎて、ほとんど意味のある説明になっていない。

 上記いずれも、記述に挑戦する心意気は買うが、この問題については0点。


 「急いでいたので、Kが休んでいることを確認していないことを表わす」は、後の「Kよりも私の方が先へ帰るはず」「いないと思っていたKの声が」などと関連づけてある分、「意味」があると感じられるが、これでは履物の種類にまで言及することの「意味」が充分には立ち上がってはこない。2点。


 「読解」とは、テキストの複数箇所(あるいはテキスト外の何らかの情報)を結びつけることで、あらたな「意味」を読み取る(有意味化する)行為だ。


 さて、問題部分は、実は出題のために原文をいじってある。難易度を上げるために太字「いつものように手数のかかる靴を穿いていないから」を省略した。

 意地悪だ。ここがあればわかった人も増えるに違いない。

 草履だったことは、玄関からKの部屋へ上がるのに時間がかからなかったことに理由を与える。このことを述べた人は、これがどのような「意味」を持つか、についての予想ができている。ここまでで3点。

 これと「私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけ」「私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかる」を結びつける。

 お嬢さんは単にお茶の用意をしに台所に行っただけかもしれない。だが「私」はそれを「逃げた」と捉えてしまう。

 それはお嬢さんをKの部屋に見たタイミングが微妙だったからだ。

 玄関から上がるのに時間がかからず、お嬢さんが「Kの室から逃れ出るように去る」のを見る。ということは、もしも玄関で履物を脱ぐのに時間かかっていたならば、お嬢さんは完全にKの部屋を出てしまっていたかもしれない。そうなれば「私」はお嬢さんがKの部屋にいたことを知らないままだった。

 この可能性がかえって、お嬢さんはKの部屋にいたことを「私」に隠そうとしたのではないか、という疑念を「私」の中に芽生えさせてしまう。隠そうとするということは、すなわち…と。

 玄関で靴紐を解く時間がかかっていて、なおかつお嬢さんがそのままKの部屋にいたとすれば、いたことをことさらに隠そうという意図がないのだと感じられる。

 思いがけず玄関を上がる時間がかからず、かつお嬢さんは微妙なタイミングで部屋を出たという偶然が、この疑念を生んでしまう。


 履物についての言及が、朝の時点での「私」の何らかの心理を表わすという視点から解釈することももちろん場合によってはありうるだろうが、ここでは上記のように考えた時により大きな「意味」をもつ。

 朝、履いたのが草履だったのは偶然であり、その偶然は明らかに作者の意図的な仕掛けだ。

 このような解釈をするためには、「登場人物の心理」だけでなく、「作者の意図」といった視点が必要だ。

 一連の「こころ」読解においては、しばしばこうした視点を用いて、テキストの示す「意味」を捉えてきた。

 その応用問題である。

 こうした趣旨を読み取って的確に表現した上記4人、誇っていい。


2020年12月7日月曜日

こころ 50 自白と自殺の共通性

 Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面には「ほぼ同じ」「感じ」があるという。

 考えてみればこれはとても奇妙なことのはずだ。隣室で友人が死んでいるのを夜中に発見した際に、その友人から恋心を告白されたことを第一に思い出す、などというのは。

 一方で読者は、この「感じ」が何なのかを一瞬で理解している(「私」がその刹那にそれを感じ取ったように)。

 ただそれを言葉にするのは容易ではない(実際に世の多くの文学者や国語教師がそうであるように)。

 この奇妙さを説き明かすために、先述の通り、二つの場面の「私」の反応を比較しても意味がない。

 では、Kが恋心を告白すること自殺することにはどのような共通点があるか?

 どちらもKらしからぬ行動であること?

 だが実は二つのKの行動を直接比較しても、この「ほぼ同じ」「感じ」は明らかにはできない。

 「状況」というのは、「私」の反応だけでもKの行動だけでもない。それらを含んだ、様々な要素の組み立て・構造だ。

 Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面に共通する構造とは何か?


 授業でこの部分を考察すると、二つの場面とも、「私」にとって想定外の展開だったのだ、と語る生徒がいる一方で、どちらも、決定的な瞬間にいたる前に「私」は何か予感のようなものを感じている、と指摘する生徒もいる。

 こうした食い違いは何を意味するか(対立する意見というのは考えるための良い契機だ)。


 予感はあったのか? なかったのか?


 「驚き」「衝撃」を共通要素として挙げるならば、予感はなかったというしかない。

 実際に恋の自白の場面では、「私の予覚はまるでなかったのです」(「三十六」)とあからさまに言っている。恋の自白などということ自体が、Kの日頃の言動に不似合いだ。

 また、Kの自殺は、勿論それを事前に知ることなぞできるはずもなく、想定外であってこそ衝撃的な展開たりうるのである。


 だが一方で先に指摘した「既視感」は、自覚されない予感があったことの裏返しなのではないか?

 三十六章の「私はまた何か出てくるなとすぐ感づいた」や、四十八章の「暗示を受けた人のように」などの記述は、「予覚はなかった」という言葉とは裏腹な不吉な「予感」のようなものがあったことを示してはいないだろうか?

 これは何を意味しているか?


 語られる「予感」とは、後から振り返った時に捏造される錯覚かも知れない。

 起こった後で、その事が実際に起こる前に、自分はそれが起こることを知っていたという記憶が作られたのではないか。

 なぜ、どんな時にそんなことが起こるのか?


 問題は、それ起きた時の「私」の構えだ。純粋に出し抜けにそれが起きたのだとすれば、超能力者でない身に、予感など抱きようもない。

 だが「私」は何の構えもなく、その瞬間を迎えたのではない。


 二つの場面にいたる前提となる状況の共通性を確認しよう。

 どちらも、どのような状況においてその瞬間を迎えるのか?


 とはいえ「自白」の場面については、そこが教科書の収録部分のほぼ始まりなので、その前の状況は直接本文から読み取ることができず、教科書の収録部分以前の「あらすじ」の記述を参照するしかない。

 それから、この場面から後の数日間の記述を参照する。

 そして「自殺」の前の状況から、「自白」の前にも同じような状況があったとしたら、どのような状況であるか推測する。


 両者はともに「私」が何かをKに言おうとして言い出せずにいる、という状況であることにおいて共通している。

 恋の自白の場面では、Kだけでなく「私」こそがお嬢さんへの恋心をKに打ち明けようと長らく思い悩んでいるのだし、自殺の場面では、すべてをKに打ち明けて謝罪することが「私」の前に横たわる喫緊の課題だ。

 こうした共通状況において、二つの場面では何が起こったか?


 二つの場面(181/204頁)で共通した表現をそのまま抜き出す。

 共通するのは「しまった」という「私」の第一声である。自殺の場面では「またああしまったと思いました」とあるから、これが「同じ」「感じ」を表現していることがわかる。

 181頁ではこの「しまった」が、直後に「 せん を越された」と言い換えられ、204頁では「もう取り返しがつかない」と続く。

 これらは同じことを表現していると見なしていい。どちらも「しまった」の解説なのだ。つまり「先を越され」ると「もう取り返しがつかな」くなるのである。

 この「しまった」は、原文では「 失策 しま った」と表記されている。

 Kに「先を越され」て自白されたのは「失策」なのであり、Kの自殺もまた「取り返しのつかない」「失策」なのである。


 それぞれの場面での「先を越された」=「もう取り返しがつかない」とは、具体的に何のことか?


こころ 49 「ほぼ同じ」「感じ」とは何か

 「黒い光」は「罪悪感」の隠喩などではない。

 「黒い光」を罪悪感の象徴であると見なす解釈は、Kの死に対する「私」の勘違いに基づいている。「私」はこのとき確かに罪悪感に打ち震えているし、そこから逃れられない未来に絶望してもいる。

 だがこの言葉の重みは、そうして「私」の認識にとどまっている限りにおいて釣り合うのであり、いったんそうした罪悪感が勘違いであることを思い出すと、にわかに滑稽なものに見えてしまう。

 だが漱石はそうした認識が勘違いであることを承知の上で「黒い光」という印象的な表現をここにおいている。それは「私」の主観から見た大仰な(だが冷静に身を引いて見れば滑稽な)解釈として受け取るべきではない。ここにはやはり、ある不気味な裂け目が顔をのぞかせているのである。

 では「黒い光」とは何なのか?


 それを考えるいとぐちは、この段落の冒頭の次の記述である。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。

 作者・漱石は、物語のクライマックスとも言えるKの自殺の場面で、なぜかKの恋の自白の場面を想起せよ、と読者に要求している。二つの場面を関連づけて、この場面を理解せよと言っているのである。

 この、「ほぼ同じ」「感じ」とは何か?


 考察のためには、問題の「恋の自白を聞かされた時」(「三十六」181頁)を直接読まなければならない。

 読み比べて、確かに「同じ」だと思えたのは何か?


 さて、この問いに対するありがちな答えは、どちらの場面でも、驚きのあまり体が硬直するほどの大きな衝撃を受けたということだ、というものである。

 多くの解説書が同様の説明をしているのだが、これは適切な説明だろうか?


 これもやはり否である。上のような説明はまるで不適切かつ無意味だ。

 なぜか?


 これでは、友人の自殺を発見したことの衝撃を表現するのに、よりによって友人から恋の告白を受けた時の衝撃を引き合いに出していることになる。

 「Kの自殺を発見した時の私の衝撃はKに恋の告白をされた時のように大きかったのです。」と言い換えてみれば、こうした説明がまるで見当はずれなものであることがわかるはずだ。

 例え話を用いて何事かを強調しようとする誇張のレトリックにおいては、より重大な例を用いて、目前の事例を強調するものである。だがここでの順序は逆だ。恋の自白の驚きを用いて、友人の死の驚きを強調するはずはない。


 これらの説明が論理的に破綻しているにもかかわらず、多くの解説書で共通して見られるのはなぜか。

 おそらくそれは「ほぼ同じ」「感じ」とは何か、という問いがミスリーディングだからである。

 上記の解説はいずれも、二つの場面の「感じ」を比較し、その共通点を引用・比較しようとする。

 そして、それぞれの状況に置かれた「私」の「反応」を比べる。

 だがこの場面の文中に明示されている「反応」の共通点をいくら並べてみても、ここから読者が読み取るべき情報は明らかにならない。

 問いの形が間違っている。どのような問いを立てて、それをどう考えればいいのだろうか?


 この「ほぼ同じ」「感じ」とは、「既視感」のようなものだ。

 「私」はKの自殺という事実を目の前にして、この光景は前にも一度見たことがある、と感じたのだ。

 これは何を意味するか?

 それはすなわち、それらの状況に潜む構造の共通性が不意に「私」の目の前に姿を現したということだ。

 つまり「感じ」とはその状況に直面した「私」の反応や心理ではなく、「私」がそこに見出した状況の構造を指しているのである。

 「ほぼ同じ」「感じ」とは何か、という問いが「私」の心理を読み取ることに方向付けられてしまうのも、例によって国語科授業における伝統的な「気持ち」主義の一つの病弊である。「同じ」だと感じた「私」の気持ちを考えてしまう。

 だが読者である我々はこの「感じ」が受け手に属するものではなく、むしろ状況に属するものであることを読み取っているはずである(もちろん受け手自身もその「状況」に含まれているのだが)。

 だから問題は、「私」に同じような反応を起こさせた、状況の方なのである。

 二つの場面の状況の構造には、どのような共通性があるか?


 このように問題を設定しなおしたとき、あらためて「黒い光」が「罪悪感」でないことは論証できる。


 「黒い光」は「ほぼ同じ」「感じ」と同じ形式段落に置かれている。一息に読んでみると、この「黒い光」は、「私」が受け取った「感じ」の重要な要素であることがわかる。

 とすると、この「光」は恋の自白の場面にも、程度の差はあれ「私」に射しているということになる(「灰色の光」でもいいし、「全生涯」でなくてもいいし、「ものすごく」なくてもいいがいずれにせよ)。

 反論もあるかもしれない。「第一の感じ」は確かに「ほぼ同じ」だが、あくまで「黒い光」は「それ(第一の感じ)が疾風のごとく私を通過したあとで」表れるのであり、「第一の感じ」には含まれないのだ。したがって、恋の自白の場面に「黒い光」は射していない。

 「第一の感じ」とはまだそれが何なのかを言語化する以前の既視感を捉えたものであり、しかもそれは「私」を硬直させずにはおかない衝撃をもっていて、その衝撃が「通過したあとで」ようやく「ああしまった」とその衝撃が言語化されているのである。この反応はあくまで一連のもので、「またああしまった」といっているのはそこまで含めて「ほぼ同じ」だということを示している。「もう取り返しがつかないという黒い光が~」は「ああしまった」の説明であり、つまり「黒い光」は「第一の感じ」に含まれていると考えるのが自然な読みである。

 実際に読者は、そのように問い直してみれば、恋の自白の場面でもこの「黒い光」となにがしか「ほぼ同じ」不吉な気配を感じとっているはずだ。

 その強度が「ほぼ同じ」だと言っているわけではない。その構造が「ほぼ同じ」であるような、ある「感じ」が直観されているのである。

 だとすれば「黒い光」は「罪悪感」ではありえない。恋の自白の場面で「私」がKに抱くべき何らの「罪悪感」も想定できないからである。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈は、この「ほぼ同じ」を無視して四十八章のこの場面でだけ考えたものだ。

 「黒い光」が意味するものを考えるためには、「ほぼ同じ」「感じ」が何なのかを考えなければならない。


こころ 48 「黒い光」=「罪悪感」という誤謬

 「こころ」には、互いにわかり合えない自閉した「こころ」のありようとともに、もうひとつの「こころ」のありようが描かれている。

 それを考える糸口となるのは、「私」がKの自殺を発見することになる四十八章の次の記述に見られる「黒い光」というきわめて印象的な表現である。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中をひと目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。(204頁)


 まずは率直に聞いてみよう。

「黒い光」とは何か?


 この問いに対する一般的な答えは次のようなものである。

 この時「私」のこころを襲ったものは、自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやってしまった「罪悪感」から一生逃れることができないという絶望(恐怖・後悔)である。「黒い光」はこの「罪悪感」を象徴している…。

 こうした説明は不審なものとは感じられない。「罪の意識」「良心の呵責」「自責の念」「絶望」「恐怖」「後悔」などのバリエーションはあろうが、いずれも内容的にはそれほど差はない。


 こうした解釈は考えるまでもなく自然に想起される。

 だがこのような説明に納得していてはいけない。

 こうした説明が不適切であることは論証できるのだが、まずはこれまでの授業の考察から、こうした説明に違和感を覚えなければならない。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈はなぜ不適切か?


 Kの死は結局はK自身の問題に過ぎない。「私」は決して、「私」が考えているような意味ではKを「死に追いやって」などいない。Kは上野公園の散歩の時点で既に「自己所決(自殺)の覚悟」があると言っていたではないか。

 もちろん「私」は、自身が自覚していないような意味で、やはりKを「死に追いやって」はいる。上野公園の会話における「精神的に向上心のないものはばかだ」や「心でそれをやめる覚悟がなければ」がKを追い詰め、自己所決の「覚悟」を再確認させたのだし、Kがその「覚悟」を実行に移すにあたっては、やはり「私」が重大な役割を負っている。

 だがそのことをこの時の「私」が知ることはできない。

 つまり「私」のこの時抱いている罪悪感は、物語全体から言えば、あくまでも勘違いなのである。

 「私」自身、この時点での「私」について「Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです」(「下/五十三」)と、後に反省を込めて自らその勘違いを認めている。

 とすると「私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました」などという大仰な表現で自らの罪悪感を表明するのは、まるで間抜けな田舎芝居のようなものではないか。「私」ばかりが自らの罪を引き受ける悲劇を悲痛な身振りで演じているが、そんな罪は存在しないのである。

 もちろんこのとき「私」が罪悪感を感じていることは確かだし、それが「私」に重くのしかかる未来を見ていることも間違いない。

 だがそれはあくまでこの瞬間の「私」の主観に限定していえることであって、物語全体から見ればあくまでも勘違いである。読者も、うっかりその勘違いにのせられてその罪の重さにおののいてしまったりするが、そんなことが正しい「文学」的享受であるわけではない。

 「黒い光」を「罪悪感」と見なすことは、この表現の重さ故に、反動として滑稽にならざるをえない。


 こうした解釈もまた「エゴイズム」主題観に基づいている。

 「黒い光」について考察することも、そうしたわかりやすい解釈の罠から逃れる一つの有効な道筋である。


 「黒い光」が「罪悪感」ではないことは、教科書所収の章段以外の部分からも論証できる。

 問題の四十八章に続く四十九章に次の一節がある。

私は忽然と冷たくなったこの友だちによって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです(205頁)。


 この一節は「黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。」と響き合っているような印象がある。

 ここまでならば、まだ「黒い光」を「罪悪感」だとみなすことは可能だ。

 だがここに次の一節を併せて考えたらどうだろう。

同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。(略)私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横ぎり始めたからです。(五十三章)

 先に、Kの自殺にいたる心理を考えた際にも読んだ一節だ(プリント参照)。

 間に次の一節をはさんでもいい。

けれども私の幸福には黒い影が随いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。(五十一章)


 「黒い光」は「一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照ら」す。

 それは「この友だちによって暗示された運命の恐ろしさ」だろう。

 そして「黒い影」が「私を悲しい運命に連れて行く」。

 その「運命」は「Kと同じように辿っている」「Kの歩いた路」のことだ。


 「私」の自死が「黒い光」に照らされることによって導かれ、これがKの自死と重なるのなら、Kもまた「黒い光」に照らされているということになる。

 ならば、もはや「黒い光」は「エゴイズム」によって犯した罪に対する「罪悪感」と見なすことはできない。

 Kが感じるべき「罪」を想定することはできないからだ。


 あくまで「黒い光」=「罪悪感」だと措定し、「黒い光」はKに射してなどいない、ということは可能だろうか。「同じ」であるのは自死についてだけで「黒い光」はKには無関係なのだ、と。

 だがそんなふうに言うのはいかにも無理だ。

 上の一連の表現を素直に辿るなら、「黒い光」はKをも照らしていると考えるしかない。そう考えてこそ、この印象的な隠喩によって語られる「黒い光」に「滑稽」以上の意味を見出すことができる。

 Kをも照らす「黒い光」とは何か?


こころ 47 主題を再考する

 ここまでの授業では、テキストから得られる情報を詳細に検討することで、一般的に「エゴイズムと倫理感の葛藤を描いた小説」などと言われる「こころ」を、それとは全く別の物語として読んできた。

 「エゴイズム」を主題とする「こころ」は、「私」の認識した物語としての「こころ」だ。「私」は自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやり、「倫理」感ゆえに苦しむ。

 だが、上野公園の散歩における会話の分析を通して見えてくるのは、互いの言葉がまったく相手に理解されないまますれ違っている意思疎通の不全である。

 その時「こころ」の主題は、近代的個人がそれぞれに自分の自意識の中で自閉している「こころ」のありようを描いている、と捉えることができる。


 もうひとつ、「こころ」という小説には、それよりも身近な、何だか身につまされる、身に覚えのある、ある感覚がみなぎっている。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 これは第一部で「先生」が、大学生の「私」に向かって言う言葉だ。

 最近の脳科学の成果は、人間の「意志」などというものが、実は錯覚なのだという仮説を提示している。

 我々は脳の無自覚な働きでまず行動し、それが自分の決断だったのだというストーリーを後からでっち上げているというのだ。

 百年以上前に漱石が書いていることが、まるで最新の科学の知見を先取りしているようで面白い。


 とはいえこれは身に覚えのある感覚でもある。

 なんで自分はそんなことをしてしまったのか?

 「エゴイズム」が主題だというのは、「私」がKを裏切ってお嬢さんを自分のものにしようとあれこれ画策したことを「私」の「利己心=エゴイズム」によるものだと見なすからだ。

 だが「私」の折々の選択は本当に「利己心」という言葉が示しているように「己に利する」ものであったのか。

 確かに「私」はそうしようとしてもいる。

 だが同時に、その選択は常に、どうにも不自由な、まるで外部から強いられたような息苦しさを感じさせる。

 そうした不自由さによって「私」がむしろ自分では選択できずにいるうちに、事態はますます「私」を不自由な状況に追い込む。「私」は常に事態に遅れるように、そう選択することしかできない。

 こうした蟻地獄のような悪循環は、実に巧妙な設定によって、読者にもまるで我がことのように感じられる。読者は様々な場面で「自分でも確かにそうしてしまうだろう」と感じる。

 授業の最終段階では、このような不思議な「こころ」のはたらきについて考察したい。


こころ 46 Kの自殺に至る心理

  「二日余り」の出発点、問題の木曜日のKの心理について考えよう。


 奥さんから結婚話を聞いたKの様子は、「変な顔」「最もおちついた驚き」と記述されている。このKの反応をどう解釈するか?

 Kは全てを見通していたのだ、という解釈もある。

 だがそれではその後、自殺に至るKの心理や、上野公園での会話における二人のすれ違いの分析と整合しない。

 咄嗟の強がりか。強い自制心の表れか。

 衝撃の余り、かえって反応がなくなってしまったということか。

 それとも本当にKの人間としての度量の広さを表しているのか。


 Kが悲しみや怒りや強い驚きを示さないことについて、そこに理由を考えようとするのは、逆にそうした反応があるはずだという前提があるからである。

 だが「私」とお嬢さんとの婚約がKに「打撃」をあたえるであろうという想定は「私」の思考の流れに沿った帰結でしかない。Kは「私」にとって、恋の自白以来、恋敵として想定されている。だから、婚約を知ったKは、「失恋」という「打撃」を受けつつ、ただちに「私」の裏切りに気付いてそれを非難するに違いないと「私」は思う。

 だからこそそれをせずに「私に対して少しも以前と異なった様子を見せな」いKが「立派」と感じられてしまう。自分がKの立場だったらという想定のもとに、その態度の意味を斟酌してしまう。


 だがそうした「私」の思い込みを排してKの思考を想像してみるならば、この「最もおちついた驚き」と形容される反応が表しているのは、単に友人の裏切りによる衝撃を受けとめてみせたKの自制心の強さではなく、言うならば「不審」「怪訝」「とまどい」といったものだ。

 Kには事態がよく飲み込めなかったのである。

 Kはそれまで、自分の想い人を、友人もまた同じように恋慕しているなどとは考えもしていない。

 Kはそれよりも自分の問題で頭を充満させているのであり、上野公園での会話でもKはそのことしか問題にしていない。そしてKはそれがため、すでに死を「覚悟」し、あまつさえ遺書さえ書き上げている。

 もちろんそれは「薄志弱行で行く先の望みがない」自分のことであり(「私」が考えるような意味では)お嬢さんのことではない。

 つまり、唐突にもたらされた友人とお嬢さんとの婚約という展開は、Kにはまるで想定外であるばかりか、ほとんど関心外なのだ。

 Kはただ事態を把握できないとまどいの中で、友人の婚約をひとまず、素直に喜ぶべきことだと捉える。「微笑を洩らしながら、『おめでとうございます』と言った」のは、何らの演技でもない(あえて「演技」というなら奥さんに対するものだ。婚約が友人に対して秘密にされていることに不安を感じて、ひそかに密告したことに自ら怯えている奥さんに対する気遣いとしての)。

 そうしたKの態度は「私」にはKの度量の広さ、人間としての立派さと映る。

 だがこうしたKの「超然とした」態度は「私」の「こころ」の投影に過ぎない。

 友人の行為を「卑怯」と責めるつもりはKにはない。Kはただ、思いがけない事態の展開に置いてきぼりをくらって、ひとりそれまでの展開を振り返っている。

 例えば上野公園でのやりとりを。あるいは日常のあれこれを。

 そのうちにゆっくりと腑に落ちてくる。そうか、と納得がやってくる。

 自分が、その苦悩を打ち明けて「公平な批評を求めるよりほかにしかたがない」と考えた友人は、その間、自分の恋愛の進展にのみ汲々として、あろうことか友人であるはずの自分を出し抜いてまで自らの恋愛の成就に腐心していたのであった。

 Kはお嬢さんに「進む」つもりなどまるでなかったし、お嬢さん自身もまた「私」を結婚相手として望んでいたのに。

 しかも、そうしたすれ違いに、自分だけでなく相手もまた全く気づいていないらしいのである。一つ所で会話をしながらも、お互いが自分の問題にのみ関心を払って、まるで相手の言うことを理解していなかったことが、ようやくわかったのだった。

 このばかげたすれ違いに、Kはこの「二日余り」の間に、どこまで明確にかはともかく、徐々に思い至ったのではあるまいか。

 「襖」と「血潮」の象徴性が示すように、Kは「私」に対して基本的に心を開こうとしている。だからこそこのすれ違いの事実は、Kの「たった一人」という認識を否応なく際立たせる。

 Kは自殺を決行するまでの「二日余り」で、「たった一人で」あることの認識に覚めながら、死に向かって傾斜していったのである。


 こう考えてくると、Kの自殺の動機があくまでK自身の自己処断であることは認めながら、それではなぜその決行が婚約成立の後であったかという理由がようやく納得されてくる。

 Kにはもともと自己処断の「覚悟」があった。その動機は下宿に来る前からあったのだし、夏の「ちょうどいい、やってくれ」はほとんど「覚悟」といっていいほどの明確さでKに自覚されている。そしてまた十日余り前には遺書さえ書いている。

 だがKに自らを所決させる最終的な契機となったのは、友人との意思疎通の齟齬に気づいたことでKが自覚させられた孤独だ。

 ただし孤独で淋しくなったから死にたくなったのだ、ということではない。

 Kの自殺の動機はあくまで「薄志弱行で行く先の望みがない」=「現実と理想の衝突」だ。

 Kはそのことを再三「私」に話していたのだった。

 友人に安易な救いを求めていたとは言わない。有益なアドバイスがもらえると期待したわけでもなかろう。

 だが他人に話しているうちは、少なくとも事実としてKはその「覚悟」を実行に移すことはなかったのだ。

 だが、確かに話をしていたと思っていた相手とは、まるですれ違っていたことに、今気づいた。

 ならばそれは単に自分自身の問題でしかないのだ。

 Kの遺書にある「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」が示しているのも、こうしたKの思考である。

 それは素直な疑問であり、同時に、その答え(今まで生きていた理由)など、どこにもないことにKは気づいたのだ。

 自分が「死ぬべき」理由、「現実と理想の衝突」は、ただひとり、自分がどうにかするしかない問題なのだということが腑に落ちた時、Kは自ら所決する。

 これが③の「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した。」なのである。


 「こころ」を授業で読むとは、語られる言葉の表面から読み取れる「私」の意識に沿って構築される「エゴイズム」という主題を理解することではなく、「私」の意識というフィルターを括弧に入れ、テキストから読みとれる情報から客観的に事態を再構築することによって浮かび上がってくる意味を捉えることである。漱石はそのための情報を、「私」の自意識をかいくぐって、読者に提示している。

 Kの「淋しさ」を上のように解釈することは、上野公園での散歩における会話の分析を通して、二人の意思疎通の齟齬が明らかになってはじめて可能になる。

 そうでなければこの「淋しさ」も、①の「失恋」や友の裏切りによる絶望と曖昧に混同されたままで、その様相を正しく捉えることはできない。


 先に述べたように、Kの自殺の動機を再考することは、「こころ」という小説をどのようなものと理解すべきかという構え、つまり「こころ」の主題をどのようなものであると捉えるか、という問題に直結する。

 以上の考察から浮かび上がってくるのは、登場人物それぞれが互いに断絶した自意識の中に自閉する近代人の「こころ」の様相を描いた小説としての「こころ」である。

 Kは「私」の卑怯な裏切りによって自殺に追い込まれたわけでは決してない。

 「私」はただ、Kにとって、まるで意思疎通を欠いた「他者」であることによって、Kの問題をK自身の裡に閉じこめたのだった。

 そのことをあらためて「エゴイズム」と呼ぶならば、確かに「こころ」は「エゴイズム」の物語であると言ってもいい。

 だがそれは「私」が考えている(そして多くの読者が考えている)「エゴイズム」とはなんと違ったものであることか。


こころ 45 「淋しさ」という「死因」

 Kはなぜ死んだか?

 上に確認した諸点を総合して、Kの心理をたどってみよう。


 「襖」と「血潮」の描写が示している象徴性が意味するところは明らかだ。

 「襖」は「二人の心の壁(距離・隔たり…)」の象徴である。つまり襖を開けるとは相手に心を開くことを意味している。

 また「血潮を顔に浴びせる」という隠喩は、平たく言ってしまえば「真情を伝える」ことを意味する。Kの死に際して、作者は明らかにこの暗喩と相似形の構図を意図的に作っている。

 これらの象徴的な意味に従って読めば、Kは自殺に際してもなお「私」と心を通わせようとしていたということになる。

 これは読み間違えようもないほど明白に、作者から読者へ示されている。

 だが「血潮」の象徴性はむろんのこと、「襖」を開けるという現実的な行為の意味についてすら、罪悪感で頭がいっぱいになっている「私」は思い至らない。

 そしてそのことに「私」が気づかないことによって、読者もまたこれほどあからさまな象徴的意味について気づくことが難しくなっている。

 Kは「私」に心を開こうとしている。それゆえにこそKは「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」のだと考えなければならない。


 「私」がKの「死因」として思い至った「淋しさ」がどのようなものであるのかは、それについて書かれた五十三章を参照する必要がある。先の引用部分、「私」がKの「死因」について再考する部分の直前は次のように書かれている(プリント参照)。

私は妻からなんのために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

 これを受けて「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」と「私」は考える。自らの死の間際に辿り着いたこうした「私」の結論は、作者の意図として尊重されるべきだろう。


 ここで述べられているのは、平たくいえば意思疎通の不全だ。「私」は愛する奥さん(かつての「お嬢さん」)に心を打ち明けられないまま結婚生活を送っている。

 この「たった一人」という認識を、Kもまた持ったのではないかと「私」は思い至る。問題はこの「たった一人で淋しい」だ。


 この「淋しさ」を「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」ことに拠るものだと捉えてしまうのは、作者の仕掛けた「私」の誤解によるミスリードによって誘導された誤読である。「たった一人で淋しい」をそのように解釈したのでは、①「失恋」とかわらない。

 では、Kは奥さんから婚約の件を聞いた時、自分が友人からそれを聞かされていなかったことに衝撃を受け、友人がそのことを自分に話してくれなかったことに絶望したのか?

 いやむしろ、自らが友人の気持ちに気づかなかったことに衝撃を受けたのか?


 だがこれはKの死因を③「たった一人で淋しい」に負わせすぎている。

 「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」から絶望して死んだのだ(①)という論理を今度は「友人が話してくれなかった」+「自分が友人の気持ちに気づかなかった」から淋しくて死んだのだ(③)と変更するのはいささか単純に過ぎる。

 この単純化によって生じていると思われる読解について、みんなの回答に頻出する二つの論点を以下に取り上げて検討する。


 一つ目の論点。
 「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」をどう考えるか?
 たとえば「もっと早く」とはいつのことか、という問題がこれまでにも議論されてきたことは前にも述べた。いくつかの解答例を挙げてみよう。
 お嬢さんの結婚を知るより前に?
 ただちに思いつく解答の一つだが、こう考えてはならない。Kにとってお嬢さんの結婚が自己所決を後押しする要因になったりはしない。これは死因をA「失恋」と考えるところから生ずる誤読である。だがうっかりするとそのことをつい忘れてしまう。
 では、友人が自分に話してくれなかったという孤独を自覚することになるより前に?
 これも、木曜日より前に、と考える点では同じだ。どちらにせよつまりは奥さんからその事を知らされることがKを死に追いやっているのであり、最初に考えたKの自殺の動機①「お嬢さんを失ったから」と②「友人に裏切られたから」のどちらが主因かを言っているだけだ。
 「もっと早く」とはたかだか二日前の木曜以前を指しているのだろうか?
 では、10日あまり前、遺書を書いた時に?
 これは遺書が所決の12日前に書かれたという解釈の後では、一つの有力な納得の決着点ではある。だが実はこれもまた、問題の木曜日より前に、と考える点では同じなのだ。
 ならば、お嬢さんを好きになるより前に?
 あるいは下宿に来るより前に?
 だがそもそも、Kの問題は下宿に来ることによって生じたのだろうか?
 教科書の部分しか読んでいないとピンとこないが、「私」の言葉によればKは下宿に来る前から「神経衰弱」だったではないか。
 前に書いたとおり、Kの「現実と理想の衝突」はKの理想が不可避的に突き当たらざるを得ない袋小路なのだ。「現実」とは、単にお嬢さんを好きになったというようなことではない。これでは結局「私」フィルターによる錯覚から逃れられていない。

 上の候補は、どれも間違っていないが、どれかと考えると不都合を生ずる。
 だから「もっと早く」とはいつか? と問うてはならない。
 いつか、と考えることは、何より前か、と考えることだ。
 だがKにとって、いつだって「死ぬべき」だったのだ。

 なぜこの問いが生まれるか?
 それは「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」を「もっと早く死ねば良かった」と言い換えてしまうからだ。
 この言い換えはとても自然に行われてしまうので、そこに疑問を抱くのは難しい。
 「もっと早く死ねば良かった」は後悔を表わしている。
 こう言い換えたとたんに、「もっと早く」とはいつより前のことか、が問われる。
 そうではなく、これは素直にそのまま、疑問を表わしているのではないか?
 つまりK自身が、いつなら良かったのかを問うているのだ。
 問題はこの疑問がKの裡に生じた理由と、その疑問に対する解答である。
 それには、「急に」と表現される自殺の決行までに実は経過してた「二日余り」について考えなければならない。

 二つ目の論点はこの「二日余り」をどう考えるかに関わる。
 「二日余り」の間、Kは「私」が正直にこれまでのことを話してくれるのを待っていたのだ、という解釈を述べた者は多い。Kは何も語らない「私」と過ごしながら「たった一人」=「孤独」の中で「淋しく」なっていったのだ、と。
 だがこの解釈には違和感がある。
 たとえば、言ってくれるのを待っていた、というような受動性が、「果断に富んだ」Kに似つかわしくない、とも言える。
 言ってくれるのを待っていたが言ってくれないので淋しくて死んだ?
 こんなふうに考えるのはKの人物像に合致しているとは思えない。

 それよりも根本的な違和感は、それでは察しが良すぎる、という感じがすることだ。
 「私」が言うのを待っていたということは、なぜ「私」が言わなかったのかがKにはわかっていたということだ。本当にその理由が見当もつかなければ、Kは素直に質問してしまうかもしれない。
 だがわかっていたならば「私」が言うはずがないこともわかるはずだ。そこまでの間、ずっと黙っていた「私」が、木曜日以降に話す気になる必然性はない。したがって、この二日間、「急に」話してくれることをKが期待したりはすまい。
 確かに意識下ではそれを期待していたといってもいい。「私」が話していたら、おそらく悲劇は(当面)回避されたはずだ(もちろんKにとって根本的な問題は解決していないが)。
 だがKがそのことを意識して待っていたと考えるのは、Kが奥さんの話を聞いて事態の真相を了解し、「私」が言わないことによって孤独になったのだという解釈から遡って派生した想像である。
 それでは①「失恋」が③「孤独」に変わっただけで、結局「私」主観のミスリードから逃れていない。

 問題の「二日余り」に何があったか。
 Kは何を考え、どのような思いにとらわれていったのか?

2020年12月6日日曜日

こころ 44 象徴としての「襖」と「血潮」

 次に考慮すべき点として、二点指摘しておく。「襖」と「血潮」に付せられた象徴的な意味である。

 「私」はKの自殺を発見したとき、四十三章の晩の光景を思い出している。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。

画像作成提供 田中慶祐先生

 襖の隙間から見える中の様子に目がいってしまって忘れられてしまいがちだが、「開いています」と書かれている襖はKが開けたものである。したがって、Kの自殺の動機を考える上で、Kがなぜ襖を開け、なぜ開けたままにして自殺したのかを考えないわけにはいかない。

 象徴としての「襖」の意味については、上野公園の散歩の夜のエピソードを考察した授業展開の中で考察した。

 それが意味するものは明白である。これをどのように自殺にいたるKの心理に論理づけるか?


 象徴として描かれるのは襖だけではない。

 まず「私」がKの自殺を発見する直前の次の一節に注目する。

いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。(「四十八」203頁)

 この言及には何の意味があるか?


 不可解なことに言及することで「私」の胸騒ぎを読者にも共有させるのだとか、床の向きを変えた「私」の心理を考えさせる、などという意味もあるのだろうが、この「西枕」の言及にはそれだけでない明確な意図がある。

 教科書収録部分より前の本文の記述から、下宿の部屋の間取りについては推測できる。南側の庭に面して、Kの部屋と「私」の部屋は東西に並んでいる。Kの部屋が西、「私」の部屋が東である。



 つまり西枕にしたということは、「私」は頭をKの部屋の方に向けて寝ていたということになる。

 間取りを正確に認識していなくとも、続く一文「私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。」と合わせて考えたとき、そのことはわかる。

 枕の向きへの言及はこの、頭の向きの意味への注意を読者に対して喚起している。

 ではこのことの「意味」とは何か?


 次に結びつけるべき要素は、いくぶん離れている。四十八章の終わりである。

そうして振り返って、にほとばしっている血潮をはじめて見たのです(205頁)。


 死んだKをいたましく思いつつ、自らの罪の重さに震える「私」の目に映る光景として映像的に鮮烈な印象を与える一節である。

 だが、この映像にうかうかと衝撃を受けていてはいけない。ここには見落としてはならない象徴的な意味があると考えるべきである。

 「振り返って」というのだが、「私」がその時どこを向いているかはわからない。したがって自分の部屋の方向を見たという解釈しかできない。

 とするとこの襖は「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切りの襖」だということになる。

 Kは夜分にこの襖を開けて、そうして開けたままにして頸を切った。

 その血が、「私」の寝ている部屋の方向に向かって「ほとばしっている」。

 そしてこの襖は「この間の晩と同じくらい開いてい」る。

 なおかつ「私」の枕はKの部屋に近い側に向けられていた。

 これらの条件からどのような想像が可能か?

 すなわち、Kの首からほとばしった血潮は「私」の部屋まで飛び散ったかもしれない。そして、寝ている「私」の顔にかかったかもしれない。

 これら充分な可能性のある想像は、しかし言及されてはいない(アニメではそれを拡大解釈して、実景として描写していた)。

日本テレビ「青い文学シリーズ」より


 だがこの想像された構図は、次の一節を連想させずにはおかない。

あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。(「下/三」)

 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、「上」「下」の語り手である「私」である。つまり「先生」の遺書の読者である青年に向かって、「先生」は「自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」というのである。

 もちろんこれが現実の血潮を表わしているとは誰も読まない。

 メタファー(隠喩=暗喩)である。

 次の一節にも同種の隠喩が使われている。

 私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。(「下/二十九」)

 この場面も、お嬢さんへの恋心をKに話そうと思うのだが、Kは恋愛の話題などに興味を示さない高踏的な態度をとっているので話せない、といった状況を、「血潮」を「注ぎかけようとする」が「弾き返されてしまう」といった暗喩で語っている。

 「私」の枕の向きに言及し、Kの血潮の跡を描写する漱石の頭に、それに先んずるこれらの一節が浮かんでいないはずはない。

 「先生」が青年の顔に「その血を」「浴びせかけようとしている」ことと、Kの「血潮」が「私」の顔の方向に飛び散っていることは、確かに意図的な相似形を成している。普段と違う枕の向きが言及されている理由は他に思いつかない。

 漱石は周到に用意して、Kが自らの血潮を「私」の顔に浴びせかける構図を作り、その象徴的な意味を読者に提示しているのである。


 「襖」も「血潮」も、それが象徴として描かれていることは明白である。

 といってそれはKから「私」への具体的なメッセージを意味するものだとは確定できない。

 Kが実行したのは襖を開け、そのままにしておいたところまでである。それすら明確な意図があったことを示すわけではないかもしれない。まして血潮が飛び散ったのは意図せざる偶然だ。

 「私」が西枕に寝たことですら、特別に「私」の意図したものではない。「偶然」をどう考えるかは問題だが、少なくとも「私」が「血潮」を想定することなどできない。

 だがこのような「襖」と「血潮」の描写が、その意味を読者に対して知らせようという作者の意図を表わしていることは疑いない。登場人物の「気持ち」を考えるだけでなく、作者の心理を考えるならば、これが偶然でないことは明白である。

 このことを組み込んでKの自殺の動機を考えなくてはならない。


こころ 43 「もっと早く死ぬべきだのに」

 次に考慮すべきなのは、Kの遺書の最後にあった「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」である。

 ここからKの心理を読み取るべきだと考えるのは自然だ。他の部分がよそよそしい「用件」であるのに対して、ここだけは何やら本音らしき感触がある。

 これ以外の部分は、自殺実行の12日前に書かれたものであるという解釈を前提に考察を進めている。

 遺書にある「薄志弱行で到底行く先の望みがないから、自殺する」は、その日の昼間Kが「私」に言った「自分が弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「僕はばかだ」を反復・整理したものであり、自ら口にした「覚悟」の確認として書かれているということになる。

 このことはKの自殺の基本的な動機が前節の②「現実と理想の衝突」によるものであり、その意味ではお嬢さんと「私」の婚約に関係ないことを示している。遺書が書かれたのは「私」と奥さんの「談判」の一週間前のことなのだから。

 もちろん、Kにとってはお嬢さんの婚約が問題なのではなく、お嬢さんを好きになったこと自体が問題なのだから、Kの自殺の動機にお嬢さんが無関係だとは言い切れない、ということは可能だ。

 だが遺書の本文が前の週に書かれていたという解釈は、少なくともKの自殺は「私」とお嬢さんの婚約を知ったからだ、というミスリードから読者を解放する。


 それではこの「文句」から、Kの死の動機を考える上でどのようなヒントを読み取ればいいのだろうか。

 例えばこの「文句」については従来、「もっと早く」とはいつのことか、といった問題が考察の対象となってきた。

 前述の前提に拠れば、その一つの解釈としてこの遺書の本文を書いた十日余り前を指しているのだと言うことも可能である。

 昼間「私」に向かって言った「覚悟」に続く自己確認としての遺書をその晩のうちに書き上げたKは、だがその覚悟を実行には移さなかった。

 そのことを、遺書まで書いておきながら「なぜ」「もっと早く」実行しなかったのか、と言っているのである。


 この解釈は、ではなぜこの晩は実行に移したのかという疑問とともに、逆に「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」というK自らの疑問に対する答えを要求する。

 なぜ遺書まで書いたのに実行はしなかったのか?

 この疑問については一つの答えがある。それは「私」が目を覚ましたから、というようなことではない。あるいは、何かがKを思い止まらせたということでもない。単に「覚悟」はあくまで「覚悟」であって、すぐにそれを実行に移すという「計画」や「決意」ではないからである。

 Kは「弱い自分をどうするつもりか」という問いに「そんな自分を所決する覚悟はある」と答えているのであって、それを書面に書き付けることがこの晩のKには必要だったのだ。

 「けれども彼の声は普段よりもかえって落ち付いていたくらいでした。」という描写はそのことを意味している。だからなぜ実行しなかったかといえば、それを実行に移す充分な動機がその時点でのKにはなかったというに過ぎない。

 これは心理的な問題であると同時に物語的な必然である。Kが自殺するには、やはりその後の展開が必要なのである。

 そしてこの「覚悟」を言明させたKの自殺の動機は、もちろんその日初めてKの裡に宿ったわけでもない。下宿に来る前の「神経衰弱」から既にKの裡にはその思いが宿っている。とすればその動機にお嬢さんが関係ないことは明らかだ。

 お嬢さんの存在が動機に関わっているとしても、たとえば房州旅行の際の次の一節がKの「覚悟」の先触れであることは明らかである。

ある時私は突然彼の襟首を後ろからぐいとつかみました。こうして海の中へ突き落としたらどうすると言ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。私はすぐ首筋をおさえた手を放しました。(「下/二十八」)

 これは「K」が実際に自殺することになるなどとは読者が知らぬ時点で語られたエピソードだから、読者はさしたる緊張感を持たずに読み流すかもしれない。遺書の筆者である「私」は無論この先に「K」の自殺があったことを知っているにもかかわらず、ここではこのエピソードの重要さを意図的に伏せて――言わば「とぼけて」――何も知らない読者と同じ視点でしか語っていない。

 だが、振り返って見直すと、この時の「K」の落ち着きは、後の「覚悟」を先取りしていると考えるべきなのであり、「もっと早く」というのならこの時点を指してもいいし、先述の通り下宿する前をすら指していると考えていいのである。

 そして、上野公園の散歩の晩に遺書を書いたからといって、直ちにそれを実行に移すような事態の変化があったわけでもない。したがって、遺書を書いたのにすぐに実行しなかったのは別に不思議なことではない。


 冒頭に提示したKの「死因」のうち、②「現実と理想の衝突」こそ「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という自問の中の「死ぬべき」であることの根拠である。

 そして、ではなぜ問題の晩は実行に移したのかという疑問に対する答えが③の「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」から、ということになる。

 これこそ「遺書を書いたのになぜ実行しなかったのか」という疑問の答えでもある。遺書を書いた時点では③ではなかったからである。

 この「淋しさ」とは何か。この遺書への追加の述懐に込められた心理とはどのようなものか。どのような契機がKを自殺の実行へと駆り立てたのか。


こころ 42 空白の「二日余り」

 Kの自殺の動機を再考する上で、この小説が読者をどのようにミスリードしているかをはっきりと認識しておくことはきわめて重要である。


 「こころ」という小説の場合、一人称の語り手は作者という創造神の代弁者ではなく、一人の登場人物である。そこで語られる事柄は、あくまで「私」がそのように認識している、ということである。だから「こころ」という小説においては、語り手の認識は括弧に入れて保留しなければならない。

 たとえば次のような一節を、読者はうかうかと読んではならない。

奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ちついた驚きをもって迎えたらしいのです。(「四十七」202頁)

 婚約の件を奥さんがKに話してしまったと、奥さんに告げられた後の、Kの様子を語る一節である。そしてこの記述の後にKは死んでしまう。

 ここに使われた「最後の打撃」という表現は、婚約という事実がKを死に追いやった原因であることを示している。このような表現によって、読者はそのような因果関係を自然に受け取ってしまう。

 だがこれは「私」が、婚約の件をKに知られることを怖れていたことと、この後すぐにKが死んでしまったことから逆算された因果によって導かれた表現である。

 表現されていることを括弧に入れ、「私」が認識していることを疑ってみるならば、Kが奥さんの話をどのような思いで聞いたのかは、全体の整合性の中で考えなければならない。

 その時浮上するのは、奥さんの話を聞いてからの「二日余り」のKの沈黙である。

 この「二日余り」について考えることこそ、Kの自殺の心理を考えるということだ。

 だがそのことは読者の目から巧妙に隠されている。


 奥さんとの談判によってお嬢さんとの婚約を成立させた「私」は、しかしそのことをKに言い出せない。ためらっているうちに「五、六日」が経ち、ある日「私」は奥さんから、婚約の件を既にKに伝えてしまっていることを唐突に知らされる。いよいよKに釈明せざるをえなくなって、だがなおも決断を明日に先送りにしたその晩、Kは自殺する。

 こうした展開にさらされる読者は、Kは「私」とお嬢さんの婚約を知って自殺したのだ、と受け取る。

 これは「私」とお嬢さんの婚約を奥さんから聞かされてすぐにKが自殺したように感じられるからである。

 だが実際には、Kが婚約を知ってから自殺を決行するまでには「二日余り」の時間が経過している。「すぐ」ではない。にもかかわらず読者の印象としてはあたかも婚約と自殺決行は「すぐ」というほど近接しているように感じられる。


 少々前のことなので「曜日の特定」で考察したことを思い出しておく。

 時間経過に従っていえば、出来事は次の⑤⑥⑦の順(「曜日の特定」の時の通し番号)に起こっている。

⑤木曜日 Kが奥さんから婚約の事実を知らされる

⑥土曜日 「私」が奥さんから⑤の出来事を知らされる

⑦土曜日 Kが自殺する

 「私」ばかりでなく読者も⑥によって初めて⑤の事実を知り、そのほんの数行後には⑦が読者に提示される。だから読者は⑥⑦間と⑤⑦間とを混同して、まるで⑤の直後に⑦が起こったように錯覚してしまう。

 婚約の事実がKにとっての「最後の打撃」と表現されているのも、そうした時間感覚の混乱とそれゆえの因果関係をさりげなく補強するものだ。読者も「私」とともに作者のミスリードの術中にはまっているから、「最後の打撃」という表現に違和感を覚えることなどできはしない。


 このような思い込みにしたがって、「私」はKの残した手紙の内容をあらためずにはおれなくなる。「私」にとってKが死んだのは自分の卑怯な行いのせいであり、その告発をお嬢さんや奥さんに知られてはならないと「私」は思い込んでいる。そんな切迫感に取り憑かれた「私」の行動は、「私」の「エゴイズム」を浮き彫りにしこそすれ、こうした思い込み自体が間違っている可能性から、読者の目を逸らしてしまう。

 手紙の中に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないのは、たんにKの自殺の動機にお嬢さんが関係ないからなのに、「Kがわざと回避したのだ」と「私」が考えてしまうから、逆に読者はお嬢さんこそ自殺の要因なのだと受け取ってしまう。


 また、Kの自殺を奥さんに告げに行った際にも思わず「済みません。私が悪かったのです。」と手をついて謝ったり、葬式の際に友人からKの自殺の動機を聞かれた時も「早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いた」りする。

 こうした「私」の罪悪感を根拠として、Kが死んだのはお嬢さんと「私」の婚約を知ったからだ、という前提は疑いようもない事実として認定されてしまう。


 だがKが婚約の事実を知ってから死ぬまでには、物語の中で語られることなく跳び越えてしまった、いわば空白の「二日余り」があるのである。「最後の打撃」は、事実ではないとは言えないが、「私」が、そして読者が錯覚するほど直ちにKを打ちのめしたわけではない(こういうのが所謂「印象操作」だ)。

 授業における精読によってKの自殺をK自身の問題(②「現実と理想の衝突」)だと考え、Kの自殺の「覚悟」は、お嬢さんの婚約のはるか以前からKの心の裡にあったのだと考えるなら、自身の問題として自らを所決する「覚悟」をしていたKが、なぜそれを口にしてから(ましてや遺書をしたためてから)十日あまりも実行しなかったのか、という問題を再考しなければならない。

 そのためには、友人とお嬢さんの婚約を知ってから自殺を決行するまでの空白の「二日余り」にKの心の裡に起こったドラマを追う必要がある。


こころ 41 Kの自殺の動機を再考する

 ここまで、テクストの詳細な読解によって、語り手である「私」とKの認識の食い違い、意思疎通のすれ違いを明らかにしてきた。

 一般的には「こころ」は「エゴイズム」を主題とする小説だと語られる。

 それはKが、お嬢さんと友人の婚約を知って自殺したのだと理解することを意味する。「私」の「エゴイズム」がKからお嬢さんを奪ったのである。「私」がKを死に追いやったのである。

 だがそれは、「私」自身のそのような認識に読者がミスリードされたことによって成立している「こころ」観に過ぎない。

 「私」の認識を括弧に括って、Kの側から物語を見直してみると、物語は全く別の相貌を顕わにする。

 その時、Kの自殺はどのようなものだと考えられるのか。ここまでの読解に基づいて、もう一度、自殺にいたるKの心理について考え直してみよう。

 それは最初にも考えたとおり、「こころ」という小説がどのような物語であるかを考え直すということだ。


 以下に、Kがなぜ死んだかを考える上で考慮すべき諸要素を挙げてKの自殺の動機を考察する。


 Kの自殺の動機について考える上で、教科書に収録されている四十九章より後の五十三章(五十六章が最終章だから、終わり近く)の次の一節はきわめて示唆に富んでいる。

同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑いだしました。(「下/五十三」)


 「こころ」では、語られている情報が「私」の主観を通しているため、それが真実であるかどうかに保留しなければならない、というのが基本的な読解の作法だ。

 だがこれは物語の終盤近く、遺書を書いている「私」が全てを振り返って考察し、辿り着いた結論である。それなりに信じてもいいだろう。ここに至ってようやく漱石も物語の真相を「私」に語らせているのだと言える。

 ここで「私」が考えたKの「死因」は、次のように整理できる。

 ① 失恋

 ② 現実と理想の衝突

 ③ たった一人で淋しくって仕方がなくなった

 Kの死の当座、「私」は①が死因なのだと考えている。これが前述の「ミスリード」である。だがそれは「すぐにきめてしまった」という形で否定されている。

 次に、②は上野公園の散歩中の「Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしている」(190頁)という表現に対応している。

 これは授業の最初に挙げた「『道』に反した自分への絶望」と同じことを指している。

 「覚悟」の考察では、①ではなく②こそKの自殺の基本的な動機であることを読み取ってきた。「夜のエピソード」の考察からも、その日のうちにKは「薄志弱行で行く先の望みがない」と、その「死因」を語っていたのだと結論した。「自殺の覚悟」は「私」とお嬢さんの婚約=「失恋」以前に既にKの中にあったのである。


 ただここにも注意が必要である。「現実と理想」とは何なのか。

 上野公園での会話中で「私」が「理想と現実」と言うとき、それは

  • 「理想」=「信仰・精進・禁欲・道」
  • 「現実」=「お嬢さんに恋している」

という意味だ。

 だが例えば次のような記述は、Kの苦悩が、お嬢さんを知るより以前からKを支配していたことを示す。

彼は段々感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と経ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮(あせ)り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。(中略)意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。(下/二十二)


 ここに示される「自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行く」「自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望する」「彼の意志は、ちっとも強くなっていない」「むしろ神経衰弱に罹っている」といった状況こそKの「現実」ではないか。この一節はKが下宿に入る前、まだお嬢さんのことなど知らない時の状況を述べたものだ。

 とすればKの「現実」とは、お嬢さんを好きになって初めて「道から外れた」ような現状を指しているのではなく、Kの「理想」が最初から不可避的に向かわざるを得なかった断崖なのである。

 そもそもお嬢さんへの恋心がKの「理想」を妨げる「現実」なのだという捉え方自体が、「私」の心をKに投影した推測によるバイアスがかかっている。

 Kの恋心の自白の場面(182頁)では、「私」は実はKの話をよく聞いていないし、それ以外の場面も、虚心に見直してみると、Kが「恋」故に苦悩していると考えるべき記述はないのである。

 したがってKのお嬢さんへの恋心は、Kの「理想」と衝突する「現実」の一部ではあっても、その重みは「私」が考えるほどには大きくはない。

 この「現実と理想の衝突」に対する修正は重要である。そうでないと、常にKの心理を推測する上で、お嬢さんとの関係を考慮する方向へバイアスがかかってしまう。


 さて、修正した上で、やはり②がKの自殺の主たる動機だと考えていいだろう。上野公園でKが口にした「覚悟」はやはり「薄志弱行で行く先の望みのない」自分への所決を指していたのだった。

 だがこう考えると、今度は「こころ」という小説の主題がなんなのかわからなくなる。

 授業の最初に考察したように、「こころ」という物語をどう捉えるか(主題)と、Kの死因をどう捉えるか(自殺の動機)という問題は、相互に因果関係を結んで成立している。

 一般的な「エゴイズム」主題論は、Kの死因を①「失恋」と考えるところに立脚している。

 だがこれを②「現実と理想の衝突」だと考えると、今度は「こころ」がどのような小説なのか、すなわち主題がわからなくなる。

 いきすぎた理想主義者の挫折を描いた小説?

 だがそれでは「私」がそこにどのように関わっているのかわからない。主人公は誰なのか。

 だから問題は③「淋しさ」である。


 そして「覚悟」は「決意」でも「予定」でも「計画」でもない。つまりKが自殺する「動機」は②「現実と理想の衝突」であるといってもいいのだが、それを実行に踏み切らせた契機が必要なのである。でなければ、上野公園の時点で「覚悟」を口にしたKが、その後十日あまり経ってから自殺を決行するに至った物語的な必然がわからない。「私」自身がそう考えて「不充分」と言っているのである。だからこそ③が考え出されたのである。

 やはり問題は③「たった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に」とはどのような意味か、だ。


 注意すべきことは、この「淋しさ」は、①と区別されなければならない、ということである。先の一節で漱石は明確にそう要求している。

 だがしばしばこの「淋しさ」は①と混同されてしまう。

 「淋しい」とは、信頼していた友人に裏切られ、大好きなお嬢さんを失って「孤独」になったという意味だと理解されてしまう。

 「淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決した」という時の「急に」も、奥さんから「私」とお嬢さんの婚約の話を聞いて「急に」なのだと解釈されるから、①と③の混同は意識されない。

 だからこそ「再考」の意義がある。

 この「淋しさ」とは何なのか?

 なぜこの時「急に」Kを襲ったのか?


2020年11月29日日曜日

こころ 40 その時、Kは何をしていたか

  四十三章の夜及び翌朝のエピソードについて、Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す、という解釈を示した。

 この解釈は、このエピソードが書かれる必要性と、遺書に「墨の余りで書き添えたらしく見える」文句があることの必要性を、相互に支え合って最も強い必要性を感じさせる。それぞれが互いのエピソードによって、「真相」に辿り着く路を開き、辿り着いた時に最も強くそれが書かれることの必要性を納得させる。

 この「書かれる必要性」という考え方は、「作者」や「小説」「読者」といった枠組みを外から眺めた時に初めて可能となる。登場人物と同じ目線では考えることができない。


 ところで、このエピソードについての一般的な解釈「Kがこの晩に自殺しようとしていたことを示す」(仮説A)は、先述の通り、授業者には賛成できない。

 だがその近親解釈としての「自殺の準備」説は、「遺書が書かれていた」と矛盾しない。

 とりわけ「謎の記述」の②「近頃は熟睡できるのか」という問いについては、遺書を書いた上で、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。

 Kにとってそれほど意図的な質問でなくとも、関心の方向が自殺の決行に向かっていたことは認めてもいい。

 だがそれは仮説Aを認めるということではない。②についての解釈の可能性を認めるということであって、仮説Dに比べると、「この晩」という条件を付けない仮説Aはほとんど「エピソードの意味」としての重さはないと思う。

 したがって問2「Kは何のために『私』に声をかけたのか」についての仮説a「『私』の眠りの深さを確かめようとした」も賛成できない。

 問2については前述のとおり、仮説bcを合わせて考えるべきだと思う。すなわちKは「私」に何か話しかけたかった、だが具体的な話題は想定されていない、と。


 仮説Dが①「落ち着いていた」にとりわけ整合的なのは前述の通りだ。

 ③「強い調子で否定する」はどうか?

 ③は仮説Bの根拠となっている。Kのこの態度によって「覚悟」の解釈が変わったのである。

 だが物語の展開を推進する機能があるというのは、③が書かれる必要性があるということではない。結果的にそうなった、ということであって、やはりKにとって「そうではないと強い調子で言い切」る必要があったことについての納得が必要である。


 まずはこう考えれば説明はつく。

 「そうではない」は「私」の「あの事件について何か話すつもりではなかったのか」という問いかけに対する返答である。この指示語が曲者である。

 これが間接話法だとすると、「私」はこの問いかけを具体的にどのような表現でKに投げかけたのだろうか?

 もしもそれが「お前は昨夜、まだお嬢さんのことを話すつもりだったんじゃないのか」などと問われたとすれば、Kは明確に「そうではない」と言うはずである。

 確かにKが前日に話したかったのは「そう(お嬢さんのこと)ではない」。「あの事件」とは「私」にとってはお嬢さんの話なのだと認識されている。だがKが上野公園で話したかったのは自らの信仰の迷い、己の弱さのことだ。

 そしてこの食い違いがKの強い否定となって表れているのである。


 さらに仮説Dに拠れば、より納得できる説明が可能だ。

 Kにとって、昼間口にした「覚悟」は「薄志弱行で到底行く先の望みはない」自分への決着のつけ方としての自己所決の「覚悟」だ。Kにとって「覚悟」とは、その言葉にふさわしい重みをもっている。

 そしてさらにKは既にそのことを記した遺書さえ書き終えているのである。それはKにとっての「覚悟」の自己確認にほかならない。

 一方「私」はKの「覚悟」を「お嬢さんを諦める覚悟」の意味だと捉えつつ、「独り言」「夢の中の言葉」から、なおもKに迷いがあるように感じている。だから「話」を止めることができない。

 だがKには、もはや昼間のようにくだくだしい「話」をするつもりはない。

 「僕はばかだ」の後もそうだ。Kにとってこの言葉の重さがわかっていない「私」は、これを「お嬢さんに進む」という「居直り強盗」的宣言なのかと思って「話」をやめることができない。Kが「悲痛」な声で「やめてくれ」と言っているのに。

 二つの場面は同じだ。Kにとっての言葉の重みが、「私」にはわからない。

 このすれ違いが「私」のしつこい詮索に対するKの否定の強さに表れている。

 この記述に対する違和感が注意を喚起し、読者をそうした考察にいざなう。


 さて、仮説Dの信憑性は高いと思われるのだが、実は仮説Aにおいて提起した疑問は、仮説Dで解決したわけではない。

 なぜ自殺をしようとしていたのに、その後12日間は行動を起こさなかったのかという疑問はそのまま、なぜ遺書まで書いたのに実行しなかったのかという疑問につながる。

 なぜ襖を開けて自殺したのか、という問題も未解決だ。

 だがこれらは次節「Kの自殺の心理を考える」で再考する。

 ただし、なぜ「私」の隣室で自殺したのか、という問題も仮説Aに対して提示したのだが、これは、Kの自殺の実行が「私」の眠りの深さには関係ないと考えれば、そもそも疑問にはならない。

 Kは遺書の中で「私」に片付けや、奥さんへの迷惑に対する詫びを頼んでいる。これはKの中で既にこの時点で、隣室で自殺することが前提になっていることを示す。

 考えてみれば、どこか他所で自殺すれば、知らない他人に迷惑をかけることになる。そんなことをKが望むはずはない。申し訳ないと思いつつ知り合いの世話になることをKが選ぶのは何の不思議もない。


 さて、重要な会話の交わされた上野公園の散歩の夜のエピソードについて、Kの自殺につながる重要な解釈をしてきた。

 この解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。

 果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。

 そしてそれを考える妥当性とともに、その必要性についても注意を喚起する。

 例えば、自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間。

 例えば、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間。

 これらの時間のKについて想像することの妥当性と必要性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。

 小説の描く物語は、そこに描かれていない時間をも含んで成立している。


2020年11月27日金曜日

こころ 39 サインの数々

 きわめて「意味ありげ」に見える「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現は、むろん、そこに込められたKの心情を考えさせるための手がかりでもあるが、同時に、それ以外の部分が別の日に書かれたものであることを示すヒントなのだという解釈をもとに、仮説Dをたてた。

 だがまだそれは、可能な解釈の一つとして提案してもいい妥当性を認めるとしても、唯一の解釈として認められるわけではない。

 この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定しておいて、一方で、それでもKがこの時、遺書を書いてはいたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか?


 解決すべき三つの謎の記述の①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という記述は、仮説Dによく整合する。

 この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは仮説A「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。

 だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。

 むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。

 Kが宵のうち「私」を「迷惑そう」に疎んじていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。

 それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを所決する悲愴な「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。

 そうしたKが夜中にはなぜか「落ち着い」た声で、なぜか自分から「私」に話しかける。

 こうした変化は、Kが「覚悟」の証としての遺書を書き終えたことを示していると考えるといっそう腑に落ちる。


 また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。

 それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。

 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、遺書を書き終えたことによって「落ち着いていた」のだと考えることは、相対的に強い納得が得られると思う。

 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。


 また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。

 だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。


 また遺書に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないことについて、「私」は「Kがわざと回避したのだということに気がつきました」という。

 この記述は、それこそ「わざと」らしい。またしても「意味ありげ」である。

 これも巧妙なミスリードだ。こう書かれてしまうと、お嬢さんのことは遺書に書かれるはずだということが前提になり、その上でなぜKは書かなかったのか、と考えたくなってしまう。

 だがここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」などというのは例によって「私」の根拠のない憶測に過ぎない。

 お嬢さんのことが遺書に書かれていないのは当然である。Kの苦悩はお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものなのだから。

 この、当然であることをわざわざ書いているのは、それについての「私」の誤った判断(Kがわざと回避したのだ=自殺の原因はお嬢さんの婚約だ)によって読者をミスリードすることを意図していると同時に、「真相」に至る道筋を用意しているのだともいえる。

 あえて読者を誤解に導きながら、それが誤解であることにも後で気付くよう、注意喚起のためのフラグを立てるのである。

 ここでは次の三つのテーゼが、相互に因果関係を持つ、整合的な解釈を構成している。

  • Kの自殺の動機は、「私」とお嬢さんの婚約とは無関係である。
  • 四十三章でKが口にした「覚悟」は、自殺の覚悟のことである。
  • 遺書が書かれたのは、四十三章の晩である。

 遺書にお嬢さんの名前が書かれていないのはなぜか、と考えさせることは、この解釈に気付くための端緒になるのである。


 考えるほどに、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたという「真相」を読者に知らせようとしているように思えてくる。

 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。

 このわかりにくさ、気付きにくさが、仮説Dを突飛なものと感じさせてしまう。

 実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか。少なくともこうした解釈について書かれたものは、授業者の知る限り、ない。


 今ではこの仮説Dは信じるに値すると思っているが、依然として、これがひどくわかりにくい、にわかには認めがたい、突飛なものと感じられるだろうこともわかる。

 だがこの「わかりにくさ」には理由がある。

 仮説Dが示す「真相」はなぜこんなに読者にわかりにくいのか?


 同じ趣旨の疑問を、上野公園の散歩の会話の分析においても投げかけた。二人の会話がアンジャッシュのコントのようにすれ違っているなどという「真相」は、普通の読者がすぐに気付けるものではない。

 この問いには、「こころ」の物語が一人称の「私」の視点から語られているからだ、と答えることができた人は、とりあえずここまでの学習が把握されている。

 「私」がそうした「真相」に気づいていないのだから、その視点から書かれた情報しか与えられない読者も当然気づかない。

 だがなぜ作者には、そのようにわかりにくく書く必要があるのか?


 この問いに、その方が面白いからだ、と答えるのはとりあえず正しい。「真相」がわかりにくいほど、気づいたときの満足は大きい。

 だが読者が気づかなければ、せっかくの仕掛けも無意味になってしまう。

 それは、そうした危険を冒しても、作者にはそうする必要があったことを意味する。

 なぜ「わかりにくい」必要があるのか?


 それは、わかりやすかったら「私」が気づいてしまうからだ。

 「真相」に「私」が気づいてしまったら「こころ」のドラマは成立しない。認識の食い違い、意思疎通のすれ違いこそが「こころ」のドラマの核心なのだから(エゴイズムの葛藤などではなく)。

 このドラマツルギーが、この「わかにくさ」を要請している。

 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気づかれないように、しかも当の「私」自身の口を通して読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。

 この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきものだ。

 むろん、大学生当時の「私」には気づかなかったが、遺書を書いている「私」はその「真相」に気付いたことにすることもできる。

 だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が「真相」をすっかり説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。

 「真相」は、わかりにくい必要があるのである。

 つまりこれは名探偵の出てこないミステリーである。読者が探偵になるしかないのだ。


こころ 38 「墨の余りで書き添えたらしく見える」

 仮説Dを最初に聞いた時、授業者が直ちに挙げた反論の根拠は次の一節だ。

(この手紙の)最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句(四十八賞 205頁)


 この「文句」は内容的に、どうみても自殺の直前に書かれたものに見える。こんなことを書いてから、10日あまり経ってようやく自殺したなどという「真相」を受け入れることはできない。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない。

 とすればこの手紙はやはり自殺の直前、土曜の晩に書かれたものに違いあるまい。


 だが度々鋭い読解を示してきたその生徒に対する信頼が、後に授業者にこの解釈について再考を促した。

 そしてある時ふと、仮説Dを否定するための根拠として挙げたこの記述こそが、そもそもその生徒に仮説Dを発想させた手がかりであり、またその妥当性を証明する最大の根拠なのだということに、突然気づいたのである。

 どういうことか?


 授業で仮説Dを提示すると、その仮定を受け入れるために、四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる者がいる。

 だが、四十三章の時点から見た「もっと早く」とはいつのことか、などと考える必要があるのではない。

 この「文句」だけが自殺した四十八賞の「土曜の晩」に書かれたものであり、それ以外の部分が四十三章で書かれたのだと言っているのだ。


 発想の転換のためには、こう考える必要がある。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎない。「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら確定された事実ではない。あくまで「そう見える」に過ぎない。

 毎度の「私」フィルターだ。

 「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであった。そのことは上野公園の散歩の会話の分析でも、いやというほど思い知らされたはずだ。


 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。

 だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の本文はもっと以前に書かれたものであっても構わない。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」という形容こそ、この部分とそこまでの部分の時間的連続性を示しているように見えながら、同時に、書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられるのである。

 つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。


 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか?

 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  1. それ以前の文章に比べて墨が薄い。かすれている。
  2. 字の大きさが前の部分と違う(大きい・小さい)。乱れている。
  3. この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
  4. 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような内容である。
  5. そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが口語調になっている。


 「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態として、まず1が思い浮かぶ。

 だがそれ以外に2~5のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。

 23も視覚的イメージとして想像されてもいい。

 4はある程度の分析的思考が必要である。前の部分が「必要なこと」であるのに対して、この部分はにわかには意図が伝わらない。

 5については解説が必要である。

 先生の遺書(「下」本文)が「西洋紙」に「印気(インキ)」で「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた」「原稿様のものであった」のに対して、Kの手紙は「巻紙」に「墨」で書かれたものであるという対照は、おそらく先生の遺書が口語体(言文一致体)であるのに対し、この手紙が文語体の「候文(そうろうぶん)」であったことを示している。

 「候文」とは、文末に「候」が補助動詞として付けられる手紙独特の文体のことだ。

 漱石の『吾輩は猫である』から引用する。


 主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。

新年の 御慶目出度申納候 ぎょけいめでたくもうしおさめそうろう 。……

 いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどない。それに較べるとこの年始状は例外にも世間的である。

一寸参堂仕り度候 ちょっとさんどうつかまつりたくそうらえ ども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古未曾有このせんこみぞうの新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察 願上候 ねがいあげそうろう ……

 なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。


 一方で同じく漱石の『三四郎』の中には「母に言文一致の手紙を書いた」という記述がある。つまり手紙が言文一致で書かれることは特に記述すべき事柄なのであり、裏返せば、手紙は通常「候文」で書くものなのである。

 もちろん相手と手紙の性格によるのであって、残っている漱石の書簡には、候文のものも口語文のものもある。友人や年下の相手には口語文で、あらたまった相手や公的な用件ならば候文である(授業で読んだ森鷗外宛ての手紙みたいに)。

 したがって、Kの性格から考えても、この遺書は「候文」で書かれたと考えられる。

 そして「もっと早く…」の部分だけは言文一致体で書かれている。4のように「独り言」じみた内容を「候文」で書くはずがない。


 だがこうした123「外見」や4「内容」や5「文体」による差異によって、この文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。

 この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。

 だから、この部分について考えるにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。

 もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは必須であり、そしてそれはかなり難問でもある。この後でそれを考察する)。

 だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。

 これもまた、先に述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。


こころ 37 小説に書かれていない「時間」

 四十三章、上野公園で重要な会話を交わした晩、Kは既に四十八章で「私」が目にすることになる遺書を書き上げていたのではないか?

 この解釈について真面目に検討しよう。


 こう考えることの妥当性についての重要な論点は、物語に直截描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題だ。

 すなわちここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像である。

 語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのである。そうした時間のことをどこまで考える必要があるか。

 一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。エピソードとエピソードの間、場面と場面の間は跳んでいる。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の目の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎないのかもしれない。

 だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。

 ミステリーなどは、語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心だ(コナン君が語る黒タイツ人間の行動の顛末だ)。

 そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、ミステリーでは結局物語内で語られてしまうのだが)。

 このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか?

 そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か?

 何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見なすか?


 書いていないことを解釈によって作品内の「事実」と見なすためには、その解釈につながる情報を作者が意図的に文中に書き込んで読者に提示していると見なせなければならない。それは後から振り返って読み直したときにはじめて気付くようなものでもいい。とにかく、そのためにわざわざ書いたと見なせる符牒=サインが見つかることが、そうした解釈の正統性を根拠づける。

 文中で否定されていない解釈、というだけなら、どれほど突飛な解釈でも、文中で言及されていないならば否定されていることにはならないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される(実はKは宇宙人でしたと言っても、それを否定する言及はない)。

 だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。

 先に、書いてあることにはすべて整合的な解釈ができるはずだと述べたが、同時に、書くべきことが書いていなければ、それはないものと見なす、とも述べた。これは解釈の妥当性を判断する上での、裏表の条件である。

 書くべきこととは、書かれている事柄の解釈に大きな影響を及ぼすような事柄であり、それ以外は常識の範囲で想像すればよい(だからKが宇宙人だったり超能力者だったりする可能性については、それを否定する証拠が書かれていなくとも特に考えなくていい)。

 出来の悪いミステリーは、結末で突飛な真相が語られて、唖然としてしまうことがある。読者と作者の知恵比べであるはずのミステリーの作法は、真相へのヒントや伏線が読者に提示されていることだが、それを守らない「何でもあり」のミステリーは、いたずらに虚仮威しに走る下手物だ(と思うのだが、メフィスト賞受賞作品でもそういうのがあって、それはつまり同賞には論理パズルとしての「本格物」というこだわりがないということなのかもしれない)。

 ここでも「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採らなければならない必然性はない。それはトンデモ仮説にすぎない。

 Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか?


こころ 36 第4の仮説

 夜のエピソードについて、さらに別な解釈を提示する。

 この夜のエピソードは、「私」の目からはKの言動が謎めいて見えるばかりで、だからこそ「意味」をはかりかねるのだが、これをKの視点に立って読むことで、その「意味」が明らかにはできないだろうか。

 まずはこう考えてみよう。

 「私」に声をかけるまでKは何をしていたか?

 「便所へ行った」とKは言うが、これは声をかける直前であるに過ぎない。

 さらに想像するためにこう考えてみる。

「私」に声をかけるまでKは起きていたか?

 Kが尿意を催して眠りから覚め、便所へ行き、そのついでに「私」に声をかけたのだと、読者は考えない。Kは宵からその時まで起きていたのだと感じられる。

  なぜか? そう感じられる根拠は何か?


 2点指摘できる。

  • 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵のとおりまだ灯りがついているのです。
  • Kはいつでも遅くまで起きている男でした。


 ここでは、「Kの黒い影」ばかりが不気味な印象で読者の視線を捉えるが、ふと視線を逸らせてみればKの室内には「灯りがついている」。「灯り」は言わば「黒い影」の背景に過ぎないように見える。

 「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯り」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。

 わざわざ「彼の室には宵のとおりまだ灯りがついている」と言及されることの意味を考えると、にわかにそれが、そこでKが「宵」から過ごした時間を暗示しているように思えてくる。

 Kは暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである。Kは何をしてそれまで起きていたのか?


 さて、こうした作為的な誘導によって浮かんでくる答えがあるはずだ。

 そう、Kは遺書を書いていたのである。

 可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。何せ「いつでも遅くまで起きている男」なのだ。

 だがこの場面で「Kは何をしていたか?」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。

 この「遺書」とは何のことか?

 無論、まさしくあの「手紙」のことである。物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、四十八章で読者の前に提示される遺書のことだ(204頁)。

 そう考えなければ、エピソードの「意味」として成立しない。

 つまり「Kが遺書を書いていた」というのが「エピソードの意味」だと言いたいわけではないのだ。

問1の仮説D Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。

 これが「真相」ならば、エピソードの意味として充分な重さを持っていると納得できる。

 「遺書を書いていた」だけだと、「そりゃ自殺しようとしていたんだから遺書くらい書いていてもおかしくはない」という、仮説Aから派生した想像にしか感じない。

 「あの遺書がこの晩書かれていた」ならば、物語の解釈に大きな影響を与える「意味」を持ちうる。


 だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、信憑性に欠ける怪しいトンデモ仮説かもしれない。まずはそう感じられる方がむしろ健全である。

 こんな解釈をしている人は、文学研究者や国語教師の中には、ほとんどいないはずだ(授業者はこういう解釈に基づく文章を読んだことがないし、発言としても聞いたことがない)。

 実はそもそもこの解釈は授業者が思いついたものではない。

 この解釈を授業者に提示したのは、ある年の授業を受けていた生徒だ。

 しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を、自殺の決行のための偵察であると解釈する仮説Aに付随して発想されたものであり、それについては、先に述べた通り、授業者は否定的なのだ。

 授業中にこのような発言をした生徒に対して、Kはこの晩に自殺しようとしていたわけじゃないよ、と言いつつ、だからこそ、この晩に遺書を書いたなんて解釈はありえないよ、と言った。


 さて、今年の授業でも、こちらが誘導する前からこの解釈を提示してきた者がいた。

 訊いてみると、やはりKが自殺しようとしていたという解釈から、ということは遺書も書いていただろうと発想したという。

 この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える世のA説を採る論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか?

 おそらくそうではない。そんなことを思いついたら他人に言いたくなってしまうはずだ。

 だからこの晩にKが自殺しようとしていたという解釈と、遺書も書いていたという解釈は、一般的にはまったく結びつけて発想されないのだ。

 あるいはごく稀に、少数の生徒が全国のどこかでそれを発想し、黙っているか、発言して否定されているのだろうと思う。

 

 はたして仮説Dはトンデモ解釈か?


こころ 35 仮説の整理

 ここで一度、仮説を整理しておく。


問1の仮説A Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。

問2の仮説a 自殺の準備として「私」の眠りの深さを確かめようとした。


問1の仮説B 物語を展開させるはたらきをする。

問2の仮説b Kの言葉通り、特別な意味はない。


問1の仮説C 「襖」の象徴性について手掛かりを与える。

問2の仮説c 「私」に話しかけたかった。


 仮説Cでもなお充分でないと考えられる点はどこか?

 先に挙げた次の三つの謎めいた記述が、まだ充分には解決していない。


①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」

②「近頃は熟睡できるのか」と問う

③「Kはそうではないと強い調子で言い切りました」


 「上野から帰った晩」に「私」は「Kが室へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机の傍に座り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」る。するとKは「迷惑そう」にしている。宵の口には「私」を疎んずるKが、なぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか。またなぜそのときの声は「落ち着いていた」のか。この変化はなぜ生じたのか。仮説Cは①を説明しない。

 また、話がしたかった(c)とすると、③と矛盾する。特に話題が想定されていたわけではないとすれば「そうではない」と否定することに矛盾はないが、それにしても「強い調子で」という形容をする理由はやはり説明がつかない。

 ②についても、仮説Cから腑に落ちる解釈を引き出すことはできない。


 仮説Bとともに、仮説Cも、間違ってはいない。このエピソードは物語を展開させる機能をはたしているし、「襖」の象徴性は明らかに意図的だから、そこに注意が向けられるのもこのエピソードに因ってである。

 だがいずれも充分ではない。そういう役割は確かにはたしているが、それだけでは上記の様な疑問を放置していいということにはならない。

 「エピソードの意味」はまだ明らかにはなっていない。


 仮説Aについては疑問を提示したまま保留にしているが、ちなみに、授業者はこれを支持していない。「覚悟」を「自己所決の覚悟」だと解釈することには確信があるが、だからといってKがこの晩にそれを実行に移そうとしていたとは考えない。

 なぜか?

 この段階でKが自殺しようとしていたという「真相」は、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってからKが自殺するという展開にいたるドラマツルギー(作劇法)の必然性と整合しないと考えるからだ。Kがこの晩すでに自殺を実行に移そうとしていたのだと考えることは、その後の「私」の裏切りにいたる物語の展開の「意味」を無効にしてしまう。

 だからといってそれは、Kの自殺が「私」の裏切りによるものであることを(一般的に考えられているようには)意味しない。Kの自己所決の「覚悟」は、とうにKの中にある。それはこの日初めてKの中に生じたものではない。この日は、それがあらためて「私」に対して宣言されただけだ。

 もちろんそれは軽い出来事ではない。一度口から発せられた「覚悟」は、今までとは違った重さでKにのしかかることになる。

 だが「覚悟」とは、いざとなったらそれを実行に移す「覚悟」であり、ただちに実行に移す「決意」や、条件が整い次第実行に移す「計画・予定」ではない。「覚悟」とは、自己矛盾にけりを付けるために自己所決という手段を胸に秘めているという自覚を語った言葉であって、ただちに実行するつもりだ、と言っているわけではない。Kはこの時点ではまだそれを実行するに至る契機を得ていない。

 「覚悟」はこの日のうちにKの中で確認されている。だがそれを決行するには、Kが奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の件を聞き、なおかつその後「二日余り」沈黙のまま過ごすことが契機として必要なのである(この「二日余り」については後で考察する)。

 上記の「ドラマツルギー」とはそのことだ。


 それでは、これが「覚悟」=「自己所決の覚悟」という言葉がKの口から語られた晩のエピソードであるという展開上の必然をどう考えればいいのか。

 それは次に考察する第4の仮説において明らかにする。


こころ 34 第3の仮説

 この夜のエピソードには、物語を展開させるはたらきがある。このエピソードによって、「私」が次の行動を起こし、物語が動く。

 だが、このはたらきをもってこのエピソードの「意味」が説明しきれたわけではない。

 なぜか?

 これではこのエピソードの意味がこのエピソードの前後で完結してしまって、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちてしまっている。何のために四十八章でこのエピソードを読者に想起させたのかわからない。

 ただこれは仮説Bを否定するものではない。少なくともこのエピソードがそのような「意味」を持っていることは事実であり、否定できない。

 ただ、充分ではない、のである。


 仮説Bでは説明できない、四十八章の自殺の発見の場面とこのエピソードのつながりについて考えよう。四十八章でこのエピソードを想起することを読者に要求する漱石の意図について考えるために、まずは両者をつなぐ糸口を考える。

 四十八章の場面とこのエピソードの共通点は何か?


 Kが襖を開けたことである。

 これが何の意味をもっているか?

 これだけでは考えようがない。次のようないくつかの記述を読むことで、このことの意味をはじめて考えることができるようになる。

私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せてじっと顎を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。/十時頃になって、Kは不意に仕切りのを開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。(三十五章 180頁)

私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれればよいと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意うちにあったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、を眺めました。しかしそのはいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。(三十七章 182頁)

そのうち私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風にお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んでを開ける事ができなかったのです。(三十七章 183頁)

私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと越しに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。(略)私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論越しにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。(三十八章 185頁)


 上の記述から、「襖」について何が考えられるか?


 それぞれの文脈を意識的に読み進めていけば、「襖」が「二人の心の壁(距離・隔たり…)」を表していることはすぐにわかる(「エヴァ」の「ATフィールド」だ)。

 「仕切り」は空間を仕切るものであると同時に、二人の心を仕切っている。

 こういうの何と呼ぶか?

 すぐ想起できなければだめだ。おなじみの「象徴」である。

 「ホンモノのおカネの作り方」から「少年という名のメカ」「ミロのヴィーナス」「山月記」「ロゴスと言葉」、全ての教材で象徴について考察した。「おカネ」「少年」「手」「虎になる」すべて象徴だ。「ロゴスと言葉」では言語のもつ「象徴化」作用について考察した。

 ここでの「襖」もまた、「羅生門」における下人の頬の 面皰 にきび と同じく、典型的な「象徴」である。

 「象徴」とは何か?

 復習だ。適切に説明できるだろうか。

 象徴とは、ある具体物がある抽象概念を表していると見なすことである。

 この場合は、襖(具体物)が、心の距離(抽象概念)を「象徴」していると考えられるのである。

 ここからこの場面についてどのようなことが考えられるか?


 襖を象徴として見ると、襖を開けるという行為はすなわち、Kがこのとき「私」に心を開こうとしていたことを示すということになる。つまり、この深夜の訪問はKから「私」への不器用なアプローチだということになる。

 この場合、問2についてはどのように表現したら良いか?

 敢えて言えば「話をしたかった」が近いか。

 そうなると、何を話したかったのか、またなぜ話すのをやめたのか、という疑問が浮上してくる。

 だがそれも、明確に何かを話したかったわけではなく、ただ話しかけたかっただけなのだと考えてもいい。「覚悟」という言葉を口にして、昼間の逡巡に一定のけりをつけたKが、すぐその夜に再開したい話などあろうか。

 話しかけるだけなら(まして眠っているかどうか確かめるだけなら)襖を開ける必要はない。実際に三十八章では「私はまだ寝ないのかと襖越しに聞」き、その後で襖越しに「おい」というやりとりが繰り返される。

 つまり問題は話すことより、「襖を開ける」というのが象徴的な行為だということだ。

 むしろ明確な用件などなく、それが「私」の目からはKの行動が不可解なものとして映る意思疎通の齟齬が、基本的な「こころ」のテーマにつながっているのだと考えてもいい。Kの「意図」などというものは、このエピソード自体が「意味」ありげであることから要請される、いわば「幻」なのではないか。

 つまり極論してしまえば、Kが何のために襖を開けて「私」に話しかけたのかは、K自身にさえ自覚されていなくともいい。「大した用でもない」は、Kにとって正直な言葉なのかもしれない。


 では問1「エピソードの意味」はどうなるか?

 四十八章の自殺の場面を読む読者にこのエピソードを想起させることで、Kが自殺する前になぜ襖を開けたままにしたのかを考えるための注意を喚起し、あわせてその参考となる、という機能をもっているということになる。

問1の仮説C 「襖」という共通性から、自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。

問2の仮説c 「私」に話しかけたかった

 2のcは、具体的な話題が前提されていないという意味では、bの「特に意味はない」と変わらないが、bが積極的に意味を読み取るべきではないというという「意味」であるのに対し、Kの心情をこのように読み取るべきだという「意味」である。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


 またしても、ならない。

 なぜか?


こころ 33 第2の仮説

 この夜のエピソードを、Kが自殺しようとしていたことを暗示するものと解釈する仮説Aは、その自殺がこの晩と想定されているにせよ、今後いつかと想定されているにせよ、なお看過しがたい疑義を残している。


 ここで、別の角度から考える。

 いったん問2を措いて、問1の「エピソードの意味」を「このエピソードの機能・働き・役割・必要性」と考えてみる。

 エピソードが語られる必要は、大きく言えば主題を形成する必要だが、限定的に言えば、まずは物語の展開に必要だということである。

 そこでこう考えてみる。

 このエピソードの前後で何が変化したか?


 既習事項だ。Kの口にした「覚悟」の意味を「私」が、ほとんど反対方向に解釈しなおしたのである。

 この変化から、このエピソードの「意味」を説明してみよう。


 「私」がKの「覚悟」の意味を考え直した直接的な契機は、翌日Kに問い質した際、Kが「そうではないと強い調子で言い切」ったことだ(これも既習)。

 こうした態度から、Kの「果断に富んだ性格」を思い出した「私」は、上野公園の散歩の際にKが口にした「覚悟」を、当初の「お嬢さんを諦める『覚悟』」とは反対の「お嬢さんに進む『覚悟』」であると思い込んでしまう。

 直接的な契機は確かにこの「強い調子」だが、その前に、そこに至る背景がある。

 前日に上野公園でKが口にした「覚悟」という言葉は、「私」にとっては「お嬢さんを諦める覚悟」のことである。そうKに言わしめた「私」は「勝利」「得意」を感じている。

 だが一方でそこに「彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」という違和感も感じている。「私」が「Kが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」るのは、勝利を確信した優越感を味わいたいというだけではなく、そこに混じる微かな違和感から、なおもKの意志を確かめずにはいられない不安が無意識に影を落としているからだと考えられる。

 そこにKの不可解な行動があることで、再び「私」が不安にかられ、なおも問い質すと、Kの強い否定に遭う。さらに高まる疑念が「覚悟」の意味について考え直すよう「私」に促す。

 そうして「覚悟」の解釈を変更して、焦った「私」は、奥さんに談判を切り出す。

 こうした展開の導因としてこのKの謎めいた行動があるのだから、このエピソードは、Kの心理が「私」にとって謎であることによって「私」の疑心暗鬼を誘い、「私」に悲劇的とも言える行動を起こさせる誘因となる、といった、物語を展開させるはたらきがあるのだ、と説明できる。

 これがこのエピソードの「意味」だ。

 こうした「エピソードの意味」に整合的な「Kの意図」は何か?


 敢えて言うならば、Kの言葉通り「大した用でもない」である。特別な意味はないのだ。

 Kには特別な意図はないのに、「私」が考えすぎてしまっているのだという解釈は、心のすれ違いを描いた「こころ」という作品の基本的な構図にふさわしい。

 この解釈は①「Kの声が落ち着いていた」にも整合的だ。

 「落ち着いていたくらいでした」という描写は、反動として「落ち着いている」ことに対する不審を読者に抱かせる。「落ち着いている」はずはない、おかしい、と思わせるのだ。

 だが「特に意味はない」ならばKの声に特別の響きがなくてもいいのだし、②「近頃は熟睡できるのか」も、「意味がない」のならば考える必要がない。

問1の仮説B 物語を展開させるはたらきをする。

問2の仮説b Kの言葉通り、特別な意味はない。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


 ならない。

 上の結論では充分でないと考えられるのはなぜか?


2020年11月26日木曜日

こころ 32 仮説Aに対する疑義

 四十三章の夜のエピソードを「Kが自殺しようとしていたことを示す」と解釈する、仮説Aを共有した。

 仮説Aの問題点を検討しよう。


 素朴な疑問としては、この晩に自殺しようとして実行に至らなかったとして、その後実際に自殺するまでの12日間(月曜から翌週の土曜日まで)をどう考えたらいいのか、という問題がある(授業でも「間、空き過ぎじゃね?」という声がそこここから聞こえてくる)。

 この晩は「私」が目を覚ました。では翌日以降もKは同じように襖を開けて「私」の眠りを確認したのだろうか?

 これはありえない。なぜか?

 翌晩以降もKが同じように「私」の眠りを確かめるべく声をかけたのなら、そのうちいずれかの晩には「私」は目を覚ますはずだ。そうしたらそのことが記述されないはずはない。記述がないということは、そのような事実が小説内に存在しないということだ。

 それよりも、そもそも「私」が目を覚まさなかった夜があったとすると、上記の論理からいえばKはその時点で自殺してしまうはずだ。例えば翌日にでも。

 とすると、次にKが襖を開けたのは自殺を決行した12日後の晩ということになる。

 この12日間の空白は何を意味するのか? この間、Kは何を考えていたのか?


 あるいは、次のように反論もできる。

 襖を開けて名前を呼ぶのは「私」の眠りの深さを確かめるためだということは、つまり裏返せば自殺の実行にあたっては「私」が目を覚ますことは不都合だということだ。

 ならば、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは、むしろ目的に反している。眠っていてほしいのに、なぜ起こすのか?

 眠りの深さを確かめるだけなら、襖を閉めたままでも確認はできる。三十八章(185頁)では「私」とKは襖越しに会話を交わしている。


 この反論に対しては、Kの自殺の決行が、「私」が目を覚ますかどうかに拠っていること自体に、Kの迷いを見てとる解釈を提示することができる。つまり、目を覚まさなかったら決行していたが、むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期することを(つまり「私」に止めてもらうことを)どこかで望んでいたのである。

 この解釈は、もしも「私」が目を覚まさなかったら、Kはこの晩に自殺してしまったのではないかという魅力的な解釈を補強する。


 一方でこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと不整合にも思える。「覚悟」は「ないこともない」が、やはり迷いもあるのだと考えればいいか。

 だがそれではKの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間で新たな不整合を生ずる。


 ところで、この仮説Aには亜種がある。

 Kの行動を「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」ものだというのである。

 これならばこの夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、自殺の決行がここから12日後になった理由もつく。Kはそもそもこの晩に自殺しようとしていたわけではなく、様子をみたのだ。そして「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。

 ただしこの解釈では、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な解釈を諦めることになる。


 Kはこの晩に自殺するつもりだったのか、この晩はあくまで「偵察」だったのか?


 両説は、議論の中で必ずしも区別されているとは限らない。だからみんなの意見を聞いても、どちらが最初に発表されるかはクラスによってまちまちだ。

 実は文学研究者や国語教師の間でも、あまり区別されてはいないと思われる。


 敢えて比較するなら前者の方が魅力的で、後者の方が整合性が高い。

 そこでいっそ、上記の説を融合してしまえばいいのでは?

 つまり、Kはこの晩自殺しようとしていたが、迷いもあった。「私」に声をかけることで、止めてほしいとさえ思っていた。はたして「私」は目を覚まし、Kは実行を思い止まったが、引き続き機会をうかがう意味で「近頃は熟睡できるのか」と訊いた…。

 これならば劇的な想像を諦めることなく、整合性がとれる。


 だが実はまだ解決はしない。

 結局「覚悟」「落ち着いていた」と「迷い」の不整合は解消されない。

 それに、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。

 その晩、Kは襖を開けた後、「私」の名を呼んだのか?

 また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのである。

 名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局、隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。

 あるいは翌日以降に所決の決行が延期されたとしても、それがなぜ12日後には実行に移されたのか、その条件が不明だ。


 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろ、12日後の土曜の晩にはなぜKはそれを実行したのか、なぜ隣室で、なぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、このエピソードの解釈と関連させて考えなければならないのである。

 12日後の土曜の晩、Kはなぜ「覚悟」を実行に移すことにしたのか?

 なぜその時、襖を開け、開けたままにしたのか?

 そして、そうした疑問とともに、四十三章で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を考えなければならない。

 ここでもやはり、二箇所の解釈は、その整合性とともに互いの妥当性を支え合っている。


2020年11月24日火曜日

こころ 31 第1の仮説

 上野公園を散歩した夜のエピソードについて次の二つの問いを立てた。


問1 このエピソードの「意味」は何か?

問2 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 問2は物語の内部で考える問題で、問1はその地平を越えたメタな問いだ。

 両者は互いに整合的であることによって、互いの正統性を支え合っている。


 さて、これらの問いに対しては、大勢を占める答えが既にある。多くの者が思いつくから、しばらく話し合いをしてみると、すぐにそれが共有される。

問1の仮説A Kが自殺しようとしていたことを示す。

問2の仮説a 「私」の眠りの深さを確かめようとした。


 Aとaは、同時に発想されている。aを抽象化したものがAであり、Aという解釈を構成する具体的な要素としてaが想定されている。

 注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、Kの自殺が決行される四十八章までを読まなくてはならない。

 同時に、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己所決=自殺の「覚悟」であるという解釈ができていなければならない。

 そもそも「覚悟」を自己所決の覚悟であると解釈することも、実際にKが自殺しなければ不可能である。上の仮説AはKの自殺という展開と昼間の「覚悟」の解釈を結んだ線上に発想されるのである。

 ではなぜこのエピソードをKの自殺と結びつけて考えるべきなのか?


 根拠は、四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。(203頁)


 ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることに疑いはない。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。


 さらに、この解釈を補強する要素がある。

 先に、小説内の全ての要素は整合的に解釈されるべきであると述べた。このエピソード全体が、それをどう解釈すべきかにわかにわからないが、同時に次の記述は、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味を「わからない」と感じさせている。

① 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という描写

② 翌朝の「近頃は熟睡できるのか」という問い

③ 翌朝の登校途中の、「私」の問いかけに対するKの否定に付された「強い調子で言い切りました」という形容


 三点とも、これらの記述から浮かぶKの心理は謎めいている。

 仮説Aはこれらを回収する。

 とりわけ②の「近頃は熟睡ができるのか」は、それこそが仮説Aの発想の元になっているはずだ。Kが「私」の眠りの深さを知りたがっているというのは、そのままaでもある。

 ①についても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。

 ③については、自殺の意図を悟られたくないということだと考えてもいいし、Kにとってそれは軽く話せる話題ではないということを示しているのだと考えてもいい。

 こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。


 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。

 もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったのではないか?

 この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。


 仮説Aは専門家・研究者の中でも定説だし、実際に授業でも多くの者の支持を集める。

 問題はこの解釈で生ずる不都合である。

 この仮説に疑問はないか?


こころ 30 「エピソードの意味」と登場人物の心理

 上野公園の散歩の場面は、読むほどに新しい発見のある情報量の詰まった場面だ。ここで「私」とKの間に交わされた会話を詳細に分析することで、二人の認識のくい違いについて考えてきた。この食い違いが「こころ」の基本的なドラマツルギーを成立させているのだが、このことは後で全体を振り返ってあらためて考えよう。


 次に検討するのは、その晩のエピソードである。

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(194頁)


 このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。このKの謎めいた行動について、読者はある種の納得を必要とする。

 そこで考えてみよう。

 このエピソードの「意味」は何か?


 エピソードの「意味」?

 問いの趣旨がわかりにくい。

 「エピソード」とは、物語中の展開の一部分、ある出来事や場面の「塊」のことだ。「こころ」授業の最初期に「曜日の特定」の考察をしたが、これはこの「エピソード」ごとに考察を進めた。その時に通し番号にした②と③が今回考える「エピソード」だ。

 それ以外のエピソード、例えば①「上野公園の散歩」は、中で細かいところは必ずしも「わかった」とは言い切れなくとも、何のエピソードなのかがわからないということはない。つまり「上野公園を散歩しながら話したエピソード」なのだ。④「奥さんとの談判」や⑦「Kの自殺」も、つまりそういうエピソードだ。

 ところが②③はどういうエピソードだと受け止めれば良いのかがにわかにはわからない。

 なぜか?


 なぜこのエピソードが「わからない」と感じるのか、という問いは考える価値のある問題だ。どうならば「わかる」と思えるのか?

 自分の思考がどのように働いているかを自覚するという考察は、これまでも様々な場面でしてきた。「永訣の朝」の語り手のいる場所についての考察でも、「こころ」の「進む/退く」の考察でも、「居直り強盗」の比喩の意味の考察でも。

 それは、そう考えることの根拠と推論の妥当性について再検討するということだ。

 ここでは、「わからない」という感じが万人に共通するかどうか検討する。


 一方で、この部分で何を考察すべきか、といえば決まって問題になるのはKの心理だ。

 「この時のこの人物の気持ちを考えてみよう」という質問は、小中学校で散々聞かれてきた問いのはずだ。

 近代文学の読解において、登場人物の心理を考えずに読むことはできない。


 「心理」というと対象が広くなってしまうので(まして「気持ち」などという語を使うとますます曖昧になってしまうので)、ここではKの「意図」と言おう。

 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 この点について、K自身は何と説明しているか?

 K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。

 だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された意図があるはずだと深読みしてしまう。

 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然であるように感じてしまう。

 Kの言葉をなぜ信じられないか?


 夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。

 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。

 ではなぜか?

 この疑問に、まずは「文学」的な説明をしてみよう。

 「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現が、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できるのである。だからK自身の説明の直後で「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」と言ってしまう。Kの言葉は額面通りに受け取ることを留保されている。

 これもまた「こころ」の基本構造である意思疎通の断絶を象徴的に示した映像である。

 映像を象徴として読む、というのは意識しないとできない「文学」的な読み方だ。


 だがそれよりも重要なことは、「ただ~だけ」と限定される理由が、十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないということだ。

 「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むエピソードがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」である。

 つまり、Kの心理・意図は、このエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのである。


 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。

 小説という虚構は人間が創作したものだから、すべての要素は、作者がわざわざ書かなければ存在しない。

 だから「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報はない。原理的にはすべての記述、表現、展開が相応の「意味」をもって把握されなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。

 それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。

 この小説にとって、なぜこのエピソードが語られる必要があるのか?

 読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか?


2020年11月23日月曜日

こころ 29 上野公園の会話を通観する

  上野公園の散歩のエピソードの会話を通観してみよう。

 実際に交わされている台詞は、文章量に比べて意外と少ない。

 「私」とKそれぞれにとっての会話の意味を、なるべく対比が明瞭になるように言い換えてみる。

 左(ピンク地)が「私」、右(水色地)がKにとっての意味である。


K:「どう思う」

恋愛の淵に陥った彼を、どんな目で私が眺めるかという質問

精進の道に迷っている自分が、どんなふうに見えるかという質問


私:「この際なんで私の批評が必要なのか」 

K:「自分の弱い人間であるのが恥ずかしい」

恋愛に突き進んでいけない自分の弱さが恥ずかしい

ひたすらに信ずる道を貫けない自分の弱さが恥ずかしい


私:「『迷う』とはどういう意味だ」

K:「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」

恋に突き進んでいいのか、恋を諦めるべきなのか、迷う

これまで通り精進の道を貫くべきか、信仰を捨てていいのか迷う


私:「退こうと思えば退けるのか」

お嬢さんを諦められるのか

今まで信じてきた道を棄てられるのか


K:「苦しい」(苦しそうなところがありありと見えている)

お嬢さんへの恋を諦めるのは苦しい

道を捨てることは苦しい

→道を捨てた自分をどうするか考えると苦しい


私:「精神的に向上心のないものはばかだ」(厳粛な態度)

精進をやめて恋愛に進むのは馬鹿者だ

(馬鹿になりたくないのなら、ただちにお嬢さんを忘れろ)

ひたすら精進できずに迷っている今のおまえは「馬鹿」だ


K:「ぼくはばかだ」(力に乏しい)

(僕は「馬鹿」だから)お嬢さんに突き進む(だがまだ迷っている)?

その通り、ぼくは弱い、馬鹿者だ



K:「もうその話はやめよう。…やめてくれ」(頼むように)

私:「やめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい

君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ」

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(お嬢さんを諦める覚悟はあるのか?)

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(迷っている自分に決着をつける覚悟はあるのか?)


K:「覚悟? 覚悟ならないこともない」(独り言のよう)

お嬢さんを諦める「覚悟」はある

(翌日には「お嬢さんに進む覚悟はある」)

弱い自分を自ら所決する「覚悟」はある


 左と右、それぞれに会話の流れにおいて、論理は一貫している。

 読者は「私」の意識に合わせて読むから、左の流れ(ピンク地)にしたがって会話の論理を理解する。

 だが、Kにとっては右の流れ(水色地)で論理を一貫させている。

 このように考えれば、Kの口にした「覚悟」は自己所決=自殺の意味にしかならない。

 そしてこのすれ違いに二人が気がつく契機は、巧みに回避されている。


 このことに気づいてみると、「こころ」はもはや以前のようには読めない。

 Kが何を考え、何を感じているかについての再考が迫られるからである。


 さて次は、この晩の謎めいたKの言動の意味を考察する。

 ここでもまたあらたな「コペルニクス的転回」が起こるはずだ。

2020年11月20日金曜日

こころ 28 再び「覚悟」とは何か

 ここまでたどって、ようやく最初に考察した「覚悟」に戻る。

「もうその話はやめよう」と彼が言いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛ところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「やめてくれ」と今度は頼むように言い直しました。

 ここにある「変に悲痛なところがありました」の「変に」もまた、「私」がKの心を理解していないことを示すサインである。「悲痛」なのは、「私」の言葉がKの存在をまるごと否定する死刑宣告にほかならないからだが、「私」はそのことを自覚していない。「私」が語る「変に」は、事態の深刻さがまるでわかっていない暢気さの表れである。

 自らの弱さを認めているKにはそれ以上話すべきことはない。だから「もうその話はやめよう」というしかない。そしてKには「君の心でそれをやめる」が「お嬢さんのことを考えることをやめる」という意味ではなく、会話の流れにしたがっていうと「信仰の進退について悩むのをやめる」という意味に受け取られている。

私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。

「やめてくれって、僕が言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

 「心でそれをやめる覚悟」とは先に見たとおり「心で『話』をやめる」すなわち「考える」ことをやめることを意味している。

 ここに見られる「残酷」もまた、先の「復讐以上に残酷な意味」と同じだ。「私」がKに迫る「覚悟はあるのか?」という問いは、「お嬢さんを諦める覚悟」をKに宣言させようとしている。

 「私」にとってそれこそが「残酷」なのだ。

 だが「悩むのをやめ」たKに許されるのは単にお嬢さんを忘れることなどではなく(ましてお嬢さんに進むことであるはずもなく)弱い自分を自ら所決することだけである。

 Kは死をもって自らけりをつける「覚悟」はあるのだ、と言ったのだ。

 そうKに言わせた「私」の言葉は確かに「残酷」である。

 だがその意味について、「私」はまるで自覚していない。


 だからKはこのとき「卒然」何かに気づいたわけではなく、「私」が「卒然」と感じただけなのだ。しかも二人の会話はこのとき「卒然」すれ違ったわけではなく、最初からことごとくすれ違ったままだったのだ。

 Kは最初から自らの信仰上の悩みについて話していたのであり、お嬢さんとの恋のことなど話してはいない。会話全体のすれ違いをたどり直してみれば、Kが言った「覚悟」が「自殺の覚悟」を意味しているという解釈は無理がないどころか、これはもうそう考えるしかないのであり、「卒然」というべき飛躍はそこにはない。

 単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。これがKの真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの巧妙さにこそ、読者は驚嘆すべきである。だがこのことの凄さはじっくりと分析的に考えないと気付かない。

 だからともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟でもあると同時に自己を所決する覚悟でもある」とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られる(いずれも教師用の解説書から引用)。

 そうではない。これら三つの解釈はどちらでもありうるようなものではなく、排他的なものだ。

 「お嬢さんを諦める覚悟」があるのならKは死を選ぶ必要はないはずである。したがって「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを所決する覚悟」は両立しない。

 あるいは「明確でないにせよ何らかの形で所決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」とは呼ばない。「お嬢さんを諦める」もしくは「自己処断としての自殺」といった決着点が見据えられていなければ、「覚悟」という強い言葉が使われるはずがない。その方法や時機については漠然とした曖昧なものであったとしても、少なくとも「死」といった決着点が想定されたうえで「覚悟」という言葉が発せられていることだけは確実である。

 Kの言った「覚悟」を「私」が二つの正反対の意味に解釈したのも、K自身がそれとは全く違った意味で「覚悟」と言っているのも、すべて文脈の中では整合的である。


 「私」がKの心を読み損なう根本的な理由は、Kの心を推測するにあたって、自分の心を投影して、それをK自身の心であると錯覚してしまうことにある。そう考えたときに、次の一節はその意味を劇的に変える。

私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

 「私」はKのことをよく見ていた、と殊更に書いてある。そしてKの「こころ」がわかっているということがこのように念入りに強調されている。

 これはそのまま、その強調の絶対値のままに方向を完全に逆転して、「私」がどれほどKの「こころ」がわかっていないのかを示すアイロニーなのである。

 この「要塞の地図」とは何か?

 「私」がKの「こころ」の地図だと思っているものは、実は「私」自身の「こころ」の地図なのである。

 「私」は自分の心を相手に投影して、その鏡像と闘っている。


 結局、二人の会話を最初から最後までたどってみても、二人がそのすれ違いに気付く契機は周到に回避されていることがわかる。二人はそれぞれ異なった一貫性によって会話を続けているのである。

 ミステリーではしばしば、一見して気付かれないようそれとなく投げ出された細部を手がかりに、探偵が、皆の思い込んでいるのとは別の、もう一つの真実の姿を再構成してみせる手際が鮮やかに披露される。

 だが、「こころ」が実現しているのは、一人称小説の語り手が捉えているのとはまったく違った、語り手が意識し得ない事実を、当の語りの細部から浮かび上がらせるという離れ業である。

 ただしそれはミステリーのように、解かれるべき謎として読者の前に差し出されているわけではないし、探偵がそれを得意気に解いてみせるのでもない。微かな違和感をたどって細部を見直しているうちに、不意にそれまで見えていたのとは違う「もう一つの真実」が、読者の前に形をなすのだ。

 これがあからさまな謎であったり、あからさまな真実であったら、そもそも語り手の「私」がそれに気付かないはずはない。

 といって読者にわかるはずもない真実など、小説に存在する意義はない。

 漱石は驚くべき微妙なバランスで、一人称の語り手が明確には理解することのない真実を、読者に伝えようとしているのである。